愛してる
目の前に、白が広がっている。
空間内に入った直後、俺は突き飛ばされていた。敷かれていた布団の上に転がる。天井か地面かもわからない曖昧な白色を見上げてから、ゆっくりと立ち上がった。
派手な音を立てながら、一条は棚を倒している。そこに入っていたカメラやボイスレコーダを何度も踏みつけては、遠くに蹴り飛ばしていた。その動作の一つを終える度に、叫んでいる。言葉はなかった。赤子の泣き叫ぶような声が、彼女の鍛えられた喉から発せられていた。
俺はそれを、幕を通して聴いているような気分でいた。どこか遠い。思考が幕を作り出している。ここに、俺以外の人間がいることはおかしい。そうなった瞬間に俺は死ぬからだ。だが死んでいない。一条あいは人間じゃなかったのか? それとも。
薬指が痛かった。第二関節あたりが、焼けるようだった。それに意識を向けている内に、騒音が止んだ。
一条は袋を拾い、中から注射器を取り出していた。不夜石のスープ。既にほとんど消費されている。中身が入っていない注射器を手に持って、俺の方を向いた。その顔は、今まで見たどんなものとも違っていた。俺がへまをした時も、彼女の演技を否定する形で稽古をしていた時も、これほど顔を歪めることはなかった。炎ではなく、冷たい毒のような迫力があった。
鋭く息を息を吸い込んでから、一条は俺に飛びかかってきた。右手に持つ注射器、その先端は俺の顔に向けられている。彼女の肩を掴んで止めようとしたが、相手の勢いは少しも弱まらなかった。彼女の右手が動く。俺は咄嗟に、左手で自分の顔をかばった。
再び床の上に倒れ込む。手のひらに鋭い痛みが走った。俺の右目の前に、注射器の針が光っていた。俺の左手を貫通してようやく、止まっている。その先端から血が滴り落ちて、俺の目の下に付き、こめかみへと流れ落ちていった。
「死ね」
普通、針の方が折れてだめになるはずだ。平然と骨を貫いているのは明らかにおかしい。化身の特別製だからだろうか。そして、一条自身の力もまたすさまじい。全く体勢を変えられる気がしなかった。
「一条、一条!」
呼びかけても、彼女はうなるか、殺意の言葉を投げてくるだけだった。押さえている左手が痛い。痛くて熱い。それは針が貫通した部分だけではなかった。薬指の方も焼けるように痛かった。指の周りを走るようにして、まるで火傷したような痕ができ始めている。
彼女の動きと声、そして表情には、深い恨みのような、熟した憎悪のようなものが込められていた。まるで、一条が一条ではなくなったみたいだ。
薬指が痛い。
彼女は両手を注射に乗せてきた。そして体重をかけてくる。針がわずかに進み、俺のまつ毛がそれを撫でた。手の痛みがさらにひどくなった。
そんな中、俺はきらめくものを見た。注射器にかかっている、彼女の左手。その薬指の辺りになぜか目が行った。そこには、白いリングがはめられている。石座もない、シンプルな見た目。劇をやっている時も、その前も、なかったはずのものだった。
止めている手や腕以外の全ての部位から、力が抜けていくのを感じた。自分の中に生じた、胸を裂いてくるような激流の正体もつかみきれないまま、口から名前がこぼれ落ちた。
「美晴?」
注射器を刺そうとしてくる力が、弱まった。彼女の左手が外され、その薬指にはめられているイオニアン・リングが、俺の左薬指の火傷痕に密着する。直後、俺は吹き飛ばされた。体はどうともなっていないのに、空間内で引っ搔き回されるようにして、飛んでいった。
頭が沈み込んでいく。脳味噌がたわんでいき、体温のような意識が流れ込んでくる。俺じゃない、わたし? わたしは出かけている。兄が部活仲間の家に行っている間、友達と一緒に駅前で買い物をしていた。
依子も香織も、中学からの友達だった。わたしが吹奏楽部で面倒なことになっても、ずっと友達として接してくれていた。だから純粋に楽しみながら、彼女達と一緒に服を買いに行っていた。
自分がおしゃれをしたいという気分も当然ある。兄の部活仲間の一人、璃々ちゃんが色々と教えてくれたことを実践したかった。でもそれ以上に、兄に少し変わった自分を見せてみたかった。もう色々と心配されないように。
兄から電話がかかってきたのは、一通り買い物を終え、人気のクレープ店に向かおうとしていた時だった。友達と歩きながら、電話に出る。兄の声はどこかおかしかった。頭もおかしかった。いきなり結婚してくれと言ってきた。何も言えないでいると、おかしな兄は続けた。
『指輪、用意してるんだ。何も気にしなくていいから、はめてくれ』
友達の方を見た。にやにやしていたのが、わたしの表情を見て怪訝そうな顔へと変わってきている。あまり大げさにしないために、わざとらしくため息をついた。
「どうしたの? 気持ち悪いよ』
本当は、あまり気持ち悪くなかった。冗談の範囲内なら、許せる。昔はそういうことを、わたしの方がよく言っていた。あまり思い出したくないけど。恥ずかしいし。
でも、冗談ではないみたいだった。兄の声は一気に強くなった。
『いいから言えよ! はめるって言え! じゃないと美晴のこと、嫌いになるから。さっさとしろよ!』
わたしは頭が真っ白になった。本気で言っている。おかしいのはわたしの方だった? 何か兄にとって嫌なことをしてしまったのかもしれない。同じ部活だった女子にいくら嫌われようが、少し嫌な気分になるだけで済んだ。でもこれは違う。
「わかったから、やめてよ。な、なんでそんなこと言うの? はめるから。変だよとも」
もう友達の反応なんて気にならなくなった。自分でもおかしいことはわかってる。でも、兄からほとんど言われたことのないような言葉は、わたしの意識を簡単に乱していた。
『イオニアン・リングを、指にはめるんだな?』
「うん、そうする。だから、やめて。嫌わないで……」
兄がいなくなれば、わたしは家で独りになる。学校で独りになるよりも、多分耐えがたいことだった。だから訳もわからずすがりついた。指輪なんてどこにもないのに、とにかく彼の言うことに従う意思を示した。
そして、周りのことが何もわからなくなった。 喉が震えている。悲鳴をあげてるんだ。でも、誰も助けてくれない。それすらどうでもよくなった。左手の薬指がすごく痛かった。痛くて、赤ちゃんみたいに泣いた。泣いてもどうにもならなかった。痛みだけがわたしの意識を保たせていた。
突然、目の前がはっきりとした。
『美晴?』
その声で、感覚も戻ってきた。わたしはちゃんと立っている。スマートフォンを握りながら、平然と歩いている。
わたしは声を発しようとした。でもできなかった。近くで爆発したような音を聞いたかと思えば、目の前に黒い何かが迫ってきていた。再び真っ暗になった。首の方で骨の折れる音を聞いた。唇や鼻、目がかき回されて無理やり中心に絞られているような、そんな激痛で、また悲鳴を上げていた。頭の中でだけ響いていた。
わたしは、大きく息を吸い込んだ。左手でスマートフォンを持っている、左耳に当てている。それを下げようとした瞬間、爆発音。そしてまた、何か硬いもので顔を殴りつけられた。そのおかしくなるような痛みで、わたしはまた叫んだ。誰も聞いてくれない叫びをあげた。
前に倒れていく。わたしの体は既にわたしのものじゃなくなっている。スマートフォンが左手から滑り落ちようしていた。掬い上げるようにして、丸くて硬そうな何かがわたしの顔に直撃した。
それが何回も続いた。心の中でずっと叫び続けても、何も良くなってはくれない。永遠のように思われた。その中でわかったことと言えば、首が折れても少しの間は意識が保たれるということ。それは即死することよりもはるかにむごいものであること。それだけだ。
何度も逃げようとした。咄嗟にしゃがんでみたり、横に飛んでみたり。依子や香織を縦にしようともした。でもだめだった。その丸くて硬そうな物体、マンホールの蓋はわたしを執拗に追いかけてきた。ただ吹き飛んだだけではありえないような急カーブを描き、わたしの顔をぐちゃぐちゃにした。手や足を犠牲にして止めようとしても、それすらかわされた。まるで生きた意思みたいなものが、必死になってわたしを殺そうとしているみたいだった。
でもいつも失敗する。意識が一瞬途切れても、わたしはまだ生き続けているからだ。そして次の蓋が飛んでくる。何もなかったかのように治ったわたしを、また殺そうとしてくる。何回も、何回も。
断続的な激痛の中、わたしはすぐに正気を手放そうとした。もう限界を超えていた。早く楽になりたかった。そんな中、声が聞こえてきた。
『愛してる。ずっと愛してる』
痛み以外の感覚が、ようやく呼び起こされた。だからその時だけは、痛くてたまらなくても、少しまともでいられた。兄の声。今度は優しかった。しかも本気の言葉だ。他にどうすることもできず、わたしはそれにすがりついた。兄が助けてくれる。根拠のない希望を、確定した未来であるかのように信じた。
『愛してる』わたしも。『愛してる』わたしもだよ。『愛してる』お兄ちゃん。『愛してる』お兄ちゃん、ねえ。『愛してるよ』『愛してる』『ずっと愛してる』とも、ねえったら。『愛してる』『愛してるぜ』『永遠に愛してる』とも、とも。『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してるからな』『一生愛してる』『愛してるよん』とも、お願い。『愛してる』『ずっとずっと愛してる』『愛してる』『愛してる』お願い、わたしを。『愛してる』『ずっと愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』わたしを、助けて。『愛してる』『誰よりも愛してる』『死んでからも愛してる』『愛してる』『愛してる』
『愛してる』おかしな点があった。『愛してる』兄は電話越しに言ってきている。わたしが元通りになった直後、電話の少し変な声で言ってきている。『愛してる』優しい声で。わたしを包み込むように。『愛してる』
『愛してる』知ってるんだ。『愛してる』そう確信した。兄の言葉はどれだけ繰り返されても、変わらない優しさを持っていた。一方で、すごく悲しそうだ。『愛してる』だから、兄は知っている。わたしの苦しみを知っている。状況がわかっている。わかっているのに、何もしてくれない。『愛してる』兄は、何もできないのだろうか? ここには来られないのだろうか?
そんなことは、ありえない。『愛してる』場所がわからないかも。だから、がんばって言おうとした。兄の声に被せるようにして、駅前にいるから助けてと叫ぼうとした。でも、無理だった。兄の短い言葉が終わらない内に、マンホールがやってきた。わたしは口を開けただけで顔全部を潰された。『愛してる』無理だった。何もできなかった。話すことさえ。『愛してる』なのに、兄はできている。何度も何度も声を出せている。『愛してる』ちょっと、うるさい。『愛してる』うるさい。『愛してる』
うるさいうるさいうるさい『愛してる』うるさい! うるさすぎちょっと黙って考えさせてよおねがいおねがい『愛してるよ』『ずっとずっと愛してる』うるさい『愛してる』『誰よりも愛してる』『愛してる』『一生愛してる』すこしくらいわたしのことかんがえてようるさいうるさいうるさい『愛してる』
兄は何もできないわけじゃない。わかってて、『愛してる』を言ってきている。できないんじゃないくてやらないんだ。 兄はわたしを見捨てている。見捨て続けている。『愛してる』じゃあこの言葉は何なのだろう。愛してるなら、助けに来てくれるはずだ。いつもそうだった。そばにいて欲しい時に、兄はそうしてくれた。なのに、今回はそうじゃない。なら、兄は兄じゃないのかもしれない。何か別の、悪いものと入れ替わっているのかもしれない。『愛してる』
いつから? 兄が本当におかしくなったのは、お母さんが死んだ後からだ。だってあの二人、恋人同士みたいだったから。兄がおかしくなるのは当たり前だ。わたしが邪魔だから、わたしが残っちゃったのが残念だから、『愛してる』こんなことするの? こんな嘘をつくの?
不意に、目の前が開けていくような気がした。
お母さんが亡くなってから少しした後、わたしは兄と喧嘩した。兄に元気になってほしかったから、わたしが悪者になろうと思った。でもほんとは、ちゃんと話したかった。喧嘩みたいな形にはしたくなかった。その中で、兄はおかしなことを言った。
お母さんは自殺したんじゃない。誰かに殺されたんだって。あの時は怖くなって流したけど、もし根拠があって言っていたのだとしたら? お母さんを殺した奴は、兄もおかしくした。そして乗っ取ったのだ。
『愛してる』だまれ。『愛してる』『ずっと愛してる』『愛してる』お前の正体を知ってる。もうだまされない。ずっとわたしをだましてたんだ。お母さんを殺したのに、何事もなかったかのようにわたしと一緒にいた。そして最後に、わたしを殺そうとしてる。負かそうとしてる。『愛してる』お前なんかに負けない。『愛してる』絶対に。
わたしはさらに沈み込んでいった。顔を潰され続ける痛みに慣れることはない。だけど、膜を張ることはできる。他の全ての感覚も鈍くなってしまう代わりに、耐えられない痛みも耐えられるようにしてくれた。さらにそこに、熱を加えた。焼けるくらい熱くなれば、痛みが紛れてくれる。
最初から、そうだったんだ。『愛してる』この男は、生まれた時からそうだったのかもしれない『愛してる』だって、お父さんもそうだ。お父さんも、こいつのそばで死んだ。こいつだけが助かって、お父さんは溺れて死んだ。きっと事故じゃなかったんだ。わたしを滅茶苦茶にするために、あの男はお父さんとお母さんを滅茶苦茶にしたんだ。『愛してる』わたしよりも先に産まれて、わたしが育つはずの場所を台無しにしたんだ。
『愛してる』憎たらしい。『愛してる』殺してやりたい。『愛してる』殺してやる。わたしに兄なんていなかった。兄がいたから、おかしかったのだ。わたしはもっと幸せになれるはずだった。たくさん愛されるはずだった。兄と比べて両親に自分がどう思われているかなんて、悩む必要もなかったのに。
絶対に殺してやる。顔をつぶしてやる。その前に首を折ってやる。肉体的な痛みだけじゃ足りない。こいつが一番幸せな時に、叩き落としてやる。こいつが大事にしてるもの全部壊して、滅茶苦茶にしてやる。その前に喉を潰さないと。悲鳴すら出せないようにしてやる。
気がつけば、声は聞こえなくなっていた。わたしは真っ白な空間にいた。
誰かがそばに立っている。気配しかわからなかった。目で見ても、耳で聞いても、手で触ろうとしても、できなかった。空気よりも軽くて、鉄よりも重い。そんな存在がわたしを包みこんでいるのがわかった。
そして、暗転。体全体が絞られるような感覚と共に、わたしはぬるい感触を得た。目を開けても、真っ暗だった。でも静かではなかった。女の人の、苦しそうな声が聞こえる。手を伸ばすと、膜のようなものに当たった。ものすごく、安心する感触だった。
わたしは、産まれた。日本語じゃない言葉が聞こえてくる。英語だ。わたしを抱いているのは、日本人の女性に見える。見覚えがあった。そして外国人みたいな顔つきの男がやってきて、わたしを抱いている女をマリと呼んだ。
一条茉莉。一条あいの母親だ。わたしは一条あいになったのだ。どうやってなんか、関係ない。わたしには全てわかっている。わたし自身が産まれる前に、あの男を殺さなければいけない。そうすれば未来が変わるのだ。そうに決まっている。幸せな未来が、待っている。
わたしの口が、勝手に開いた。喉が震えた。前が見えない。目をつぶっているからだ。顔全部をくしゃくしゃにして、泣いている。一条茉莉の腕に包まれた。とても暖かった。
その暖かさが、強くなっていく。熱くなってきた。泣くのがやめられない。泣き声をあげているのは、わたしじゃない。おかしい。一条あいはわたしになったはずなのに。熱は母親の腕からではなかった。わたしの胸の中から来ていた。
わたしじゃない。わたしじゃない誰かが、体の中で巡っている。熱が口を大きく開けて、牙をわたしの脳に突き立ててきた。おまえはちがう。その声は針のように鋭かった。おまえは、わたしじゃない。でていけ。
わたしは、熱に呑み込まれた。自分が何を刺激して、何を呼び起こしてしまったのか。考える間もなく、流されていった。
流されて、俺の中に現実の感覚が全て降ってきた。自分が寝ているのか起きているのか、わからなくなる。それでも、柱のようなものがあった。俺の左手を押してきている、注射器の針、それだけが確かだった。その力が前後不覚になった俺を支えてくれた。
その支えを少しずらす。そして一気に力を抜いていく。
注射器が加速しながら落ちた。その針の先が俺の頬の表面に到達し、簡単に皮を貫通して内部の肉を刺していく。尋常ではない痛みがやってきたが、そのまま受け止めた。俺は相手の目だけを見ていた。針が頬の肉に刺さって引っ張り、痛みが増しても見続けた。
注射器が勢いよく引き抜かれた。横へと放り捨てられる。
「ごめん」
俺の平坦な声を破るようにして、拳が頬に食い込んできた。針でできた傷が潰れて、血が絞り出される。
「ごめん」
イオニアン・リングの効果。それをはめた相手が俺と同じ時間を生きる。俺は美晴を殺していた。何百何千と痛めつけていた。そんな俺に与えられた時間は、一ヶ月。美晴は数秒。その差は圧倒的だった。苦痛の次元が違っていた。
俺を何回も文化祭の発表終わりの一か月前に飛ばしたように、化身を使っている何かは美晴を十六年前に飛ばした。終わらない苦痛で変えられた彼女を、一条の中へと放り込んだ。
奇跡ではなかった。お膳立てされた上での、汚れた必然だった。美晴だけじゃなく、一条あいそのものも俺は変えてしまっていたのだ。生まれる前から、決定的に歪めてしまっていた。本当は、彼女は日本に来ることはなかったかもしれない。役者にはならないで、たくさん友達を作って、優しい誰かと結ばれて、幸せな家庭を築いていたかもしれない。その可能性を、俺が潰した。化身の導きがあったとしても、イオニアン・リングを使うことを決めたのは、最後の引き金を引いたのは俺だった。
できれば、もっと強く殴ってほしかった。注射器を捨てずに、俺の両目に刺してほしかった。それでも、自分を許せる気がしない。俺は死にたくなった。でも死んで楽になりたくはなかった。だから生きることを選んだ。生きて、どんな苦しみも受け止めて、誰かを不幸にした分だけ、誰かを幸せにする。そういう道を進むことにしたのだ。
無理やり一条の体を抱きしめた。ジェスタの格好をした俺の腕の中で、メイユーの格好をした彼女が暴れている。肩を噛んできていた。布越しに肉に食い込むのがわかった。それでも俺は、抱きしめ続けた。二人の女性を同時に抱きしめていた。
「だめな兄でごめん。馬鹿な友達でごめん。俺を、許さないでくれ。憎んでくれ」
彼女は俺の胸に頭を叩きつけた。うなり声が続いている。
「でも、美晴。お願いだ。一条を解放してくれ。彼女は何も悪くないんだ。ただ生まれてきただけなんだ。代わりに、俺にとりついてくれ。憎いのは俺なんだろ? お前の苦痛、全部背負うから。俺が死ぬ時、お前に殺されてやるから。だから、一条だけは、自由に」
「一条、一条、一条って、うるさい」
子供が無理をして低い声を出しているような。不安定な揺れが常に声の底にあった。
「わたしは助けてくれなかったくせに。見捨てたくせに」
相手の表情は、痛ましいくらいに怒りで歪んでいた。一条の綺麗な顔に、別の誰かの激情が宿っている。凄まじい迫力だった。
「うん。俺のせいだ」
「全部、なくなった。お父さんも、お母さんも、大好きだったのに。全部お前がなくした」
「俺のせいだ。父さんは、本当は助かるはずだった。俺が手を引っ張り上げてれば、溺れずに済んだんだ。母さんも助かるはずだった。俺が化身の警告を忘れずに三年間死ぬ気でやってれば、首を吊らずに済んだ」
「死んでしまえ」
「お前が苦しんでるのも、俺のせいだ。中途半端なところで満足して、安心して。俺の油断がお前を変えたんだ」
「死ねばいい」
「俺は死ぬべきだ。でも、まだ死ねない。俺は、一条と辻田、藤野を幸せにするんだ。最高の環境を用意するんだ。それが俺の、残された唯一の価値なんだ。それが終わったら、俺を殺してくれ。俺を地獄に送ってくれ。父さんにも母さんにも二度と会えないようにしてくれ」
「死んじゃえ……」
彼女は俺の胸に顔をうずめた。暴れていた腕が静かになる。俺は半身を起こしながら、一条を抱きしめ直した。このまま首を絞められてもいいと思うくらい、彼女を支えながら、彼女に身を委ねた。
「でもその後は、幸せになってくれ。どうしようもない馬鹿でだめな兄なんて忘れて、お前は幸せになれ。お前は幸せになるべきだ。美晴、お前にはその資格がある」
彼女は、首に腕を回してきた。そのまま絞めてくるのかと思ったら、たださらに強く抱きついてきただけだった。
「違う。ともは、だめななんかじゃない」
彼女の震えと嗚咽が、俺の胸に伝わってくる。
「美晴?」
「わたしを、ずっと支えてくれた。ほんとは寂しかった。お父さんとお母さんに会いたかった。でもともがいたから、わたし、生きてられた」
「俺も寂しかった。でも美晴がいたから、生きていられた」
一条の目から、涙が流れている。今まで乱れていた瞳の光が、俺の眼前で綺麗にまとまっていく。そこか発せられる感情の波は、俺にそれ以外の全てを忘れさせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝るのは俺の方だ。お前は何も悪くない」
俺は一条の頭を撫でた。一定のリズムで、優しく叩いた。幼少時の美晴が泣いていた時、母さんがよくしていたあやし方だ。俺も何度も真似をしたことがある。多分これが最後になるのだろう。薬指の痛みが弱まってきている。一条のイオニアン・リングが、わずかに光っている。徐々に存在が曖昧になってきている。
「だめな妹で、ごめんなさい」
「美晴は、最高の妹だった。俺はお前といて、幸せだった」
「ともは、最高のお兄ちゃんだった。だから、地獄なんて言わないで。死ぬなんて言わないで。ちゃんと、生きて」
「わかった。生きるよ」
「自分を、好きになって」
この会話、この言葉一つだけで、きっと俺はどこまでも進んでいける。今日という日、今という時間、決して忘れはしない。録音しなくても、撮らなくても、永遠に憶えている。俺の中だけにしまっておける。
「好きになるよ。お前が好きだから、愛してるから、自分を好きになれる」
息を吐き出してから、一条の体が重くなる。全身の力が抜けているようだった。美晴、と呼びかけても返事はない。体を揺すってみても、反応はなかった。俺は彼女の薬指を見る。ほとんどリングは消えかかっていた。
もう、ここにはいられない。できればいつまでも余韻に浸っていたかったが、どんな場所にいても時間は容赦なく俺の背中を押してくる。一条と俺を外に出す。そういう意識をした瞬間、白い空間が暗闇に塗りつぶされていった。
息を吸う。少しだけ、埃っぽい。面白空間内の空気は、異常に澄んでいた。この舞台から出ても、外に出ても、きっとあの空間にいる時と同じ気分にはなれないだろう。あそこで起こったことを考えると、もう他のどんな素晴らしい場所に行っても、満足できないかもしれない。
間近で呼吸音が聞こえた。暗闇に少し目が慣れてきた。一条は目を開けている。その大きな瞳を、俺の鼻の辺りに向けていた。
「離れて」
語尾が震えていた。俺はその通りにした。彼女は静かだった。俺のそばに座り込んだまま、目を拭っていた。気まずい数秒が流れてから、俺の方から言った。
「憶えてる?」
「わからない。私、気絶してた?」
「いや。じゃあ、何も憶えてないのか」
「悲しい夢を見てたような気がする」
彼女はさらに目を拭った。自分の涙に戸惑っているようだった。あまり直視したくなかった。もう泣かないと決めていたのに、俺まで揺らされている。
「生まれてからずっと一緒だった、妹を失くしたみたい」
「俺も同じ気分だよ」
足音が複数聞こえてきた。舞台横の扉が開かれる。それで少し、明るくなった。辻田と藤野は俺たちを見つけると、目を丸くした。
「来ないと思ったら、まだいたのかよ。おい、お前ら大丈夫か?」
「な、泣いてるの? なんで?」
俺は彼らの顔を見てから、苦笑した。まだ心から笑うのは無理だったが、気持ちだけもそうしていようと思っていた。
「ちょっと、感動して。やりきったなって」
「お前が泣き虫なのはわかりきったことだけど、一条もかよ。スマホ今だけ返せ。貴重映像だ。撮っておきたい」
一条は鼻で笑った。でも罵倒を返す余裕まではないみたいだった。慌ててメイク落としをしようとしている藤野にも抵抗していない。ずっと泣き続けていた。俺もそれに影響されて、涙が止まらなかった。そして藤野まで泣き始めた。辻田が引いた顔で俺達三人を眺めていた。
「何なんだ一体。てか倉下、お前怪我してんの? 病院行けよ。心と体の」
再び苦笑してから、俺は一条の顔を見続けた。立ち上がることができるようになるまで、じっと見ていた。
一万回以上繰り返してようやく、人生二回目の、高校一年生の文化祭が終わった。
と思っていたが、文化祭はまだ終わらなかった。俺たち演劇部の発表は、多方面で話題になった。生身での宣伝のおかげか、九州から見に来たという人もいた。学校の文化祭で入場制限がかかったのは、そうそうないことだ。だから見られなかった人もたくさんいる。本当は文化祭一日目だけの発表だったが、二日目の一番最初と一番最後にもやることになった。
手と頬の怪我は、それほど問題にはならなかった。自分で応急処置をしてから、面白空間にもこもった。二週間そこにいても、現実では半日も経たない。再び舞台に立てる程度には、回復できた。
回復した俺は容赦なく負けた。一日目のようなパフォーマンスはできなかった。あれは一度きりの、何もかもをさらけ出したからこそできたことだ。繰り返せば、風化する。大切な思いが陳腐なパッケージに収められてしまう。
俺が弱まると同時に、一条の演技は二つ三つほど段階が飛んでいた。途中から、俺も観客になりたいくらいだった。一番そばで見られるが、一番矢面に立たされる。
今までもすごかった。吞み込まれるくらいだった。それなのに、簡単に超えてくる。すぐそばで一条の演技を浴びて、まるで以前の彼女は狭い籠の中で飛び回っていただけのように思えてきた。俺がどんなに今までの経験を駆使しても、彼女という船から振り落とされないようにするだけで精一杯だった。結局千年の凡人は、十三年の天才には勝てないようだ。
一番苦労したのは、学校側の調整担当と文化祭の実行委員だろう。俺は演劇部皆で関係各所に礼を言いに回りながら、文化祭全体の片づけを手伝った。どれだけ感謝していても、もうわざわざ嫌う必要はないとわかっていても、サングラスは外せなかった。
打ち上げ用の食材を買いに行く途中、遠くに見覚えのある集団が目に入った。俺と辻田のクラスの者たちだ。多分、カラオケにでも行くのだろう。そこに混ざることは考えなかった。少しもクラスの出し物に協力しなかったし、無視し続けていたから。
そこに、亮吾と沙良もいた。彼らだけは俺に気づいたようで、少しの間見てきた後、気まずそうに顔をそらしていた。その集団が見えなくなるまで、俺は遅めに歩いた。
彼らと過ごした最初の三年間は、六点にしかならなかった。だがそれは、貴重な六点だ。俺が一度失い、ずっと得ることができなかったものを与えてくれていた。だから、忘れない。どれだけ変わってしまっても、彼らが知らなかったとしても、俺はその三年間を憶えている。倉下ともが幸せだった、貴重な時間の一つだから。




