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千年

七時十五分の最終下校時間ギリギリまで部活動をしてから、俺は住んでいる所に戻った。一条の家に皆で夜通し活動する案も出たが、我慢した。誰にも見られない環境で、やるべきことがあったから。

 自分の部屋に入ってから、面白空間に入る。敷かれた布団を畳み、枕と一緒に外へと送ってから、進み始めた。就寝ゾーンと名付けた場所を抜けると、胸の辺りくらいの高さの棚が大量に並んでいるゾーンに入った。それぞれに、同じようなタイプのカメラやボイスレコーダーが収められている。棚の数は優に千を超えていた。

 とりあえずは目についたものだけを取り出してみて、音声を聞いたり映像を見たりした。馴染んだ感触だった。どれだけこれらに支えられたか、表現できない。それから時系列順に全て味わっていった。ほとんど憶えのあるものだったが、退屈ではなかった。母さんの作ってくれた焼きそばがいつだって美味しかったのと同じだ。同じような音声、同じような映像だとしても、必ず微妙に違う部分がある。一条の口調のきつさにもさじ加減があるように、辻田が目を見て話してくれる頻度が違うように、藤野の顔が赤くなる回数にばらつきがあるように。

 夜の八時から朝の六時まで、空間内で過ごした。時折食料の調達やトイレのために出たりはしたが、それ以外は籠っていた。現実時間の十時間は、空間内では十五日間にまで膨れ上がる。その中で、膨大な資料を全て振り返ることができた。

「久しぶり」

 翌日学校で一条たちに挨拶すると、おかしい人に対する目で見られた。俺にとっては久しぶりなのだ。生の彼らを二週間以上見なかったことはあまりない。その寂しさを素直に表現するとすぐに逃げられるので、我慢した。

 奮発して買った高性能のマイクに向かって、お腹を意識しながら言った。初めの言葉を。

「おもろくならなきゃ死ね」

 今度は、軸を決めた。誰のために、何を伝えたいのか。それははっきりしていたから、問題は実際に作る段階に来てからだ。どう撮ればいいのかはある程度経験を重ねていたが、それらをどうつなげるのかはまだまだ素人だった。それでも俺は、手探りで映像を作り続けた。

 苦しかったが、充実していた。そんなことを感じたのは初めてだった。まだ何も達成していないのに、結果が出ていないのに、楽しかった。だから現実世界の三日、面白空間内でおよそ三カ月ほど過ごし続けても、へこたれなかった。定期的に一条たちと直に学校で会えたから、続けられた。

 そして最低限の形ができたと思ったところで、茉莉さんに連絡した。

「遅くにすみません」

『構いませんよ。あいに秘密でというのは、一体どういうことですか?』

「誕生日近いでしょう? 少し手の込んだプレゼントをしようと思って」

『なるほど、いいですね。サプライズですか』

「ロランと話せる機会を作ってくれませんか? 彼の協力が必要なので」

 茉莉さんは最初不思議がっていたが、俺が事情を詳しく話すと快く了承してくれた。

 今思えば、化身はそれなりにヒントをくれていた。なぜ周の始まりが、あの日だったのか。一条家で、ロランと話した直後だったのか。それにも意味があったのだ。一条がロランの娘だということを、もっと真剣にありがたく思えばよかった。

 映像通話のセッティングをして、俺は自室内でロランと画面越しに対面した。

『君がぼくと一対一の会話を望むなんて、不思議だ』

「そうですか?」

『嫌われていると思っていたからね。ただ、その恰好はいただけないな。サングラスくらいは外してくれ』

「すみません。これ外して話すと、苦しくなっちゃうんです。後遺症みたいな?」

『本当かい? やってみてくれ』

 興味深そうな目で言われるのは初めてだった。こちらの気持ちを示すために、ワンレンズのサングラスを外した。映像越しだからか、実際の他人相手よりはましだった。それでも俺はロランの年齢がわかりづらい顔を目に入れた瞬間、腕や肩の感覚が無くなった。寒気が背中を這い上がってきて、お腹の底ではぐるぐるとした熱が大きくなっていき、あっという間に胸を駆けのぼり、喉を通過した。

 俺は吐いた。

『大丈夫か?』

 それほど心配してなさそうな声だった。いや、ただ俺がそう思い込んでいるだけかもしれない。俺は用意していたティッシュや雑巾で周りを整えてから、サングラスを掛け直した。

「まあこういうことなんで。配慮していただけると」

『配慮、ね。日本語は難しい』

 俺は頭の中を切り替えた。口からすらすらと英語が出てきた。

「じゃあこっちにしましょう。頼んだのは俺側ですし」

 ロランは俺の目を見てきた。

『留学の経験が?』少しぎこちない日本語で話しているよりは、貫禄が出ている。

「最近の英会話教室はよくできてますよ」

『習っただけにしては、ぼくの家族のように話しているが』

「娘さんにも協力してもらったので」

 ロラン本人にも、散々協力してもらった。今の彼ではないが、かつては何度も英語で会話の練習をしてもらったことがある。彼も一条も、英語になると印象が少し変わるのは同じだった。さすがは親子だ。

 ロランは椅子を少し前に出した。

『娘は手強い。ぼくは一度もサプライズプレゼントを成功させたことがない。それで、ぼくがどう関係してくる?』

「俺、映画作ったんです。それを娘さんも含めた皆に見せたくて。どう仕上げればいいのか、貴方に教えてもらいたいんです」

 ムービーという単語を言った直後から、ロランの雰囲気が変わった。一条がこれをよく見て育ったからこそああなったのだとわかるような鋭さだった。

『君、映画が好きだったのか?』

「よく見てはいました」

『作ったことは?』

「これが初めてです」

 ロランは微笑んだ。目はあまり緩んではいなかった。

『ぼくはこれから、素人が初めて作ったものを見せられるわけか』

「俺には才能がありません。映画を作る才能は」

『ならなぜ作った? なぜぼくに見せる必要がある?』

「俺の尊敬する人の言葉で、こういうのがあります。一作目は、誰でもできる。吐き出すだけでいいから。でも二作目からは、簡単にいかない。才能がないとできないと。だから俺は、一作目に全てを注ぎこむことにしました。才能がないなりに、全てを懸けました」

『その理論はよく知っている。ぼくとしては三作目が本番だと思うがね。二作目は一作目のアンチテーゼにすればいいだけだ。ともあれ、見ないことには始まらない。ただ三十分ほどで中断させてくれ。ミーティングが入っている』

 ロランのパソコンのアドレスを教えてもらい、映像を送った。かなりの性能のものを使っているらしく、すぐにダウンロードが終わった。彼は俺と映像通話を繋げたまま、自分の部屋で見始めた。ホワイトスクリーンを上から下ろし、そこから映写機で大きく投影する形だった。正直羨ましかった。自分の家でも映画館のように観られる。

 三十分経っても、ロランは動かなかった。彼の電話が鳴っているのがわかったが、それでも反応しなかった。それから一時間が過ぎ、二時間、三時間が経っても、映写機を止めなかった。俺はロランのことをずっとは見ていられなかった。怖かったからだ。自分が本気で作ったものを誰かに見せるのは初めてだった。相手が相手だから、尚更だ。

 そしてようやく、映写機が止まった。外が少し明るくなっていた。午前四時過ぎ。

『腹が減った』

 ロランはスクリーンをリモコンで操作してしまってから、自分を部屋を出て行った。それから少しして、ざるそばと麺つゆの入ったお椀を持って戻ってきた。あちらは午後二時くらいだ。彼は昼食を摂りながら、何かを考えていた。俺はそばをすする音を聞きながら、朝のストレッチをしていた。

 ロランはざるとお椀を片付けてから、椅子に座った。俺と向き合った。

『長い』

「そう思います。どこを削っていいのか、わからなくなっていたので」

『問題だな。最終的に映画作りは彫刻に似る。どう作るのではなく、どう削るかで出来が変わってくる』

 ロランは、たいして話したこともない娘の友達を相手にしているような雰囲気ではなくなっていた。彼はテーブルの上に拳を叩きつけた。それほど勢いはなかった。

『削ることを怠った彫刻はただの木や石の塊でしかないが、映画は違う。映像は雄弁だ。作ったものの魂を表す。はっきり言うと、君の魂は人間じゃない。別の、狂気的な何かだ』

 冗談でも返そうと思ったが、できなかった。相手は俺が常々思っているようなことに、俺の作品を見ただけで到達した。それは、急に陽の光を当てられたような気分だった。

『なぜ映画に予算が必要か、わかるか?』

 自分の答えを言う前に、質問として相手に答えさせる。一条はそういうところも父親に習ったのだろうか。

「良いものを作るため」

『具体的には?』

「高いセット。高い小道具作りとか、そういう」

『最高の映画を作るには、質と量のそろった最高の素材が必要だからだ。その中でも、量は特に重視される。予算が最も必要なのは、そこだ。より多くのシーンを撮るには、場所、物、人をより多く長く借りる必要がある。そのための金が、必要なんだ』

 一条が辻田や藤野の能力について話していた時と、同じだった。その時の彼女と同じくらい、悔しそうな顔をロランは浮かべていた。

『君の映画は、酷かった。長いし、見づらい部分も多い。君のモノローグもぎこちない。シーン同士のつながりもなめらかではない』

 だから俺は、こういう言葉を並べられても平気でいられた。ロランもまた、素直ではないとわかってきていたから。

『だが、そんなのはくそくらえと言わんばかりに、君の魂が表れていた。君の表現のパターンとして、同じ場面の違う場合を重ねて描写するというものがあったが、それは別に独創的ではない。平行世界的表現は陳腐とも言える。おかしいのは、その豊富さだ。この作品に使われた素材だけでも、ぼくの経験上類を見ない多さだ。訊きたい。君はどれだけの時間、撮っていた? おびただしい数の素材を集めるのに、どれだけかかった?』

「千年」

 勢いで答えたら、ロランは真面目に頷いた。訂正する前に、ロランは椅子を回して横を向いた。壁の方を見ている。

『こういう気持ちになるのは、あと数年は先だと思っていた』

 写真が貼られていた。幼い頃の一条が、男の腕に抱えられている。

『できれば、一生来ないでほしいとも思っていた。ぼくは君よりもずっと長く、あいを撮っていたはずだった。だが画面の中にいる彼女に震わせられたのは、君の作品が初めてだった。君は魂を少し注ぎこむ程度で満足しなかった。魂をほとんど分け与えたのか。画面の中の彼らに』

 俺は俯いていた。今まで味わったことのない充実感があった。目を拭い、ロランの鼻の辺りを見つめた。自分が作り上げたものを、理解される。こんなに救われる思いになれるとは、予想できなかった。一条も辻田も藤野も、こういう思いに毒されていたのだろうか? 病みつきになったのだろうか?

『娘の選択は正しかった。これほどまで愛される経験は、貴重だ。苦々しい思いはあるが、君の高校に入ったことは娘にとって幸運だった。あいは神にも愛されている』

 幸運という言葉に、引っ掛かりを感じた。

『仕上げは任せたと言ったな? 遠慮なくやってもいいのか?』

「はい。最初は十六時間ありました。それを四時間にするだけで、俺には精一杯です。全部のシーンに、情が入りすぎてますから。もう無理です」

『心配しなくていい。どうしても残したいと思うシーンほど、完成形からずれていたりする』

「一条の誕生日までには出来上がってるとありがたいです。お金は……」

『娘とその仲間へのプレゼントに、陳腐な価値を付けるのはナンセンスだ。しかし、サプライズにはなりにくいな。ぼくが仕上げることを秘密にしているなら、また話は別だが』

「いえ、サプライズにはなると思います。見せれば、それだけで」

『どういうことだ?』

「彼女達はこういうものが作られてること自体知りません。予測することも不可能です。だから貴方が仕上げてくれたものを見せれば、結構なサプライズになります」

 ロランは少し前のめりになって、画面越しに俺の目を覗き込んできていた。

『君が言っているのはつまり、彼らは映画になると知らないまま、撮られているということか?』

「撮られていると知らずに、撮られています」

 ロランは口と目を少し大きく開け、肩の力を抜いていた。やはり欧米の方がわかりやすい感情表現をするのだろうか。ぽかん、という擬音がこれほど似合う様子は、あまりないだろう。それから彼は肩を大きく揺らし始め、最後には気持ちの良い哄笑をあげた。目尻のつぶれ方が、茉莉さんと少し似ているような気がした。

 画面から消えても、ロランが部屋中をうろうろしていることは物音でわかった。五分ほど放っておかれてから、彼は再び画面の中に入ってきた。

『ほとんどが盗撮で構成された映画か。確かにサプライズだ。面白いな。君の執念と愛の深さに乾杯したい。直接会おう』

 俺が訊き返そうとすると、ロランは電話をかけ始めた。小さいサイズのスマートフォン。そして出た誰かに向かって、早口の英語で指示を出し始めた。色々と表現が重なっていたが、内容そのものは単純だった。一部の仕事をキャンセルして、日本に向かう。妻以外には誰にも知らさないように。

 翌日の夜、俺は初めてロランと直接対面した。やはり一条自身に感じたことと同じく、実物は想像よりも小さく感じた。銀座の回らない寿司屋で年上の男と話すのは初めてだった。彼は鮃や鯛などを中心に食べながら、子供のように作品について話してきた。

「やるからには徹底的にやらなければならない。容赦は必要ない」

「映画作りの話ですよね?」

「二時間半ほどにまとめる。見た感触ではそれくらいにはできそうだ。それと、まずは包括的な契約を結びたい。ぼくは報酬をしっかりと払う男だ。まずはそちらの条件を訊きたい」

「俺はとにかく、あいつらに完成したものを見せられればいいんです。そちらが無償でやってくれるのに、俺だけ金を貰うのはさすがに」

「いや、ぼくはそれなりの対価を貰う予定だ。まあ報酬の話は後でいい。まずは具体的な公開手順だ。ロサンゼルスの小劇場の一つと懇意にしている。一週間程度の公開なら、話を付けられるだろう。ただ外国語映画賞は厳しい。日本の選考会社を通す必要がある。それだと年末までに公開できない可能性が高い」

「待ってください」

 ロランは言葉を切った。嵐が一度収まった。彼が一体何を言おうとしているのか。自分が考えているスケールとはかなりずれていることだけはわかる。

「ロサンゼルスって、どういうことですか? 家で皆で観られればいいんです」

「この映画でアカデミー賞を取る。このままだと望み薄だが、ぼくが仕上げれば十分狙える」

「あ、アカデミー賞って、あのアカデミー賞?」

 ロランは平然と瞳を燃やしていた。

「投票権を持っている者のうち、およそ十五パーセントは役者だ。その下に配給会社の幹部、映画監督、プロデューサー等が連なる。ぼくも当然、投票権を持っている。つまり業界人が決めるわけだ。彼らに深く刺さるようなものが、あの映画にはある」

 サングラス越しに見ても、話しているロランの迫力はすさまじかった。多分その嵐に巻き込まれることを好む人の方が、多いのだろう。だから彼は世界的な名声を手にしている。俺にとってどうかは、まだ判断できない。

「俺は別に、そんな大層なことを思って作ったわけじゃありません。世界の人に向けて作ったわけじゃない。あいつらにだけ向けて、作ったんです」

「ぼくは映画を作る時、いつも妻と娘のことを考えている。誰か喜ばせたい相手を一人二人思い浮かべながら作ればいい。最初から多くの観客を意識して作る映画など、薄味になるだけだ」

 でも、と言葉を重ねようとして俺は止まった。ロランは自分で夢中になっている考えを、人から言われただけで曲げるような男だろうか? もしそうだったら、今こうして話していることはない。彼は絶対に、自分の思いつきで多くの人々を巻き込んでいくタイプだ。それで結果を出してきたのだから、たちが悪い。

「だから、君の最初の要求は達成できない。娘の誕生日には間に合わないだろう。半年遅れくらいのプレゼントになる」その流れに、呑まれそうになる。「今ぼくが思い浮かべているのは、こういう光景だ。毎年、娘を授賞式に連れて行く。今回もそうなるだろう。娘にとっては一年に一度の日常的な非日常。良い機会だが、もはや新鮮味はない。毎回ぼくと一緒に受賞予想をするんだが、いつも彼女の予想が当たる。今回もそうなる、と娘は思っている。そこで、アナウンスがされる。君の映画が呼ばれる。娘の予想が初めて外れる。そしてその動揺を抱えたまま、壇上でオスカー像を貰うことになる。最高だとは思わないか?」

 荒唐無稽な考えでも、ロランの口から出るとおもろそうに聞こえる。そう思わされている時点で、勝敗は決まっているようなものだった。

「できるんですか? そんなサプライズ。貴方の娘は、世の中のこと何も知らない幼稚園児っていうわけでもないB」

「できる」

「ノミネートって、事前に発表されますよね? 一条も絶対チェックするはずだし。どうやってもバレる気がします」

「工夫すればいい。簡単な話だ。ノミネート作品そのものを非公開にさせることはできない。世界が知ることは止められない。だが娘とその周囲だけなら、何とかなる。情報を遮断できる」

「いや、今の時代にはスマホというものがあって」

「壊すか、ハックするかだな。どちらにせよ一度娘のスマートフォンを手に入れる必要がある」

 さも名案であるかのように言っている。

「無茶苦茶だ」

「実行するのは君だぞ。ぼくは近づいただけでも警戒される。日本にいることすら知られるのは危険だ。悲しいことにね」

「今の世の中、情報を得る手段は豊富です。どうしたって入ってきますよ」

「では訊くが、君はあの映画を作っている間、外のことを考えたか? くだらないゴシップやSNSを見たり、憶測混じりのネットニュースを巡る気分になったか?」

「……いいえ」

「二月九日。授賞式まで五カ月と言ったところだ。そこまで隠し通せ。娘の意識を外の世界に向けさせるな。それくらいはできるだろう。あれを撮れたのなら」

 ほとんどロランの声は聞こえていなかった。俺は自分の判断が正しかったことに、ただただ安心していた。作ったものを真っ先にこの相手に見せて良かった。自分じゃ一生及ばなかった領域にまで、話を広げることができたのだ。

「一条あい、辻田大志、藤野璃々を五カ月間演劇部漬けにする」

「なんだって?」

 ロランはサーモンを口に入れてから、もごもごと訊いてきた。俺は答えなかった。既に俺にしか聞こえない答えが返ってきていたから、それで十分だった。

 俺の頭の中にあったのは、一条がテレビ局で色々な人に謝っている光景だった。彼女が演劇部に集中したことで、多方面に迷惑がかかったのは間違いない。おそらく多くの人々が、彼女はおかしくなったと思っているだろう。テレビの仕事を辞めて、学業を選んだ。そういう当たり前の人間だと考えている。

 俺にはどうしても、それが悔しくてたまらなかった。うぬぼれていると言われても構わない。それでも自分もせいであることには変わりない。俺が何もしなかったら、一条は女優業を続けていたから。だから、俺が一切関わらなかった場合の一年間よりも、今の一年間の方が素晴らしいのだと、絶対に示さなければいけない。自己満足で終わることなく、世間に伝えなければいけない。

「条件がいくつかあります」

「よし、聞こう」

「まず一つ目。貴方の作品として発表してください。貴方と一条たちの作品です」

「謙虚さも、度を過ぎると醜悪なものになる」

「これは、必要なことです。なぜなら俺は映画監督じゃないからです。無名の素人が関わった作品なんて、誰も気にしない。彼らが貴方の作品に出ることに意味があります。貴方の名前を使わせてください」

「すがすがしいな」

「二つ目は、最後の素材を撮るための協力。最後だけは、プロのカメラが複数欲しい」

「簡単だな。最後の素材というのは、今回の舞台発表の所か?」

 俺はさらに安心した。この人は、ちゃんと大事な部分をわかっている。

「はい。それでやっと、完成するので」

「手配しよう。他にはあるか?」

 俺は控えめに笑って、次いだ茶を飲んだ。その時初めて自分の手が震えているのがわかった。

「俺は授賞式には行けないので。何かあっても、全部ロランさんが対応してくださいよ」

 ロランはそこで初めて、嫌そうな顔をした。

「娘が怒り狂っても、マリはぼくの味方をしてくれないだろう。むごいとは思わないか?」

「でも殴ったり、首を絞めてきたり、罵倒してきたりまではしないでしょう」

「君の辛抱強さには感服する」

「白々しいですね。貴方も娘に頼まれて俺をいじめたじゃないですか」

「いじめた? ぼくが?」ロランはとぼけながら茶を飲んだ。

「初めて通話した時のことですよ。よく考えれば、おかしいですよね。初対面なのに、俺のことを前からわかってるみたいにズバズバ言ってきた。普段はそういうタイプじゃないでしょう? わかりますよ、話してて」

 ロランの無言で、正しいかどうかは判断できた。面白いものを作りたいわけでも、面白くなりたいわけでもない。面白い何かを所有したいだけ。それはロランの口を借りて一条が発した言葉だった。彼女は辻田や藤野だけではなく、俺も試していた。何度も。

「あいにはっきりと頼まれごとをされるのは、貴重だったんでね」

「俄然、サプライズしてやりたくなりました。泣かせたいです」

 ロランは笑った。小さく置く笑いから、はっきりと声を出す笑いへと大きくなった。俺は一瞬、目の前の男がおかしくなったのかと思った。

「こういうのは、初めてだな。今までも自信はあった。自分のベストを尽くせたという自覚は持ってきた。だが、こんなにも当たり前のようにノミネートされる前提で話すのは、初めてだ。クラクラもそこには何の疑問も持っていない。君は謙虚でもなんでもないな」

「あれを完成させるのは、ロランさんですから。当たり前ですよ」

「取りかかる前に、一つだけ訊きたい。あれは本当のことか?」

 何を尋ねているのかはすぐにわかった。映像内で描かれていること。その中でも、俺自身に関することに訊いているのだと。

 俺は首を振った。

「現実なわけないじゃないですか。これはドキュメンタリー映画じゃありません。ちょっとした現実が混ざったフィクションです」

 フィクションでなければいけない。行き着く先は、そうなのだから。

「現実の狭間に、フィクションを編み込んだ。クチュール・フィクションとでも名付けるか。上品な響きだ。内容に沿っているかどうかは疑問だが」

 事前の確認は、ちゃんと済ませた。演劇部としての練習中、一条がスマホを触った回数は一回だった。その一回は、茉莉さんから来た連絡を確認するためのものだ。つまり今どきの高校生とは違い、それが無くなっても手持ち無沙汰にはならない。

 茉莉さんは、全面的に協力してくれた。やることそのものより、俺とロランが協力していること自体に驚いているようだった。俺の考えを聞いてから、真面目な顔で訊き返してきた。

「あいのだけじゃ、足りませんよね? 大志君と璃々さんの情報も遮断しないと。彼ら全員を、驚かせるんでしょう?」

 それは最もな話だったが、さすがに難易度が高すぎると思って妥協していた。逆に二人にも協力してもらって、一条だけを出し抜くことを考えていた。しかし茉莉さんは中途半端はだめだと言い、辻田と藤野の保護者に素早く連絡を取った。知らない内に、大人同士のつながりが保たれていたらしい。せっかく買ったものなので壊さないでほしいという佳乃さんの意見を参考にしながら、演劇部の皆からスマホを奪うことにした。

「ないんだけど」

「あれ、僕もだ。どこ行った?」

 稽古中だった一条ですら、無言で自分のバックを漁り始めている。スマホ中毒問題の根は深いと思いつつ、俺は自分のそれを取り出した。皆のものと一緒に面白空間にしまうという考えもあったが、それでは足りない。

「良くね? 別に必須でもない。お前ら、友達少ないんだし」

 全員が睨みつけてきた。初めから隠し通すつもりなんてなかったので、怯みはしない。全員の視線を意識しながら、俺は自分のスマホを手に取り、床に思いっきり叩きつけた。バックアップは当然取っていたので、その液晶が無残に割れてもあまり心は痛まなかった。

「はい、これでみんな一緒」

「狂ったのか?」辻田は完全に引いた顔で見てきていた。

「今日からしばらく、スマホなしで行くぞ」

「ちょっと、どっかやったのあんたでしょ。返してよ」

「どうせ使わない。大丈夫」

「あたしのスマホ、ななちゃんが高い金払って買ってくれたのに」

 そのななちゃんが許可しているから、少し罪悪感を感じる程度で済んだ。

「壊してはない。時期が来たら返却する」

「今返せよアホ」

「辻田も怒んなよ。あんまり使ってないだろどうせ」

「シコるための電子小説……」

「想像で抜け。お前ならできる」

「遊びじゃなくて、仕事関係で連絡取らないといけない人がいるんだけど」

 一番怒っているのは、間違いなく一条だった。腕を組んで佇んでいるだけだが、今にも首を絞めてきそうだ。

「そういう時は茉莉さんの借りればいい」

「私たち同士の連絡は? すごく不便だけど。死ねよ」

「不便? なんで? 今はちゃんとこうして意思疎通できてる。何も不便じゃない」

 処置なしと言わんばかりに、一条は肩をすくめた。

「そうじゃない時もあるだろ馬鹿インポ。何かあった時の連携が取れない。いいから返せ」

「ずっとこのままでいればいい。ずっとお互いの顔が見れるようにしていれば、スマホなんて必要なくなる。江戸時代でも、演劇は作られてただろ。なら大丈夫」

 一条は黙りこんだ。辻田は俺の顔を試すようにして覗き込んできている。藤野は口を小さく開けて、俺を見上げてきていた。

 最初に声を出したのは、藤野だった。

「つまり? どういうこと?」

「これからしばらくの間、お前らは俺の家に住むってこと。安心していい。それぞれの保護者から許可は取ってる」

 藤野は両手で口を押えた。そうでもしていないと勝手に変な言葉が流れ出てくるとでも言いたげだった。まばたきするだけの彼女と目を合わせてから、辻田は真顔で笑い声をあげた。

「何すんだよ。そんなことして」

「部活動に決まってるだろ」

「ブラックっていうレベルじゃない。毎日二十四時間、活動すんのかよ」

藤野がおずおずと続けた。

「その間、ご飯とかどうすんの。あ、あと洗濯も。自分でやれって? あたし、自慢じゃないけどそういうの全くできない」

「僕も」

 一条は舌打ちすることで、「左に同じ」をした。

「大丈夫大丈夫。全部俺がやるから。飯も洗濯も風呂沸かすのも、全部やってやるよ。お前らは自分が作るもののことだけを考えてればいい。あと、外食禁止な。ご飯食べる時は全員がリビングに揃って食べる。ルールはそれだけ」

 藤野と辻田は、そこで一番嫌そうな声をあげた。

「ありえない。馬鹿じゃないの? クレープもなしって」

「お前、僕を殺す気だろ」

「駅前の有名なクレープ屋さんのいちごクレープも、マックのハンバーガーも脂ギトギトのラーメンも、全部俺が作ってやる。再現できるから安心しろ」

 二人の勢いは、それで弱まった。

「実を言うと、文化祭が終わったら少し復帰しようと思ってた」静かな声で、一条は続ける。

「ありがたいことに、自分勝手な私をまだ使いたいっていう人がいるから。でもお前は、それさえも踏みにじれと言う。いつまで、そうしてればいいの?」

 正確な期間を答えると、確実に看破される。

「とりあえず一年生の間はずっと。どんなことになっても、一緒にいてもらう」

「お前ごときが私を独占する気?」

「夢中にさせてやるよ。簡単だろ」

「どこが」

「じゃあなんで俺はまだ、念入りに殺されてないんだ? お前、言ってたよな。自分がキャンセルした仕事全部合わせたのよりも面白くなきゃ、殺すって。半年も経ってそこまで面白くなってないのに、俺は殺されていない。お前、実は結構甘いんだよ。優しいんだ。そんな奴をもう半年釘付けにするくらい、楽勝だよ」

 俺の顔を視線で何度か突き刺した後、彼女は横を見た。

 辻田と藤野が、にやにやしながら一条を眺めていた。

「じゃあ今日から家に集合な。不都合のある奴は?」

 予想通り、誰も手を上げなかった。


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