その5
穏やかな日差しが薄手のカーテン越しに差し込み、部屋の中を優しく照らしながらじんわりと気温を上げていく。いつもは壁の向こうから聞こえる子供のはしゃぎ声もそれを怒鳴りつける母親の声も無く、代わりに窓の外から可愛らしい小鳥の合唱が聞こえてくる。
まさに、絵に描いたような穏やかで清々しい朝。
ピピピピピピピピ――!
と、そんな穏やかな雰囲気を一瞬で壊すような甲高い電子音が、窓際に敷かれた布団の枕元に置かれたスマホから鳴り出した。その布団に潜り込んでいた人物がモゾモゾと動き始め、やがてゆっくりと上体を起こしてその姿を露わにする。
20代後半ほどの年齢をしたその青年は、厳しい言い方をすると特徴に乏しい地味な見た目をしていた。黒髪黒目の顔はイケメンと不細工の丁度中間に位置し、枕元に置かれた黒縁眼鏡と合わせて辛うじて顔を憶えてもらえるほどに印象が薄い。
長い溜息と共に呻き声のような低い声をあげながら、青年は布団から這い出るように起き上がった。とても辛そうに見えるが特に体調が悪いわけではなく、言うなれば単なる癖のようなものだ。
布団をぞんざいに三つ折りにして壁際に追いやりながら、青年が何の気も無しに部屋をグルリと見渡した。
10畳の畳張りの居間に押し入れ、そして玄関へと繋がる台所の脇にトイレという実にシンプルな部屋が、彼が今から3ヶ月ほど前に引っ越してきた住まいだ。アパートの築年数は大分経っており、壁や天井は元々そういった色なのか長年蓄積された汚れなのかも判別できなくなっている。床の畳も窓から降り注ぐ太陽の光によって見事に日焼けし、さらに彼を含む歴代の住人が長年踏みつけてきたことで草臥れ果てている。
「…………」
何も存在しない部屋の隅をどこか寂しそうにジッと見つめていた青年だったが、ふと我に返ったように動き出し、申し訳程度に区切られたガラス戸を抜けて台所へと足を踏み入れた。
朝食を作るため、ではない。シンクの流し台にガスコンロが1つ、そして小さな作業スペースだけといった、最低限ながら一応台所としての機能を備えたそれではあるが、彼には自炊をする習慣が無く、ここに立つのは歯磨き等の身支度を整えるときか、レトルト食品や即席麺を作るために湯を沸かすくらいだ。
そんなわけで彼は今日も冷蔵庫から菓子パンと牛乳、ついでに玄関から新聞を持ってきて居間に戻ると、つい先程まで布団が敷かれていた場所にどっかりと座り込み、その辺に転がっていたリモコンを取ってテレビの電源を入れた。
画面が明るくなり、ニュース番組が映し出された。全国各地で起こった様々な出来事が矢継ぎ早に伝えられ、スタジオのコメンテーターがそれに一言添える形で進行していく。
青年はジッと画面を見つめているが、眠気を多分に含んだその目つきからも分かる通り真剣に観ているわけではなく、言うなれば子供の頃からの習慣を今でも続けているだけに過ぎない。彼が普段その番組から得る情報など、せいぜい今日の天気か現在の時刻くらいだろう。
――普段ならば。
『続いてのニュースです。〇〇県●●町の民家にて住人が倒れているとの通報があり――』
聞きなれたその地名は、間違いなく青年が今住んでいるこの場所を指していた。ここから車でそう遠くない民家の寝室にて、その民家に住む事実婚の夫婦が布団の上で死んでいるのが発見されたらしい。
テレビの画面には立派な庭のある一軒家が映し出され、正門が黄色いテープで仕切られ、その両脇に警官が立っている光景が確認できる。多くの野次馬が集まっているようだが、プライバシーの関係かカメラがそこに焦点を当てた映像は無かった。警察は事件と事故の両方を視野に入れて捜査している、という文言でアナウンサーが締め括り、コメンテーターがそれに一言添えてその話題は終わった。
即座にスポーツのコーナーへと移っていった番組を見つめながら、青年がポツリと呟いた。
「――藁人形の話は、特に無かったか」
* * *
「それじゃ、始めるぞ」
県警本部の最上階に位置する本部長室。その主である本部長にデスクから見下ろされながら、応接セットのチェアに腰を下ろした剣が、テーブルに所狭しと並べられたファイルの1冊を手に取って吐き捨てるようにそう告げた。
ちなみにそのときの声には若干の疲れが滲み出ており、元々身だしなみに気を配る性格ではないとはいえ髪も服も草臥れ、顎にもうっすらと無精髭が生えていた。おそらく着替えもシャワーも浴びず、ソファーのような場所で軽い仮眠を取っただけであろうことが推察できる。
そしてその推察は、剣の隣に座る代々木を見ればより容易だった。普段はワックスでお洒落に整えている髪が無造作に跳ね、その表情は今にも寝落ちしてしまいそうなほどに色濃い疲労感が滲み出ている、どころか溢れ出している。
「はい、宜しくお願いします」
そしてそんな2人の正面に座るあやめは、最初に会ったときの制服姿でも、昨日会ったときのアウトドア仕様でもない、そのまま都会のお洒落なカフェにいても違和感の無いカジュアルな装いだった。ファイルを手に取って開くその仕草でさえ気品を感じさせるその姿からは、寝る間も惜しんで走り回ったかのような疲労感など微塵も有りはしない。
「どうかしましたか、剣さん?」
「……いや、何でも」
ジッとこちらを見つめる視線にあやめが問い掛けるが、剣は何か言いたげなのをグッと堪えるようにそう答え、そして手持ちのファイルへと逃げるように視線を移した。
「とりあえず、まずは死体の身元からだ」
該当のページを開いた状態で、剣がファイルをテーブルに置いた。
あやめが軽く身を乗り出して、それを上から覗き込む。
「被害者の男女はあの家の住人で、同棲こそしてたが婚姻届は出されてない、所謂事実婚の関係だ。男の方が元々あの家の生まれで、そこに女がやって来て同棲を始めたって流れらしい」
「ザッと資料に目を通しただけですが、近所からの評判が随分と悪いですね」
「あぁ。特に男の方が酷くてな、中学のときに授業を休んでは遊び惚けてたせいで成績が悪くなり、わざわざ地元から遠く離れた偏差値の低い全寮制の高校に進学する羽目になったらしい。だがその高校も結局、暴力事件を起こして停学処分を食らったのをきっかけに中退してる」
あやめが見つめる捜査資料には、その後の彼の生活についても書かれていた。高校中退後にフリーターとなるも、職場でトラブルを起こしてはクビになるというのを何回も繰り返したらしい。そんな生活の中で稼いだ貴重なバイト代も、昼間はパチンコに明け暮れ、夜は学生時代の後輩を連れ回して呑み歩くなどして浪費していたようだ。
成程、とあやめは納得した。昨日あの家を軽く調べたときも、ゴミ箱には役場などから届いた税金やインフラの使用料と思われる督促状がビリビリに破り捨てられていた。どうやら彼の荒んだ生活は、つい最近になっても改善されていなかったようだ。
「両親との関係は、どうだったのでしょうか?」
「高校入学くらいから男がほとんど家に寄り付かなくなって、そこからほとんど顔も合わせてなかったらしい。近所の住人にも、男に関する話はできるだけ避けてたみたいだ。数年前に父親が死んでるが、葬式にも顔を出さなかったって証言があるな」
そんな男があの家に住むようになったのが、今から2年ほど前。
男の母親が病気で危篤状態になっていたときに、誰かから聞いたのか男がフラリと帰ってきたのだという。病気になった母親を心配して、という理由ならまだ救いはあったが、実際には母親が死ぬことで自分が貰えるであろう遺産目当てだったという。現にその後、男はそのまま母親と入れ替わるようにあの家に暮らし始めたらしい。
「被害者の女が近所の住人に目撃されるようになったのも、ちょうどその頃だな。その女も……まぁ、男と同じようなタイプみたいでな、男と一緒によく近所の住人とトラブルを起こしていたらしい。ルールを守らずに勝手にゴミを捨てたり、公園で遊ぶ子供を怒鳴り散らしたり、挙句にはイライラしてたのか人の自転車をいきなり蹴り倒すなんてこともあったらしい」
だからなのだろうか、警察が聞き込みした近所の住人は皆、2人が死体として発見されたこと自体は驚いていたが、誰もが露骨に顔には出さないものの同情的な様子は無かったという。
「それで、2人が亡くなったときの状況は?」
あやめが尋ねたその質問は当然想定できるものであるが、そのときの剣と代々木の反応は、互いに顔を見合わせて苦い表情を浮かべるといったものだった。
2人の目からは、未だに自分達も納得がいっていない、という感情がありありと見て取れた。
「2人の死因についてだが……、一言で言えば“脱水症状”だ」
「……脱水症状、ですか」
“3・3・3の法則”というものが存在する。人間が生きるために絶対不可欠な酸素・水・食料が絶たれて死ぬまでの時間を示しており、具体的には『酸素が無ければ3分間で死に至り、水が無ければ3日間で死に至り、食料が無ければ3週間で死に至る』という内容だ。
あの2人が発見されたとき、下半身が排泄物に塗れていた。おそらく身体の自由すら奪われた状態で、水も食料も与えられず放置されていたのだろう。先程の法則に当て嵌めれば3日もあれば2人の命を奪うのに充分であり、故に死体が発見されるまで近所の住人が異変に気付かなかったとしても不思議ではない。
そこまでは問題無い、のだが、
「問題は、2人を拘束したその方法だ。2人の体にロープなどの拘束跡は無いし、何らかの薬物を摂取した様子も無い。当然、怪我や病気で体を動かせなかったなんてことも無い」
「正直言って、健康な人間が自分の意思で寝っ転がってそのまま死んだ、って考えるのが一番自然に思えてくるほどだよ」
弱音を吐いているような口調の代々木を剣が睨みつける間も、あやめの視線はテーブルのファイルに向けられていた。資料には2人が発見されたあの部屋の写真が様々な角度から映し出されており、2人の苦悶の表情も、排泄物に塗れた下半身も克明に記録されている。
当然、その部屋の柱に穿たれた釘と藁人形も含めて。
「他に、何か分かったことはありますか?」
あやめの問い掛けに、剣と代々木が目を合わせた。
剣が顎をクイッと動かすと、代々木は意を決したように頷いて別のファイルを手に取った。
「この家に住んでいる2人が亡くなった、ってさっき言ったよね。実は現場検証のとき、あの部屋だけじゃなく家の敷地内を一通り調べてみたんだよ。どこに犯人に繋がる証拠が残ってるか分からないからね」
そう前置きしながら代々木は手持ちのファイルをパラパラ捲り、或るページを開いたところでそれをあやめに手渡した。
「そしたら庭の隅で最近掘り起こして埋めたような跡が見つかってね、試しにそこを掘ってみたら――生まれて間も無い赤ん坊の死体が見つかったんだ。ほとんど白骨化してたけどね」
「赤ん坊、ですか」
オウム返しに尋ねるあやめの声色は、今までよりも僅かに固く聞こえた。
「役場には出生届が出されてないから戸籍上あの家は2人暮らしだけど、周辺の住人に聞き込みしてると『あの家から赤ん坊の泣き声を聞いたことがある』って証言が幾つか出てきたんだ」
「つまりあの2人の間に子供がいて、その子供の死体が敷地内から出てきたと」
「そこまでは分からない。今は科捜研に諸々の鑑定をやってもらってるところだよ。――だけどまぁ、ほぼ間違いないだろうね」
代々木の答えにあやめは「そうですか」と小声で返事をすると、顎に手を添えて考え込む素振りを見せた。
――嬢ちゃんの反応が、思ったより薄いな……。
一方2人の遣り取りを横から眺めていた剣は、率直にそんな感想を抱いていた。先程赤ん坊の死体が見つかったと聞いたときも、それが赤ん坊であることに驚きこそあったものの、死体が見つかること自体はどこか予想がついていた、という印象を剣は受けた。
それならば、と剣は更に別のファイルを手に取った。
「それともう1つ。飛び降りで死んだ男の方だが、身元が割れた」
あやめがそのファイルを受け取り、パラパラとページを捲る。
おそらく高校の卒業アルバムから引用したであろうその写真には、地面に叩きつけられ苦悶の表情で亡くなったあの男を若干若返らせたような顔つきの少年が、まるでカメラマンを睨みつけるように鋭い目つきをこちらに向けていた。そしてその写真の脇に、男の名前や年齢、住所や職業など個人情報が添えられている。
「結論から言うと、犯人だったよ。そいつのDNAと、被害者の体内から検出された体液のDNAが一致した」
「――やはり、そうですか」
元々あやめが捜査に参加するきっかけとなった“仮説”が科学的な根拠を伴って実証されたことを、彼女は特に感慨も無く受け止めた。
そしてそれを見て、剣は確信した。
「俺達が今のところ突き止めたのはここまでだ。嬢ちゃん、考えを聞かせてくれ」
「……立証はできませんよ?」
「んなの、今更だろうが」
剣の言葉をごもっともだと思ったのか、あやめがフッと苦笑いを浮かべる。本心を悟らせない微笑が多い彼女にしてはどこか素を感じさせる自然なものだ、とそれを見た剣は思った。
もっとも、すぐに表情を引き締めたことでその笑みは消えてしまったが。
「結論から申し上げますと、あの男性が飛び降りたのも、今回の脱水症状で死亡した男女も、同じ人物による仕業です。おそらくあの部屋に残されていた藁人形を使った“儀式”によって、彼らを死に至らしめたのだと思われます」
「だがあの藁人形は、科捜研で調べた限り何の変哲も無い普通の藁人形だぞ。まぁ、藁人形が現場にあるってだけで普通じゃねぇんだが」
「霊的な力を持たない人には分かりませんからね。――とはいえ、あの藁人形に関しては私の目から見ても何の仕掛けもありませんでしたが。どうやら術式が発動すると痕跡が消えるようになっているようですね」
「えっ、そうなの!? せっかくの物的証拠なのに……」
代々木が肩を落としてそう嘆くも、あやめは普段通りの微笑を携えて首を横に振った。
「ですが、大体の効果は予想できます。おそらくあの藁人形を被害者が亡くなった場所で使うことで、その被害者を殺害した人間に呪いを発動させることができるのでしょう」
「成程な。仮に呪いを掛けた奴がいたとして、警察でも辿り着いていなかった犯人をどうやって特定したのかと思ったが……」
「あぁ、そういうことか! 犯人を特定して呪いを掛けたんじゃなくて、呪いを掛ける相手が自動的に特定される仕掛けだったってことか!」
代々木が納得の声をあげる横で、剣は尚も思案の顔を崩さない。
「だがそうなると、その呪いを掛けた奴は嬢ちゃんの同業者ってことか?」
「……それはどうでしょう? 私と同じような力を持った人物であることに間違いはありませんが、あの地域の周辺に除霊師がいるという記録は無いので――」
「待て。除霊師ってのは、自分の住んでる場所が記録されてるのか?」
「はい。何せ我々の持つ力は普通の人には感知できないもので、万が一にも悪用されると非常に厄介なことになりますから、適切に管理するためにも活動拠点は除霊師同士で分かるようになっているんです」
「成程な」
納得した様子で頷く剣に、今度は代々木が思案の顔となる。
「でもあやめちゃん、別の場所に住んでる除霊師があの町に来たって可能性は?」
「それは――」
「それは無いな」
あやめと剣、2人の声が重なった。
「いくら藁人形の仕掛けが一部の人間にしか分からないとはいえ、自分に繋がる可能性のある代物はなるべく現場に残したくないってのが犯人の心理だ。だから少なくとも、あの家に再び足を運べる範囲を拠点にしている可能性が高い」
「私もそう思います。なので犯人からしたら、あの藁人形が残った状態で警察に見つかったのは予想外だったかもしれません。――ひょっとしたら、あのとき現場の様子を見に行っていたかも」
「あっ! だったら、そのときの野次馬の中にもしかして……!?」
代々木はそう言うと、テーブルに広げていたファイルの1冊をバッと取り上げ、勢い良くページを捲ってあやめへと差し出した。
テレビや新聞などでは黄色いテープで仕切られた現場の外側から見た映像や写真ばかりだったが、その写真は黄色いテープの内側からこちらを眺める人々の顔が克明に写し出されていた。自分達が日常を過ごしていたすぐ近くで死体が見つかったことによる恐怖、そして日常とは違う出来事が起こったことによる好奇心、そんな2つの感情が綯い交ぜになった表情で現場を覗き込む様子が切り取られている。
「あくまで可能性の1つです。それこそ、藁人形から犯人の痕跡を何か拾い上げることができれば話は早いのですが……」
「それについては、俺達でもしっかり調べておくからね! あやめちゃんの言う幽霊とか呪いとかはどうにもならないけど、これに関しては俺達の領分なんだから!」
「はい、宜しくお願いします」
丁寧に頭を下げるあやめに、拳を握り締めて熱意を燃やす代々木。
そして、あやめが持つファイルに鋭い視線を向ける剣。
「嬢ちゃん」
そこに視線を固定したまま、剣が口を開いた。
「嬢ちゃんの中で、犯人の目星は付いてんのか?」
「……いいえ、さすがにそこまでは」
「……そうか」
あやめの答えを聞いて、それでも剣の目つきが和らぐことは無かった。