第十二話 ラーメン
「こにゃにゃちわ!」
水曜のお昼になると、彼女がやってくる。合鍵を持っているので、オートロックも玄関の鍵も自由自在。突然、何の前触れもなく現れて、そして決まって、ちょっと変わった挨拶をする。
「……こにゃにゃちわ」
つられて、彼氏も変な挨拶を返す。
「今日も暑いねぇ」
彼女は気にする様子もなく、靴を脱いで家に上がってくる。
「あのさ、前から思ってたけど、その挨拶って何?」
長年の疑問を、ふと思い立って口にする。
「んー、なんか昔のアニメが元ネタだった気がする。お父さんがよく言ってたの」
そう言いながら、彼女はリビングに向かって駆けていった。「走るの苦手」とか言ってたわりに、よく走る。
「おなかすいたー!」
カバンを下ろし、両手をお腹に当てて空腹をアピールする。
「今日のお昼はラメーンです」
「ラメーン? ああ、ラーメンのことね」
彼氏の妙な言い回しにも、彼女はすんなり対応する。彼氏はそういうところに、居心地のよさを感じていた。
「さて、問題。何ラーメンでしょう?」
そう言うと、彼女は腕を組んで考え始める。
「うーん……塩!」
「ブー」
「味噌!」
「惜しい!」
「担々麺?」
首をかしげながら答える彼女に、彼氏はわざとらしく溜めて──
「……正解!」
「やったー! 私ね、辛いの好き!」
にっこりと笑うその顔に、つられて彼氏の頬もゆるむ。
「知ってる。だからね、ちょっと辛いやつ選んだんだ」
キッチンの棚から袋を取り出して見せる。「激辛担々麺」と赤い文字で書かれたパッケージが目立っている。
「ちょっとじゃなくて、激辛って書いてあるよ?」
彼女は少し不安そうに言った。
「まあまあ、大丈夫。なーちゃんも辛いの好きだし」
「好きだけど、得意かどうかは別だからね?」
「たぶん大丈夫だよ」
彼氏はそう言って鍋に水を入れ、火にかける。
「ラメーン、楽しみだなあ」
彼女は鼻歌まじりに言いながら、慣れた様子で冷蔵庫からもやしを取り出し、フライパンを火にかけた。
盛り付けを終え、もやしの山を崩さないように慎重にテーブルへと運ぶ。
「もやしモリモリ担々麺だね」
「一人一袋分だからね、そりゃ山にもなるよ」
ラーメンを置くと、彼氏はキッチンから箸を持ってきて、彼女は冷蔵庫からチューハイを取り出す。準備を終えて二人ともラーメンの前に座ると、自然と手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす!」
チューハイをプシュッと開けて一口。そして、彼女は箸を取ってラーメンを口に運ぶ。
もやしの山を少しずつかき分け、ようやくたどり着いた麺をすすった彼女が、ぱっと顔を上げた。
「……美味しい!」
本当に嬉しそうに笑う。その顔を見て、俺も思わず笑ってしまう。
「でしょ。最近これにハマってるんだ」
「いいね、これ。辛いけど、クセになる」
そこからしばらくは、無言で食べ進める。汗がにじむほど辛いけど、箸が止まらない。
気がつくと、俺の器は空になっていた。
「あー、美味しかった」
「え、ゆうくん、もう食べ終わったの!?」
彼女の器を覗くと、まだ半分以上残っている。いつもは彼女のほうが早いのに。
「今日は食べるのゆっくりだね」
「美味しいんだけろ……けど……」
言いかけた言葉がうまく出ない。辛さのせいで、少し舌が回ってないらしい。
「けど、食べ終わらにゃい……」
「にゃい?」
つい笑ってしまう。
「ない!」
彼女はぷくっと頬を膨らませる。
その頬を、汗が流れ落ちる。さすがの代謝のよさだ。
「食べてあげようか?」
「これくらい、一人で食べれますけろ!」
「今のは絶対わざとだよね?」
「わざとですけろ、なにか?」
開き直ったその顔も、また可愛い。
「なーちゃん、カエルになっちゃったの?」
「ゆうくんのせいですけろ!」
その言い方がなんだかツボに入って、俺は口元を押さえる。
「何笑ってるの? 私、口になんかついてる?」
「ううん。ついてないよ。可愛い口です」
彼女は、安心したように笑った。
「それならいいんですけろ!」
そして、また箸を動かし始める。
わざとかどうかなんて、どっちでもいい。
たぶん俺は、この顔が見たくて、今日も辛いラーメンを選んだんだ。