なんか面白いことしろ
先輩に、サーブの細かいやり方を教わっている時だった。
「なんか、演劇部やばいことになってる」
そう言ってきたのはテニス部の同学年の男子だった。さきほどまで水を飲みに行っていたはずだった。
「やばいって?」
「流血してるって。安藤先生がすごく怒ってて」
嘘か本当かどうかは、言葉で確かめるまでもなかった。その生徒は怯えている風だったし、俺の中の予感めいた不気味な感覚が、来るべき時が来たと囁いてきていた。先輩に謝ってから校舎へと走り出した。
中に入り、階段を駆け上がる途中から、異常な雰囲気を感じ取っていた。いつもよりも明らかに、人の声の密度が高い。どくどくと頭の裏に血液が流れ出す感覚と共に、二階の廊下へと出た。
あまり、はっきりとした言葉は聞こえてこなかった。安藤先生は辻田の制服の裾を掴んで、一条から離そうとしている。一条は追撃を加えようと拳を振り上げていたが、途中で藤野に飛びつかれていた。一条の頬にはひっかき傷のようなものがついていて、藤野の方も口の端から出血していた。安藤先生に保護された辻田は、一番ひどい。眼鏡が割れて、その破片が顎のあたりにくっつき、傷を作っている。こめかみの辺りが赤く晴れていて、つぶれたような傷から血が流れ出していた。
一条が何かを叫んでいる。藤野が初めて聞いたような大声で叫んでいる。辻田も叫んでいる。何もわからなかった。周りの生徒のざわめきのせいではなく、ただただ俺の耳がおかしくなっているだけだった。それでも、安藤先生の声だけは届いてきた。空気を震わすような怒号が。
「お前たち全員、退学だ!」
一気に周りの光景が遠くなった。錯覚なんかじゃない。本当に俺は置いてかれていた。前の一点に皆が凝縮されていき、暗闇の部分が急速に広がっていった。容赦のない黒の中に取り残されるかと思ったその時、唐突に光が視界一杯に広がった。
テニスのラケットが、目の前で振られている。
「ボールは握るんじゃなくて、指で支える。トスが真っすぐ飛ばないと、いいサーブにはならないから。結局フォームが一番……」
サーブのやり方を教えてくる先輩。その顔はわからなかった。黒い文字と重なっていた。
なんか面白いことしろ
期間:八分
目的:三点以上の獲得
あと三回で死にます
俺の目はコートの隅に置かれたリュックへと向かっていた。文字はその動きについてくる。何度まばたきをしても、消えてはくれない。あちこちを見る。どこまでもついてくる。だんだんと呼吸が早くなってきていた。涼しいのに、背中を伝う汗の感触がはっきりと伝わってきた。
「倉下?」
痺れが右耳の裏を走り、首筋を通過して、左耳へと到達した。「倉下、おい、大丈夫?」声が二重に聞こえる。ごぼごぼと、泡みたいなものが口から空に上がっていく。こんなのは、幻だ。何度も喘ぐようにして呼吸した。先輩が体を支えてくる。
慌てて走ってくるような音。それは、俺のすぐ側で止まった。
「なんか、演劇部がやばいことになってる」
知らせにきた男子生徒の顔を、俺は見つめた。それもまた、文字で見えない。逃げ出したくなったが、足は動いてくれなかった。俺はコートの上に縫い付けられていた。何かを言おうと思っても、口も動かなかった。
校舎を見る。しばらくすると、それは歪んで消えていった。暗闇がまた大きくなり、そう時間がかからない内に、光が戻ってくる。
俺はようやく息を吐き出した。
なんか面白いことしろ
期間:八分
目的:三点以上の獲得
あと二回で死にます
近くで誰かの声がする。それが耳に届いた瞬間、俺は走り出していた。怒ったような声が背中を突いてくるが、構っていられない。何をするべきなのか、ほとんどまともに考えられないまま、校舎の中へと向かった。
階段を上る途中で、同じく急いでいた誰かと擦れ違う。「あ、倉下」何回か聞いた声のような気がするが、それもまた無視した。
演劇部の部室の前では、既に大勢の生徒が集まっていた。一条が朝の番組に出演した日よりも多い。その中には、亮吾もいた。俺を見つけると、慌てるようにして駆け寄ってくる。
「もっとも、やばいってあれ……」
俺は彼をほとんど見ることもせず、鍵がかかっていないはずなのに誰も開けようとしない扉に手を付いた。壊れるかどうかなんて気にすることもせず、乱暴に横へスライドさせた。
戸口で俺は固まった。「だから、なんでこれがだめなんだよ。死ね!」藤野が椅子を横に投げつける。机にぶつかった。「だめなものはだめ。私には合わない。不合格」淡い水色のワンピースらしき服が、窓から外に投げ捨てられた。「死ね性格ブス!」「うるさいブス」辻田がいらいらしたように立ち上がった。「やかましい。喧嘩するなら外でやれよ。響くんだよ声が。キーキーわめきやがって」一条が辻田の足を蹴った。「黙れ。シコって十本書けよ無能」「理由を言えよ理由を! どこが面白くないんだよ。うんざりだ性格不細工。お前が書けよゴミ」「甘ったれたこと言うなよ。死ねば? ママのおっぱいでも吸いながら書けば、燃やすのにちょうどいいくらいにはなるかもな」「死ね。台本読むだけのお前に何がわかんだよ」藤野が辻田の椅子を蹴った。「うるさい! メガネもうるさいじゃん。コミュ障のくせにわめくの、キモいからやめろ」「はあ? お前に言われたくない。ここ以外でどもりまくりのくせに。ギャップでも狙ってんのかクソギャル」「死ね!」「くたばれ!」「黙って作れよ無能共!」
俺は、一歩下がった。完全に圧倒されていた。自分が、小学生になったような気分になる。小学五年生の時、母さんと父さんが喧嘩した。些細なことが原因だったはずだ。父さんが謝ってすぐに終わったけど、それは見ていた俺がひどく泣き出したからだった。だって、好きな人同士が嫌い合うことほど、拷問に近いものはないと思ったから。
さらに下がった俺とすれ違うようにして、安藤先生が入っていった。俺は顔を両手で覆って、何も見えないようにした。音だけで、一条たちが先生にも手を上げたことがわかった。部外者は入ってくるな。皆、そう叫んでいた。
手で視界を塞いでいたはずなのに、気がつけばラケットが見えていた。
なんか面白いことしろ
期間:八分
目的:三点以上の獲得
あと一回で死にます
俺の体は、横に傾き始めていた。倒れるのかな。足だけは素早く動いていた、倒れる時の勢いのまま、俺は走り始めた。両手足がばらばらになっている。少しも前に進んでいない。空間認識が飛ぶ。いつの間にかコートの端まで来ていた。自分のリュックを開けて、震える手で化身を取り出した。
「おい、おい!」
『ディックヘッド!』
「どう、すれば。どうすればいい。何をやればいいんだよ!」
『ディックヘッド!』
化身をベンチの方に投げた。空中で止まる。化身は嘲笑を浮かべながら、俺のリュックの中へと戻っていった。
すがるように、リュックへと手を突っ込む。化身は役に立たない。とにかく時間がない。指の先に固いものが当たった。それを掴み、一気に引き出す。手のひらで簡単に覆えるほどの大きさしかない白い長方形が、俺を見上げていた。
コート内の注目が、全て俺に集まっている。これではいけない。校舎に向かって走り出した。玄関で靴を脱ぎ捨て、一階のトイレへと入った。幸い個室は開いていた。飛び込むようにして中に入り、鍵を閉める。
俺は白い小さな箱を両手で包み込んだ。中に入りたい。入らせてくれ。そう願った瞬間、全身が無理やり絞られるような感覚に陥る。視界の移り変わりは一瞬のことで、瞬きする間もなく俺は白い空間の中に立っていた。
残り時間:二一六分
つまり、三時間三十六分。これは、六分の三十六倍だ。
呼吸を整えながら、俺は周りを見回した。壁や天井はない。確かに立っているはずなのに、床も見えない。吐きそうになって、その場に座り込んだ。もしかしたら今自分は、落ち続けているのかもしれない。自分以外に何の輪郭も存在しないのは、とても気持ち悪かった。
今まで何度も、使ってみようと思う瞬間はあった。だが化身とは違い、この時間拡大収納空間ははっきりと自分に影響のあるものだ。こういう時じゃないと、使用に踏み出せなかった。
座る俺のすぐ横に、化身が立っている。どこまでもこれは付いてくるようだった。
ようやく呼吸が正常になってから、俺は考え始めた。どうするべきか、まるでわからない。こんな、急に何かが試されることになるとは思ってもいなかった。タイミングを考えれば……、
「一条あい、辻田大志、藤野璃々の喧嘩を止める」
『ディックヘッド!』
俺は頭を抱えた。何かを解決するべきだと示されたわけじゃない。要求は、「何か面白いことをしろ」だ。あんな状況で、どう面白くなれというのだろう。
この空間で三十六分経つと、現実世界で一分が経過する。三時間半も使ってはいられない。現実世界で行動する時間も考えれば、あと三十分程度しかここにはいられない。あと一回で、面白いことをしなければいけない。もう失敗はできない。
俺は目をつぶった。白で塗りつぶされた空間を目にしていると、頭がおかしくなりそうだったから。色々な形のない思いが現れては消えていった。美晴の姿が一番大きかった。今考えてはだめなのに、次第にそれしか思い浮かばなくなった。
文字を見る。既に二十五分が経過している。良い案は思いついていない。これ以上考えても、無駄かもしれない。もう、美晴のことしか考えられなくなっている。
化身を睨みつけた。思えば、こいつの評価に頼りきっていたことが多いような。そのせいで、選べなかった行動もたくさんある。偉そうに評価するだけで、代わりの案を出してくれるわけでもない。今はもう、自分の感覚だけを信じるしかなかった。とにかく一条たちを止めて、演劇部が無事に存続するようにする他ない。
一度大きく深呼吸してから、俺は周りを見回した。ここから出してくれ。そう念じると、すぐに絞り出されるような感触がやってくる。トレイの閉じた便座の上に、俺は立っていた。素早くトイレから出て、目的の場所へと向かう。階段を上りきったところで、これまで二回知らせに来てくれていたテニス部の男子とすれ違った。
集まっている生徒達へと突進し、無理やりかき分けていく。亮吾が何か声をかけてきたが、それも無視した。扉に手を叩きつけてから、勢いよく横に開ける。
「やめろ!」
前とは、やや形が違っていた。藤野が一条にビンタしている。「顔は狙わないって思った? 全部メイクでごまかしてやるから、傷なんていくらでもつけてやる」「お前は、全身傷だらけでいいな」一条が体格を利用して、藤野を押し倒した。我慢ならない様子で立ち上がった辻田が、座っていた椅子を持ち上げて、振り下ろそうとする。
「やめ……」
誰も俺の声なんて聞こえていないみたいだった。言葉じゃない手段で止めるしかない。
俺が走り出した瞬間、辻田が椅子を投げた。誰も狙ってはいない。ただ音を出して驚かせたいだけだったのだろう。ほとんど飛んでいなかった。転がった椅子が机を動かし、さらにその先の椅子の位置をずらした。それとは全然関係ない所にある椅子に、俺はつまづいた。
視界が回る。直後、頭に大きな衝撃がやってきた。脳内で爆音が走る。視界が揺れて、ぼやける。痛がっている場合じゃない。本当に時間がない。どうにかしなければ。
だが既に騒ぎは収まっていた。あれだけお互いの世界に没頭していた一条たち三人は、俺を見てきている。
藤野が、真っ青な顔になっていた。
「あた、頭……」
目の前に、赤い幕が下りてくる。俺は右手で額に触れた。激痛と共に、温い液体の感触がした。辻田が机にぶつかりながら、こっちに近付いてくる。ポケットからティッシュを取り出し、俺の左手に押し付けてきた。
「おい、血。止めないと」
彼がはっきりと動揺しているのは、初めて見る。
「やめろよ、お前ら。喧嘩するの」
「救急車! 救急車呼ばないと」
藤野が叫んだ。腑に落ちない。なぜ、今までの喧嘩がついでのように扱われているのか。俺は浮かんでいる文字を見た。まだ何も変わっていない。まだ終わっていない。
「何してるんだ、お前ら!」
怒号がした。見れば、安藤先生が教室の中に入ってきている。かつての高校での三年間、今の高校でのおよそ三週間、見たことがないほど怒っていた。俺の方を見ると目を大きく開いた。早足で近づいてくる。
「お前ら、倉下に何をした?」
その声は、やけに頭の中で響いていた。安藤先生の矛先は、一条たちに向けられている。時間がない。俺には、全く怒りを向けてきていない。時間がない。もう失敗できない。穏便に収めなければ。
「違うんです先生」
自分の言葉が、曖昧だった。ちゃんと聞こえていない気がする。さらに顔を拭った。赤色がすごく気持ち悪い。
「倉下、保健室に」
「俺が全部わるいんです」
ざわめきが一切聞こえなくなった。俺の耳が親切にしてくれた。
「俺が皆に喧嘩売って、勝手に転んだだけなんです。一条も辻田も藤野もわるくありません」
安藤先生だけを見ていた。そうするしかなかった。先生は腕を組んでいた。直前までかなり取り乱していたみたいなのに、もう落ち着いている。
「保健室に」
「俺がわるいんです。俺が」
「保健室に行け。いや俺が連れて行く。処分は後で伝える」
「俺の処分ですか?」
「こいつらの処分だ」
俺は一歩、安藤先生に近付いた。少しだけ、こっちの方が背が高い。それでも迫力はあった。怖くはない。そんなものを感じる余裕はなくなっている。
「こいつらは、何もしてません。俺がわるいんです」
「じゃあなんで、一条と藤野が取っ組み合ってた? 辻田が椅子を投げた?」
「一条と藤野は、俺がふっかけました。辻田はそれを止めようとして」
まだ文字は消えていない。時間がない。とにかく演劇部が、この先も続くように……
「俺が悪いって言ってるでしょう。処分は俺だけにしてくださいよ」
「目撃者が多くいる。お前の嘘は誰のためにもならない。いいから行くぞ。まだ血が」
安藤先生が目の前にいる。近づいてきてる。いや、俺の方から近づいたのか。すごく、邪魔だった。スモーキンセクシーベイベーなのに、終わらせるのは間違ってる。先生は終わらせようとしてる。ありえない。
「倉下、聞け」
「先生こそ、話聞いてくださいよ。俺が悪いって」
「いいから出ろ! お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」
まともに話そうとしてくれない。こっちはすごく真剣なのに。美晴の姿が重なる。どんどん大きくなってくる。あと何分だろう。何十秒かもしれない。もうカウントダウンが始まっているかもしれない。
時間がない。
「俺が悪いんだ。聞いてくださいよ!」
俺の手が先生の胸ぐらをつかんだ。右手が動き、勝手に先生の頬を叩いた。
今度は、本物の沈黙だった。
「あ……」
これは俺の声だろうか? いつの間にか先生から離れていた。さっきのは幻? いや、右手には強く残っている。少しざらざらした肌の感触。安藤先生の頬を叩いた感触。これほどまでに、大勢の視線を意識したことはなかった。静寂に、押しつぶされそうになることも。
安藤先生は、冷静な顔をしていた。頭を掻く。斜め上を見て、ため息をついた。
「いいんだな?」
首を縦に振ってから、記憶が曖昧だった。とにかくその後無理やり保健室に運ばれて、包帯をたくさん巻かれたことは憶えている。誰とも話さなかった。誰の目も見なかった。しつこいほどついてきていた文字が消えていることにも、学校を出てから気づいた。
家に着いてから俺は考えた。今日は金曜日だし、明日は学校に行かなくてすむ。さすがに一日で気持ちを切り替えるのは無理だった。そして土曜日になって、学校側から書類で通知がきた。何とか美晴には見られずに、自分の部屋で開くことができた。要約するとこんな感じだった。倉下ともを五日間の停学処分とする。