その4
被害者の女性が亡くなった現場は周りに建物すら無い山の中であるが、車で15分ほども走れば私鉄ながら駅が存在する中心街へと辿り着く。山に囲まれた立地でありながら川が流れている影響か比較的土地が平坦な場所であり、規模は小さいながらも住宅地や学校などの公共施設、更にはスーパーやコンビニも存在しているためそれなりに賑わっている。
女性の自宅はそんな中心街の外れに建つ、築数十年は経っているであろう小さなアパートだった。そこから少し離れた道端に車を停め、部屋の中に入れないか管理人と交渉する役目を負った代々木が車を降りてアパートへと歩いていく。
その間あやめは剣から、当時の捜査で判明した女性の情報を聞いていた。
「被害者は小さい頃に父親を亡くし、それからずっとあのアパートで母親と2人暮らしだったらしい。高校の成績は優秀だったが金が無いのを理由に卒業後は地元の農協に就職、人付き合いは最低限で親しい友人も恋人もいなかったみたいだ」
「捜査資料によると、その母親も3年くらい前に亡くなったとか」
「あぁ。働きぶりは真面目で人間関係のトラブルも特に無し、ストーカーみたいな奴がいなかったかも捜査したがそれも空振り。――結局あの被害者から犯人に繋がりそうな情報は何も無くてな、捜査本部は行きずりの犯行って結論で捜査を続けてたんだが……」
剣の言葉は、悔しそうに奥歯を鳴らす仕草に阻まれてプツリと途切れた。
あの飛び降りの男が女性を殺した犯人かどうかはまだ分からないが、仮に犯人だった場合、おそらく男の身元を捜査する過程でこの事件には辿り着いていただろう。しかしその場合、自分達の手で逮捕するのではなく被疑者死亡という形で幕引きとなり、飛び降りについても犯行を苦にしての自殺だとかそれらしい理由を付けて処理されていたことだろう。
剣がバックミラー越しに見つめる、後部座席で背筋を伸ばして姿勢良く座るあやめがいなければ。
「あっ、戻ってきましたよ」
と、そのあやめがそんな言葉と共に視線を窓の外へ向け、剣もそれを追うように視線をそちらへと向ける。その言葉通りアパートの敷地からこちらへと歩く代々木の姿が見えるが、答えを聞かなくても分かるほどにガックリと肩を落としていた。
剣が助手席の窓を下ろすと、代々木はその意気消沈とした表情で首を横に振る。
「すみません、駄目でした。さすがに事件から半年経ってるし、新しい人がもう入っちゃってましたね」
「まぁ、仕方ねぇか」
予想していた答えとはいえ、剣は軽く肩を落として小さく溜息を吐いた。
さてどうするか、と剣が後部座席へと振り返ろうとしたそのとき、
「新しく入居したというその人、1回話を聞くことはできますか?」
あやめの問い掛けに、剣も代々木も揃って疑問符を浮かべた。
「なんでだ、嬢ちゃん?」
「仮にその人に霊感があった場合、昔からずっと住んでいた部屋に出た女性の幽霊と接触している可能性があります。彼女の話を聞いているうちに感情移入し、犯人に復讐しようという感情が芽生えたかもしれません」
「……成程な」
剣の返事に妙な間があったのは、おおよそ通常の捜査では聞くことの無い理由だったからだろう。仮にこれが代々木の口から飛び出したとなれば、剣は即座に彼の頭を思いっきり叩いていたかもしれない。
そんなことを剣が考えていることなど知る由も無い代々木が、助手席の窓から覗き込むように前のめりになってあやめへと呼び掛ける。
「それなら管理人と話したとき、ついでにその入居者について軽く聞いてきたよ。地元の町役場で働く若い男性だってさ。今日は出勤日だから、今の時間だと多分職場にいると思うよ」
「丁度良いですね、それでは話を伺うとしましょう。――もっとも、実際に話を聞くのはお2人になるのですが」
「えっ? あやめちゃんは?」
「私の存在が知られるのは色々と不都合があるので、そういった役割は基本的にお2人に動いて頂くことになります」
「……まぁ、確かにそうだわな。こんな子供を連れて一緒に捜査してるなんて、刑事としても知られるわけにはいかん」
剣が溜息混じりにそう言ったことで、代々木も一応納得の表情を見せた。
その代わり、といった感情を言外に含めながら。
「だったらもうすぐ昼時なんで、せめて昼メシを済ませてからにしません? ここから少し車で行った先に、地元の人達に評判の蕎麦屋があるみたいですよ。山から流れる湧き水で練った蕎麦と、地元で採れた山菜の天ぷらが人気なんですって」
「おいおい、おまえな――」
「蕎麦ですか、良いですね」
剣が呆れたような言葉を代々木に向けようとするが、それよりも前にあやめが彼の提案に食いついてきた。信じられないといった感じで剣が勢い良くあやめへと振り向くが、彼女はキョトンとした表情で首を傾げるのみだった。
「ほら先輩、あやめちゃんもこう言ってることですし!」
「……ったく、昼メシで外食してるのと入れ違いになるよりはマシか」
「よし! それじゃ、今すぐ向かいましょう!」
意気揚々という表現がピッタリな勢いで運転席に乗り込む代々木に、先程よりも笑みが深くなっているように見えるあやめ。
――本当に大丈夫なんだろうな……?
今更ながら、剣は何とも不安な気持ちに襲われた。
代々木が事前に調べてきたというその蕎麦屋は、元女性の自宅アパートから車で10分ほど行った場所にあるらしい。町を縦断する川に沿って作られた片道1車線の県道を北へと走るが、道路に面した場所に限定しても半分は雑木林や草の生い茂る空き地という、オブラートに包んだ表現をすれば長閑な風景が広がっている。
「あやめちゃん、実家は京都なんだよね? 向こうって美味しい和食とか沢山ありそうだし、凄く舌が肥えてるんじゃない?」
「確かに普段は和食が多いですけど、洋食屋も普通に行きますよ。実家でも朝は必ずパンでしたし」
「そうなんだ、ちょっと意外かも。あぁ、俺も1回京都に行ってみたいなぁ。まぁ、あやめちゃんにとっては、京都の寺とか神社とか庭みたいなモンだろうけど」
「観光地になっているような場所には、積極的に行こうとは思いませんね。いつも観光客が大勢いて気が休まらないので。用事があるときは仕方ありませんけど」
現場へ向かうときは長時間の運転かつ距離感が探り探りの状態だったことにより会話があまり無かった車内も、今は代々木が質問してあやめがそれに答える形でそれなりに賑わっていた。剣は助手席のドアの取っ手に肘をついて黙り込んでいるが、それで空気が気まずくなるような雰囲気ではなかった。
そうして県道を走っていると、今までの建物より一回り大きなそれが目に入った。その隣に掲げられた看板にも、でかでかと“蕎麦”の文字が刻まれている。
「あっ、着きましたよ、あの店です。――うわ、もう並んでる」
「まだ5人くらいですし、すぐに順番が来ますよ」
「だね、それじゃ待つか」
剣からの返事は無かったが、それを無言の肯定と受け取った代々木は車を蕎麦屋の駐車場へと進ませた。12時を回ったばかりだというのに数十台は停まれそうな駐車場はほぼ満杯で、入口にはあやめの言う通り5人ほど並んでいるのが見える。
敷地の隅っこに空いていたスペースに車を停め、3人は外へと降り立った。正面の県道はそれなりに車の通行量が多いが、店の周りは空き地などで開けているために開放感があり、深呼吸をしても気にならない程度には空気が澄んでいるように思える。
何を食べようかと頭の中で思い巡らせながら、剣と代々木は店に向かって歩き出した。
そしてあやめは、車のドアを閉めた姿勢のままその場から動こうとしなかった。
「どうした、嬢ちゃん?」
剣が立ち止まって呼び掛けるが、あやめは視線を向けることも口を開くこともせず、或る方向をじっと見つめたままだった。
彼女の視線の先にあるのは、ここから更に進んで最初の信号を右に曲がった先にある、数十軒ほどの規模の住宅地だった。
「どうしたの、あやめちゃ――」
「申し訳ありません。寄ってもらいたい場所があるのですが、宜しいですか?」
代々木の呼び掛けを遮って、あやめはそう尋ねてきた。言葉だけ見ると“お願い”の形を取っているが、互いの立場や年齢を無視すればほとんど“命令”に近い力強さを感じさせるものだった。彼女の表情が今までに無く緊迫感を帯びているのも、その印象に拍車を掛けていた。
代々木は反射的に返事をしようと口を開きかけ、ふと思い出したように踏み留まって隣の剣へと視線を向ける。
そしてその視線に気づいた剣が、小さく溜息を吐いて先程降りたばかりの車へと歩き出した。
代々木がホッとした表情でその後に続き、あやめが手に掛けていた車のドアを再び開けた。
「この家です、停めてください」
「――――!」
住宅街に入って少し進んだ辺りで、突然あやめが運転席の代々木にそう呼び掛けた。慌ててブレーキを踏んだため3人が若干前のめりになりながら、車はとある一軒家の前で停止した。
その家は木造の大きな平屋で、築年数は経っていそうだがボロくはない立派な外観をしていた。幹の太い松を中心に据えた日本庭園風の庭が目を惹くが、最近はあまり手入れをしていないのか所々から雑草が伸び、樹木の枝葉も不揃いで形が崩れている。
車を降りたあやめは一切の躊躇も無く正門を潜り、玄関までの飛び石を堂々とした足取りで歩いていく。それを見て面食らった様子の代々木が足早に追い掛け、剣はそんな2人に溜息を吐きつつ後に続く。
そうして代々木が追いついた頃、あやめは既に玄関へと辿り着いてインターホンを押していた。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかー?」
インターホンを押しても反応は無く、中に呼び掛けても反応は無い。正門の脇にある駐車スペースに車があるとはいえ、普通ならば出掛けていて留守なのだと考えそうなものだが、それでもあやめは何回も呼び掛けては中の様子を窺おうとドア脇の磨りガラスを覗き込む。
そんな彼女を後ろから見つめる剣と代々木は、今までよりも良く言えば積極的、悪く言えば強引な彼女に怪訝そうな表情を向けるものの、それを止めようとはしなかった。
それはここに来る間に、彼女から車の中でその“理由”を聞かされていたからだ。
――「あの住宅地から、あの現場に残っていた霊力と同じ気配を感じるんです」
「どうなんだ、嬢ちゃん?」
「はい、間違いなく同じ霊力を感じます。おそらくこの家の中で、あの現場と同じ“儀式”が行われたのでしょう」
「ど、どうします、先輩? 令状でも取ります?」
「令状って……、どうやって取るつもりだ? 嬢ちゃんのことを説明するわけにもいかねぇし、霊だの何だの言ったところで嗤われるのがオチだぞ」
剣と代々木がそんな会話を交わしている間にも、玄関から離れたあやめがおもむろに庭へと足を踏み入れていく。とりあえず2人も会話を中断し、彼女の後を追い掛けていった。
庭に面した大きな窓はシャッターこそ開いているものの、カーテンが閉められているため中の様子を窺うことはできない。彼女が窓に手を掛けて動かそうとするが、何かに支えるようにガタガタと揺れるだけで開かない。
それを眺めながら2人がどうするか考えていると、
ガララッ――。
「えっ?」
2人の目の前で、あやめがあっさりとその窓を開けた。そしてその場で靴を脱ぎ、中へ入ろうとしている。
ポカンと口を開けてそれを見つめていた2人だったが、一足早くハッと我に返った剣が慌てて彼女の肩を掴んで引き留めた。
「ちょ、ちょっと待て嬢ちゃん! 今、何をした!?」
「何って、普通に鍵が開いていたので少しだけお邪魔させてもらうんですが」
「さっき鍵が掛かってただろうが! どうやって開けた!?」
「何を言っているんですか。――最初から鍵は開いていたじゃないですか」
平然とした態度でそう言い放つあやめに剣は顔を引き攣らせ、そして今しがた彼女が開けた窓の鍵へと視線を移した。
一般的なフック型をした鍵は、確かに開いていた。鍵のすぐ傍のガラスには穴どころかヒビ1つ入っていないし、何かしらの器具をむりやり差し込んだような傷の跡も一切見られない。成程、確かにこの光景だけ見れば、最初から開いていたと考える方が自然だろう。
彼がそれを確認したのを見届けたかのようなタイミングで、あやめはカーテンの向こう側へと体を滑り込ませた。横から代々木が戸惑いの表情を向ける中、剣も数秒の逡巡の末に靴を脱いで中へと入っていった。
電気が点いていないため薄暗いリビングの床は雑誌や脱ぎっ放しの服が散乱しており、テレビの前には年中出したままであろうコタツが置かれていた。その上にもティッシュ箱や雑誌などが乱雑に置かれているその光景に、この家に住む人間の生活スタイルが手に取るように感じられた。
指紋を付けないよう布越しに電気のスイッチを押しながら2人が部屋を一通り確認した頃には、あやめの興味は既に隣の部屋へと繋がっているであろう襖へと移っていた。襖の取っ手に手を掛けた状態で静止していた彼女は、2人が彼女へと視線を向けるタイミングでこちらを振り返った。
2人の目をまっすぐ見つめる彼女の表情は、蕎麦屋の駐車場で2人に“お願い”をしたときと同じく緊迫したものだった。
「宜しいですか? ――開けますよ」
あやめの呼び掛けに、剣と代々木も自然と同じような顔つきとなり、その部屋に向き直って身構える。
そんな2人に小さく頷いてから、あやめはその襖を勢いよく開いた。
襖を開けた瞬間3人に襲い掛かったのは、鼻を突く強烈なアンモニア臭だった。鼻を刺し吐き気を催す独特の臭いが部屋全体に充満し、生暖かい淀んだ空気が逃げ場を求めるように部屋の外へと逃げていく。
10畳ほどの広さがあるその和室は寝室として使っていたようで、2人分の布団が畳の上に並んで敷かれていた。厚手のカーテンがピッタリと閉じられていて薄暗いが、リビングから電気の明かりが差し込んできたため中の様子はしっかりと確認できる。
そんな和室の床に敷かれた布団の上に、2人の人間の死体が転がっていた。
性別は男1人に女1人、年齢はどちらも30歳前後。どちらも髪を金色に染めたヤンキーのような服装をしており、苦悶の表情で目を見開いたまま固まったその顔が死ぬ瞬間の苦しさを語り掛けてくるようだ。さらに2人共が下腹部の辺りを排泄物で汚しており、これが先程の匂いの原因と思われる。
「な、んだ、これ……。まさか、本当に――」
「おい、代々木! 今すぐ応援を要請しろ! 死体が見つかりゃ文句も無ぇだろ!」
「は、はい!」
大慌てで部屋を出て行った代々木と、突然発見された2人の死体に動揺を隠せない剣。
そんな2人を背にして、あやめの意識は既に死体ではなく“別の物”に向けられていた。
「…………」
先程あやめが開けた襖の脇にある柱、ちょうど剣の目線ほどの高さの辺り。
そこに、彼女の細い指よりも更に細い釘が刺さっていた。
そして藁を編んで作られた人形がその釘に胸部をまっすぐ貫かれ、柱に打ち付けられていた。藁人形は顔も書かれていない非常にシンプルな作りであるが、人形という言葉通り人の形をしているためか、まるで2人の死体を上から見下ろしているかのようだった。
「成程、これが……」
そんな藁人形を、あやめは値踏みするようにジッと見つめていた。
* * *
閑静な住宅街にパトカーが集まり刑事や鑑識が降り立つ光景は、瞬く間に近所の住人に知れ渡ることとなった。当然ながら家の周りは野次馬でごった返し、そんな人々が現場に入らないように黄色いテープを張って警官が見張るという、刑事ドラマでお馴染みの光景が出来上がるのにさほど時間は掛からなかった。
ちなみに集まってきたのは近所の住人だけでなく、どこから聞きつけたのかマスコミ関係者の姿もあった。彼らはプロ仕様のカメラで刑事達が現場検証をする様子や住人が押し寄せる光景を写真に収め、少しでも情報を得ようと人々にインタビューを行っている。
そんな現場から少し離れた、しかし視界に捉えることはできる場所にて、あやめが電信柱の陰に寄り掛かるようにして立っていた。
あやめは遺体の第一発見者ではあるが、事情が事情なので現場検証や事情聴取に参加することはできない。よって代わりに剣と代々木がその役目を仰せつかることとなり、おそらく今も遺体発見の状況や経緯を、彼女の存在抜きで説明していることだろう。どうやって誤魔化すつもりなのかは気になるところだが、それは彼女の関与するところではない。
と、あやめがピクッと反応し、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
『ごめんね、あやめちゃん。もう少し時間が掛かりそうなんだ』
電話の主は代々木であり、顔も見えないのに申し訳なさそうに眉をハの字にしてるのがよく分かる声色でそう言ってきた。
あやめはクスリと笑みを漏らし「私は構いませんよ」と返答する。
『ところで、あやめちゃんの方で何か詳しく調べてほしいこととかある?』
「いえ、普段通りに捜査していただければ大丈夫です。そういった捜査に関しては、私よりも代々木さん達の方が詳しいでしょうし」
『……例の、藁人形についても?』
「はい」
『……分かった。先輩にはそう伝えとくよ』
代々木のその言葉を最後に、電話は切られた。
あやめはスマホを再びズボンのポケットにしまい――
「…………」
かけたところで動きを止め、スマホを目の前に持って来て画面を何回かタップする。
そして、カシャリ、と写真を撮った。