全員死ぬ気で幸せにする
映画の方の制作は順調に進んだ。連日連夜、ロランとのテレビ通話を繰り返した。彼が求める素材の組み合わせを俺は一晩で用意したので、忙しくてたまらないと楽しそうに笑っていた。
『どうして顔を隠している? 主人公だけ』
「邪魔だからです。ノイズになる」
ロランは俺の考えを否定することはなかった。正しいか正しくないかではなく、どうすればおもろくなるかだけを考えていた。だからこそ、信頼して任せることができた。
五カ月間は、あっという間だった。一条たちを納得させるためにも、俺もスマホを捨てて、外からの情報を得づらくしていた。だからほとんど、ロランからの知らせで進捗を確認することになった。
完成品を、自分の部屋で見た。俺にとっては新鮮さがないはずだった。どの場面も散々見てきたものだから。だがロランは俺が得た素材を使って、素晴らしいものを作り上げていた。今までの演劇部の軌跡を、俺自身が体験してきたことの一部を、二時間半という尺の中でわざとらしくない盛り上げ方で表現していた。
カメラの取り方が拙い部分も、録音が甘いところも、ロランは演出の一部として利用していた。巧妙に素材を並べることで、まるで撮り手も成長しているかのような流れを表現した。既に英語字幕も作られている。英訳は完璧だった。し翻訳者と編集の技術者もしっかり選んでくれたらしい。アメリカにいる彼らにも直接会って礼をするべきだろう。いつか、できたら。
編集賞と監督賞にノミネートした。そうロランから連絡が来たのは、一月の中旬だった。正月もその後も一条たちとだいたいいつも一緒にいたから、怪しまれないように茉莉さんの携帯を借りるのは苦労した。
演劇部としての活動は、常に続いていた。学校でも定期的に発表し、また文化祭での劇を東京の公営ホールでも発表してくれないかと、オファーが来ていた。俺たちは迷わず受けた。一条は結局、テレビ等の仕事には戻らなかった。ずっと演劇部の活動に専念してくれた。だからこそ、まだバレずに済んでいた。
日本時間二月九日日曜日、彼女は父親が待つアメリカに行った。ロランはアカデミー賞の会員として毎年受賞式の招待を受けている。その付き添いとして、一条の出席も認められていた。
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫だと思いますよ。ロランはいろいろと手を回していたようなので」
茉莉さんは信じきっているようだった。多分、一条とロランは今までもそういうことをしてきたのだろう。茉莉さんはいつも平気ではなかったはずだ。でも家族としてずっと一緒にいる。彼女から学ぶものは多かった。一番手本にしたい相手だった。
翌日、授賞式の中継を見るために、俺は辻田や藤野と一緒に部室にいた。朝のホームルームも一時間目の授業もサボった。同時通訳で放送してくれる配信サイトを使った。
オープニングは、壮大なオーケストラで始まった。きらびやかでスタイリッシュなデザインのステージ上で、上品なスーツを着た人々が楽器を奏でている。全ての曲が、映画関係の曲だった。ノミネート作品のものばかりだ。その中には、俺とロランが作った映画のものも含まれていた。情報を遮断していただけに、安堵は大きかった。
アカデミー賞は、主演男優賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、作品賞、監督賞、脚本賞、脚色賞、歌曲賞、作曲賞、編集賞、撮影賞、美術賞、視覚効果賞、長編ドキュメンタリー賞、短編ドキュメンタリー賞、長編アニメーション賞、短編アニメーション賞、短編実写映画賞、音響賞、衣装デザイン賞、メイク&ヘアスタイリング賞、国際長編映画賞に分かれている。受賞発表の順番は毎年違っていて、進行関係者のみが知っているという。ロランならば知ることはできるだろうが、それを俺には伝えてこなかった。その方が、おもろいからだろう。
俺の作ったクッキーやピザパンを食べながら、辻田と藤野は呑気に見ていた。俺の方は、彼らにばれないよう冷静になることだけで精一杯だった。ロランも同じ気持ちだろうか。絶対に違う。俺が世界一、緊張している。
初めは、衣装デザイン賞から発表された。そして脚本賞、脚色賞と続いていく。知らない映画の名前が呼ばれていくのは、心臓に悪かった。だがノミネートされているのは二つだ。それにさえ集中すればいい。
司会が前に出てくる。編集賞の発表。俺は身構えた。そして、別の映画が呼ばれた。テレビ画面が遠くなる。まだだ。まだ一つ逃しただけ。希望は残っている。
次は監督賞だった。休む暇すら与えてくれなかった。司会はアメリカで活躍しているベテランの男の役者で、話し方も外見も不快感がなかった。だがそれでも、彼が執行人のように見えていた。
『監督賞は……』
俺は待った。その口が、ロランという名前を出すのを待つ。だがいつまでたっても出てこなかった。遅すぎると思ったら、既に次の賞の発表に行っていた。俺の中に引っかかるような言葉はまるで聞こえてこなかった。巻き戻したくなったが、それが無駄なあがきであることはわかりきっていた。
周りの音が遠くなる。甘くないとは考えていた。上手く行く確率なんて高いわけがないと。それでもロラン・ダタールに協力してもらえれば、大丈夫だと信じていた。不可能かどうかは関係ない。絶対に達成しなければいけないことだった。
文化祭を乗り越えることができた。ここまでやってこれた。だとしても、成功しているとは限らない。化身はこの失敗を見逃さないだろう。
ペナルティ。俺が一番苦しむこと。少なくとも、俺が死ぬことじゃない。俺に安易な救いを与えはしないだろう。とある映画の結末を思い浮かべた。俺にとって最悪の結末は、それと似ている。俺が化身になること。美晴を一条の中に放り込んだように、俺がユニークの化身の中に入れられる。そして俺が味わったようなことを、一条や辻田、藤野にも味わわせる。おれはどうすることもできない。五つの言葉しか言えないから。彼らがもがいている中、俺はただディックヘッドと言う。最悪だった。でも俺自身が想像できるということは、それが底ではない。化身は絶対に、俺が考えもしないような苦痛をぶつけてくる。
「おい」
辻田の声で、現実に引き戻された。彼はソファから立ち上がっていた。俺の方を振り返ってきている。
「なんなんだこれ」
俺はテレビ画面を見た。何かの賞にノミネートした人々の姿が並んでいる。その中に、誰も映っていない枠があった。それに付いている名前を見る前に、画面が司会の姿へと切り替わる。
『アカデミー賞助演女優賞、受賞者は、アイ・イチジョー!』
拍手の音が聞こえる。カメラが切り替わり、どこかへと向かっている。そして映し出されたのは、会場の入り口から中に飛び込んできた、二人の姿だった。一人は堂々としている。今会場に来たばかりなのに、全てわかっていると言いたげに微笑んでいる。そしてもう一人は、立ち尽くしていた。全ての視線を浴びているのに、彼女は呆然としていた。
隣にいるロランが、彼女の背中を叩く。一条は前を見続けながら、進み始めた。黒色のロングドレスをなびかせながら、ハイヒールの靴を機械的に動かしている。Ⅴネックから覗く銀のネックレスが照明に当てられて、彼女の鎖骨部分を浮き上がらせていた。紫の混じったレッドカーペットを進んでいく間、表情は作られた微笑みで固定されていた。
画面外の、ロランの表情を想像する。やられた。情報を遮断していた俺にも要因はあるが、それでも彼は嘘をついていた。ノミネートされた賞が二つだけだなんて、よく言ったものだ。彼は自分の娘だけではなく、俺にもサプライズを用意したかったみたいだった。
ロランは彼女よりも早く壇上に上がっていた。金色のオスカー像を持っている。そして拍手に包まれて階段を上がりきった一条に、手渡した。彼女はロランと少しも顔を合わせなかった。マイクの前に立つと、会場が静まっていく。誰もが祝福を表情に浮かべていた。それについてこれていないのは、会場では本人だけだろう。
『日本人初の快挙です』
『すごいですね。誇りに思います』
通訳や解説をしてくれている者達も、純粋に彼女の功績を讃えていた。
俺の口元は、自然に緩んでいた。巧妙に取り繕えてはいるが、ずっとそばで演技を見てきた俺にはわかる。今、一条は混乱している。舞台の上の彼女にはないはずの、ぎこちなさがあった。でも俺にとっては、それがとても良い光景のように思えた。
彼女は微笑みを残したまま、少しの間黙っていた。司会の人が動き始めた瞬間、絞り出すようにして言い始めた。
『まずは、私を支えてくれた全ての……』
全ての、と繰り返し、そこで止まった。オスカー像の先端が震えている。彼女の持ち手が白くなっている。
一条は素早く頭を動かした。今彼女を映しているカメラ。それを刺すようにして視線を向けてきた。そうして俺と一条は、画面越しに目を合わせた。直後彼女の肩が上がった。口が大きく開けられ、息の吸い込む音がはっきりとマイクに拾われた。
『くらくらぁ!』音が割れた。司会の俳優が、オーバーに耳を抑えた。『このインポ猿のクソゴミカス野郎! やったな、私をだましたな! お前を不能にしてやる。逃げられると思うなよ。どこまで追いかけて、潰してやる! お前を一番最初にやってやる!』
ミュートになった。俺が操作したのではない。会場か、これを日本に向けて配信している会社の者か。一条は左手の中指を立てていた。前半よりももっと酷い言葉を叫んでいるのだろう。周りが止めに来る前に、彼女はマイクから離れた。オスカー像をロランに押し付けてから、壇上を降りる。ヒールを履いているとは思えないほどの速度で、会場から走り去っていった。
そして、会場の音が戻ってくる。ロランが真面目腐った顔でマイクを継いだ。
『非常に見苦しいものを晒してしまい、申し訳ない。ティーンエイジャーは不安定なものだ。できれば、ぼくだけは許してほしい。娘に嫌われると仕事のやる気がなくなる』
笑った者はわずかだった。ほとんどの者が、過ぎ去った嵐の名残に圧倒されていた。
『とにかく、感謝している。無茶ぶりを聞いてくれた全ての関係者に敬意を表する。ちなみにクラクラというのは、このBe Unique or Die(おもろくならきゃ死ね)という作品のプロトタイプを持ってきた好青年であり、ぼくから娘を奪っていった憎むべき相手だ。彼に最大限の感謝と敬意を示したい。以上』
授賞式は、まだまだ始まったばかりだった。目玉の作品賞、主演男優賞、主演女優賞等が発表されていっても、俺はまるでその内容が頭に入ってこなかった。頭に残る痺れが、いつまでも一条の名前が呼ばれた瞬間を思い起こさせていた。
画面が消えた。まだエンディングに入ってすらいない。タブレットを置いた辻田が、俺の前に立った。頬を赤くさせた藤野が隣から俺を睨みつけてきていた。
「わかったから、まずはスマホ返せよ。全部わかった」
「はい」
「説明してよ。納得するまで帰らないから」
「わかりました」
まずは彼らの相手をしなければならないことを、完全に失念していた。
結局辻田と藤野は俺を逃がしてはくれなかった。一条が帰ってくるまで、見張ってきていた。俺が一条に潰されていいのかと一応訴えてはみたが、彼らはむしろそれを歓迎しているみたいだった。まともに俺と話してくれなかった。
一条は少しも休むことなく、アメリカから帰ってきたようだった。俺は辻田や藤野と一緒に登校した直後に捕まり、部室へと連行された。俺たちのことをよく知らない上級生や下級生がたくさん話しかけてきていたが、一条はその全てを無視した。受賞式での印象を覆そうとする気はないようだった。
「辻、こいつの腕押さえろ。リリー、はさみもってきて」
本気のようだった。まずいのは、辻田と藤野も止める気が毛頭なさそうだということ。俺は既に部室への道すがら何度も一条にビンタされていたが、彼らは当たり前のように流していた。
「謝るから、許してくれない?」
「口もいらなそう」
「ここまでやるつもりはなかったんだ。お前のパパが悪乗りしちゃってさ」
「でもまずはチンコだよな? 切り取って、お前で血筋を絶えさせてやる」
辻田と藤野は苦笑いしていたが、一条の顔は白かった。つまり怒りを通り越しているということ。このままだと一条は犯罪者になり、俺は死ぬか男として生きられなくなってしまう。本当はもっと先にまでとっておくはずだった、彼女に対する切り札を使うしかない。少しだけ惜しく思いながら、俺は笑った。
「なにがおかしい? そんなに女になりたいの?」
「いや、そうじゃなくて。お前は何に怒ってるのかなって、考えてたんだ。別に騙されてたわけじゃないだろ。お前は知ってたはずだ」
一条ははさみを下ろした。
「辻田や藤野と違って、お前は尖りながらも、常識をちゃんと持ってる」両側から腕をつねられた。「だから、察しないはずがないんだ。具体的な内容はわからなくても、受賞式で何かが起こることくらい、わかってただろ? ロランも、本職の役者ってわけじゃないし」
「開き直ってると、男どころか人間にも戻れなくなるぞ」
「あのステージは、貴重だ。受賞者としての立場で上がるなら、なおさらだ。お前はそういうひりつくような舞台を利用して、俺に怒りを向ける演技をした。なぜ? 決まってる。一条あいは演技が大好きだから。どんな機会でも利用できるくらいには愛してるんだ」
「何が言いたい?」
「今回のはすごかった。画面越しでも痺れたよ。会場の人たちは相当だったろうな。それなりの炎上と引き替えに、お前は自分の中の魂を披露できたわけだ。でも、残念だったな。俺にとっては違う。あれはお前の最高の演技とは言えない」
「それが最後の言葉でいいな?」
俺は自分から、彼女の目を覗き込んだ。
「途中までは、本気だったんだろ。いくらお前でも、注射器で左手を刺すまではしない。だから途中までは、ほんとに乗っ取られかけてた。お前の中にあった、別の声に」
一条は、素早く目を動かした。辻田と藤野の方に、視線が行っていた。すぐに俺の方へと戻してくる。構うつもりはなかった。
「でも、わかる。お前はそんなにやわじゃない。同じくらい、美晴もやわじゃない。倉下家は、情が深いんだ。一度恨んだ相手を、あんなあっさり許したりはしない。実の兄であっても」
「だまれ」
辻田と藤野は顔を見合わせていた。まるでついていけていないようだ。
「美晴が受けた苦痛も、簡単に消えるようなものじゃない。俺の何倍も苦しかったはずだ。おかしくなるのも当たり前。そこから奇跡的に回復することも、奇跡以上の何かが起こらない限り無理だ。あんなできすぎたタイミングで起こると思えるほど、俺は楽観的な人間じゃない」
一条は、歯を剥き出しにしていた。笑ってはいなかった。ただ俺を睨みつけることで、別の何かをごまかそうとしているみたいだった。とも。そう呼んできていた一条の声を思い返しながら、俺は満面の笑みを相手に向けた。
「あの時のお前の演技は、最高だった。だから俺は、今ここにいられる。お前は美晴として、俺に前を向かせてくれた。一生忘れない。ありがとう。俺と、美晴のために演じてくれて」
「うるさい」
冷たいものではなかった。はねのけるような勢いはあったが、拒絶の意味合いはまるで含まれていなかった。一条ははさみを落としていた。俺から少し離れて、不安定な顔つきのまま睨みつけてきている。
「何というか、お前って、奥深い可愛さがあるよな。見た目だとか、そういうのは関係なく。すげー可愛い。あの演技を超えるのは難しいけど、やれるって信じてる。お前は可愛くて思いやりのある天才だから、大丈夫だ」
「うるさい!」
「茉莉さんの気持ちがわかったよ。お前みたいのが娘だったら、最高なんだろうな」
「死ね!」
藤野がトマトだとすると、一条はリンゴになるかもしれない。その顔のみずみずしい赤色を撮っておきたくなったが、それをしたら本当にはさみを使われそうなので、やめておいた。その顔の横に、文字が表れる。
総合得点:一三〇点
そこそこ面白くなったので、終わりです
またね
二度と来るな。そう思いながら、俺は化身を見送った。俺のリュックから出てきたそれは教室の窓を通過し、空へと向かっていく。完全に消えてくれるのだろうか。それとも、別の誰かの所にいくのだろうか。あるいは。
今は気にしないようにした。俺は可愛い可愛いと連呼して、一条に胸を叩かれることに専念した。
「なにこれ」
「知らね」
「でも一条、可愛いね。赤くなってる」
「皆で言ってやろうぜ」
三人で一条のことを可愛いと褒める会は、彼女が再びはさみを持ち出すまで続いた。
修了式まで、慌ただしい日が続いた。一条がその厚いベールを脱ぎ、色々とメディアに露出し始めたからだ。その影響が俺や辻田、藤野にもやってきていた。もちろん俺のせいでもある。演劇部全員が、今や世界的に広まった映画の出演者として認識されていた。一条の頼み(という名の脅迫)で全員とはいかなくても、俺が彼女と一緒に番組に出ざるを得ないこともあった。
その中でいつも、俺に訊かれるのは同じことだった。映画内のことは本当のことなのか。俺はいつも否定している。あれはただのノンフィクションを真似たフィクション映画で、現実のほとんどと関わりはないと。一条に睨まれながら、そう答えている。
作中には、貴方が主人公として最後に顔が露わになるシーンがあります。その時に、自分の家族に対しての思いが吐露されていきますが、それもフィクションですか? はいそうです。父親も母親も、俺が物心つく前からいません。当然、妹もいません。全部俺の妄想です。気持ち悪いでしょ? そう言うと大抵インタビュワーは引いてくれたので、ありがたい質問だった。
「有本」
俺は窓の外を眺めていた。いつか空から化身が戻ってくるのではないかと思っていたが、もう一ヶ月近く姿を消していた。寂しいとは決して思わないが、親よりも長い時間を過ごした存在がいないというのは、どこかが抜けているような感じがしていた。
「有本とも。休みか?」
俺は教壇の方に視線を戻した。
「はい。いまーす」
安藤先生は鼻を鳴らしてから、次の生徒の名前を呼び始めた。周りの生徒は控えめに笑っただけだった。前よりもずっと、俺は触れづらい相手として扱われている。サングラスを掛け直しながら、また窓の外を眺めた。
目標点数を取れた時の、化身への要求は二つ。一つは、俺が倉下裕子の息子として生まれないようにすること。倉下ともは、逆子だった。帝王切開の対応も遅れ、取り出された時には死亡していた。子宮の中で百八十度回転することなく死んだ。
誰かを生き返らせることは難しい。それなら化身の得意なこと、過去に遡ったり、誰かを殺すことを利用すればいい。俺は十六年前のかつての自分を殺した。その上で、要求二つ目。有本紗江の養子として、俺自身が存在できるようにすること。
俺は倉下ともでも、他の誰でもなくなった。赤子の頃に両親に捨てられ、孤児院に預けられた後、物好きな画家の養子として引き取られたことになっている。有本紗江は、倉下裕子の遠い親戚だ。かつて俺と美晴を引き取って、別荘に住まわせてくれた相手でもある。
一番認識をいじられているのが、彼女だろう。だが何かしらの不都合があっても、あまり気にはしない。電話でしか話したことのない彼女は、俺と美晴にほとんど干渉してこなかった。美晴が亡くなった時も、連絡さえしてこなかった。だから養子が一人増えたくらいで、俺が気に病む必要はないのだ。
俺が倉下ともとして生まれてこなかったおかげで、色々なことが変わった。安藤先生もまたその一例だった。俺が化身のペナルティに巻き込まなかったことになったから、担任の先生としてまだいる。いてくれている。
「もっと出席しろ」
「テストはちゃんとやってますよ。俺、一位じゃないですか」
「クラスに馴染め」
「先生、俺できましたよ。無理だと思ってましたけど、できました。家族の代わりになる、いや代わり以上の友達」
安藤先生はかなり引いた顔をした。
「お前が何言ってるのか、さっぱりわからん」
俺は笑いながら生徒指導室を出た。
三月二十日、午前で修了式が終わった。午後には予定があった。駅前で一条あいのサイン会を行うことになっている。そこで映画のブルーレイも販売が解禁される予定なので、宣伝の意味合いが大きかった。今度は表に出たがらない辻田と藤野にも同行してもらった。全員で茉莉さんの車に乗って移動した。もう、車内にいても何も苦しくならなかった。
やってくる者たちのほとんどが、一条目当てだった。たまに俺に向かって、「ほんとに変なサングラスかけてる」などという物好きなファンが握手を求めたりしてきたりもした。辻田と藤野はかなり緊張した面持ちで裏方に回っていた。
二時間かけて列も小さくなってきた所で、汗をかいている辻田が息を大きく吐き出した。
「あー、僕もアイテム欲しい。不夜石のスープか時間拡大収納空間欲しい」
「そんなに良いものでもないぞ」
「それかやり直しの力欲しい。一日だけ戻って、今日どうやってバックレるか考える」
「あたしも」
彼らは映画の内容を会話に挟んでくるくらいには、許してくれているみたいだった。最初の一ヶ月は大変だった。盗撮魔の変態と何度言われたかわからない。俺がたいして真剣に謝らなかったことも火に油を注ぐことになった。
「ともはずるいよ」
「そうだな。ともってそういうとこあるよな」
化身が消えた日から、ほとんどの者は俺のことを有本と呼ぶようになった。それが嫌だったから、下の名前で呼んで欲しいと頼んだ。初めは渋っていたものの、三日ぐらい粘着したら呼んでくれるようになった。ならば俺も大志や璃々と呼んでもいいのではないかと思ったが、それだけは許してくれなかった。キモいから、らしい。
服の袖が引っ張られた、見れば一条が小さくを舌打ちをしている。まだ彼女の前に、残ったファンが並んでいた。俺は持ち場に戻った。そこで、何も考えられなくなった。
「映画見ました。かっこよかったです」
何度も聞いた声。
「ありがとう。これ色紙」
「できれば、名前も書いてくれませんか?」
「わかった、教えて」
「みはる。美しいに晴れと書きます」
一条はさっと名前を書いた後、相手に色紙を渡した。今日それまで見せていた作られたものっではない、本物の微笑みを浮かべていた。
「いい名前」
美晴ははにかみながら頷いた。
「はい。お父さんとお母さんが、三日かけて考えたそうです」
「そう。じゃあまたね」
「最後に訊きたいことが。お二人って付き合ってるんですか?」
一条は微笑みながら首を振った。下では、俺の脛を蹴ってきている。今まで一番、勢いがなかった。少しも痛くない。ありがたかった。強くされていたら、俺は大きくよろめいていただろうから。
俺の方に向かって会釈した後、美晴は踵を返した。俺はその後ろ姿を見つめた。見つめるだけのつもりだったのに、声が出てしまっていた。
「あの、」
美晴は振り向いてきた。その顔と動きだけで理解していたが、確かめたかった。
「貴方は今、幸せですか?」
彼女は怪訝そう顔つきになる。それから一条の方を見た。一条は俺を指差して、処置なしと言いたげに肩をすくめた。美晴は苦笑してから、恥ずかしげに頷いた。
「はい、幸せです。明日はもっと、幸せになると思います」
再び美晴は頭を下げてから、待っている男女の大人の方へと戻っていた。美晴は女性の方に色紙を見せて笑顔で何かを言っていた。女性は優しく美晴を見ている。一条あいのサインを貰ったことよりも、それで美晴が喜んでいることに、喜んでいるようだった。男性は色紙を指差してから、自分を指差した。それで歯を見せて笑いながら口を動かした。女性と美晴が、同時に彼の肩を叩く。そうして彼らは並んで、住宅街の方へと歩いて行った。
俺は無意識の内に伸びていた自分の腕を見た。手が、家族の姿と重なる。息を吐き出しながら、その手を自分の胸に当てた。俯いて、目をつぶる。
「くらくら、泣いてるの?」
「泣いてないよ」
なぜなら、俺にはもう関係ないから。生まれるはずだった長男の死を乗り越えて、新たな命を授かった家族。一人っ子として手厚く育てられた娘は、もう両親から注がれる愛の量を誰かと比べる必要もない。そして娘が独り立ちしたとしても、母親は追いつめられない。同じ寂しさを共有する父親とお互いに支え合って生きていくだろうから。
「お、泣いてんのか?」
「盗撮のチャンスかもね」
辻田と藤野が集まってきた。
「違うって。ただ、」
おれのしょうらいの夢は、家族がしあわせになることです。
「ただ、俺の最初の夢が終わっただけだ。だから泣いてない。噛みしめてるだけ」
だから俺は泣かずに、顔を上げられた。俺にとっての理想の家族が向かった住宅街の方は、もう見なかった。一条、辻田、藤野全員を視界に収めた。
「ちょっとキモいこと言うけど、いい?」
「まあ、言ってみろよ」と辻田。
「それから判断する」と藤野。
「お前そのものが気持ち悪いから、今更どうでもいい」と一条。
俺は彼ら一人一人と目を合わせてから、言った。
「お前ら全員死ぬ気で幸せにする。だから、これからもずっと一緒にいさせてくれ」
キモ、と三人がそれぞれ違う顔と声で言った。胸の中に優しい熱が湧き出てくる。春の暖かさを運んでくる日差しに照らされ、俺は未来に向けて心の底から笑った。
読んでくれて、ありがとうございました。




