不公平だ
野岸南高校は、髪や化粧に関する校則がない。生徒の自主性を重んじているのだという。こういうのはルールがなくてもある程度自制できるような優秀な生徒が集まる、高い偏差値の高校ならではらしい。だがこの高校はその例に当てはまっていなかった。
校則に違反していなくてもいかがなものかと職員室内で審議されたが、結局安藤先生が認めたことで不問になった。教頭先生や校長先生まで出てきて、記念撮影を行うことになった。藤野が喜んでいなかったら、俺は精神的に死んでいたかもしれない。
解放された直後、安藤先生が俺と藤野を見比べてきた。
「お前がクラスメートのために体を張れる奴だというのはわかった。褒美として、学校が終わるまでその恰好でいることを許す」
「罰ですよね」
とはいえ、俺としても元に戻すつもりはなかった。少なくとも昼休みまでは。だから、色んな奴らに撮られたり、爆笑されたり、囲まれて肌を触られても、我慢した。授業が始まる度にやってきた先生からツッコミが入るので、いつもよりもずっと浮ついた雰囲気のまま学校の時間が過ぎていった。
「じゃあ、サッカー部は入んねえの? ともかちゃんは」
隣のクラスからも、色々やってきた。特に亮吾は、休み時間になる度に笑いにきた。こいつは黒い短髪のよく似合う爽やかなスポーツマンタイプの見た目だから、よく知らない女子からもペアで写真を撮るように要求された。
「黙れ」
「声出さないと完璧なんだけどな。で、もっとも。マジで演劇部の方に力入れるって感じ?」
亮吾は真面目な顔になっていた。俺は離れたところで質問攻めに合っている藤野を見てから、控え目に頷く。
「そうなるな。ごめん」
「あやまんなって。やりたいことやれよ。なんか、お前がちゃんと元気になって良かったわ。俺も一条あいに股間蹴られてえなー。あ、今のお前は玉ないから大丈夫そうだな」
「やかましい。あれマジで痛いんだぞ」
「うまいことそれで他校の女子釣ってくれよ。頼む! ともかちゃん」
「お前が女装してやれ」
亮吾は笑いながら帰っていった。俺はどこかほっとしていた。ちゃんとあいつと話すのは久しぶりだったから。言葉は最悪だが、気を遣ってくれているのはよくわかる。入れ替わるようにして、ボブヘアーの女子が教室に入ってきた。「もっともー」と手を振り、沙良はいきなり髪や頬を触ってくる。
「やばすぎ。どんなメイクしたの? 女子以上に女子じゃん」
「触られ過ぎて、そろそろ剥がれるかも」
沙良は髪を触ってから、そのまま触った右手を口元に持ってきて、くすくす笑った。正直、懐かしい気分だった。この笑い方を一番よく見たような気がする。ぼうっと考えていると、いつの間にか沙良が笑みを収めていることに気がついた。
「話すの久しぶりだね。中学の卒業式後の、集まり以来?」
「……そうだな」
「亮吾も言ってたけど、私も安心した。もっともさ、なんかあったら私たちに言いなよ? 解決は、難しいこともあるかもしれないけど。一緒にカラオケとか、行ってあげるから」
彼女は涙目になっていた。俺もこみあげてくるものがあった。かつて、こういう友達の明るさをありがたく思う瞬間がいくつもあった。今回も、助けられることになるかもしれない。沙良は胸が一杯になった様子で、俺に小さく手を振ってから出ていった。
まだまだ俺にからもうとしてくる奴らがいたが、その対応を中断して教室を出た。藤野はちゃんとついてきたが、もう一人は教室の戸口で止まっている。
「行くぞ」
辻田は無言で見てきている。思えば、クラスの中で唯一と言っていいくらい、今日俺に話しかけてきていなかった。
人差し指が藤野に向けられる。
「そいつ、なんだよ」
俺の背中に回り込みながら、藤野が辻田を睨んだ。
「朝言っただろ、藤野。演劇部に必要な人材」
「こんなギャルっぽい奴が? 大丈夫なのか? 部費盗んだりしない?」
「あんた勉強しかできなさそうな見た目してるけど、ほんとに脚本書けんの?」
「ああ?」
二人が喧嘩しかけていることも気になったが、それよりも藤野が平然と言い返していることに驚かされた。彼女は俺のメイクのことで大量の女子に話しかけられていたが、ことごとく会話に失敗していた。
「藤野、平気なのか?」
「え? ああ。こいつメガネだから大丈夫」
「どゆこと」
睨み合う二人の間に挟まれながら、目標の教室まで移動した。朝、靴箱に入っていた手紙。殴り書きの字で、昼休み二階の空き教室で待つと書いていた。
教室の中に入ると、一条が座って待っていた。
すぐに藤野が舌打ちする。
「くそ、負けた。素材が良すぎる。あんた、学校で二番目の美女になっちゃった」
「別にそれでいいよ……」
一条は椅子から立ち上がり、近づいてきた。主に俺をじろじろと見ている。確かに、女性としての見た目で彼女に勝つのは難しいと思った。まず顔が小さすぎるし、手足の細さと肉付きのバランスも完成されている。
俺に向かって右手を伸ばしてきた。
「ポートフォリオ。さっさと出せ」
「お菓子か何か?」
ちげーよインポ、と言ってから、ぞんざいに藤野と辻田を順々に指差した。
「作品集のこと。じゃないと評価できないでしょ」
「あ……」
完全に失念していた。二人をどうにかしてここまで連れて来ることしか考えていなかったから、俺は頭が真っ白になった。横では、辻田と藤野がお互いに顔を合わせていた。
「教室戻って取ってくるか」
「こうなると思った。メガネさ、意外と準備いいじゃん」
「お前もな」
辻田と藤野は空き教室を出て行った。彼らが戻ってくるのを待っている間、俺は気づまりな空気に耐えなければいけなかった。一条は舌打ちを連発して、腕を組みながら俺を見続けていた。女装のままだったから、なおさら居心地が悪かった。
三分くらいで、二人は戻ってきた。一条がすぐに見始める。辻田のものは印刷された用紙をホチキスで留めただけのもので、一条はそれなりにじっくりと読んでいた。それから藤野が持って来た紙のバックから紫色のレース付きドレスやら俺にはキラキラしてるとしか表現できないネックレスやらを見て、何度か頷いた。
一条は、挑戦的な笑みを浮かべて、辻田と藤野を交互に見た。
「いいんじゃない? 高校生にしてはすごすぎる。一緒にやってもいい」
俺は安心して、息を吐き出した。だが横を見ると、辻田と藤野は一条を睨みつけていた。その二人の視線に臆することなく、一条はそれに応えている。俺は一瞬、この教室から出て、深呼吸したくなった。
「それから……」
一条は途中で言葉を止める。その目は無言で手を伸ばした辻田に向けられていた。
「何?」
「不公平だろ。試されるのが僕たちだけって。その台本の裏表紙に、四つのシチュエーションが書いてある。今この場で演じてほしい」
「変なのが書いてあると思った」
辻田は眼鏡の奥の視線をさらに鋭くした。
「俺は一応、お前をテレビで見たことがある。映画もちょっと。でも、生は知らん。意外とたいしたことないのかもしれない。証明しろよ、今この場で」
俺は辻田の股間を守るべきかどうか迷った。だが、一条は動かない。むしろ面白そうに笑みを深めて、紙の束をひっくり返していた。
「ふーん。じゃあやるから。机動かしてくれない?」
「五分くらいは役作りの時間やれるけど?」
「次無駄なこと言ったら、その眼鏡叩き割るぞ」
誰も動き出そうとしないので、結局俺が準備することになった。机を動かして、演技できるだけのスペースを確保する。なんてことのない教室の中の一空間なのに、そこに一条が立つと、舞台の上であるかのように感じられた。
一条が台詞を発し始めた瞬間から、彼女は全く別の人間になった。俺は様々な人間が現れては消えていくのを眺めていた。初恋を自覚した中学生が、両親の仇を殺そうとする軍人が、お腹の子供を守ろうとする舌のない娼婦が、満たされた顔で死んでいく老人が、それぞれの感情を生々しく放っていた。彼女の動きで椅子が転がり、机が押し出された。鮮やかに頬を染め、唾を飛ばして憎しみを叫び、見えない誰かを抱きしめながら涙を流し、満たされたような笑顔を最後に俺の頭の中へと刻み込ませた。
一瞬静かになってから、一条はようやく水面から上がってこられた人のように息を吸い込んだ。懐からハンカチを取り出して涙を拭い、自分の頬の温度を確かめるようにして右手で触ってから、頭を穏やかに左右に振った。
前髪を横に流して、彼女は辻田へと向き直った。
「それで?」
「もうわかるだろ」
辻田は俺の方を親指で示してくる。
俺は、腰を抜かしていた。今見たものは、ただ見たものじゃなかった。だってそれは思いっきりぶつかってきたし、俺を逃がさないように包み込んできた。容赦なく胸の中へと入り込んで、色々な所を突き刺してきた。一条の演技はどんな感情を表現していても、奥底に楽しさがあった。これ以外何もいらないという、強い思い。胸を容赦なく締め付けてくるような切なさを感じた。これで。両手で顔を覆う。これで美晴を守ることができる。もうこれ以上……。
辻田が腕を組んで、俺に皮肉気な笑顔を向けてくる。
「また泣いてる。倉下ってすぐ泣くよな」
「あたしの部屋でも泣いたしね。泣き虫だ」
「あ? なんだそれ。初めて聞いた」
「あんたには関係ないでしょ。待って、メイク落ちる」
藤野は俺の涙を拭き始めた。その助けも借りながら、五分くらいかけて俺は何とか落ち着くことができた。一条へと向き直る。
「じゃあ、とりあえず職員室に」
俺は途中で止めた。一条が、右手をまっすぐ伸ばしてきていた。彼女がそういうのを求めるのは意外だと思いながら、左手を出す。握手しようとして、思いっきりはたかれた。俺は首を傾げてから、また伸ばす。もっと強く叩かれた。
「いった。なに、なぜ?」
「お前は? まだ、お前のこと見せてもらってないんだけど」
「俺? 俺は、だって、ちゃんと人を集めて」
「だから何? 演劇部なんでしょ? ならそれに関係することで、お前の能力を示してよ」
「ちょ、ちょっと一条、それは」
藤野が助け舟を出そうとした瞬間、一条は近くにあった椅子を蹴った。机に背もたれの部分がぶつかり、大きな音を立てる。
「今こいつと話してるの。黙ってろ。で? お前は何ができるの? さっさと言え」
再び一条の強い視線にさらされる。
地元大学のAO入試の時にあった、面接のことを思い出していた。貴方の強みは何ですか? そう訊かれた時、仲間と協力できることですと答えたのを憶えている。サッカー部に三年間入っていた経験をもとに、すらすら話せた記憶がある。だが、これは違う。もっと別の何かだ。少しでもずれた答えを言えば、全て終わってしまう。そんな予感がした。
一方で、それの一体何が問題なのかと思っている自分もいる。化身の最高評価に値することはもう達成した。十分がんばったと言えるのではないか。あとは彼女たちに任せておけば、簡単に面白くなってくれるだろう。だから、自分の役割はここで終わりだ。
そう思っても、声が喉を通って口から出ていくことはなかった。
俺は周りを見た。辻田は腕を組んで、一条と同じような目で見てきている。藤野は何か言いたそうだったが、言わないということは結局他二人に賛同しているようなものだった。取り残された気分になる。目の前の光景が、急に遠くなっていった。
一条は下から俺を睨んでいたが、やがてため息をついた。俺の横を通り過ぎて、教室の出口へと向かう。
「行くぞ。この学校、三人から部活作れるはず」
「待てよ」
俺が呼ぶと、一条は止まった。振り返ってはこない。
「俺、俺は、何でもやる。やるからさ。言い出しっぺも、俺だし。やっぱり……」
「何でもって、世界一安っぽい言葉だから。知らなかった?」
「お、俺には、時間がある」
「そんなの皆持ってる。皆その貴重な資源をやりくりしてる。お前に消費する分はもうない」
「たくさんあるんだ」
「すごいすごい。あとで私にも分けろよ。もう二度と会わないけど」
「三十六倍!」
重い沈黙が漂った。辻田と藤野は間に合わせの冗談を聞いた時のような戸惑いを顔に浮かべている。俺はそれらを吹き飛ばすように続けた。
「俺には普通の人の三十六倍、時間がある。一条にやる。いくらでもやってやる。だから、俺もやりたい。一緒にやりたい。頼むよ」
伏せていた目を上げる。一条は既に振り返り、前かがみになっていた。女子の上目遣いは大体可愛さが増すけど、彼女の場合は獰猛さが増していた。
「言ったな?」
「ああ」
「忘れるなよ。嘘だったら殺すからな」
俺は大きく頷いた。一条もまた頷いてから、足を動かし始める。
「おい、ちょっと。一条の本業との兼ね合いは?」
辻田は直前まで固まっていたが、抜け目なく言ってきた。
「忙しいは忙しいけど、大丈夫。スケジュールの調節くらい、なんてことない」
「短い稽古時間でもできるってことはさっきわかったから、文句ないけど」
「他に質問は?」
辻田、藤野と首を振る。最後に一条は俺を見てきた。
「俺? 特には」
受け入れられたという感動が、既に俺の全身を駆け巡っていた。痺れのようなものが頭にやってきて、まともに言葉が出せない。そのふわふわした状態を、一条の視線が引き裂いてきた。
「本当に?」
低い声で言ってくる。俺は一条の大きな瞳から逃げられなくなっていた。彼女は歩き出そうとしない。俺の前に留まっている。なぜ? まだ何かが足りない? 俺の頭の中で、化身が飛び回る光景が流れた。それから、縄。電灯から吊り下がるスーツ姿の体。飛び出した目。紫色の……
辻田の先ほどの言葉が、勝手に俺の口をこじ開けた。
「不公平だ」
初めて自分から一条を睨みつける。美晴の声が、耳の裏で響く。
「俺は、俺の時間を一条にやるって言った。たくさんの時間を。なのに一条は、片手間にやろうとしてる。そんなの不公平だ。一条の時間もほしい。たくさんほしい。だから……」
途中で喉が詰まった。一条は歯を剥き出しにしている。獰猛な笑みを浮かべている。彼女の鼻先が、俺の顎の先に触れかけた。いい香りがしたのに、それがさらに迫力を伝えてきた。すぐに彼女は顔を引いて、スマホを取り出した。操作してから、左耳に当てる。
「ママ、聞いて。明日のイイアサステーションの出演あるでしょ? それ最後に、私仕事しないから。とりあえず一年くらい。だめ。もう決めたの。だめだから。全部キャンセルして。落ち着いてよ。冗談じゃない、本気だから。理由? 高校でプレゼンされたから。とにかく、そういうことで。なに? 男? ……いるけど。でもインポとメガネだから大丈夫。そういうことだから。うん、うんわかってる。ちゃんと謝りに行く。じゃあね、もう切る。また」
電話している間、一条は俺しか見ていなかった。その目は据わっていた。
一条は制服から、小さな機器を取り出す。そこについているボタンを押すと、声が出てきた。全部俺の声だった。『何でもやる。やるからさ』『いくらでもやる』『一条の時間もほしい。たくさんほしい』これみよがしにボイスレコーダーを振ってみせてから、しまった。
まだ動けないでいる俺に、一条は再び近づいてきた。リップが塗られた俺の唇よりも潤いのあるそれが、左耳にほとんど密着する。ドスの効いた声が脳を貫いてきた。
「番組出演十本、ドラマ四本、CM五社、映画三本。これ全部より、面白くなるんだよな? ならなかったら、私とママでお前を念入りに殺してやる」
職員室で部創立の打診、顧問教員の確保、生徒会への報告、企画書の提出、生徒会の認証、全てが爆速で終わった。誰のおかげかは明白だった。創立四十二年を迎える野岸南高校、その歴史上初となる演劇部の設立が成功する間、ずっと考えていた。あんな十五歳は存在しないと。