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SPIRITUAL AND POLICE  作者: ゆうと
第1話「呪いの代償」
1/8

その1

 気がつくと、少女は透明な空間にいた。

 ガラスよりも透明度の高い物質に囲まれた、色という概念を失ったようなその空間において、少女はたった1つの例外である“肌色”だった。目も耳も口も手足も無く形すら定まっていない、闇雲に肌色の絵の具を塗りたくったような“何か”である少女は、何の感情も思考も抱くことなく、その空間の一部であるかのように存在していた。


 そのような時間がしばらく過ぎると、唐突に少女以外の“肌色”が現れた。

 初めはほんの1滴の雫だったその肌色は、沸騰するようにブクブクと泡を立てて膨らみ始めた。それと同時に肌色と空間を隔てる境界が表れ、その肌色は少女と違いハッキリと形を認識できるようになっていく。

 やがてその肌色の膨らみが止み、その正体が明らかになると、少女は存在しない目を大きく見開いた。


 それは、裸の男女だった。

 190センチはあろうかという巨体をしたその男は、その体に纏う隆々とした筋肉をフルに活用して女の体を抑えつけ、自分の股から生える()()を女のそれにむりやり捻じ込んでいる。その際に傷付いたのか結合部が赤く染まっているが、男はそれを無視して、右耳に嵌めたシルバーのピアスを揺らしながら自らの腰を力任せに女へと打ち付けていた。

 一方女は、男が腰を打ち付ける度に苦痛でむせび泣き、もはや叫び過ぎて枯れ果てた声を絞り出して何度も「止めて」と懇願していた。しかし男はそれで止めるどころか鼻息荒く口角を上げ、打ち付ける腰の動きを更に速くする。


 そんな惨状を目の当たりにして、少女はその場から動くことができなかった。

 腕が無いため男を突き飛ばすこともできず、脚が無いためその場から逃げることもできない。そのくせ目が無いのにその光景をまざまざと見せつけられ、耳が無いのに女の叫び声を延々と聞かされる。

 それらが有るはずのない少女の脳で変換され、女が感じているであろう絶望や悲しみとなって少女の全身を駆け巡った。体の奥底からズタズタに引き裂かれるような感覚に少女は吐き気を催すが、腕が無いため口を押さえることができなかった。そもそも、押さえる口が無かった。


 少女と、犯している男と、犯されている女。

 その3人しか存在しない透明な空間は、少女の脳が耐えきれずに意識を手放したことで、唐突に終わりを告げた。





「…………」


 厚手のカーテンの裏から漏れる月明かりだけが、少女の寝室をぼんやりと照らしていた。ほとんど暗闇と表現して差し支えないその部屋はとても静かで、ベッドから上体を起こした少女の呼吸音以外は、遠くで吠える犬の声くらいしか聞こえない。

 額をびっしょりと濡らす汗をパジャマの袖で乱暴に拭いながら、少女は独り言を呟いた。


()()()()()()()は、随分と久し振りですね……」



 *         *         *



「ハァ――ハァ――」


 190センチはあろうかという巨体をしたその男は、その体に纏う隆々とした筋肉をフルに活用して懸命に走り続けていた。

 どこから走り出し、そしてどこを通ってきたのか、当の本人である男ですら知る由も無い。男は時折後ろを振り返り、そしてその度に喉の奥をヒュッと鳴らして目を見開き、再び前を向いて走り続ける、という一連の行為を何十回、何百回と繰り返してきた。

 深夜とはいえ駅の近くにある繁華街であるため、何人かの通行人が全速力で走り抜ける男の姿を目撃していた。皆が一様に不審者を見る目を向けてくるが、男は後ろから追い掛けてくる“何か”にばかり気を取られているせいで気づきもしない。それこそ、その“何か”以外の存在が男の意識から抜け落ちているかのようだった。


「だ、誰か――」


 助けを求めるような言葉が男の口から漏れるが、それを聞く者は誰もいない。

 何故なら男は比較的人の多い駅前からどんどん離れ、マンションや一軒家が多く建ち並ぶ住宅地へと入り込んでしまっているからだ。明かりの点いた窓すら数えるほどしかなく、男を照らすのは等間隔で並んだ街灯と遥か頭上に浮かぶ満月のみ。大勢の人々がそこにいるはずなのに、まるで世界から人が消え失せたかのような印象すら覚えるその場所では、消え入りそうなか細い声で助けを求める男の存在が気づかれることは無いだろう。


「た、助け――」


 しかし男はそれに気づくこともなく、あるいは気づくほどの余裕も無く、右耳に嵌めたシルバーのピアスを揺らしながら、静まり返った住宅地を走り続けた。

 そうして男が走り続ける先に、その住宅地の中では最も背の高いマンションが建っていた。といってもせいぜい10階程度でしかないのだが、他のマンションが5階建てほどなのを考慮すると、頭1つ抜きん出たそのマンションが周辺住民の間でランドマーク的な扱いを受けるのも自然なことだった。

 そんなマンションに導かれるように、男はまっすぐそれに向かって走り続けた。





 そしてそのマンションのすぐ傍で、高所から叩きつけられた男の死体が発見されたのは、夜が明けてからのことだった。



 *         *         *



 都心とは隣接していない、しかし特急なら20分もあれば行き来できる程度には近い場所に存在する、とある県。

 その県の中央から少し外れた所に位置するのが、県庁所在地である北戸(ほくと)市だ。人口は30万人弱、スーパーやショッピングモールなど買い物する場所には困らず、飲食店も代表的な全国チェーン店は一通り揃っており、学校や保育施設も割と充実している。地方都市の例に漏れず車社会であるため公共の交通機関が多少不便ではあるが、住民にとってはそれなりに住み心地の良い場所と言えるだろう。


 そんな北戸市の、駅から程近い場所にある住宅地。

 現在平日の、もうすぐ朝8時になろうかという頃。普段ならば学校や仕事に行くための準備に追われているか、あるいは既に出発している時間帯であるが、スーツ姿の大人や制服姿の子供、果てはエプロンを付けたままの者などが、住宅地の中で最も背の高いマンションに集まっていた。それも正面玄関ではなく、今の時刻では日陰となっている建物西側の通路部分に。


「はいはーい、ちょっとすみませんねぇ」


 そんな場所に出来上がった即席の人混みを掻き分けるのは、40歳前後の中年男性だった。

 脛までの丈がある薄汚れた茶色のコートに身を包み、白髪交じりの髪は寝癖のようにあちこちが無造作に跳ねている。顔立ち自体はそこそこ整っているものの、気怠げながらも鋭い目つきが目尻や額に深い皺を刻みつけ、取っつきにくい印象を受ける。現に、突然後ろから割り込まれた人々は一旦彼に対して不機嫌そうな目を向けるも、即座に顔を伏せて素直に押し退けられていた。

 人混みを抜けた先には黄色いテープが張られ、中に人が入らないよう制服姿の警官が監視をしていた。しかし彼がコートの内ポケットから手帳を取り出して警官に見せると、警官は軽く頭を下げて「お疲れ様です」と口にしてテープを上げ、そして彼はそのテープを潜って中へと入っていく。


「あっ! お疲れ様です、剣先輩!」

「おう、代々木か」


 その瞬間、代々木と呼ばれた20代中頃ほどの若い男性が、剣と呼んだその中年男性へと駆け寄った。黒縁のオシャレな眼鏡を掛けて短い黒髪の毛先をワックスで遊ばせ、着ている黒いスーツもほとんど新品でくたびれた様子が無い。それこそ、テープの向こう側で野次馬と化している普通のサラリーマンと見分けが付かないほどだ。

 しかしこの状況からも分かる通り、2人共紛れも無く刑事である。それも先に現場に到着して野次馬の整理などをしている所轄や交番勤務ではなく、北戸市に拠点を置く県警本部所属の刑事だ。ちなみに階級は剣が巡査部長、代々木は巡査長である。


「鑑識は一通り終わってて、遺体も科捜研に搬送済みです」

被害者(ガイシャ)の身元は?」

「身分を証明する物を持ってなかったので、それはまだ。住民に軽く聞き込みしましたが見覚えは無いそうなんで、もしかしたらここの住民じゃないかもしれませんね」

「ほーん……」


 代々木の報告を聞きながら、剣の視線は死体が転がっていたと思われる地面へと向けられていた。報告通り死体の姿は無いが、真っ赤な液体がその箇所を起点として弾け飛ぶように散乱しているその光景は、この場所で何が起こったのか想像するに難くない生々しさを醸し出している。

 と、剣はそこから視線を外して頭上を見上げた。

 窓が等間隔で縦に並ぶ壁の上から、金属製の柵がほんの少しだけ頭を覗かせている。


「屋上、行きますか?」

「おう」


 剣が踵を返し、代々木がその後に続く。野次馬を監視する警官がテープを上に持ち上げ、今度は前からやって来た剣に人混みがスムーズに割れていく。

 そうしてマンションの正面玄関へと向かう2人だったが、その玄関を挟んで反対側から1人の少女がこちらへとやって来るのが見えた。

 染み1つ無い白い肌に艶やかな長い黒髪の映える、まるで高級な日本人形のような少女だった。パッチリとした目を俯かせて澄ましているその様子は、どこかの絵画かと思わせるほどに様になっている。今は学校の制服と思われる黒のブレザーを着ているが、さぞ着物が似合うだろうと見たこともないのに確信できてしまう。


「お疲れ様です」

「えっ、あっ、お、お疲れ様です……」


 その外見と違わない清流のように涼やかな声で声を掛け、頭だけでなくキチンと腰を折って挨拶をしてきた少女に、代々木は思わず敬語で挨拶を返して頭を下げた。剣も頭こそ下げなかったものの、視線はしっかりと彼女に向けて挨拶の意を示した。

 そうして彼女は2人の横を通り抜け、2人がやって来た方へと歩いていった。

 未だに野次馬が集う、少し前まで死体のあった現場へと。


「……今の子、随分と美人でしたね」

「馬鹿言ってねぇで行くぞ」


 代々木の言葉をバッサリ切って捨て、剣は少女に背中を向けて正面玄関へと歩いていった。


「…………」


 なので、少女が振り返って剣達を見つめていたことには気付かなかった。





「この場所から落ちたと思われます」


 代々木の案内でやって来たマンションの屋上は、水道タンクやエアコンの室外機以外には何も置いておらず、大人の腰の高さしかない金属製の柵で囲まれているだけの実に簡素なものだった。

 唯一の出入口は最上階のフロアから階段で上がった場所にあり、子供がうっかり屋上に行かないよう普段は施錠されている。しかし施錠といっても子供の手の届かない場所にフックがあるというだけであり、鍵が無くても大人ならばその場で錠を外して屋上に出ることは可能だ。


「指紋は?」

「柵に残っているのは1人分だけですね。鑑識の話だと誰かに押されたといった様子は無く、自分で柵を掴んで乗り越えて、柵の上から飛び降りた感じらしいです」


 代々木の話を聞きながら、剣は柵へと近づいていった。確かに男が飛び降りたと思われる部分には、長年蓄積された錆や汚れに紛れて、何かが擦れた真新しい跡が見受けられる。代々木に確認したところ、死体が履いていた靴の裏にも、柵と同じ色の塗装の跡が残っていたらしい。


「ってことは、普通に自殺か? あるいは薬物(ヤク)の幻覚症状か……」

「かもですね。とりあえず周辺の防犯カメラを確認しますが、事件性は無さそうです」


 剣が、男が落ちたと思われる場所から下を覗き込む。まるで地面に真っ赤な花が咲いているように見える箇所に死体があったと思われるが、上から見ると真下ではなく数メートル前方にズレているのがよく分かる。

 つまりそれは、屋上から勢いをつけて飛び降りたことを意味している。仮に誰かから押されて柵を乗り越えたのであれば、あまり前方まで体が行かず真下の壁際に落ちるはずだ。


「――あん?」


 と、現場の周りを囲むテープを挟んで警官と野次馬の1人が何か話し込んでいるのに気がついた。会話の内容こそ聞こえないが、他の警官がそちらに加勢しているところを見るに随分と手を焼いている様子だ。

 いったいどんな奴に変なイチャモン付けられているんだ、と剣が野次馬の方に目を向けると、


「いやぁ、朝早くから呼び出されて事件性無しとか……。いやまぁ、殺人事件じゃなかったから良いっちゃ良いんですけど――って、剣先輩? どうしました?」

「いや、何か現場でトラブルが起こっててな。警官に詰め寄ってるアイツって、さっき擦れ違った奴じゃないか?」

「えっ? あっ、本当だ。あの女の子ですね。あんまりそういうタイプには見えなかったんですけど……」


 代々木の言葉は、剣も同意するところだった。とはいえよく見ると、何やら話している様子はあっても、声を荒らげたりだとか今にも殴り掛かりそうだとかいった、ピリピリと肌を焼くような緊迫した雰囲気はあまり見られない。

 しかしそうなると、何故あの少女は、警官が複数人で対処するほどに食い下がっているのか。


「――行くぞ」

「はいっ」


 剣の言葉に、代々木が短く返事をした。





 屋上から現場へ戻ってみると、学校や会社の始業時間が近づいてきたからか、先程よりも集まっている野次馬の数は少なくなっていた。スーツ姿や制服姿の人物はほとんどいなくなり、おそらくそういった用事の無い私服姿やエプロン姿の人物だけが残っている。

 だからこそ、何人もの警官の前に立つ黒のブレザー姿の少女がより際立って見えた。


「おい、どうした?」

「あっ、剣さん!」


 剣が声を掛けると、矢面に立って少女の対応をしていた若い警官が真っ先に声をあげた。明らかにホッとしたその様子に、年端もいかない少女相手に情けない、とむしろ警官に対して呆れを含んだ溜息を吐く。

 そしてそんな警官の声に反応し、少女がこちらへと振り返った。僅かに目を細めてフッと口元に笑みを浮かべるその表情は学生とは思えない大人の雰囲気を纏っており、人形のように整った顔立ちも合わさって色気すら漂っているように感じられた。代々木など、その光景に思わず息を呑むほどだ。


「――――っ」


 しかし剣は彼女のそれを見て、スッと目を細くした。もっとも、傍目にはほとんど分からない程度に微かな変化ではあるが。


「えっと、剣さん……。さっきからこの子が、被害者の写真を見せてくれと言ってまして……」

「突然の申し出、大変申し訳ございません。ここの責任者の方でしょうか?」


 警官数人がかりで対処させていたとは思えない丁寧な物腰で、その少女がまっすぐ剣を見据えながらそう尋ねてきた。刑事特有の鋭い目つきをした、若い女性であれば目を逸らしても不思議でない威圧感を持つ彼に対して、である。


「責任者なんて大層なもんじゃないが、一応本部の人間だ。で、なんで被害者の写真なんて見たがるんだ?」

「その被害者が、もしかしたら私の知ってる人ではないかと思いまして」

「もしかして嬢ちゃん、その被害者の家族か?」

「いえ、家族ではないのですが……。確認だけでもさせてもらえれば、すぐに()()()()お暇致しますので」

「……嬢ちゃん、なんで被害者が自分の知り合いかもしれないと思ったんだ?」

「申し訳ございません。それも()()答えることが……」


 どうにも色々とはぐらかして答える少女に、当然ながら剣の不信感が募っていく。


「……悪いが、部外者にそう簡単に見せられるモンじゃねぇんだわ。ほら、いつまでもこんな所にいないで早く学校に行け。遅刻すんぞ」

「学校についてはご心配無く。うーん、しかし困りましたねぇ」

「困ってるのはこっちだよ。俺達の仕事の邪魔しないでくれ」

「……分かりました。それでは写真は見せていただかなくても結構ですので、その方について幾つか質問しますので、それだけお答えいただくことはできないでしょうか?」

「断る。――代々木、帰るぞ」


 シッシッと手で払う動作をしつつ、剣は踵を返して現場を離れようとする。代々木は1拍遅れて「は、はいっ!」と返事をし、慌てて彼の後をついていく。

 そんな2人の背中に、少女が呼び掛けるようにこう尋ねてきた。


「その方、かなり大きな体をしていませんでしたか? 2メートル近くあるくらいに」

「…………何だと?」

「年齢は20代後半くらいで、髪は金色。かなり鍛えているのか筋肉量が多く、右耳に銀色のピアスを付けている」

「……おい、誰かコイツに喋ったか?」


 ほとんど睨みつけるような目つきの鋭さで剣が尋ねると、警官が一斉に首を横に振った。彼の威圧感に圧されてか、周りの野次馬までもが同時に首を横に振るほどだった。


「…………」


 剣の鋭い目が、少女1人に対してのみ向けられる。

 少女はその目を真正面から受け止めて、尚もその優雅な微笑みを崩さなかった。

 数秒ほどそうしていたが、やがて剣は小さく溜息を吐いて再び現場へと、というよりも少女へと近づいていく。


「……何か、身分を確認できるものは?」

「学生証で良ければ」


 少女は即座にそう答え、スカートのポケットから財布を取り出した。機能美的な意味でのデザイン性に優れたその財布から即座にカードを取り出し、ニコリと笑みを添えつつ剣に渡す。


 市立北戸第一中学校。

 安倍あやめ。


 それを確認した剣は、学生証を少女――あやめへと返した。


「代々木、見せてやれ」

「……良いんですか?」

「構わねぇよ。――嬢ちゃん、特別に見せてやるから、気分を悪くすんじゃねぇぞ」

「はい。ありがとうございます」


 深々と頭を下げて礼を述べるあやめに、代々木がスマホを取り出して何回かタップし、画面を彼女へと向けた。


 そこに映っていたのは、紛れも無く死体だった。

 190センチはあろうかという筋骨隆々の大男は、本来曲がってはいけない方向に腕や脚が曲がり、あちこちからへし折れた骨の先端が突き出し、そこから真っ赤な液体が流れ出した状態で地面に転がっていた。男の顔は恐怖に歪められたまま固まっており、焦点の合っていない開きっ放しの両目が何も無い空中を見つめている。

 それはまさしく、つい先程まで“人間”だったはずの“肉塊”だった。葬儀などでの眠っている姿とほとんど変わらない穏やかなそれとは程遠い、フィクションの世界の作り物ではない本物の“死”がそこにあった。


 ――コイツ、顔色1つ変えやがらねぇ……。


 だというのに、あやめはその画像を間近で見て、その笑顔にほんの少しの揺らぎも起こさなかった。刑事として観察眼を鍛え上げてきた剣でさえ、その表情に恐怖や怒り、あるいは愉悦といった感情を読み取ることができなかった。

 それだけ、彼女が本心を隠す術に長けているのか。

 あるいは、本当に何も感じていないのか。


「――はい、ありがとうございました」

「で、どうだった?」


 スマホから顔を離すあやめに代々木がそう尋ねるが、その声色も表情も明らかに期待していないのが分かるものだった。

 しかしあやめはそれを気にする様子も無く、出会ったときからずっと浮かべている微笑を絶やさないままそれに答える。


「はい。私の知ってる方でした」

「えっ? それって本当――」

「どこのどいつだ?」


 訊き返そうとする代々木を遮るように、剣がズイッと1歩大きく踏み込んであやめに詰め寄った。頭1つ分は優に超えるほどに背の高い彼に迫られる形となるが、彼女の微笑が揺らぐことは無く、それどころかそんな彼にフフッと笑みを漏らす余裕すらある。


「申し訳ございません。知ってる方ではありますが、名前も住所も存じ上げないのです。――実はそれを知りたくて、あなた方に声を掛けた次第でして」

「何? どういうことだ?」


 訝しげに片眉を上げて尋ねる剣に、あやめは周りの野次馬を気にするように目配せをし、スッと右手を口元に添えながら彼へと顔を寄せた。

 それだけで察した剣が、少し屈みながら自身の耳を彼女に寄せる。

 そしてあやめは、清流のように涼やかな声に乗せて、剣にこんな言葉を耳打ちした。





「この方はおそらく、人を殺しています」


「そしてもしかしたら、自分が殺した相手に殺されたのかもしれません」

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