わたしに殺されないで
そうして俺は、居候を三人抱えることになった。
本番までの時間は、放たれた矢よりも速く過ぎていった。俺は、今の家に初めて心から感謝をした。広めに建ててくれたおかげで、四人で住んでいても何も不都合がない。そして、家という呼称を違和感なく使えている。一条たちが住むことになってようやく、俺の中の基準が満たされたようだった。
彼らは一般的に考えて良い同居人とは言えなかった。一緒に作業している時も、食事をしている時も、あまり言葉を交わさない。多分俺がいない所では、和気藹々とした会話なんて皆無だろう。よく悪口を言い合う。喧嘩もする。俺の中の友達の定義は、とっくに崩壊していた。
それでも、幸せだった。彼らはそれぞれ違う道を持っている。だから簡単には交わらない。しかし目的地は一緒だ。だから彼らの面倒を見ることは、その大きな流れに呑み込まれることと同じだった。それが何よりも気持ち良かった。俺を、今まで感じたことのない境地にまで連れて行ってくれるから。俺が想像したこともない、彼らの幸せの先を見せてくれるから。
でも、それだけではだめだ。彼らの取り組みを自己満足で終わらせはしない。
「どこ行くんだ?」
東京、と答えると辻田は面倒そうに行かないと返した。彼は三十時間くらい起きていたので、もうひと眠りするつもりなのだろう。
東京の新宿駅まで電車で移動した後、俺と一条は駅のトイレで着替えた。吸血鬼の黒のコート。そして水の精霊の踊り子風衣装。そして藤野は緊張した面持ちでプラカードを持っていた。宣伝用のものだ。
都会のビル群の中を移動しながら、俺と一条は、劇の場面の幾つかを演じた。当然注目を多く集めることになる。プラカードにもでかでかと書いていたから、一条あいの存在はすぐにバレた。それでも俺と一条は集まってくる彼らには対応せずに、演技を続けた。一方で藤野は、「無料! 無料で観れます。野岸南高校で講演します。来てください!」と声を張り上げていた。最初はつっかえつっかえだったが、続けている内に堂々と話すようになっていた。
人だかりができて通行の邪魔になりすぎないよう、演技行進は三十分ほどでやめた。三日に一回ほどやった。さらにその時の映像を茉莉さんに頼んで、一条が持つ全てのSNSアカウントに投稿してもらった。宣伝の様子を一部全国ニュースに取り上げてもらったことが幸いし、どのSNSでも大きな反響を得ることができた。
取材したいという依頼も多くやってきていたが、全て茉莉さんを通じて断ってもらった。まだ公演が始まってもいないのに、まるで成功したかのようなテンションになるのが嫌だったから。良かったのは、依頼してきているマスコミの全てが、一条の方に注目していることだった。全て、彼女が一から考えてやっていることだと思っている。いい兆候だった。
野岸南高校の文化祭は、一般開放されている。だが今回の反響を受けて、学生とその関係者のみにしなければ混乱は避けられないという案も出てきた。ということを校長から知らされたので、俺は即座に当日の警備と人混みの整理に関する計画を提出した。これは「経験」を生かして作ったもので、警備員そのものを雇うのはロランのコネを利用させてもらった。学校側はかなり躊躇していたが、俺には切り札があった。「でも俺、母親と妹を立て続けに亡くしてるんですよ」泣き落としだ。
まあまあの高校ではなかった。俺が知る限り派手ないじめはないし、優秀な教師ばかりとは言えないが、悪い意味で尖っている者はいない。先生側に、汚職関係などの弱みは皆無。敵として考えるならつまらないにもほどがあるが、普通に良いがどれだけ難しいことか、俺にはもうわかっていた。
なぜ俺が選ばれたのか。それはもはやくだらない疑問だ。真に選ばれたのは、この高校だった。辻田大志、藤野璃々、一条あいの三人が、同じ学校に集まった。俺はついででしかない。彼らと絶妙にタイプが違い、正面からぶつかることなく都合よく支えてくれそうな人材。ほどほどに外面がよく、行動に制限がかかりづらい環境にある同学年の男子生徒。その候補から、偶然滑り落ちたのが俺だ。
俺は選ばれなかった。他の高校生が普通に勉強して、恋愛して、未来に向けて進んでいくようには、できなかった。自分の意思とは関係なく当たり前の道から落とされて、普通の青春では満足できないようにされてしまった。
だがこれからは、俺自身の意志も加わる。自分から、選ばれないようにしてやる。俺の幸せは、俺だけのものじゃない。どんなに周りからおかしく思われようと、死ぬまで、死んでからも続けてやる。
と思ってはみても、やはり俺は俺だった。
「水、水飲みなよ」
藤野がペットボトルを押し付けてくる。それを飲んでも、何も感じなかった。
「大衆の前で何回も演技してたんだろ? なんでこうなるんだよ」
「バカ。本番と宣伝は違うでしょ。ねえ大丈夫? 顔白いって」
俺はくだらないものから医学的に一応認められていることまで、色んなことを試した。それでも、息の詰まりは治らない。本番まであと三分ほど。ごく短い時間の中、俺は今までにないほどの緊張を乗り越えなければいけなかった。
「吐きそう」
自分の弱々しい声が、嫌だった。一番最初の本番よりもひどい。今まで飽きそうになるくらい繰り返してきたのに、緊張なんていう言葉をすっかり忘れていたのに、頭が真っ白になっていた。
次があると思うから、全力が出せなくなる。もちろん毎回のように高いパフォーマンスを出せる奴もいるが、俺は一条ではない。安心にすぐに流されてしまっていた。それに浸っていたからこそ、こうなる。
辻田や藤野と話していても、全く気が紛れなかった。舞台裏の薄暗い空間で、俺は追いつめられていた。濃いざわめきが聞こえてくる。今までとは明らかに違っていた。学生だけじゃない。テレビ関係の者や、遠くから来た一条のファンもいるだろう。俺は辻田や藤野、一条、そしてその周りの人たちを全て背中に乗せている気分だった。
「おい」
その気配がそばにまで来た時、ビンタされるかと思った。一週目ではされたからだ。だが一条は、俺に近付いてきただけだった。黒を基調とした貴族風の衣装を身に着けて、声とは裏腹に薄い笑みを張り付けていた。いつもよりも白い顔で、緩んだ唇は赤紫色に染められている。
「ジェスタ、いつものことよ。いつものように、壁のそばに立ってればいい。どこに咲いても花は花」
「俺は、男だよ」
「男に似合う花だってあるわ」
そのまま俺の手を取ると、優しく引っ張ってきた。一条は声、所作、あらゆる面において、社交界に気後れする主人公の母親になりきっていた。
教えてもらったことの一つ。舞台に出る時、役者はどうしていなければいけないか。彼女は心構えの話だけではなく、純粋な技術の話をしていた。
『続いては、演劇部の発表です』
拍手が起こる。ざわめきが弱まり、空気がぴんと張っていく。その中でも一条は動き続けた。舞台裏の階段を、俺を引っ張りながら上がっていく。
「今日は大事な日。貴方の記念日になるわ。同い年の子が、たくさんいらしているから」
ざわめきが新たに起こる。これは観客のものではない。音響の方だ。それがかかり始める前から、舞台に出る前から、一条は一番最初の台詞を言い始めていた。言っている途中で、舞台上に出る。
最も素晴らしい登場の仕方。それはわざとらしく派手にやることではなく、流れるように出るのではなく、途中で出ることだった。役としての動作をしながら、その切りの悪いところで出る。実際に生きている者は、音や舞台に出るタイミングに合わせて動いたりはしないからだ。舞台裏から、既に役者は役者本人ではなくなる。
歓声が聞こえた。舞台に上がった一条のことを、観客はまだ一条だと認識している。だから、「ああ、本物だ」という歓声が起こる。それはすぐに、別のものへと変換されていくだろう。
観客の声が聞こえているということは、中途半端だということ。俺はいつも、最初からエンジンをかけられなかった。すぐに意識を修正して、沈み込む。水の中に入ると外の音が小さくなるのと同じように、観客の気配が遠ざかっていった。
イリンが、息子のジェスタの交友関係を広げようと奮闘する。最初の場面は短く、重いものではない。友達を作るまいと、ジェスタは様々な言い訳をする。それを的確にイリンが論理で崩していく。当事者は大真面目だが、見る者にとっては滑稽な場面だ。今までは笑いが起こるのをいつも聞いていたが、今回は違った。何も聞こえなかった。空気の震えだけで、笑ってくれていると認識する。ジェスタとして、それを恐れた。どうしようもない自分を悪い意味で笑っているのではないかと、邪推する。
場面転換の際、舞台裏に入るまで走ることはしない。だがそこからは、速さの勝負だ。階段を静かに飛び降りた後、一条は藤野にメイク落としのジェルを叩きつけるようにして塗られていた。それからイリンの衣装を手で破って下着姿になり、メイユーの衣装を素早く着ていく。その間に藤野が一条の左右の頬にまったく同じ形の精霊模様を描いていく。彼女はそれを十秒以内にやる。斬りつけるくらいの勢いなのに、作られるものは精巧だった。最後まで見ていたかったが、先に俺の出番が来た。
吸血鬼の社交パーティーで苦い思いをしたジェスタは、家出をする。いつもはすぐにイリンに捕まえられるが、今回だけは上手くいった。いつもと違うルート、違うやり方で逃げて、とある枯れた井戸に辿り着く。そこに隠れて追っ手をやり過ごそうとしたところで、出会う。
二度目の一条の登場。その時の空気の震えは、前のよりも静かだった。イリンの時よりもずっと肌を出し、惹きつけるような恰好をしている。俺も含めた全員がそれに呑まれて、声すら満足に出せない気分にさせられた。俺だけは、それをはねのけなければいけないが。
ジェスタと深く関わる女性は、それぞれ違うものを象徴している。フウセラは過去。亡くなった後もなお、恋人としての思いがジェスタを縛り付けている。イリンは現在。終わらない今を望んで、ジェスタを籠の中に閉じ込めている。そして、メイユーは未来。新たな希望、新たな目的をジェスタに与え、彼を本物の幸せへと導く。
「その牙。何でも裂くことができそう。その体。大きくて、誰でも包み込めそう。なのに私が怖いの? 大人みたいなのに、中身は子供ね」
「お前もな」
出会いの場面、前の脚本では台詞と、ジェスタとイリンが互いに少し距離を置いて向かい合う、というト書きしかなかった。そこに一条と俺の解釈を加えて深めていくのが、かつてのやり方だった。だが俺には与えられた。ジェスタ視点の心情が豊富に盛り込まれた小説を、辻田が書いてくれた。
そこには、ジェスタの欲望が書かれていた。触れてみたい、近づきたい。性欲などとは違う、メイユーに対する未知の欲求に戸惑い、より不愛想になることへの自己嫌悪が鮮やかに表現されていた。だから、ただの皮肉の応酬に、重みを感じることができるようになった。
俺は、ジェスタは鼻で笑いながら、足を少し動かす。メイユーへと一歩近づく。意識したものではない。抑えきれない欲望の表れだ。反対にメイユーは、ジェスタが近づいた分だけさりげなく離れる。メイユー視点の小説は読んでいない。それでも、彼女が怖れていることはわかった。かつて人間の子供を自分の体で溺れさせ、殺してしまったことへの恐怖。
アドリブも何個か入れた。特に期待していたのは、面白空間を使ったアドリブだった。劇に必要な小道具を、直接そこから出した。一条からも観客からも、突然出現したように見えただろう。メイユーが精霊の力で茶器を用意するシーンだから、それくらいのことはしても違和感はなかった。当然観客はざわついた。起こったことに引き寄せられて、劇の本筋から注意が逸れた。しかし、一条はそれを即座に修正した。彼女自身の演技で、観客を引き戻した。他の取るに足らないアドリブも、彼女は軽くいなしていた。
場面が進む。回想が挟まれる。
「わたしは、ジェスのそばにいるよ。ずっといる。だからわたしが死んでも、忘れないで」
「忘れないし、お前は死なない。だから、もうそんなことは言うな」
一条はその気になれば、子供でも大人でも、男でも女でも惚れさせられる。フウセラの役の演技は落ち着いたものが多いが、その中には濃い甘さが含まれていた。声音だけでも、ジェスタのことが本当に好きだったのだと理解できる。俺は死ぬまで、その真の深さをわかってあげられなかった。愛していたのに、愛していると言えなかった。
本当は何度だって言いたかった。実の妹だからそういうのを口に出すのは変だとか、周りが見たら気持ち悪く思うだろうとか、中学生の頃から俺はそんな馬鹿げた思いに少しとらわれるようになっていた。親の知らない所で、喧嘩したこともある。美晴はそれから、少し大人になった。謝ろうとしても恥ずかしくてちゃんとしきれない俺よりもずっと、大人だった。
母さんが亡くなってから、お互いに依存していた、というのは俺の願望だったかもしれない。美晴の方は、ちゃんと俺から自立しようとしていた。こだわっていたのは俺の方だった。だからフウセラは死ぬ間際笑っていたし、俺はいつまでも彼女のことをうじうじと思い続けている。
中盤の山場、イリンとジェスタの言い争いの場面。
「こんなことになるなら、俺を産まなければよかったんだ! あんたが俺を、産んだ後すぐに贄にでもやれば……」
声が震えた。でも、涙は出てこなかった。意味がないと知っているから。ジェスタの台詞は、表面と中身が異なっていることが多い。中身の方は、簡単に寄り添うことができた。
お互いに依存していたのは、俺と母さんの方だ。父さんが亡くなって一ヶ月経った頃から俺に大人っぽい服装をするように頼んできたのも、美晴と接する時とどこか違っていたのも、東京の大学に行かないで欲しいと直接的ではない表現で懇願されたのも、そのせいだ。
未来のことを考える。俺はきっと、母さんの所から離れることはできなかった。俺も依存していたから。いつまでもそのバランスが保たれていたとは思えない。母さんが亡くなった後は、抜け殻のように生きることになっただろう。母さんがそれを考えないはずがない。それでも、母さんは最後まで幸せでいられただろうか? 俺は、幸せだっただろうか?
だから、ジェスタはイリンと決別する。父親のことで負い目があっても、フウセラのことで感謝をしていても、離れなければいけない。だからこそ彼は産んでくれたことに感謝しながら、産まなければよかったと彼女に言葉を刺すのだ。
今まではジェスタと自分自身を混ぜると、全て失敗していた。境目が崩壊し、濁流となって俺を飲み込み、気がつけば一条に殴られていた。だが今回は、混ざり合いながら立ち続けている。劇が成立している。
自分の感情に流されたまま、流されていないかのような演技の確立。過去の感情を呼び起こしている一方で、俺自身の今の感情はひたすら前に向けられていた。俺には、未来があった。今までの繰り返しでやってきた演技とは全く違う、未来の幸せに向けた意志が俺を完璧に支えていた。その上で、演技の感情を誘導していた。感情を基に想像し、想像と濁流のような感情がお互いに支え合い、両立できている。一条の教えと俺自身の考えが、お互いに食い合うことなく混ざり合い、新たな色を作り上げていた。
一条は、汗をかいている。ほんのわずかな汗だ。間近で見る俺にしかわからないほどの揺れを表に出していた。興奮したように赤くなっているわけでも、貧血寸前のように青くなっているわけでもない。理想的な血色の良さで、彼女は笑っていた。実際の表情は違う。その時の役の顔になりきっている。だが俺には、狂暴な笑みが見えていた。歯を剥き出しにして、今にも食らいつこうとしている、獣の笑み。
楽しい。何の言葉も思いも付随していない、流れる水のような。ただ、楽しい。俺は演技が好きじゃない。これからもずっと、好きになることはない。でも一条と一緒にやる時だけは、好きになれる。演技そのものではなく、一条の好きなことに貢献できているという思いが、俺に価値を与えていた。
クライマックス。消えたメイユーを追い求め、ジェスタは幻のオアシスを探す。彼女が産まれたとされる場所に辿り着き、泳げないのにも関わらず、その湖に飛び込む。
衝撃。水の音。誰かのうめき声。
シートベルト、外して。俺は少しの間気絶していた。だから父さんが声をかけてくるまで、何があったのかわからなかった。
大丈夫。とも、まずはシートベルトを外すんだ。真っ赤な父さんの額。鮮明に思い出せる。大きな傷から血が流れ出ていた。父さんは何度か額を拭ってから、自分のシートベルトを外していた。
混乱して言葉も出せない俺に対して、父さんは冷静だった。冷静に窓を開けようとしていた。まだ車は沈みきっていなかった。エンジンのある車の後方から沈み始めていたので、俺を前の席に移動させて窓から脱出させようとした。
ジェス。水の中で、フウセラの声を聞く。ジェス、これ以上考えないで。
でも窓は開かなかった。電動式だったが、開かなかった。父さんの呼吸音が早くなった。ドアも開かない。水圧のせいだ。そして車体が完全に水の中へと沈んだ。
ジェス。フウセラの声を聞きながら、俺はメイユーのことを考える。
父さんは窓を割ろうとした。俺は怖がった。水が入ってくるのが怖かった。でも割るのに適した道具は何もなかった。だから父さんは何度も殴った。車全体が揺れた。殴ったせいじゃなく、湖の底に着いたからだった。
中に水入ったら、ドアが開くようになる。大丈夫。こういう時のために、勉強してたんだ。とも、いいか、胸の辺りくらいまで水が来たら、息を吸い込め。服も全部脱いで。車から泳いで出るんだ。岸まで全然遠くない。
俺は返事をすることもできなかった。父さんの額と拳が血まみれになっていて、まだ水が来ていないのに、息ができなかった。父さんは俺を抱きしめた。耳元で、いつものように冗談をいくつか言ってきた。笑えなかったが、俺は息を吐き出した。
父さんが運転席の窓ガラスを割った。その手に何個かガラスの欠片が刺さっていた。頬に血と汗が流れていた。それでも父さんは笑って、大量に入ってきた水を見ていた。それから俺の方を見て、面白おかしく息を吸い込むような真似をした。
俺も必死に真似をした。既に胸まで水が来ていた。肩を水中で叩かれてから、俺は沈んだ。助手席のドアは簡単に開いた。それまでは全然開かなかったのに、嘘みたいだった。父さんの方を確認する余裕はなかった。そのまま湖の中に出た。
水の中で、ジェスタの傷から血が流れ出ていく。自分の血は飲んではいけない。その禁忌を犯し、彼は生きるために漂うそれに食らいついた。そうして、自分の避けてきた過去を鮮明に見せられることになった。
俺はもがいた。舞台の上でもがき、声を出すことなく苦しみを表現した。とてもぎこちなかった。当然だ。ジェスタはちゃんと泳いだことがないし、普通の精神状態ではない。それを表現するためにも、俺は思い出し続けた。忘れたと思い込んでいたものを、掘り起こしていった。
水は冷たかった。春の初めくらいだったから、まだまだ冷たかった。血管がぎゅっと固まり、筋肉までもが凍っていくようだった。だから俺は、上手く泳げなかった。プールの授業では一番楽しんでいたくらいなのに、何も上手く行かなかった。水面が遠い。陽の光が、どんどん暗くなっていく。
舞台が暗くなる。照明が弱くなっていく。その中で、水の流れを聞いた。スピーカーから出されているそれが、俺の中に染みこんだ。
四肢の動きが制御できない。少しも進んでいかない。恐怖と冷たさが、俺を溺れさせていた。
大量の泡が自分の口や鼻から出て、額を撫で、髪を押しのけて先に水面へと向かっていった。
ジェスタ。
背中に、大きな手の感触がやってきた。直後、俺は全身で水の流れを感じていた。体が上へと向かい始める。泡が増えた。全部で二人分くらいになった。
水面に出た瞬間、俺は喘いだ。泣きながら息を吸い込んだ。そして水をかき分けていき、岸へと向かった。下から上に泳ぐことよりも、前に向かって泳ぐ方がはるかに楽だった。
だが岸に辿り着いた時、俺は限界だった。岸に上がりきることもできなかった。草を掴んでもすぐに裂けて、再び顔が下がっていく。また溺れる。そう思った時、再び俺は背中を押された。それで一気に、岸へと上げられた。
地面に向かって水を吐き出しながら、俺は何とか振り向いた。血まみれの手が見えた。水面に辛うじて出ていたそれは、何度か水面を叩いていた。必死に上がろうとしていたようにも、ただ手を振っていたようにも見えた。そしてすぐに、沈んでいった。
フウセラの死に顔を思い浮かべながら、ジェスタは水面に顔を出して慟哭する。
あの時血を与えてやれば。恐れることなく自分の血を飲ませていればフウセラは助かったかもしれない。俺は自分の感情を呼び起こしながら発した。父さんは血をたくさん流して、服をほとんど脱がずに、冷たい湖の中に出た。それなのに俺を二度も助けた。背中を押してくれた。
俺がその手を掴んでいれば、ちゃんと引っ張り上げていれば、助かったのだ。でも俺は父さんのことなんか考えもせずに、ただ自分の苦しみに対応するので精一杯だった。目の前で父さんの手が沈んでいくのをただ見ているだけで、何もできなかった。
ジェスタの手が、水の流れによって掴まれる。岸に上がってから、メイユーの衣装だけ持ってすすり泣く。その背後から、こっそり復活したメイユーがやってくる。
「私のために来てくれたんですね。可愛い男」
現実は、劇のようにはいかない。劇よりも容赦がない。俺は救急車が来て運ばれるまで、水面を見ていた。救急隊員や警察に訊かれても、父さんの最後の光景だけは話さなかった。母さんや美晴にも話せなかった。
場面が変わり、一条の見せ場がやってくる。メイユーがジェスタの血に触れ、その過去と対面する。そしてイリン、フウセラの思いの残滓と言葉を交わす。暗転、藤野のメイクと衣装替えのとてつもなく速く正確な業。タイミングを完全に把握している、辻田の照明と音声の切り替え。一条自身の、目まぐるしく変わる三人分の演技。
「私は許せるようにしてあげたかったんです。ジェスタは、自分を許すべきです。そのために、彼を幸せにします。毎日水を飲ませて、私が無くなってもかまいません。ずっと一緒にいます」
自分を、許してあげられる?
二人の声が最初に聞こえた。母さんと美晴の声だった。自分を許してあげてね。どうか、幸せになって。俺は、家族を全員殺した。殺したも同然だった。こんな都合のいい声を聞く資格なんてない。
「私は彼の過去も今も興味がない。未来が見たいんです。私が見させます。だから、貴方たちはどこかに行ってください。思い出にだけ、住んでてください」
父さんは何も言ってこなかった。いつものように明るい笑みを向けてきているだけだった。母さんの肩を抱き、美晴の頭に頬を寄せて、ただ俺を見ていた。祈っているわけでも願っているわけでもなく。ただ手を伸ばして、俺の胸を正面から押してきた。
顔のあらゆる部位が崩れてどろどろに混ざり合っている気がしたのに、舞台の上に出るとしっかりとした形に固まっていく。その瞬間だけは、俺は俺が好きになっているからだろう。自分の全てを好きになる必要なんてない。全部に価値を感じる必要なんてない。ただ一部だけ、ほんの少しでも好きになれれば、それでいいのだ。
俺は好きだ。一条あい、辻田大志、藤野璃々と一緒にいる俺が好きだ。彼らの夢を支えている自分に価値を感じる。だから今まで耐えてこられた。狂ってしまいそうになるほど繰り返しても、実際に狂いきることはなかった。
だから俺は、未来に進む。未来のためにこの舞台に立っている。
「俺と一緒にいてくれ。ずっと」
「喜んで」
最後は主人公とヒロインが抱き合って終わる。ありきたりだ。だからこそ染みこんでいく。奇をてらうだけでは到達できない。
彼女の呼吸を感じた。一条の体は華奢だった。それなのに、内包するエネルギーはすさまじい。彼女の熱がそのまま伝わってきた。
短い暗転。そして再び照明が灯る時には、彼女は離れていた。俺の腕を掴んで、一緒に上げた。その時ようやく、俺は観客と正面から相対した。彼らは最初、沈黙していた。誰かがうっ、と声を出した。多くの人々の息を吸い込む音が聞こえてきた。うねっている。空気だけで、そう感じた。そして破裂するように、拍手がやってきた。
歓声も混ざっている。指笛や、一条の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。それ以上に、ジェスタとメイユーを呼ぶ声が圧倒的に大きかった。彼らは役者ではなく劇そのものに興奮していた。席が全て埋まっている。壁際に立って観ていた者たちも、少し背伸びをしながらずっと拍手してきている。
俺は動けなかった。だから一条に動かされていた。彼女に引っ張られるようにして、お辞儀をした。拍手がさらに大きくなった。自分の涙が、舞台の上に落ちていくのが見える。心から拍手に応えたくなったのは、今が初めてだった。
幕が下り、舞台の中が真っ暗になっても、耳だけは寂しくなかった。まだ拍手している人もいたし、興奮気味に友達と感想を言い合っている声も聞こえた。
隣を見る。暗闇の中で、一条が動いているのがわかった。まだ俺の腕を握っている。痛いくらい強く。
「どうだった?」
答えはない。大きく頭を揺らしたかと思えば、俺の方に思いっきり寄りかかってきた。全体重がかかっているかのような勢いだった。
「一条?」
彼女の顔が素早く動いた。藤野が選んでいたミドルノート、数時間香りがもつ香水。そのシトラスの匂いがやってきた。まばたきする間もなく、一条の唇が俺のそれに密着した。何の感触もやってこない。あまりにも予想外で、何かを感じる余裕がなかった。
顔を止めようとした名残で、俺の手が彼女の頬に触れている。とても熱かった。興奮や羞恥で片付けていい程度のものではない。明らかに異常な熱を持っていた。汗も大量に流している。
一条は俺の首に両腕を回していた。そして片方の腕を離し、下ろす。口が俺の耳元へと近づいた。乱れた吐息を感じる。
「羊の角、パンダの顔、犬の尻尾」
脈絡のない単語の並びだけで、俺はわかってしまっていた。
「見えてたのか?」
「逃げて。わたしに殺されないで」
その言葉は今まで一番子供っぽかった。一番不安定な声だった。表情はあまりわからない。だが、そのか細くて震えている声から、彼女の生の激情が痛いほどに伝わってきた。その全てが、俺に向けられているということも。
腰の辺りに、一条は触れてきた。そこはちょうど、面白空間がしまわれている場所だった。それがどんな意味を持つのか考える間もなく、答えが示される。全身が絞られるような、異常でとっくに慣れた感触に、俺は不意を突かれた。




