鬱陶しかった彼女が大人しくなりました
引き続きご賞味ください。
何度でも言いますが、オチはありません。
俺には幼い頃から決められた婚約者がいる。
家の為に決められた相手と結婚することに異論は無い。貴族社会では当たり前のことだからだ。
ひとつ文句があるとするならば、相手が政略結婚の本質を理解していないことだろうか。
「わたし、あなたの妻になるのね。嬉しい!」
無邪気に笑って、彼女は喜んでいた。
恋愛感情などという面倒なものを拗らせて、現実を見ずに夢ばかり見ていた。
「婚約者だもの、一緒に食事するわよね?」
学園時代、時間を見つけては俺を探して会いに来る。昼食も婚約者なのだから必ず一緒に食べるのだと言い張って、毎日押しかけられた。俺は一人でゆっくり食べたかったのに。
「学園にいる間は来ないでくれ」
「どうして? 婚約者なのよ。できる限り一緒にいるべきよ」
何かにつけて“婚約者”を引き合いに出し、俺の傍に居ようとした。
タチの悪いことにこの女、世間体は良い。文句を付けようにも「授業態度、および成績は常に優秀。何が不満なのか?」と、むしろパートナーに慕われていて良いじゃないかと笑い飛ばされる。
俺の不満を、誰も分かってくれない。
「まあ、それは大変ですね……」
そんなときに、ひとりのクラスメートが理解を示してくれた。
「分かってくれるか」
「ええ」
うんうんと頷いて、俺の話に同情してくれた。
「うーん、一度ガツンと言ってみるとか?」
「ガツン?」
「はい。はっきりと迷惑だって言ってやるんです」
「そう単純に話を聞いてくれるだろうか」
「そこはあなた次第かと。ああでも、聞いた感じ純粋にあなたのこと好きなだけみたいですし、傷付けるようなことをしてはダメですよ? 暴力反対です!」
「……分かった」
アドバイスを受け終えて立ち去ろうとした時だった。
「あ、あなた! 私の婚約者に何をしているの!?」
タイミング悪く、あの女が現れた。
ずんずんとクラスメートに迫って、掴みかかる。
「私の婚約者から離れて! あっち行ってよ……!」
「きゃっ……!」
婚約者がクラスメートを突き飛ばし、その身体が階段下へと落下しかける。
咄嗟に手を伸ばしたおかげで、間一髪でクラスメートの腕を掴むことが出来た。
「あ、ありがとうございます……!」
助け起こしたクラスメートは涙目でお礼を言う。その顔は蒼白となっていた。
「……いい加減にしろ! お前、自分が何をやったか分かっているのか!?」
婚約者を振り返り、怒鳴りつけた。
「だ、だって! ひとの婚約者に馴れ馴れしくするその女が悪いんじゃない! 私は悪くない……!」
「ふざけるな!!」
もう我慢の限界だった。
手を振りあげて、その頬を打った。
「え……?」
打たれた頬を、女は呆然と触る。
次いで俺を見上げた。その目は如実に語っている。「なぜ、自分は打たれたのだろう」と。
「なんだその顔は」
ひどく冷たい声が出る。
「お前が悪いんだ。打たれて当然だろう」
嫉妬したからと言って、感情任せに他人を害そうとした。
婚約者に非がある。誰が見ても明らかなことだ。
「────」
何か言おうと女の口が動きかけて、不自然に止まった。
先程のように喚くかと思って身構えていた俺はそれを見て少しだけ違和感を感じた。
「……申し訳ございませんでした」
いつもなら非を認めず持論を述べて我を通す婚約者が、素直に謝った。
しかも、目上の相手にするような言葉遣いで。
「ほう、認めるとは珍しい」
普段無い婚約者の態度を不審に思いながら、危うく怪我をしかけたクラスメートが心配になり「保健室に行こう」と声をかけた。
「わ、私は大丈夫ですよ」
「いや、強く突き飛ばしていたからな。念の為に行こう」
「でも」
渋るクラスメートを引き連れてその場から立ち去った。
女の方は振り返らなかった。
それから1週間後、学園を卒業してすぐに結婚式を挙げた。
頬を打たれてからずっと、不気味なくらい女は静かだった。丁寧な言葉遣いもそのままだ。
てっきり親に泣きつくかと思いきや、報告すらしていないらしい。
あまりにも何事も無かったかのように挙式は行われ、妻となった女は誓いの言葉や必要最低限の言葉以外は何も話さなかった。
そしてそのあとの初夜ですら、静かに事を終えたのである。
妻はすっかり大人しくなった。
同じ屋敷に住むようになれば、今まで以上にベタベタと付き纏わられるのかと危惧していたのに、仕事以外の用件で俺に会いに来ることは一切ない。
あんなに一人になりたかったのに、いざ一人になると落ち着かない。
落ち着かないから、会いに行った。
一人で静かにティータイムをする妻はやはり大人しく、俺の隣で嬉々としておしゃべりをしていた快活さは見る影もない。
あの騒々しさを煩わしく思っていたはずなのに。
(頬がまだ痛むのだろうか)
もうひと月以上前のことなのに、そんなことを考える。
(強く打ちすぎたかもしれない。口の中が切れて、傷が残って、それで上手く話せないだけかもしれない)
そんな言い訳じみたことを。どのみち自分がやったことの結果であり、自分のせいでしかないのに。
(このままずっとは、さすがにないよな)
このままであるより、そっちの方がマシだと思ってしまったから。
あの日のことは、確かに妻が悪い。
しかし、あのときクラスメートが懸念していた暴力を結局振るってしまったのは、やはり間違いだったのではと思う。
謝れない代わりに、喜ぶことをしてやれたら。少しは、この罪悪感から逃れられるだろうか。
(どうしてそんなことをする必要がある?)
自分で自分に問う。
(これは揺るぐことのない政略結婚だ)
(妻の機嫌取りをしたところで、なんの得にもならない)
(あの日のできごとなんて、償うべき罪でもないのに)
(過ちを正すためにあの手段を選んだだけで、間違ってなどいないはずなのに)
それでも。
どうしても。
(戻って欲しい)
(元の、あの頃の彼女に)
眩しいくらいに笑顔を湛え、呆れるほど俺に好きだと伝えてくれていた。愚かしくも愛らしかった、あの頃に。
(ああ、そうか)
今更ながらに気付いて、そんな自分に失望する。
(鬱陶しかった、それは本当)
(一人にして欲しかった、これも本当)
でも。
(別に嫌いじゃなかった)
(俺と違って、結婚することを喜んでくれて)
(四六時中一緒に居るためにずっと努力していたのに、俺は認めるどころか馬鹿にして邪険にして)
(好きでいてくれたのに)
(結婚相手も選べない境遇を憂うことなく、俺自身を認めてくれたのに)
そんな彼女が。
(好き、だったのに─────)
不満ばかりを溜め込んで、それらに追いやられるように埋もれてしまった感情。
いつからなのかも分からない。気付いた時にはもう完全に蓋は閉められていて、容易には取り出せなくなっていた。
(好き)
(好きなんだ、今でも)
笑えてくる。
自分があまりにも滑稽で、馬鹿らしかった。
「旅行に行きたく思います」
結婚して初めて、彼女が心から望むものを聞いた。
旅行なんて、貴族なら飽きるほど行く。それなのに、彼女は酷く熱心に旅行地について語り始める。
まるで、一度も行ったことがないと言わんばかりに。
「一度もございません」
その答えに絶句した。そして思い出した。
妻の実家、彼女の両親がどのような人間たちだったかを。
彼らは完璧を求めていた。
娘である彼女にそれを強要し、侯爵夫人として社交界の恥にならぬよう厳しい嫁入り修行をさせていた。
それを見かねた幼少期の俺は、彼女に言ったのだ。「自分の前では完璧にならなくていい」と。
(子どもらしく、未熟で自由でいていいと、俺が言った)
吐き気がした。自由でいていいと伝えたのは他ならぬ自分だったというのに、鬱陶しがったのだ。
彼女が唯一自由に、甘えられる相手だったのに。疎ましくて追いすがる手を振り払った。
「……分かった。旅行に行こう」
罪悪感に押し潰されそうになりながら提案した。
誰にも甘えられずにいた彼女のために、願いを叶えなくてはならない。
妻は喜ぶというよりも、驚いていた。
「もしかして一緒に来てくださるのですか?」
どこに妻をひとりで旅行に行かせる夫がいるというのだろう。
つい最近までの俺なら有り得るかもしれないと思い直して、更に気分は落ち込んだ。
「……新婚旅行もまだだったからな。ちょうどいい」
現在進行形で急行落下していく気分を何とか持たせ、この期に及んで素直ではない言葉を返す。
「ありがとうございます、あなた」
「……うん」
顔を手で覆っていたから見えなかったけれど。
(良かった、嬉しそうだ)
普段よりやや上擦っている声に安心して、余計力が抜けた。
子どもみたいな返事をしてしまう。
(戻れるだろうか、あの頃に)
子どもの頃のように、笑い合いたい。
ありのままの彼女を受け容れたい。
(もう二度と、彼女を悲しませたくない)
ひとり落ち込んでいく中、妻に心配されながら帰路についたのだった。