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アル中にしてやるからな

 例年稀に見る猛暑日という毎年見る表現が添えられたその日、一条の家に久しぶりに呼ばれた。

 何かまたドッキリめいたことをされるのではないかと身構えながら行ったが、あまり意味はなかった。そもそも、家の敷地内に入ることすらなかったからだ。

「今からお前の家に行くから」

 大きめのバックを持った一条が、日傘を差しながら言う。俺は彼女よりも、その周りにいる辻田と藤野の方が気になった。彼らは俺と目を合わせてくれない。

「……なんで?」

「お前の家で合宿するからに決まってるでしょ。三泊はする予定だから。よろしく」

「別にいいけど、俺がここまで来た意味は?」

「私たちは車で移動するけど、お前は無理でしょ? 先に行って待ってるから、走ってこいよ」

 ほとんどの場合、一条は俺に遠慮だとか、気遣いを見せることはない。それが前ほど嫌ではなくなっていた。なんだかすごく、力が抜ける。

 炎天下の中、俺は来た道を戻った。暑いは暑いが、あまり苦ではない。感覚がおかしくなるような謎の空間で馬鹿みたいにサーブの練習をしたり、数学の問題を解き続けたりすることよりは、はるかにましだ。

 俺が自分の住んでいる所に戻っても、外では誰も待っていなかった。一人肩をすくめてから、中へと入る。既に一条たちはリビングに入っていて、各々が好き勝手に見物を始めていた。

「なあ、倉下」

 その声が自分の苗字を呼ぶのは、とても久しぶりな気がした。俺が近づいても、辻田はじっと真っすぐ本棚を見ている。

「お前、僕の勧めた本ちゃんと読んでる?」

「なんで?」

「一条からも、面白い作品いろいろ見させられてるんだろ? なのになんで駄作残してんだよ」

 舌打ちをしてから、辻田は本のいくつかを取り出し、上の方に置いた。俺は辻田の横顔を見ていた。いつも通りだった。全然こっちを見てくれないことを除けば、当たり前のように話している。

 横から、手が伸びる。美晴は無言で本を一冊ずつ本棚に戻し始めた。その作業を他人事のように眺めてから、辻田は再び戻された本を外に出していく。

「なんなんですか」

「これ、お前の? センスねーな。台無しになるだろ。本棚が」

「なんなのこの人。とも、わたしこの人嫌い!」

 美晴が大きな声を出すのは久しぶりだった。走り去ろうとして一条に抱き捕まえられ、もっと大きな声を出していた。

 それからは、気まずい時間が続いた。夜になると彼らは外に出て、適当なファーストフードで夕食を済ませていた。一条だけは残って茉莉さんが作ったものらしき低カロリー弁当を食べていたが、俺と美晴の食卓の雰囲気を和らげてくれはしなかった。

 親戚の画家が別荘として保持しているというここには、大きめの部屋も用意されていた。物置に利用される部屋らしかったが、俺と美晴でこまめに掃除していたので、人が寝泊まりするのに十分な環境になっていた。

 俺が入ると、既に布団が敷かれていた。一条、辻田、藤野の三人は布団の上に座り、自分用らしき枕を手元に置いていた。そして、演劇部の活動が始まった。

 辻田が提案する。一条が却下する。藤野が提案する。一条が却下する。辻田がもう一度提案する。藤野が文句を言う。一条が却下する。藤野がもう一度提案する。辻田が茶々を入れる。一条が却下する。そうした流れが延々と続き、ヒートアップしていった。

「これ、チャックの部分潰してるから」一条が自分の水色の枕を持ち上げた。「さっさとかかってこいよ、ジャアアアップ」一条の顔に、二つの枕がぶつけられた。あとはもう、枕と罵倒の応酬だった。「くたばれ。アメリカかぶれは黙ってマック食ってブヨブヨになってろよ」「お前は既にちょっとぷよってるけどな」「死ねよガリメガネ」「お前らどっちも脳みそスカスカで馬鹿みたいなものしか作れないんだから、仲良くしてろよゴミ」

 俺は部屋の端に寄り、座ることもできないままそれを眺めていた。彼らは、彼らなりの反省をしていた。お互いに直接暴力をふるうことはない。ただの枕投げなら、流血することはない。激しい感情が、沸々とこみ上げてきていた。他人にはあまり抱いたことのないもの。これは、失望だ。抑えきれないほどの、憤慨だった。

「おい」

 低く呼びかけても、誰も反応しない。夢中になっている。前もそうだった。彼らは部室内で殴り合いの喧嘩をして血を流していた。俺しか憶えていないこと。これからも忘れることはないだろう。あんなひどいことをやり合っておきながら、彼らは楽しそうだった。眼鏡を割られて安藤先生に引っ張り上げられていた辻田も、一条に飛びかかっていた藤野も、叫んでいた一条も、全員少し笑っていた。自分たちだけの世界を作り、その中で勝手に楽しんでいた。

 俺はまず、辻田と藤野の中に割って入った。それぞれが殴るための武器として使っている枕を取り上げて、横に放り捨てる。それから彼ら二人に飛びかかろうとしていた一条を受け止めて、そのまま床に押し倒した。

 全員が沈黙していた。荒い呼吸音だけが、重なって聞こえてきている。暴れようとしている一条を押さえつけながら、俺は重い口を開いた。

「ここは、俺と美晴が住んでいる所だ。騒ぐなよ」

 一条が俺の指に噛みつこうとしているので、左腕を顎の下に入れて抑え込んだ。綺麗なピンク色の舌を出してくる。

「何してるんだよ。ずっと喧嘩か?」

「くたばれインポ」

「面白くないよ」

 一条は舌を引っ込めた。辻田と藤野はその場に座っている。

「全部面白くない。お前らがやってるのはただの子供の喧嘩だ。なんで話し合いをしないんだ?」

「仲良しごっこでもやれって? そんなのクソでしょ。遠慮してどうなるんだよ」

「お前が見せてきたものの中に、映画のメイキング映像とかもあった。それだと、関わっている人全員が、お互いのことを尊重してた。本当にいいものを作るっていうのは、そういうことじゃないのか?」 

「あんなの全部フィクション……」

「うるさい!」

 俺は叫んでから、一条から離れた。自分でも何を言おうとしているのか、わからなくなってきていた。頭を大きく掻いてから、全員の顔を一度ずつ見る。それから最初に、辻田へと視線を固定した。

「辻田、お前はすごい奴だ。俺小説なんて全然興味なかったのに、お前の作品を読んだおかげで、好きになれた。死ぬほど上手いのは知ってる。どれだけ自分のこだわりを強く持ってるのかも、全部じゃないけど、わかってる。わかりたいって思ってる」

 辻田は先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、大人しく聞いている。次に俺は、藤野へと顔を向けた。彼女の目も真剣だった。

「藤野、すげえよお前は。俺さ、お前にメイクしてもらった後すぐに鏡見たら、違う世界を見た気がしたんだ。お前の部屋とか見ても、どれだけがんばってきたのかわかる。俺の頼みなんかのために学校にも来てくれた。一条の顔見ても、さらに綺麗になった。お前は完璧なものを、さらに完璧にすることができるんだ。どれだけすごいことか。でもお前はそれができるんだ」

 自分の言葉で、胸がつまりそうだった。俺は何を言いたいのだろう。何がしたいのだろう。何もかもあやふやなのに、止められなかった。

「一条は、」

 声もつまって、途中で止まった。いつの間にか近くに一条は立っている。

「私は、なんなんだよ」囁くような声。

「一条は、俺にとっての希望なんだ。すごいんだ。お前ら全員が、俺と、俺と美晴を、救ってくれるかもしれないんだ。だから、だから、やめろよ。お前らが集まったら、すごいことになるはずなんだよ。お願いだから、がんばってくれ。余計なことは気にしなくていいから。何の役にも立たない俺は、仲間外れにしてくれてもいいから……」

 俺はうつむいて、片手で乱暴に涙を拭った。自分で言ってて、支離滅裂だとはわかっていた。それでもこれが、正直な気持ちだった。ずっと感じていたもやもやの正体の一つだった。

 呼吸が落ち着いてから、顔を上げる。辻田がじっと見てきている。顔をそらすと、藤野と目が合った。真っすぐな視線。どこにも逃げ場がないように感じられて、顔を逃がした。

一条は自分のバックの中に手を突っ込んでいた。何か縦に長いものを取り出す。涙でぼやけた視界がましになってくると、それが瓶だとわかった。ややぎこちない手つきでフタを剥がしていく。

「な、なにそれ」

「お前の保護者にあげようと思ってたんだけど。いないみたいだから」

「もしかして、お酒?」

「ビール」

 一条は自分のリュックから、紙コップの束を取り出した。俺が呆気にとられているうちに、一つのコップ内になみなみと注がれていく。

「本気の質問ゲーム。初めてやるけど。質問したい奴が、まずコップ一杯飲む。そして誰かに質問する。質問された誰かは、ちゃんと本当のことを答えないといけない。できなかったら、二杯飲む」

「だめだろ。馬鹿か?」

 俺が否定している途中で、既に辻田が動いていた。止める間もなく、紙コップの一つを持ち、一気にあおっていく。飲みきった後、もう頬が紅潮していた。

 俺を見てくる。

「倉下、お前さ、演劇部のことやる気なくなったのか?」

「え、え?」

「二杯分注いでやるよ。逃げんな」

「ま、待てって。答えるから。どういうこと?」

 辻田は斜め下を見ている。

「だから、飽きたのかって話。やっぱり合わないって思ったのか?」

「んなわけないだろ」

「でもお前、最近すごかっただろ。テニス部でがんばりまくったり、勉強がんばりまくったり、キラキラしてたじゃん。全然違う人種って感じ。だから、演劇部のこととか、どうでもよくなったんだろ?」

「はあ?」

 相手はもう酔っている。それがわかっているはずなのに、俺は苛ついた。

「部活とか勉強のことは、一条が出した条件だろ。辻田だって聞いてたじゃねえか」

「でもお前、僕らのこと避けてたし」

「避けてたの、お前らの方だろ。話しかけようとしても、逃げただろ! 俺、俺は、お前らの方がどうでもよくなったと思ってた。俺のこと、いらなくなったんだって」

 辻田はもう一杯飲んだ。耳の方まで赤みがやってきていた。

「馬鹿かよ」

「何がだよ、ふざけんな」

「わかんねえのか。何でそうなる? 自分の書いた小説読んで、泣きながら面白いって言ってきた奴、どうやったらどうでもよくなるんだよ。わかれよ!」

 俺は、何も言えなくなった。

 辻田はさらにもう一杯飲んだ。眼鏡がずれても直さなかった。

「こんなこと、フィクションでも起きない。おかしいだろ。僕、僕は、今が一番楽しい。生きてるって感じがする。全部お前が演劇部に誘ってくれたからだ。すごく、なんだ、充実してる。なのになんで張本人が……、少しも、自分のことわかって、ないんだよ……」

 あとはもう、よくわからない呟きになった。辻田は目をつぶると、そのまま後ろに倒れ込んだ。真っ赤な顔のまま枕を抱え込み、動かなくなった。

 俺は誰の顔も見れなくなった。既に怒りは引いている。残ったのは、落ち着かないむずがゆさだけだった。それに囚われていたせいで、藤野がコップに手を伸ばしても、止めることができなかった。ビールを小さめの紙コップ一杯分飲んだだけで、顔がトマトになった。

「倉下、おい」

 彼女の目はもう据わっている。

「なんで、ここまでしてくれるの? あの時だって。あんた最初、あたしに引いてたでしょ。なのに、助けてくれた。なんで?」

「それは、藤野を助けたいと思ったから」

「嘘つき。それだけじゃないくせに」

「演劇部のためでもある」

「嘘野郎。まだ何かあるんじゃないの? あたしたちに隠してることある。あんたの様子、おかしい時ある。何をそんなに怖がってるの? 必死なの?」

 声を出そうとしても、できなかった。また同じ問いだ。美晴の時も答えられなかった。禁止されてはいないはずだ。ペナルティにも書かれていない。化身は彼らには見えないが、ちゃんと説明を工夫すれば信じてもらえる可能性はあった。だけどそれでも、全ての事情を説明する気にはなれなかった。

 俺が必死になっている理由。それは既に「犠牲」が出ているからだ。彼らにちゃんと説明すると、行き着くことになる。母さんを殺したのは、何かだ。でも俺はずっと前からその警告を……。

「ごめん、答えられない」

 無言で紙コップを示された。俺はビール二杯分飲んだ。苦かった。頭の奥が少しだけじんじんしてくる。続いて、さらに藤野がもう一杯飲んだ。目がさらに怪しくなった。もう顔で赤くない部分を探す方が難しい。

「じゃあ質問変える。くらもとはさあ、なんで、周りからもっともって呼ばれてんの?」

「倉下ともってフルネームあるだろ。最初は略してもとともって呼ばれてたんだ。でも少し言いづらいみたいで、もっともに変わった」亮吾の顔が思い浮かんだ。

「あたしも、それで呼んでいい?」

「いいよ」

「わかった、もっとも」

 藤野はしゃっくりをした。そしてもう一杯飲んだ。

「やっぱり変だから、倉下のままにする。なんかへん」

「おい、ちょっと。大丈夫?」

「あたしの番はー、いったんおわり! あんたもやってよ」

「俺は、いいよ」

「やれよ」

 一条がドスの効いた声を出した。

「お前がパスしたら、私に回ってくるけど、いいの? 容赦しないぞ。答えられないからって、別の質問に変えたりはしない。アル中にしてやるからな」

「滅茶苦茶すぎる。わかった、やるよ。やるから飲むな」

 紙コップでビールを飲みながら、瓶の残りの量を確認した。もうあまり残されてはいない。一条の脅しは意味がないとは知りつつ、乗ってやることにした。

「えっと……」

 コップを置いた後、俺は口を開いたまま固まった。彼らに訊きたいこと。たくさんあるはずなのに、何も思いつかない。思いつかないのに、何かを言うべきだという思いは強くなっていた。壁を見た。天井を見た。何度か首を振ってから、ゆっくりと俯く。すがるような思いで、口が動いていた。

「妹が、いじめられてるみたいなんだ」

 美晴は中学の前期終業式に出なかった。その四日前から、学校を休んでいた。こんなことは、前の三年間では一度もなかった。彼女は毎日楽しく、学校に通っていたのだ。

「どうすればいいのか、わからない。どうすればいい?」

 前と今で何が違うのか。強烈な心当たりがある。三人から、二人になったことだ。俺も美晴も大好きな人が、最悪の形でいなくなったことだ。変化がないなんて、ありえない。彼女がうなされている声を何度か聞いた。学校生活にも影響がないはずがないのだ。

 下を見たまま、沈黙が流れていくままにした。友達に、こういう相談をする。重いのではないか。いや、そんな表現をしたら美晴にも失礼だ。でも、他の誰に相談すればいいのだろう。俺だけじゃ、もう無理なのはわかりきっている。こんな俺じゃ……

 また熱が目の辺りまで上がってきた所で、突然身じろぎの音がした。見れば、辻田が半身を起こしている。真っ赤な顔のまま、薄目になっていた。

「お前の妹、いじめられてんの?」

 声もどこか不安定だった。

「ああ、うん。そうだよ」

「ふーん、これで合理的になったわけだ。行ってくるわ」

 辻田は外した眼鏡も拾わずに、部屋を出ていった。俺は思わず追いかけようとしたが、両方の腕を掴まれる。一条と藤野が、顎で布団の方を示していた。そこに座れという意味らしい。もう一度扉の方を見てから、指示に従った。

 一条が使用済みの紙コップをまとめてゴミ袋に突っ込んでいく。やけに準備が良かった。元からビールの使い道を決めていたのではないかと疑いたくなる。

「まだ私の番が終わってないだろ」

「もう終わりだろ」

 瓶には、ほとんど入っていなかった。一杯分程度しかない。ゲームは成立しないだろう。と思った直後には、一条が自分のバックに手を突っ込み、新しい瓶を取り出していた。今度はもっと大きくて高そうだ。ラベルに筆で描いたような難しい漢字が刻まれている。

 藤野が笑顔で拍手した。

「すご。準備いいねー」

「スーパービール」

「ビールじゃねえだろ。絶対それ……」

「檜山っていうビール」

 三つのコップに注がれていく。さすがに危機感を覚えた。一条が日本酒でどうにかなったら茉莉さんに、藤野がそうなったら菜々実さんと忠輝さんに殺される。

 一条と藤野が同時に飲んだ。お互いに睨み合う。じゃんけんをして、藤野が勝った。

「一条じゃんけんよっわ。くふふ。おもしろすぎ」

「なあ藤野、もうやめとけよ」

「しつもーん。ぶっ、くく。目見ないでよ、あんたの顔面白いからやめて。えっとお、あんたって馬鹿だよね?」

「……はい、そうです」

 飲みたくないので、素直に肯定するしかない。藤野は俺の肩を何度も叩いてきた。

「馬鹿兄貴、美晴ちゃんのことちゃんとしあわせにしろよ。なにかんがえてんの」

「すみません」

「でもね、ちょっと気持ちわかるよ。ふつーこういうのって、親の仕事だよねえ。困っちゃうよねえ」

 藤野は泣き始めた。

「あたしもね、たまにななちゃんとけんかするんだけど、違うんだよ。ちゃんと受け止めてくれるんだけど、違うの。くらべちゃう。おとーさんとおかーさんだったらどういうかんじなんだろって」

「そうだな」

「でもあたしより、あんたのがすごい。あにきにもおとーさんにもおかーさんもならなくちゃいけないんだから。できないよふつー。だったらさ、あたしにも言えよ! みんなに言え。なんで当たり前みたいに、だまってんの? ばか、あほ、まぬけ」

 きゅっと胸が締め付けられた。

「その通りです」

「なんでもいいなよ。あたしもいっぱい助けられたからさ。あたしも助けないと。おい馬鹿兄貴、ありがとね。いろいろ、ありがと……」

 そこでしゃっくりをした。難しそうに藤野は目をつぶっている。何度か前後に揺れてから、俺の膝にまで倒れてきた。びっくりしたが、既に彼女は安らかな顔で寝息をたて始めている。

 動くことができなくなった俺は、一条を見た。少しも普段と変わっていない。平然と二杯目を飲んでいった。

「連続で答えろよ」

「はい」

「お前、私と前に会ったことある?」

 一条は真面目な顔をしていた。

「どういう意味?」

「そのまま。昔の話。高校よりも前にお前、アメリカ来てた?」

「いや、ない。俺日本から出たことないよ」

 一条は腕を組んでから、不満気に唸った。彼女なりの冗談とも思ったが、どうやら真剣に何かを考えていたようだ。

「じゃあ次、お前にとって世界で一番素晴らしいと思う異性は?」

 目がより真剣になっていた。

 真っ先に思い浮かんだ相手は、すぐに別の、思い出したくない光景に無理やり重ねられた。俺は苦労してそれを脇にやりながら、別の相手を考えた。

「美晴。宇宙一だと思ってる」

「ふん」

 色々言われるかと思ったが、一条はどこか満足そうだった。よくわからない。彼女にとって満足のいく回答だったのか。思えば、一条にはわからないことはたくさんある。

 俺は深呼吸してから、コップの酒を飲んだ。アルコール臭がきつい。飲みづらいにも程がある。頭の奥が、一気に熱せられた。

「どうして俺達の高校に来たんだ?」

「日本でやりたいことがあったから」

「他の高校もあったろ。もっと都心に近いとことか、芸能関係の学校とか。なんでよりにもよって、野岸南?」

「お前に会うため」

 一条はただ見てきているだけだ。声も淡々としていて、大きな動きが伴っているわけでもない。それでも、目だけで俺を包み込んできていた。

 一条は鼻で笑った。深い目の光が薄まった。

「嘘。本気にしてるの? 死ね」

「二杯飲めよ」

「別にたいしたことじゃない。あの高校、ママの母校だから」

「え、そうなの?」

「しかも、ママの初恋の人がいたらしい。だから面白そうだと思って」

 つまらなそうに言っている。真偽の判断がつかない。考えているうちに、俺の手が掴まれていた。一条は俺の手を持ち上げて、自分の耳に当てる。クーラーである程度涼しくなっている部屋の中、右手だけは暖かかった。そのまま彼女は器用に酒を飲んだ。

「霊感って信じる? インスピレーション。お化けを見るとか、そういうのじゃない。理屈じゃ説明できない、もっと深くにまで刺さってくるようなもの。容赦なく引っ張り出そうとしてくるもの」

「わからない。あるんじゃないか? 多分」

 彼女は目を閉じている。長い睫毛がよく見える。俺の右手に耳をすませているようだった。

「生まれた時から、音が聞こえてた。私を急かすような音。大きくなったり小さくなったりする。今までずっと、大きくなる方に寄ってきた。声に従ってきた。お前が今までで一番うるさい。今も鳴ってる。しゃぶりつくせって」

 さらにもう一杯飲んだ。俺の頭の中まで覗き込もうとしてくるような視線が、ぶつけられる。

「お前は、何?」

 何の言葉も出なかった。意味の分からない質問だったのに、俺が知らない俺の深い部分が動揺させられたように思えた。一条の顔が目の前にある。瞳の中の自分の姿が見えるまで近く。

 藤野が息を吸い込んだ。身じろぎした。俺はそれで我に返り、顔を引こうとする。

 天井が、大きく鳴った。重いものが落ちたような音だった。

 俺は藤野の頭を膝から優しくどかし、ゆっくりと立ち上がった。一条も立っている。さきほどまでの妖しい雰囲気はなくなっていた。

「なに?」

「二階だ」

 間取りを考える。この上は、ちょうど美晴の部屋だ。そう思い当たった途端、俺は部屋を出ていた。階段を一気に駆け上がる。既に怒鳴り声が聞こえてきていた。

 美晴の部屋の扉を開けた瞬間、頭が真っ白になった。

 小さな拳が、何度も振り下ろされている。「うるさい、うるさい! なんもわかんないくせに、えらそうなこと言うな!」全て辻田の頭に向かっている。美晴に乗っかられた彼は、少しも抵抗できていないようだった。両手を盾にして顔を守っている。「うるさくない! いじめ返すか、さっさと環境変えるか、それしかないだろ」「うるさい、嫌い!」「うっ、だからって、倉下に迷惑かけんなよ! あいつ、やばいぞ。お前のせいで怖くなってる。心配させんな」「うるさい、うるさい……」

 背丈は辻田が明らかに勝っているのに、負けている。手加減しているのかと思えば、辻田の顔の必死さでその線はなくなった。すぐ後ろで吹き出す音がした。藤野がいつの間にか立っている。身体をくの字に浅く曲げて、白い歯を見せていた。

「やば、すぎ。辻田弱すぎ。中学一年生の、女の子に負けるとか。ふふふ」

 隣にいる一条も、笑いをこらえているようだった。珍しい光景だった。俺は笑えない。美晴と辻田、どちらのことも心配で、どう止めればいいのかもわからなかった。

 美晴が拳を止めて、俺の方を見てきた。さらに顔を歪ませて、ベッドから下りる。俺に抱きついてきてから、大口を開けて泣き始めた。まだ三歳くらいの頃の、幼い彼女が泣いていた姿と重なった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「俺の方こそ、ごめんな」

 辻田が不満そうに天井を眺めていた。

 その後、お腹がすいたと美晴が言ってきたので、野菜中心の焼きうどんを作ることにした。なぜか追加で三人分注文が来たので、材料費をもらってからさっと近くのコンビニで補充した。数時間前の夕食の時よりも、賑やかな食事になった。

 作るのにも手間がかかったが、構わなかった。美晴と目を合わせて話をしながら、何かを食べる。久しぶりのことだった。

「こいつ、恵まれてるよ」眼鏡をちゃんと掛けた辻田が言う。「同じ吹奏学部の男子に告白されて断ったけど、そいつやな女子グループの一人が好きな相手だったんだと。どう思う? モテるからいじめられましたって、ふざけてるだろ」

 美晴に頭を小突かれながら、うどんをすすっていた。俺は不思議な気分だった。こういう物言いはできない。罪悪感がすごいから。でも辻田は言える。それが美晴にとっては、良い方に働いたのかもしれなかった。

「いいから野菜食えよ。全部食うまで起きててもらうからな」

「げええ」

 それはそれとしてどこかもやもやがあったので、今だけは厳しく辻田に接することにした。


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