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天才! 千年に一人の逸材!

放課後にまた生徒指導室。もはや安藤先生に呼ばれても、あまり怖くなくなってきていた。一応辻田に同行を願ったが、すぐに拒否された。仲良くなったばかりなのに、ひどいと思う。

 予想に反して、説教はほとんどされなかった。その代わり質問が多かった。一条との関わりについてや、演劇部についての発言が本気かどうか。しつこいくらいに繰り返し訊かれた。

「一条に何か嫌われるようなことをしたわけじゃないんだな?」

「当たり前じゃないですか。キスとかも彼女の嘘ですよ」

「それは知ってる。逆にお前が、一条に何かされていることもないんだな?」

「別に。俺から仕掛けてるだけです」

 安藤先生は、眉間に皺を寄せた。正直怖いが、怒っているというよりは何かを深く考えているような様子だった。

「辻田とも、仲良くなったのか?」

「まあ。昨日からですけど」

「クラスの他の奴らとも話してるか?」

「まあぼちぼち」

「家ではどうしてる?」

「どうって、妹と一緒にゲームしたり……」

「倉下、大丈夫か?」

 すぐに答えようとして、喉の辺りが固まっていることに気がついた。安藤先生の頬の辺りを見る。それから徐々に視線が下がっていった。大丈夫か。その急に優しくなった声が、やけに頭の中で大きく響き続ける。

 俺は軽く笑った。

「いつも通りですよ。大丈夫です」

 安藤先生は真摯な顔から、ゆっくりと笑顔になっていった。

「そうか。なら倉下は、元気があり余っているということだな」

「そうですそうです」

「じゃ、行ってもらえるか?」

 軽いファイティングポーズを作ってみせた俺の前の机に、茶色の封筒が置かれた。かなり膨らんでいる。

「窓際の奥の方の席、空いてるだろ? まだ一度も登校してきてない生徒。必要なプリントを届けてほしい。お前の住んでるとことそんなに離れてないから」

 宛名の方を見れば、藤野璃々と書かれている。名前は「りり」と読むのだろうか。うっすらと記憶を刺激されるものがあった。確かにそんな名前の女子生徒がいた。一年生の終わりに退学したという話だったが、今の今まで忘れていた。同じクラスだったとしても、関わりがないどころかそもそも学校に来ていないのなら、憶え続けていることは難しい。

 俺は自分のリュックをちらりと見てから、頷いた。

「わかりました。届ければいいんですね」

「お願いな」

 あまり安藤先生の方を見られないまま、俺は生徒指導室を出た。

 教室には戻らず、真っ直ぐ玄関へと向かった。まだ部活の準備をしている生徒や、雑談している生徒が廊下に残っている。その大体の者たちからくすくす笑いで見られたり声をかけられたりした。あの場にいなかった生徒にも、話が伝わっているようだ。外に出ると、辻田が仏頂面で立っていた。俺に気がつくと面倒そうに近づいてくる。

すぐに辻田に向かって頭を下げた。

「ごめん。まじで」

 辻田は落ち着かなげに眼鏡をいじった。

「びっくりさせんなよ」

「勢いが大事だったというか。巻き込んでごめん。急だったよな」

「別にいいけど」

「そういうことで、いいってこと?」

「いいんじゃねえの? 面白そうだし」

 俺は歩きながら、辻田のことをじっと見た。「三年前」の辻田と、今の辻田。同じはずなのに、まるで違う存在のように思える。

「辻田は、なんでクラスでは話さないの?」

 彼は鼻で笑った。眼鏡の奥の意外に大きい奥二重の目が細まる。

「馬鹿にしてんのか?」

「そういうわけじゃないけど。だって、俺とは普通に話すじゃん。わりと面白いし」

 は、とさらに捻くれた感じで笑った。

「僕の気分の問題じゃん、それって」「でもさ」「うざい奴だなお前」「もったいなくね? なんか」「うざくてキモいわ」「ひど」などという会話をしながら下校した。辻田と途中で別れ、目的の家へと向かい始めた。

 リュックから化身を取り出す。

「藤野璃々を学校に来させる」

『ビューティフル!』

 思わず化身の顔を覗き込んだ。目元をくしゃくしゃにした、満面の笑み。

「高校生だけで世界一周旅行」

『ディックヘッド!』

 表情がすっぱいものに変わる。本当に基準がわからない。

安藤先生の言っていた通り、藤野のアパートは俺の住んでいる所とそう遠くない場所にあっ

た。封筒の裏にわかりやすい手書きの地図があったので、辿り着くのは簡単だった。

 外階段を上りながら、ひたすら考える。藤野璃々は、中学二年生のころから学校を休みがちになり、ぎりぎり中学校を卒業できるくらいの日数しか来なかったという。そして高校が始まってから二週間と少し。まだ一度も登校していない。その状況を、果たして自分は変えられるだろうか? よくあるドラマのように上手く行くとは思えない。

 二階の一番奥にある部屋の前に付いた。二一二号室。その表札を見て引っ掛かりを感じた。藤野菜々実、園忠輝ときて最後に藤野璃々。横書きの名前が縦に三つ並んでいる。最後の名前だけは上二つの立派な字とは違い、荒かった。無理やり掘ったみたいだ。特に璃々の「璃」の右部分が、かなりつぶれて見にくくなってしまっている。

 インターホンに人差し指を置いたまま、少しの間固まった。頭の中で勝手に藤野璃々の生活が形作られていく。それはあまり気持ちの良いものではなかった。その想像に押されるようにして、指が動いていた。

 インターホンが鳴って少ししてから、声がしてきた。

『はい? どなた?』

 気だるそうな女性の声。俺はインターホンのカメラから目をそらさないようにした。

「藤野璃々さんの同級生です。プリントとか届けに来ました」

『ご苦労さま。そこのポストに入れといてくれます?』

 ですよね。でも、それではだめなような気がした。ここで引けば、決定的な遅れになる。そういう感触を拭うことがどうしてもできなかった。

 インターホンが切れそうな気配を感じ、俺は顔をそこへとさらに近付けた。

「あの」

『……はい?』

「俺、なんというか、その。藤野璃々さんと話がしたくて。ずっと気になってたというか」

 俺やばくね? とも思わないでもなかったが、もう既に口から出てしまっていた。沈黙している通話口に向かって、やぶれかぶれの気持ちで続ける。

「先生とかに言われたからとか、そういうのではなくて、とにかくそちらの娘さんと会ってみたいんです。あ、いや、変なことしたいとかそういうのもなくて。なんか、とにかく、俺にもできることがあるんじゃないかと……」

 後半の方の声は自分でも情けなくなるくらい小さくなっていった。少し前にも、こんなことがあった気がする。今すぐにでも逃げ出したい気分になったが、足は動いてくれなかった。ここにいろと主張している。

 どれだけの時間がたったのかわからないくらいになってから、突然やや低くなった声が聞こえてきた。

『まだいる?』

「あ、は、はい。います」

 インターホンが切れた音がした。俺は一歩下がってから、周りを見回す。他人から怪しまれない位置で、待ち続けるべきだろうか。まだ五時にもなっていない。あと一時間くらいは耐えられる。そう覚悟を決めた瞬間、目の前の扉が開かれた。

「わお、背でか」 

 戸口に寄りかかっている女性。茶髪を後ろでまとめ上げ、赤い眼鏡を掛けていた。その奥の目はじろじろと俺を見てきている。

「ど、どうも。倉下ともと言います。一年B組です」

「はーい。ご丁寧にどうも。上がれば?」

「いいんですか?」

「会えるかどうかはわからないけど。あの子次第」

 ピンク色のジャージ上下を目に入れながら、俺は彼女についていった。多分この人が、藤野菜々実だ。あまり母親のようには見えない。靴を脱いで、横に並べた。他には赤いサンダルと、低めのヒールがついたブラウンのブーツしかない。

 廊下を進んでいく度に、妙な懐かしさが強くなってきていた。匂いのせいだろうか。初めてくるところなのに、昔から知っていたような気分になる。気づけば胸の奥にまで入り込んできて、容赦なく締め付けてくるような。

 ドアノブ付きの扉が開かれて、リビングに入る。すぐに菜々実さん(仮)が横の部屋の扉に顔を向けた。

「りりちゃん、学校の子来てるよ。しかも高身長男子! 倉下ともくん。話したいんだって」

 学校に来られていない女子に対するような言い方ではない。自分の娘が恥ずかしい思いをしないかとか、この人は考えないのだろうか。急にこちらを見てきたので、慌てて笑みを作った。

 返事がないまま、菜々実さん(仮)はテーブルの横の椅子に向かった。途中で台所とリビングのテーブルの間にある壁台から灰皿を取り、その中にあった燃えかけの煙草をくわえ始めた。

「吸いかけだったから、もったいなくて。いる?」

「いや……」

「これ煙草の味が苦手な人でも吸いやすいから、吸える年齢になったら吸ってみなよ」

 これ見よがしに、緑色の箱を振ってみせる。それからスマホを取りだして、少し操作してから、意外そうに首を後ろへと動かした。

「ちょっと準備してるから待ってだって。意外かも。倉下くんの写真送ってもないのに」

 実の娘と一つしか壁を挟んでいないのに、スマホのチャットアプリで会話している。その異常さよりも、俺はテーブルの上に置かれた緑の箱に意識を奪われていた。白い英字のロゴの上に、翼を広げた白い鳥。いつも金曜日だった。週に一回、母さんはベランダで煙草を吸っていた。嫌いだったのに。ん? 嫌いだったじゃん、たばこ。好きになったの? 今でも嫌い。じゃあなんで? 嫌いだけど、思い出すのはこれが一番。ともは大人になっても吸っちゃだめ。ずるいよ。だめだからね。ずるい。ずるくない。

「倉下くん?」 

 相手が身を乗り出して、目の前で手を振ってからやっと、俺は我に返った。一人だったら胸を掻きむしっていたくらいの、きりきりする苦しさだった。

「緊張しなくていいよ。彼女の実家じゃあるまいし」

 自分で言って笑ってから、煙を吐き出す。特徴的な匂いがしてくる。すぐに相手から煙草を奪い取り、ゴミ箱に投げ捨てる想像をした。想像しかできなかった。

「倉下くんは、部活とか入ってるの?」

「まだです」

「当てようか? サッカーでしょ。そんな顔してる」

「演劇部。演劇部作ろうと思ってるので」

 頬杖をついた相手に見つめられてから、自分の声が思いのほか強くなったことに気がついた。気まずい気分になるが、彼女は少しも気にしていない様子だった。

「それってさ」

 途中で、スマホを見る。途端ににやにやし始め、顎で閉じられた部屋の扉の方を示した。

「もういいみたい。行ってみなよ」

「俺だけで?」

「私はここで見てるからさ。ほら」

 相手の顔を少しの間見てから、俺は立ち上がった。リビングのソファの横を通り過ぎて、扉の前に立つ。真ん中部分に、小さな看板が付けられていた。「LiLi」と黄色のローマ字が刻まれていて、縁には細かい花の刺繍が施されている。

「入っていいですか?」

 返事がない。菜々実さんの方を振り向くと、親指を立ててきた。少しだけ緊張しながら、ノブをゆっくりと回す。押すと、簡単に開いていった。

 目の前に、白い物体が突然現れた。昔から俺はびっくり系全てに弱かった。へあ、と女の子みたいな声が出た。そして足に衝撃がやってきて、なすすべなく前へと倒れる。

「あれ、でか」

 若い女性の声が聞こえた直後、俺の体は前にあった柔らかいものに受け止められていた。椅子にくくり付けられた布団。だが俺の全身に収まる大きさではなく、頭の方は椅子のすぐ後ろにある机にまで届き、結局思いっきりぶつかった。

 俺は横のベッドに倒れ込んだ。視界が揺れている。息を思いっきり吸い込んで、苦痛を逃がした。経験のなせる技だった。痛みが引く前から、既に誰かが側に立っていた。多分女子だ。結構小さい。多分というのは、段ボールの箱を頭にかぶっているせいだった。視界がはっきりしてくると、ちょうど両目の辺りに穴が開いているのがわかった。赤く見える。

「……そこ」

 ベッドを指差してくる。俺はおでこの辺りをさすりながら立ち上がり、ベッドから離れた。改めて部屋の中を見回す。お世辞にも片付いているとは言えなかった。机の上は大量の紙や、よくわからない筆やペンなどが積まれていたし、壁や天井にまで紙が貼られている。ただ線を引いただけのものであったり、ドレスや日常の衣服を描いたものまで、さまざまだ。そのどれもが上手かった。天井から吊り下げられている、俺を驚かせた幽霊の人形も精巧だった。

 そして、また匂いだ。これもまたどこか懐かしいものだった。小学校の時の図画工作の時間を思い出させる、絵の具や他の色々な材料が混ざった匂い。

 少し遠くから、はやしたてるような声が聞こえてくる。

「りりちゃん、最初が肝心だからね。上手くやれば……」

 扉が閉じられる。一気に静かになった。ドアノブをしっかりと回した後、藤野は部屋の隅にまで移動した。つまり、俺から一番遠いところまで。

「こんにちは」

 彼女は自分の身を守るようにして、腕を前にやった。それから直立の姿勢にすぐ戻る。

「藤野璃々さんで合ってます?」

「あ」

 とても小さな声が聞こえてきてから、彼女は頷いた。黄色のジャージの肩をさする。よく見てみると、段ボール頭の両目部分は、半透明の赤テープが貼られていた。そこから透ける目を見ようと少しだけ近づくと、彼女はびくついてさらに壁へと自分の体をめり込ませた。 

 沈黙の時間が十数秒ほど続いてから、藤野は突然両手を打ち鳴らした。俺は肩を大きく動かして、口を押さえた。女子みたいな悲鳴が出かけた。

「ぶっ、くく」

 段ボール頭の藤野が、自分の胸を押さえる。肩を震わせている。やがて体をくの字に曲げ始めた。俺はその間に藤野へと近づいた。今までは疑っていたが、あの母親にしてこの娘ありなのかもしれない。 

「あ、ま、ふふ」

 段ボール頭を取り外しにかかった。緩めに作ってあったらしく、あっという間に抜けていく。相手はまだ笑っていたので、抵抗は全くなかった。                                               

 出てきたのはトマトだった。それくらい赤くなっている顔だった。一瞬心配したが、本人は必死に笑いをこらえている様子だった。きつく閉じられた目が鼻へとぎゅっと寄り、口元を隠す手から少しはみ出るほどのえくぼができている。

 落ち着いたのは数分後だった。彼女の見た目は事前の予想とかなり違っている。まず目立つのが髪だ。肩にちょうど届くくらいの長さで、カールされた毛先の方は明るい青に染められている。髪の右サイドが耳に寄せられ、淡い黄色のヘアピンで留められていた。よく手入れされた眉、そして尻と頭がキリっと角度のついた目が、顔の雰囲気を大きく決めていた。

 外見だけなら、失礼だがとても不登校の生徒だとは思えない。肌や唇にもうっすらと化粧が見える。俺は思わず体を引いていた。少し苦手なタイプだったから。

 藤野は、口を半開きにした。

「ああんた誰?」

 俺はびくついた。その声がかなり大きかったからだ。

「あんた誰?」

 今度はかなり小さかった。同じことを繰り返し訊いてきているのはわかる。

「俺は、倉下とも。藤野さんと同じクラス。なんというか、話をしてみたくて」

「あ、そ……、で……」

 彼女は胸を叩いた。頬がまた赤くなってきている。でも今度は苦しそうだった。

「大丈……」

 藤野は机の上に転がっていた絵の具を手に取り、中身の一部を人差し指に出していた。青色だ。呆気に取られて眺めていると、その人差し指を俺の頬に向かって伸ばしてきた。身体が動きかけたが、彼女のすがるような表情に気がつき、少し顔を下げて塗りやすいようにした。彼女は辻田よりさらに背が小さかった。俺の胸の辺りくらいしかない。

 右の頬に、青色が塗られていく。絵の具の感触は心地いいものではなかったが、触れてくる指の動きはとても優しかった。その指先の爪が切られていることにも気がついた。こういうギャルっぽい女子は爪を伸ばしているイメージがあったが、彼女は違っていた。

 藤野は指を離し、一息ついた。

「教師のご機嫌取り?」

 安定した声だった。彼女の視線は俺の右頬に固定されている。

「や、ちがう。頼まれたのは事実だけど。ここまで来たのは、俺の意思」

「ななちゃんが上げたくらいだから、別にいじめとかは疑ってないけど」

「まあ、なんていうか」

 俺の頬を見る視線。それには、見るものを突き刺して、どこにもいかないようにするかのような強烈さが含まれている。

 唐突に、頭の中が開けた気分になった。一条が言っていた、足りない所。最初は役者だと思っていた。一人だけの劇というのがイメージできなかったから。だがそれ以上に必要な役割がある。周囲を見回す。最後に目に留まったのは、棚の上にある首から上だけのマネキンだった。

「全部、藤野が作ったの?」

「そう」

「あのマネキンみたいのも?」

「あれはメイク練習用のやつ。通販で買った」

 それは、三つほど並べられていた。どれもかなり使い込まれているようで、肌の一部が破けている箇所もある。新しいものを買わないのだろうか。

「色々なの作ってるんだな。藤野って将来、デザイナーとかになりたかったり?」

「は? なんで勝手にあたしの夢語ってんの?」

 俺は両手を上げて、なだめるようなポーズをした。前の俺だったら、ここで怯んでいたかもしれない。だが今の俺は一条経験済みの俺だ。あの猛獣と話す時みたく股間を守る必要もない。

「俺さ、演劇部作ろうと思ってて。藤野って、衣装とか、メイクとか。そういうのできるんだろ? 部の美術担当になってほしいなって」

「やだ」

「一条あいを飾り立てられるって言ったら?」

 藤野は無表情になった。頬がわずかに赤い。どうやら肌が薄いみたいで、興奮がすぐに表れるみたいだ。それ以上にわかりやすいのが、目だった。さきほどよりもさらに、針のようになっている。一条や辻田に感じたものと、まったく同じだった。

「面白いだろ?」

 藤野の目が、ようやく俺の目と合った。それでも彼女はそらさない。疑うようにしてその目が細まったが、俺は逃げることなく見続けた。それから藤野はため息をつき、俺の横を通り過ぎて自分のベッドに座った。

「無理」

「なんで?」

 藤野は面倒そうに指を組み合わせた。扉の方をちらりと見る。

「だって、無理だから。学校の部活ってことでしょ?」

「登校は難しい?」

「他にも部員いるんでしょ? あたし、こんなだし。上手く付き合ってける自信ない」

「いやでも、俺とはこうして話せてるじゃん」

「あんたは、作品になったからいいの」

 俺は斜め上を見て考えた。何もわからない。

「どゆこと?」

「すごくたまに、近くのデパートに行ってBAさんとかと話すんだけど、そういうのも平気。好きなことなら、緊張しないですむ」

「俺が作品とは? あとBAって何?」

「あたしが手を入れたから、あんたはもう怖くない。なんとかなる。BAっていうのはビューティーアドバイザー。美容部員のこと。化粧品コーナーとかで、お客の相談とかに載るの。メイクとかの最前線にいる人って感じ」

「初めて聞いた。すごいな藤野は。部活に入ればやってけるよ」

「そうかな?」

 藤野の瞳がやや大きくなった。それから咳払いをして、仏頂面に戻る。それからまた、入り口の扉の方を見た。

「入学式とか、がんばって行こうとしたけど、無理だった。普通の学校とか、無理なんだよ」

「それは……、ごめんあんまり答えたくないかもしれないけど、中学のこととか……」

「関係なくもない。でも、起きたこととかは、もう意味ないのかもしんない。あたし、きっとあたし自身のことが嫌で、行けないのかもしんない」

 なぜか、後半の方の言葉がやけに耳の中に残った。それは別の、もっと平凡な誰かに向けるべき言葉のような気がした。あんな針の目をする、藤野には似合わなかった。

「学校に行きたいは、行きたいってこと?」

 藤野は膝を腕で抱えた。

「それはね。ななちゃんとてるくんにも悪いし」

「俺に何かできることはない? 何でもするよ」

 付けられた絵の具が渇いてきたような気がするが、今は拭うべきではなかった。藤野は顔を俺に向けてくる。少し首を傾げていた。

「なんでそこまですんの?」

「そうした方がいいと思ったから。ごめん、上手く説明できないんだけど、なんか……」

「でもほんとに無理だよ。車とかで学校の前までは行けるんだけど、呼吸とか苦しくなってさ」

 今、淡々と話している彼女は、とてもそういう状態にある人には見えなかった。

「でも、外には出れるわけだろ。さっきの、BAさんとも話せるわけだし。自分の好きなことなら、平気なわけだ」

「だから?」

「勉強とか、学校の奴らと話すとかどうでもいいから、自分の好きなことするためだけに登校したら?」

 藤野は「なにそれ」と苦笑した。

「そっからやってけばいいんだよ。いいじゃんそれで。朝のホームルームとかも無視してさ、ずっと部室で何かやったりするの。先生とかから文句出るだろうけど、俺が何とかする。だから、大丈夫。いけるよ」

 途中からは、自分でも何を言っているのかよくわからなくなっていた。ただ、言えば言うほど、藤野を部活に入れなければという思いが強くなってきていた。化身の評価も、このためだったのかもしれない。

 くっくっと藤野は口を押さえながら笑っていた。耳のあたりが赤くなっている。

「あんたって面白いね」

 面白い。その言葉は、異様な安心感を与えてきた。

「いけるって」

「うーん。じゃあさっき言ったこと。なんでもするって。ほんとになんでも?」

 藤野の雰囲気が、はっきりと変わった。笑みがこらえるようなものではなく、挑戦的なものになってきている。それはまるで、楽しい玩具を見つけた子供のようだった。

「もっとあたしの作品になって。自分の作品と一緒なら、何とか登校できるかも」

 俺はその場でガッツポーズした。

「ありがとう。うん、なるなる。じゃ明日からでいい?」

「だったら六時に来て。色々やるから」

「オッケー」

 流れで返事をしてから、俺は美晴のことを考えた。

「あでも、もしかしたら来るの俺一人じゃないかもしれない」

「別にいいけど」

「あとさ、藤野のお父さんとお母さんは大丈夫? 朝早くに来て、迷惑とかない?」

 藤野はきょとんとした。それから少し眉尻を下げて、扉の方を見る。控え目な笑みになった。

「てるくんとななちゃんは大丈夫。あと、お父さんとお母さんじゃないよ。叔父さんと叔母さん。あたしの両親、中学生の時に死んじゃってるから」

 何か熱いものでも触れたみたいに、俺はびくついた。その動きが大きくて、椅子にぶつかってしまう。振り返ってきた藤野は俺の顔を見ると、目を見開いた。

「倉下?」

「ごめん、その。ほんとにごめん」

「い、いいけどさ。なな、なんで泣いてるの?」

「ごめん、ごめん……」

 少し頬を赤くして、なんでなんでと繰り返している彼女には、何も言えなかった。まだ二回目の高校生活が始まって一週間も経っていないのに、とても疲れていることを初めて感じた。今までずっと張り詰めていたものが緩んで、そのたわみが肩にのしかかってくるようだった。



 朝早く出ることを言うと、やっぱり美晴も同行すると言ってきた。今までずっと一緒に登校していたから、それを変えたくはないのだろう。俺も同じ気持ちだったので、兄妹仲良くがんばって早起きすることにした。

 ウィンナーと卵焼きを、二つの弁当箱に詰める。最後にそれぞれの端にトマトを二つずつ置いてから、青と緑の弁当袋に入れた。

「同級生の家って、その人女子?」

 緑の弁当袋をリュックに詰めてから、美晴は何気ない調子で訊いてきた。

「そうだけど」

「めんどくさ。実の兄のナンパに付き合わされる身にもなってよ」

「嫉妬か? ならもっと可愛い形で表現してな」

「はいはい」

 藤野のアパートに向かう途中、美晴はいつもよりも早足だった。こういうのを見られただけでも、藤野には感謝しなければならないだろう。涼しい空気の中、静かな朝の住宅街を歩くと、嫌なことも少しだけ忘れられるような気がした。

 アパートの前に付くと、誰かが小走りで近づいてきた。ジャージ姿の小柄な女性。藤野だった。

「おはよう。家の中で待ってればよかったのに」

「い、インタ、ホン、まだ早い、から」

 少し考えてから、インターホンが鳴ってまだ寝ているかもしれない近隣住民に迷惑をかける可能性を藤野は考えたのだとわかった。

「戻ってるじゃん。まだ俺は慣れない?」

「や……」

 藤野の視線は俺から外れて、美晴へと向かう。そしてすぐに俺に戻った。美晴の方は、目を丸くしている。

「あー、こちらは俺の妹。美晴って言うんだ」

「どうも。おはようございます」

「あ、妹。年下。ならおっけ。とりあえず中に入って。時間ギリギリかもしんないから」

 途中で急に饒舌になった藤野は、早足で階段を上り始めた。俺は美晴と顔を見合わせてから、その後についていった。二一二号室に入ると、いきなり写真を撮られた。菜々実さんが昨日と変わらないピンクのジャージ姿のまま、スマホを構えていた。

「ごめんごめん。記念にね」

 美晴の目が丸くなりすぎて飛び出してしまうのではないかと思ったが、とにかく藤野の案内についていくことにした。リビングに入ってすぐ右の扉の中へと入り、洗面所へと着いた。そこには、色々な道具が並べられている。特に長さ色様々なウィッグや、大量の小さなブラシ、英字の書かれた容器が目立っていた。

 不穏なものを感じた。

「メイクすんの?」

 藤野は難しい顔で鏡に映った俺を眺めている。

「そうそう。男でもする人はするんだよ」

「それはわかるんだけど、なんか、おかしくない? なんかさ」

 藤野は腰に両手を当てた。今までで一番堂々としている。

「文句あんの?」

「いや、そうじゃなくて。その長い髪のウィッグとか……」

「あたし、メンズメイクしたことないんだよね。調べはしたけど。それよりも、いつも自分がしてるようなやつを応用できたら、もっと面白いと思うんだ。中途半端が一番萎えるからね。あんたを学校一番の美女にしてあげる」

 俺は逃げ出そうとした。だが美晴に腕を掴まれる。ここに来るまで彼女はどこか不満そうだったのに、こういう展開になった途端目が輝き出していた。

「兄をよろしくお願いします」

「あぃ、よろしくされます」

 まだ少し突っかかっていたが、藤野は美晴のこともちゃんと見られるようになっていた。俺の抗議の目線には何も応えようとしない。結局そこに菜々実さんの賛成も加わって、何もできずに俺は鏡の前に座らされた。

「身長何センチ? 一八五……。モデル女子みたいな路線で行こっかな」「肌意外と綺麗だね。男にしてはだけど。まず洗顔から」「ちゃんと泡立てて! 何してんの? 肌で洗おうとすんな。泡使うの」「スキンケアしてる? へえ、してるの。美晴ちゃん? ……してないじゃん。くそ、ベースメイクからしっかりやらないと」「ちゃんと目つぶって。動かない! ちょっと毛穴あるけどさ、もったいないよ。毛穴は才能じゃないから。ちゃんと洗えてないから、皮脂とかが固まってできるの」「骨触るね。動かないで。メイクは骸骨感じないとだめなの」「アイメイクやばいなこれ。ふふ、男ってこんなに違うんだ。ちょっと眉書くから、動くなよ」「睫毛長いのは才能だよ。あー重い。全然上がらん。もっとブラウンにするね。下がってても重たい印象出にくくなるから」「笑え。膨らんだところ塗るから。もっと、そう、笑え。そうそう。あんた意外と難しくないかも。女顔だって言われない? 美晴ちゃんそこのハイライトとって」

 他にも延々と色々なことを言われた。あとで振り返ったとしても、多分ほとんど憶えていない。藤野は大量の道具を使い分けていた。小さいブラシやでかいブラシで擦られ、ビューラーで睫毛を挟まれた。とにかく後半になればなるほど藤野の声が生き生きとしてくるのは、良かった。それに引っ張られるようにして、美晴も楽しそうにしているのはもっと良かった。

 黒い網目の帽子をかぶせられ、長い茶髪のウィッグを両手に持たせられた。

「はい、せーのっ」

 藤野の合図に合わせて、ウィッグを後ろへひっくり返しながらかぶる。勢いよくやることで、前髪が下のネットの中に入り込みづらくなるのだという。藤野はピンのようなもので中央の分け目をいじってから、櫛を入れて最後の調節をしていた。

「とりあえず顔終わり。さっさと出て」

 俺は鏡を見て、呆然としていた。俺の姉みたいな人がいる。姉なんていたことはないが、多分こんな感じだ。おでこをしっかりと出した髪型で、すごく大人な感じがする。目元や鼻の辺りが少し輝き、睫毛や二重の線もよりくっきりとしている。まるで浮き上がっているようだった。俺は赤面していた。気持ち悪いのに、可愛かった。唇が一番違う。ぷるぷるしていて、ややピンク色になっていた。

 菜々実さんにスマホで動画を取られながら、リビングの中央へ向かう。時間は七時半を回っていた。

「ブレザーは、そう、少しだらしない感じで。縦に分割するように線が入ってると、肩幅があんまり強調されないの」「リュック? だめだめ。スクールバックにして。あたしの貸すから。あたし? あたしは、あんたのリュック背負ってく」

 さらに二十分ほど経って、ようやく出発できるようになった。時刻は八時。確かに六時くらいに集まるのがちょうどよかった。藤野の見立ては、一応合っていたことになる。

 途中で藤野の叔父、忠輝さんが起きてきていた。彼はとても真面目そうなサラリーマンといった感じの人で、菜々実さんに「彼氏できたって聞いたのに、彼女だったの?」と驚いていた。藤野はそれを聞いて喘ぐくらい笑っていた。菜々実さんが、「りりちゃんはものすごく笑いのツボが浅いから気を付けてね」となぜか俺に注意してきた。

 そんなこんなで、ようやく外に出た。俺はいつもと違う空気を感じていた。それは実際に空気そのものが変わったというよりは、俺の受け取り方が変わったからなのかもしれない。

「堂々としなよ。ゆ、ユニセックスの制服だってあるところは、あるんだし。似合ってるって」

 通りに出た途端、藤野は落ち着かない様子になった。しきりに自分の制服を触っている。確かに俺のものよりもぱりっとしていて、着慣れていないことが簡単にわかった。

「あのさ、あたしの方見ながら歩いて」

「こう?」

 藤野は前に出て、俺と顔を合わせてきた。彼女は後ろ向きで進んでいくことになる。危ないので、俺が前に出ることにした。美晴はその調節係だ。人とぶつからないように、注意する。

「男の声で台無し。裏声、使ってよ」

「う、うん」

 ネズミっぽい有名キャラクターのような声になった。吹っ切れたつもりでいたのに、だんだんと羞恥心が戻ってくるのを感じていた。

「あたしをはげまして。一生懸命」

「え、あ、ふ、藤野はできる! 学校までいけるよ」

「もっと。お願いともかちゃん」

 誰だよ。

裏声を大きく出すのは難しいと初めて知った。「がんばれ! 藤野はえらい、すごい! いけるいける! もう二十メートルは歩いてる。すごすぎ! 天才! 千年に一人の逸材!」

 藤野も、俺も、そして横を歩いている美晴も、全員顔が真っ赤になっていた。美晴は何度も足を早めて俺たちを置いていこうとしたが、結局戻ってきた。藤野が美晴に向かって、気の抜けたような笑みを向ける。

「美晴ちゃんのお兄さん、ほんとに面白いね」

「そうかもしれません。ま、今はお姉ちゃんですけどね」

「ぶ、うっ、ふふ、あはは」

 途中から、全員が慣れた。通学中の学生や通勤中の社会人などから多大な注目を受けていたが、それすらもただの背景になった。藤野は一歩一歩進んでいく度に喜びを爆発させていた。それを見て、ここまでしたのは間違いではなかったと思えた。

 結局登校にかかった時間は、いつもよりも多かった。八時二十分、藤野が正門をくぐった瞬間大きく息を吐き出した。校舎を見上げるその目は、少しもくじけてないように思える。少し飛び跳ねてから、俺の方に走り寄ってきた。

「倉下! あたしできた。いけたよ」

 俺もテンションが上がりきっていた。これが女装ハイなのかもしれない。

「すごいよ、ほんとに。最高! 藤野は天才!」

「やった!」

「お前……、倉下か?」

 ゆっくり横を見ると、安藤先生が今まで見たことがないほど仰天した顔で立っていた。スマホのシャッター音が鳴りやまない中、俺と藤野は連行された。


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