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ディックヘッド!

「ほんとに大丈夫?」

 もう五回目くらいだった。さすがにそろそろ時間が危なくなってきたので、俺は美晴の背中を押し始めた。

「大丈夫だって。二、三日休めば全快するから」

「病院行った方がいいよ。わたしもついてこうか?」

「平気だって。もう全然痛くない。ほら、遅刻するぞ」

「うん……」

 美晴は靴を履いて、玄関の扉の前まで歩いた。そして、振り返ってきた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 扉が閉まったあと、俺は少しの間留まっていた。美晴が戻ってくる気配がないことを確認してから、大急ぎで制服に着替えに行く。

 外は晴れていた。それなのに、いつもより少しだけ寒かった。頭に巻いてある包帯を触ってから、そろそろと敷地内から通りを見る。美晴の姿はない。あいつは俺よりもやや早足気味だから、もうかなり離れているはずだった。中身がスカスカのリュックを背負って、俺は登校を開始した。

 いつもの通学路は使わない。俺の顔を知っている同学年の奴と鉢合うかもしれない。スマホの地図アプリをこまめに確認しながら、やや遠回りのルートを選んだ。それでも、少し余裕を持って到着することができるだろう。異常に長く感じた。距離そのものが長くなっていることもあるが、話し相手のいない登校がこんなに退屈だとは、考えたこともなかった。

 学校の正門は、案の定通れなさそうだった。大勢の一般生徒がいる上に、先生や委員の生徒が見張りをしている。安藤先生はいないようだが、あまり関係なかった。遠くで眺めてから、正門とは反対側にある学校の敷地方面へと向かった。

 高い塀がそびえたっている。あたりを付けるようにして見上げた。もう朝練の生徒もいない。ある程度は、人目を気にしなくてもすむ。

 リュックから、時間拡大収納空間を取り出した。周りを見回してから、投げる構えを取る。もう一度周りを確認する。誰もいない。今しかない。塀の上に向かって投げた直後、俺は念じた。周りが一気に白く塗りつぶされた。

 俺は一度深呼吸してから、敷いてある布団の上に座り込んだ。この上なら、気持ち悪くない。ちゃんと輪郭の上にいるという感じがする。土日で、この道具を使い倒していた。どうやらただの物なら入れることができるようだ。もっと大きなものも収納してみたかったが、再び取り出す時のことを考えてやめておいた。

 今俺にとって最も重要なのは、あの白い長方形に触れていなくても、この空間に入ることができるという性質だ。つまりさっきみたいに、時空間(時間拡大収納空間は長いので、こう略すことにする)を投げた直後に念じれば、手元から離れていても中に行ける。あとは塀の向こう側、学校内に箱が着地するまで待てばいいだけだ。上がってから落下するまで仮に二秒だとすると、七十二秒はここで待たなければいけない。落下の途中で体を出してしまえば、大惨事になりかねない。

 布団の上で座っている間、俺は近くに並べて置いてある文庫本を眺めていた。まさか、学校へ正真正銘の不法侵入をすることになるとは思っていなかった。いや、そもそも担任の先生に手を上げることすら、その直前まで考えてもいなかった。俺は完全に悪い生徒だ。母さんが聞いたら、卒倒するに違いない。

 深く目をつぶった。制服は着る必要がなかったかもしれない。授業には出られないし、「頭に包帯を巻いてる、野岸南高校の制服を着た男子生徒」なんて俺くらいだろう。今度からは私服で出よう。あと帽子とかかぶろう。

 スマートフォンで時間を確認する。八時二十八分。箱を投げてから、一分も経っていない。体感では二十分ほどだ。これも事前に検証していたことだった。この空間にいても、時計は現実の時間を示す。

 自分の右手を前に伸ばした。五本の指を何度か開け閉めしてから、念じる。人差し指だけ出してください。その通りになった。こっちから見ると、とても不気味だ。人差し指だけ無くなっている。それでも動かそうとすると、ないはずの指の辺りから固い感触が伝わってきた。ざらざらしてもいる。地面だ。

 戻してください。そう思うと、人差し指は帰ってきた。それから俺は大きく息を吐き出した。ゆっくりと目を開ける。頭だけ出してください。

 いつの間にか、校舎を見上げていた。普段はあまり使われることのない昇降口が見える。少し首を動かした。自分の頭だけが、小さな白い長方形の箱から出ている。気持ち悪かったが、事前に試していたことなので多少は受け入れられた。

 これで、「登校」ができたことにはなる。だが、まだ安心はできなかった。前にギリギリで登校できた時は、全身が学校の敷地内に入っていた。それもまた、条件の一つなのかもしれない。周りを念入りに確認してから、全身を箱から出した。少しして、チャイムが鳴る。

 何も起こらない。俺は浅く息を吐き出した。欠席は、これで回避できた。言葉をそのまま受け取るなら教室に入って先生の確認にも返事しなければいけないが、それは必要ないと前回でわかっている。初登校の日、俺は保健室で応急処置を受けた後、救急車で病院に運ばれた。一度登校してしまえば、その後すぐに学校から出ても、「欠席」扱いにはならない。

 さきほどの時空間を使った移動法。それをもう一度行い、学校から出た。何か文字が出てこないかと目をこらすが、何もない。つまり、異常なし。安堵してから、下校を始めた。今までで一番短い学校生活だった。

 五日分、それを繰り返した。初めの方は緊張が取れなかったが、やがて細心の注意を払いながらもある程度リラックスして行うことができるようになった。慣れというのは便利だ。どんな異常なことにも、対応してくれる。とはいえ、校舎の中にまで入る勇気はなかった。

 一条たちには、当然会わなかった。本当は部室に忍び込んでどんなことをしているか見てみたかったけど、先生以上に見つかってはいけない相手のように思えた。連絡もしてみようと思った。でも、どこか気後れしてできなかった。まだ、あの鬼気迫るような喧嘩の光景が目に焼き付いている。俺だけしか知らない流血の光景が。

 一方で、一条に言われた課題はちゃんとこなした。口頭ではなく、ラインで文字として伝える形にはなったが、毎日続けた。反応はなかった。既読マークはついていたので、受け取ってくれていると信じた。台本読みだけはできなかった。一条からは何の指示もなかったので、どうすればいいのかわからなかった。。

 途中からは、美晴に対しての偽装工作も行う必要があった。さすがに三日以上怪我のことで休むと、心配される。俺は考えに考えて、結局美晴と一緒に登校するという誘惑に勝てなかった。彼女の通う中学校と、俺の高校はそう離れていない。停学中の高校の制服を着て歩いている所を知っている誰かに見つかったら。そう考えるだけでも怖かった。

だが幸運なことに、誰にも指摘されることはなかった。妹と別れた後、俺はすぐに人目を気にしながら高校の裏の方へと回り、時空間を使って敷地内へと侵入、脱出を毎日繰り返した。何も異常はないように思われた。

 停学期間の最終日までは。

「とも、話がある」

 その時俺は油断していた。美晴が神妙な顔でリビングのテーブルに座るよう言ってきても、まだわかっていなかった。むしろ彼女の方を心配していた。何か悩み事があるのかと。

「ほんとは、高校行ってないでしょ。停学になってるって、ほんとに?」

 一瞬だけ、ごまかすことを考えた。だが美晴の顔を見てやめた。こんな追いつめられたような表情をする家族に向かって、どうして無様な取り繕いができるだろう。

 俺は俯いた、両手で膝を擦った。

「うん。ごめん」

「そっちの高校に通ってる先輩とね、仲いい友達いるの。だからそれで」

「ごめん」

「暴力、振るったって」

「先生と言い争いになってさ。でも俺が全部悪いんだ」

「とも、変だよ」

 美晴はまばたきを早くした。俺は知っている。もう少しで泣く。まだ涙目にすらなっていないが、何度も見てきた前兆だった。

「無理してる?」

「そんなことは」

「わたし、迷惑かけてない? とものストレスになってない?」

 どうして嘘をついていたのか。本当のことを話してくれなかったのか。暴力なんて信じられない。俺が予想していたのは、そういう責め言葉だった。でも美晴は、俺を心配する言葉ばかりかけてくる。だからこそ、ばれたくなかった。

「なわけないだろ」

「最初、わたしともにひどいこと言った。だから無理して高校行ってるの?」

「あれは、俺が悪いだろ。俺が、いつまでも受け入れられずに、何もしなくて……」

 受け入れてるのか? 俺の別の声が頭の中でした。全て、仕方ないと思って?

 美晴は手を伸ばして、俺の腕に少しの間触れてきた。容赦なく目を合わそうとしてくる。

「何か、隠してるよね? ずっと思ってた。悩んでるなら、言ってよ。何でも聞くよ」

 どうして俺は話していないのだろう? 何もかも、得体の知れない何かのせいだって。全部仕方ないことなんかじゃなくて、何かが奪ったんだって。本当は俺が高校を卒業するまで、美晴が中学を卒業するまで、母さんはちゃんと。

 なぜか、それ以上考えたくなかった。揺れている母さんの体が、頭の中に浮かんだ。

「……いじめられてるの?」

 その声色が今までと違う気がして、俺は顔を上げた。今度は美晴の方が目を伏せている。右手が途方に暮れるようにして、テーブルの上に残っている。

「それはない」

「ほんと? でも、ともはそういう人じゃない。何の理由もなく、先生にそんなことしない。誰かに言われてやったりとか。いじめの一環で」

「ありえないって」

「誰かをかばってるの? いじめられてる誰かのために身代わりに、とか」

 俺は後頭部を右手で掻いた。嫌なものを思い出したせいで、気が立っていた。

「いじめいじめって、しつこいよ。なんでそんないじめ言うんだよ。いじめにこだわる理由なんて、美晴にはないだろ」

 俺は手を下ろした。口を少し開けた。彼女ははっきりと俺から顔をそらしていた。それからすぐに挑むようにして目を合わせてきた。美晴の典型的な動作の一つだった。動揺を悟られまいと、強がる時の。

「まさか」

「知らない。何も言ってくれない嘘つきのともなんて知らない。もういい」

「おい、ちょっと」

 美晴は素早く立ち上がると、小走りで二階に上がっていった。

 夕食の時間になると降りてきたが、何も喋らなかった。俺はできるかぎり色々な話題を出して美晴を笑わせようとしたが、全部失敗に終わった。久しぶりに一緒に風呂に入らなかったし、一緒の場所で寝なかった。俺は悪夢を見た。



 最悪の目覚めを経て、停学明け初めての登校時間になった。美晴は早めに外に出ていった。俺は一人分の弁当を作った。いつもよりかなり雑になったが、全く気にならなかった。

 既に頭の傷は治りかけていて、包帯も取れていた。なのに、頭が痛かった。何度も顔を洗ってから、買いだめしているミネラルウォーターを多めに飲んだ。じくじくとした頭痛がましになってきたので、家を出た。

 前までは緊張すると思っていた。停学なんて初めてのことだったし、かつての高校生活で、周りにそんなことになった奴はいなかった。だから周りの生徒がどういう接し方をしてくるのか、正直怖かった。だけど今はもう違う。美晴のことを考えていると、もう高校に着いていた。

「もっとも、どんまい」

「今日練習参加するだろ? 先輩とかも、待ってるって」

「安藤先生、全然怒ってないよ。よかったじゃん」

 朝のホームルームが始まるまで、何度も話しかけられた。皆、まるで俺が被害者であるかのように扱ってくる。その中にはあの時俺が手を上げたことをちゃんと目撃した奴もいるはずなのに、責める声は一つもない。

 落ち着かない違和感の原因は、他にもあった。窓際後方の席と、左斜め前の席を見る。いつもなら藤野は俺に合うようなワックスを勧めてきたり、美晴とラインでこういう話をしたとか、そういう報告をしてくるのに、今日はずっと自分の机に留まって雑誌を読んでいた。辻田はいつもなら勧めた小説の感想を聞きに来たり、また新しい小説を勧めに来たりしていたはずなのに、今日はずっと自分の机に留まって何かを書いていた。他のクラスの奴らが俺に話しかける度、辻田と藤野の方をちらりと見るのも気になった。その視線はあまりいいものではなかった。

 昼休み、俺は彼らに話しかけに行こうとして、やめた。二人はすぐに立ち上がって、教室から出て行ったからだ。何の隙もなかった。部室に行ったことくらいは予想がついたので、追いかけようと廊下に出た。

 一条が、俺の行く手を遮るように立っている。

「久しぶり」

 俺は一歩引いた。周りの声が聞こえなくなった。一条が深々と頭を下げていたからだ。

「ごめんなさい」

「どう、したんだよ」

「お前を巻き込むつもりはなかった。そこには責任を感じてる」

「いや、俺もさ、やりすぎた感じではあったし」

「そう? なら忘れて」

 周囲の声が戻ってくる。誰かが、一条に文句を言っている。彼女は少しも気後れしてはいなかった。明らかにこういう類の場面に慣れているようだった。

「それよりも、辻田と藤野がさ」

「六つ目追加するから。お前のやること。私が許可するまで、辻とリリーに話しかけないで。なるべくあいつらの視界に入らないで」

「はあ? 何言ってんだよ」

「お前にはやるべきことがある。忘れたの? ちゃんと指示したでしょ。そっちに集中して」

「だから、言ってる意味が」

「ラインのやつ、全部見てた。そのまま続けて。じゃあね」

 少しも振り返ってくることもなく、一条は廊下の奥へと消えていった。取り残された俺は自分の思考に沈んでいた。それから早足で部室へと向かったが、そこには誰もいなかった。綺麗に整頓された机や椅子が並んでいるだけ。誰かに連絡しようとして、途中でその手は止まった。

 別にいい。今まで感じたことのない、うずくようなもやもやが胸を満たした。別に、こうなることくらいはわかってた。多少ぎこちなくなるのはしょうがない。我慢できる。二週間の勉強の遅れや、テニス部の練習に集中しろということだろう。

 何日経っても、辻田と藤野が話しかけてくることはなかった。なぜかそれが俺自身の態度にも影響してきて、安藤先生との関わりもぎくしゃくするようになった。いや、それは言い訳かもしれない。先生はいつも通りだった。それが逆に嫌で、俺から避けるようになってしまった。 

 部活や勉強のことに費やす時間が多くなった。六月の下旬に最初の中間テストがあり、さらにそのおよそ一か月後には、テニスの地区大会がある。ゴールデンウイークも過ぎた今、時間が多く残されているとは言えなかった。

 部活。フォームの確認だったり、サーブを狙ったところに打つことだったり、そういうことは一人でもできる。先輩にコツを教えてもらってから、下校した後も繰り返す。周りの目なんて気にする必要はなかった。自分の部屋で時空間に入れば、六時間練習しても十分しか経っていないことになる。教えてもらったことを完璧にすることに全力を注げば、部活の時間はほとんど練習試合に充てることができた。積極的に同学年の生徒や先輩に話しかけて、練習相手になってもらった。

 勉強。前の俺は、中の下くらいの成績だった。受験期になってからはある程度真面目にやり、最終的には学年で三十番目くらいをキープしていた。そこからさらに上に行くには、独学ではだめだとすぐにわかった。とはいえ塾や予備校に行く時間やお金はない。

「すいません、村上詩織さんって今いますか?」こんな調子で、俺は同じ中学でいい点を取っていた生徒、あるいは他の中学からやってきた生徒でこいつが頭いいという噂を頼りに話しかけ、定期テストで点を取るコツを教えてもらった。色々あったが、中でも「模試や入試と違って、定期テストは教科担当の教師を攻略すればいい」という意見が面白かった。つまり、テストを作るのは普段授業をしている教師だからその授業を真面目に聞け、ということらしい。簡単なようで、今までちゃんと考えてはいないことだった。

 まず朝六時に起きて、着替えたり顔を洗うなりして意識をしっかりと覚ます。朝食を食べて、時空間に入り、六時間テニスの練習をする。それから十分な休憩を取って、今度はさらに六時間勉強をする。一度出て様子を確認してから、また時空間内に入り、五時間ほど寝る。その時点で現実世界では五十分ほど経過している。それから風呂に入って制服に着替え、登校する。学校ではとにかく授業の吸収と部活での実戦練習に集中し、下校したらすぐに時空間内で復習を繰り返す。美晴との静かな夕食を経て、十五時間ほど時空間で朝と同じように過ごす。くたくたになったら、外に出て風呂に入り、眠る。

 特に重要なのは就寝時間のコントロールだと感じた。下手をすると、生活リズムがすぐにぐちゃぐちゃになる。一度それで授業中に寝かけてからは、真剣に時空間内での生活と現実の生活とのバランスを考えるようになった。一番いいのは、現実での一日において、二日分の時間を時空間内で過ごすことだ。そうするとちょうど就寝の欲求みたいなものが回って、現実の夜に寝て朝起きるという生活ができるようになる。

 最初は、やりすぎかもしれない思った。気が狂うのではないかと。でも、それくらいがちょうどよかった。こうして何かに没頭していると、悩みごとや考えたくないことがどこかに行ってくれた。孤独感もまた、頭や体に負担を強いている時だけは忘れていられた。

 そうして、五月、六月と過ぎていった。一条とは定期的にラインで連絡を取っていたが、素っ気なかった。進捗を訊いてもはぐらかされた。一条や、辻田と藤野の様子をこっそり遠くから見ると、ほとんど前に進んでいないことは明らかだった。心配になる度に、俺はむきになって考えた。俺は俺のやることをやらなきゃいけない。そう指示されたから。

 六月末の中間試験。俺はやや緊張していた。学年で五位以内は、完全に未知の領域だ。話をした勉強ができる奴らは十人くらいいたから、かなり厳しいかもしれない。

そうした張り詰めた思いも、テスト期間が過ぎていくほど小さくなっていった。ほとんどが、見たことのある問題だったからだ。先輩からもらった過去問と全く同じ問題を出している教科もあった。真剣にテストを作っている教師は思っているほど多くないのかもしれない。見直しを何回かしても、二十分以上時間が余るようになった。

中途半端なテストを作ることもあるのに、結果の順位を廊下に張り出すような進学校っぽいことはする。

「まじかよ、お前」

 俺は自分の名前を何回か確認した。一位という文字の横に、それはある。他の、もっと嫌な文字が浮かんできそうに思えて、すぐに目をそらした。そして、今まで連絡を取っていた二位から十位あたりまでの勉強ができる生徒とは、もう関わらないことに決めた。

 亮吾が肩を叩いてくる。

「がんばってんなとは思ったけど。学年トップかよ」

「これ、面白い?」

 友達が変な顔を向けてきても、俺は考え続けた。今までの経験からだけでも、わかる。化身に確かめるまでもない。答えは決まっている。

 テニスの練習の比重を一気に増やした。一条との部活後の台本読みもなくなっていたので、少し遅くまで部活で残ることができるようになった。でも、前よりも部員との距離が開いたような気がする。部活後の買い食いや、レストランなどでのちょっとした集まりの誘いを断り続けているせいでもあるだろう。

 七月下旬、テニスの地区大会が始まった。一回戦目からいきなり、他校の二年生と当たった。こっちの三年生の上手い先輩とも練習試合を繰り返していたから、緊張はほとんどしなかった。最初の一セットは取られたものの、すぐに巻き返してこっちがセットを連取し、勝利した。  

 相手が手を差し出そうとして、固まっている。多分、俺が空を向きながら叫んだからだ。こんな感覚は久しぶりだった。かつての高校三年間、サッカーの試合で勝ってもこんな気持ちにはならなかった。こんな、あちこちに走り出して、中の熱を発射したくなるような気持ちには。

 休憩時間中、会場の外で涼んでいると、異様な雰囲気を持つ女性が近づいてきた。一条だった。つばの広い白色の帽子をかぶり、淡い水色のワンピースを着ていた。

「これ」

 渡してきたのは、レモン入りの炭酸ジュースと、カロリーの少ない雑穀クッキーだった。俺は喜びかけて、すぐに自分の精神を冷やした。

「ごめん、もらえない。俺、ジュースとかお菓子とか、食えないから」

「あっそ」

 一条はすぐにジュースを飲み、それからクッキーを素早く食べた。俺は苦笑しながらそれを観察した。今はそういう態度が、ちょっとだけありがたかった。彼女は太陽を眩しそうに見つめてから、俺の方へと向き直る。

「お疲れ。もういい。やることは終わった。部活、続けなくてもいい」

「いや、続けるよ」

「どうして? テニス、好きなの?」 

「違う、と思う。でも全国大会まで行けるどうか、試したい。面白くなるかもしれないから」

 すぐ隣で、笑い声が聞こえた。見れば、一条はいつものつまらなそうな顔でいる。後もう一瞬だけ早く見ていれば、笑顔が見られたかもしれない。

「好きにすれば? あと、夏休みに入ったら合宿するから」

「何の?」

「演劇部に決まってるだろ。予定、空けといてね」

「わかった、けど。テニスの大会の日程にもよる」

 その後二回戦、三回戦と危なげなく勝ち、次の段階に進んだ。

 県大会の当日、電車での移動の途中、俺は絞り出されるような感覚に襲われた。気がつけば、既に出発したはずの学校近くの駅にいた。

部員同士が集まって点呼を取ったりしている中、追いつめられたような気持ちで文字を探した。前の時と全く同じだ。それなのに、あの文字は現れない。何をすべきかもわからず、俺はまた電車に乗った。そして駅に戻された。それを五回ほど繰り返してから、ようやく黒い文字が出てきた。


場所:野岸市

行動範囲の拡張には二五〇〇点が必要です

持ち点:六点

条件が満たされていません


 さらに十回ほど抗ってから、俺は戻された直後の地点、地元駅のホームでテニスラケットを思いっきり床に叩きつけた。部活のユニホームを両手で引きちぎろうとして、途中でやめた。大勢が驚いている中、俺は顧問の先生の所まで行き、今日限りでテニス部を辞める旨を伝えた。

 夏休みは、こうして始まったのだった。



 サッカー部の奴が、知らない女子と一緒にカラオケで歌っている。すぐ横では男子同士が下ネタで盛り上がり、向かいに座る女子の一団に煙たがられていた。

「もっとも、歌えよ。俺が選んでやるから」

 周りがジュースやサイドメニューのフライドポテトなどを味わっているなか、俺は水を飲み続けていた。亮吾の気遣いを断るわけにはいかず、嫌な気分を吹き飛ばすようにして歌った。

「沙良も、歌いなよー」

「私?」

「男女のパートある曲入れたから、ほら」

「やめてよ、もう」

 沙良と一緒に、有名なラブソングも歌った。こういうのは、久しぶりだった。何も考えずに、ただ楽しいことだけをする。俺は自分が解き放たれていると思い込んだ。そうでもしなければ、耐えられない気がしていた。

 歌の順番が一回りしたところで、沙良が隣に座ってきた。

「久しぶりだね、こういうの」

「うん」

「なんか、安心した」

「何が?」

「もっとも、別人になったかと思ってたから。勉強とか部活も……、急に頑張り出したから」

「……ごめん。テニス部のこと、女子の方にも迷惑かけちゃって」

 俺がしっかりと目を合わせて少し顔を近づけると、沙良はさりげなく目をそらした。悪い意味ではない。口元は緩んだままだし、頬もちょっとだけ赤い。彼女はわかりやすかった。他の誰かたちとは違う。

「いいのいいの。ともがさ、楽しく今やれてるならそれで」

 彼女が俺の名前をちゃんと言う時は、多分雰囲気が良い時だけだ。何回か、かつては経験したことのある空気だった。なぜか俺は居たたまれなくなって、周りの方へと目を向けた。一旦カラオケは落ち着いて、皆雑談を始めていた。

「そういばえさ、もっともって、一条あいの家行ったことあるんだろ?」

「なんで知ってんの?」

「誰かが見たって。で、どうだった? 家の中もいい匂いした?」

 他の皆は笑った。女子の何人かは、やや高い声で「やだー」とか言っている。皆が楽しげにしている光景が大好きだった。大好きなはずなのに、どこかで同じように笑えない自分がいた。

 質問してきた奴が鼻白んだ顔になり、今度はやや声を潜めた。

「演劇部の奴らって、どうしてんの?」

「え、うーん、わからん」

 俺が困ったように笑うと、女子たちが勢いづいたように続けた。

「なんかさ、イメージと違ったっていうか」

「そうそう。一条あいって、素はあんな感じだったんだ。やばいよね」

「他の二人もさ、もっともとはちょっと違う気するよね。こう、合わない? みたいな」

 俺が黙っている間に、周りは次々と一条たちへの不満を言い始めた。最初は遠回しな表現が多かったが、やがて直接的な悪口が出てきた。

 あの時皆が見ていた。まず一条たちが暴れる、俺がやってきて、止めようとする。先生が来て、俺が全部自分のせいだと言う。どう考えても、俺が一条たちを庇ったとしか受け止められない。実際その通りだから、余計に始末が悪い。

 周りの生徒の矛先が、一条たちに向かうのも当たり前のことだ。俺はそれを予想することすらできず、闇雲に行動を起こした。彼女らを庇おうとして、逆に追い詰めた。安藤先生は、ちゃんとわかっていたに違いない。だからあんな……

 俺は我慢しきれなくなって、立ち上がった。

 雰囲気に乗らずただ少し困ったようにしていた亮吾と沙良も含めた全員が、俺を見てくる。気がつけば、ポケットから化身を取り出していた。そのいけ好かないパンダ顔に向かって、少し震える声で言う。 

「友達と、他の友達の悪口で盛り上がる」

 反応を待つまでもなかった。「ディックヘッド!」俺の声と、化身の声が重なっていた。周りには、俺の声だけしか聞こえていないだろう。

 千円札をテーブルに置いてから、俺は部屋の外に出た。途中で声が掛けられる。振り返れば、亮吾と沙良が追いかけてきていた。二人の方をあまり見たくなかった。考えないようにしていた疑問が、突きつけられてしまうから。

 どうして俺は、化身に言わないのだろう? 最初の時だってそうだった。一条あいと付き合う。その前に、沙良と付き合うことを評価してもらうべきではなかったのか。それだけじゃない。亮吾や他の、中学からの友達と一緒に面白くなる方法を考えるべきではなかったのか。

 確かめるのが、怖かった。なぜなら答えはもう知っているから。彼らとの三年間は、本当に楽しかった。面白かったと自信を持って言えるはずだった。でも評価するのは俺じゃない。そして俺にとって一番大事なものはもう決まっている。そのことを考えると、前まで楽しかったことが、素直に楽しめなくなる。こんなことしてていいのかと、考えずにはいられなくなる。

「ほんとにごめん。空気壊して」

 それしか言えず、俺は頭を下げてから彼らと別れた。クーラーの風が、いつも以上に冷たく感じられた。




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