幸せになる
「足りない」
辻田がそんなことを言ってきたのは、俺がトイレから帰ってきた直後のことだった。一条との稽古が一段落してトイレで吐いた後だったから、気分は良くなかった。
辻田は一条と藤野に挟まれながら、自分が書いた小説を嫌そうに見ていた。
「本当に必要なの?」
藤野が言うと、辻田はうなった。
「どうしても。でも、これ加えると延びる。一時間じゃ足りなくなる」
「急だな。何が足りないんだ?」
「一条の出番」
今までそんなことは一度も言ってはいなかった。辻田は一度完成させた脚本を細かく修正することはあったが、大幅に変えることはしなかった。俺たちもそれで十分に納得していた。
肝心の一条は、俺の方を決して見てこない。
「多すぎるくらいだろ。こいつ三役やって、どれも印象深い」
「正直言っていいか? 今回の劇は、一条がメインだ。お前が主人公役でも、一条を見せるための劇なんだ」
「知ってる。十分だろ?」
「皮肉で言ってんのか? このままじゃ、僕の意図した一条の際立ち方が崩れる。それじゃ、劇をやる意味がない」
全員の視線が俺に集中した。俺は苦笑いするしかなかった。
「お前が一条を食ってるとまでは言わない」辻田は笑ってはいなかった。「相変わらず一条の印象の方が強い。でも圧倒的じゃない。見てる側からしたら、お前の方に目を惹かれる瞬間もある。お前が素朴な主人公役じゃなくなってきてる。僕の狙いからは外れる」
「そっか。俺、無理してたんだよ。元々控え目な性格だから。そう言ってくれると助かる」
一条からの殺意の目線は無視した。
「うるせえよ。誰が悪いなんて言った? お前は想像以上によくやってる。ありえないくらい。それを潰すわけにはいかない。だから、一条にはもっとやってもらう。クライマックスの方で、メイユーがジェスタの血の記憶を見る。そこで、彼女がフウセラと会話をする場面を作る」
「一条が同時に二役を演じるってことか?」
「フウセラ側には、一条を入れる必要はない。映像とか、そういうのにする。そういう演出だって面白い」
「今までそんなの使ってなかったのに? そんなの不自然だって。台無しになる。あたし、人形とか作るよ。そうした方が立体的になってさ」
「どちらにせよ、録音が必要なのは確かだ。それなら紛い物よりも一条がちゃんと衣装を着て話してる映像を」
「暗転を使ったら?」
一条は既に、俺なんか気にもしなくなっていた。
「一度、ロンドンで見たことがある。短い暗転の間に、一人が反対側の席に移動する。そして別の人物を演じる。長台詞を言い終えたら、また暗転。そして元の席に戻って、元の人物を演じる。その時は自分の中の悪との対話っていう流れだったけど、今回にも利用できそうじゃない?」
「待ってよ。役が変わるなら、見た目も変わるでしょ? その暗転って何秒? 無謀どころか、不可能なこと言ってるって、わかってる?」
「前に、破って脱ぐ衣装の案が出たでしょ?」
考えるような顔になった藤野に向かって、一条は続ける。
「その劇では、照明の色を変えることによって同一人物の善と悪を切り替えてた。今度はそういうのは使えない。ここの体育館の設備じゃ無理。じゃあ真面目にやるしかない。この場面が来る前に区切りを作ってもらって、その間に準備を整える」
「何の?」
「リリーと私の準備。まず最初はメイユー。それ用の衣装とメイクをして舞台に出る。で、暗転。その間に真っ暗な舞台上でフウセラの長いドレスを着る。お前がメイクを直す。そしてフウセラとして喋る。暗転。フウセラの衣装を破って脱ぐ。中からメイユーの衣装になった私が出てくる。お前がメイクを直す」
「メイユーからフウセラなら、何とかなる。色を落とすだけで済むから。でも反対は無理。メイユーの頬の模様は、描き直すのに十五秒はかかる。どんなに速くしても」
辻田が顎に手を当てた。
「その模様は、描くんじゃなくて貼りつけたらどうだ? シールみたいなの、作っておくとか」
「安っぽくなる。遠目ではごまかせるだろうね。でもそんなのしたくない」
「最初から、メイユーとフウセラのメイクどっちも描いたら?」一条は初めから答えがわかってるような顔だった。「つまり私の右半分にメイユー、左半分にフウセラのメイクをする」
「ギャグで言ってる?」
「私の位置を考えればいい。例えば観客に対して横向きで座る。役を変える時は、席を変えるだけじゃなくて、見える顔の向きも変える。そうすれば、メイクの問題は解決できる。ウィッグもそれ用の作ればいいだけ」
辻田が口の端を曲げた。
「つまりメイユーを演じる時は客に右頬を見せて、フウセラの時は左頬を見せるってことか? 面白いけど、一条、お前にとってはどうなんだよ。かなり動きが制限されるぞ。それで演技がちゃんとできんのか? かなり重要な場面にする予定だけど」
「誰に向かって言ってる? 殺すぞ」
俺はただ、聞いてるだけで良かった。そこに参加できないことでもやもやしていた時期もあったが、もう過去のことだ。俺は俺のできることを全力でやればいい。それが皆を喜ばせることにつながる。
「最後の障害は、それが学校側に認められるかどうかってことだな」皆が注目してきた。「文化祭のスケジュール調整。何分くらい延長する予定?」
「十五、いや二十分くらい」
「辻田と藤野は作業してて。一条、一緒に実行委員とこ行くぞ」
「なんでお前なんかと一緒に?」
意地悪でもなんでもなく、本気で嫌がっているようだった。最近の周では、劇関係の話以外で彼女と会話をすることがほとんどなくなっていた。
「頼む。一人でやるの、嫌なんだよ」
「知るか」
「寂しいんだ。あと怖い。一緒にいてくれるだけでいい。何も話さなくていい」
「嘘くさ」
と言いながら、彼女はようやく俺と目を合わせてきていた。嘘をついているつもりはない。心の底から思っていることを口に出しただけだ。結局彼女の壁の中に手を入れるには、それしかなかった。
事情をちゃんと説明すると、一条は俺から距離をあけながらも後ろを付いてきた。階段を上がり、三年生の教室へと向かう。知らない顔が多めだったから、多少ましだった。一年生の階を歩き回るほど、きつくはない。
文化祭実行委員は一般と幹部に分かれている。一般の方はクラスから男女二名が選ばれるが、幹部の方は有志だ。つまり文化祭におけるまとめ役、学校との交渉を行ったり全体のスケジュール管理、予算の編成などを行う者は情熱を持っている。特に三年生の幹部は受験があるのにも関わらず、全員が文化祭のために尽くしていると言っても過言じゃない。俺が三年生の時も、クラスメートの一人が必死にやっていたのを憶えている。
既に午後六時近くなっていたが、実行委員長と会うことができた。クラスでの出し物制作を手伝っている途中で、十分ほど待たされてから廊下で話すことになった。俺はその間に教室の中を覗いて、演劇部よりもクオリティがちゃんと低いことを確認した。
「スケジュールの変更だって?」
サッカー部のレギュラーも担っているその男子は、親しみやすそうな声を出していた。無表情の一条やサイバーパンク風のサングラスを掛けている俺を相手にしても、戸惑っていない。
「はい。演劇部の発表なんですけど、二十分ほど尺が伸びるかもしれなくて」
「えっと、ちょっと待ってね」
委員長は自分の教室に戻った。小さく一条が舌打ちをする。戻ってきた彼は、小さな冊子を持っていた。それを見ながら、悩ましい声で言ってくる。
「土曜の午後イチか。目玉だもんね。俺の他校の友達も、見に来たいって言ってたよ」
一条に向かって笑い声を出す。信じられないことに、彼女は笑い返していた。それにあてられたのか、彼の次の言葉の初めが不安定になっていた。
「でも、厳しいかな。もうパンフ作っちゃってるし」
「そこをなんとか」
通りかがりの三年生の集団が、俺と一条を見てから笑って通り過ぎていた。顔はわからないが、声だけで笑われたと伝わる。
「そっちががんばってるのはわかってるよ。なんか、すごいらしいね。こんなギリギリで延長したいって言うくらいだから、ほんとに切羽詰まってるんだろうけど」
結構簡単に嫌いになれそうだった。既に顔は黒く塗られている。俺は人間だと思ってないものに向かって、柔らかく頷く。
「そうなんですよ。だからどうしてもお願いしたくて」
「パンフは正直どうにかなるけど、やっぱりスケジュールそのものが厳しいんだよ。演劇部の発表の後って、かなりぎゅうぎゅう詰めで三年の発表が続くから。そこずらしちゃうと、終了時間にまで影響する」
「どうにかなりませんかね」
委員長は腕を組んで考えていた。フリをしているという感じではない。本気で検討してくれている。この人は良い人だ。人気があるのに、それで歪んでもいない。サッカー部にいた頃は、かなり可愛がってもらった記憶がある。
通りまーすと元気よく言いながら、男子数人が大きな段ボールの束を抱えて近づいてきた。委員長が真っ先に廊下の端へと寄り、俺と一条も続いた。通り過ぎる時、男子の顔が全て一条へと向かっていた。少し離れたところで、お互いに顔を合わせて舞い上がっているような雰囲気が伝わってきた。
「やっぱり難しいかな。三年生の発表を優先したいし。皆がんばってる。最後の文化祭だから、やっぱりね」
俺は既にこの相手を見限っていた。自己暗示する必要もなく、苛々している自分がいる。こそりと俺の踵を踏みつけてきている一条も、同じ気持ちのようだ。
「わかってるって、先輩言ってましたよね。俺たち演劇部のこと」
「え? うん」
「どうやってわかったんですか?」
委員長はここでようやく、戸惑ったように組んでいた腕を下ろした。
「俺たちのがんばりをどう理解したんですか? 今先輩は比べましたよね? 演劇部と三年生を。そして三年生の方を選んだ。どういう天秤を使ったのか、知りたいです」
廊下のざわめきが小さくなっていた。淡々とした声でも響かせるだけの経験は積んできたつもりなので、予想通りだった。中には教室の扉か顔を覗かせてきている生徒もいる。
「最後だから、とも言ってました。つまり先輩の中では、俺たちはやり直しの利くようなことをやっていることになっている。どうしてわかるんですか? 先輩は来年いないのに、どうして俺たちの次を理解した気になってるんですか?」
「ちょっと、落ち着いて」
「先輩は、彼女いますか?」
委員長は周りを見た。そういう風に顔を動かしていた。
「急に何を」
「いますよね。国枝千尋さん。バド部の部長でしたっけ。お似合いだと思いますけど、卒業してからも付き合い続けるんですか?」
何事かと、委員長のクラスの者達が教室から出てきていた。
「続けるんなら、結婚する可能性もあるわけですよね。つまり先輩は未来に希望があるわけだ。それなのに、今のたかが文化祭にこだわってる。おかしくないですか? こだわる機会なんて、一年生の時も二年生の時もあったはずなのに、今さらやってる」
「そんな言い方はないだろ。三年生は、最後だからこそ」
「最後じゃないですよ。だって大体は大学行くんでしょ? そこでも学祭はある。なら別にいいじゃないですか。そっちの三年生の一クラスくらいおやすみしても。どうせ大したことないんだから」
かつて本当の高校一年生だった時、三年生の先輩がどことなく怖かった記憶がある。やはり二年上というのは、特別だ。部活関係で上級生の教室に入る時は、いつも少し緊張していた。だが一度三年生そのものを経験していると、話は違ってくる。
「俺たちは、今しかないんですよ。演劇部の発表は、次が保証されてるわけじゃない。学祭の目玉だって、俺たちのこと言ってましたよね? 当たり前じゃないですか。あんたらと違って、俺たちは死ぬ気でやってるんだから。一通り三年生の教室覗いてきましたけど、全部おもんないですね。いいから黙って、俺たちの発表を優先させてくださいよ。。今度の文化祭は文化祭じゃなくて、演劇部の公演会なんですから」
一条の手は速かった。誰かが止める間もなく、俺の頬を叩いてくれた。その気持ちの良い破裂音をきっかけとして、一気に周りが静かになった。
「いった」本当はもっと言いたかったが、その前に二発目がやってきた。実際には一発目も二発目も全く痛くはなかった。事前に頼んでいた通り、彼女は良いタイミングで痛くないビンタをしてくれた。
彼女が三発目を構えたところで、委員長が慌てるようにしてその手を掴んだ。
「なに、なにしてんの?」
「この男は自分が馬鹿な発言をした時、遠慮なく叩いてくれと言ってました。なので、そうしました」
一条は、委員長だけではなく聞いていた三年生全員に向かって、綺麗なお辞儀をした。顔を上げた時の髪の流れる様も、計算されているかのように美しかった。
「お騒がせしました。この馬鹿の言ったことは忘れてください。すみませんでした」
俺は一条に襟を掴まれて引っ張られている間、黙っていた。三年生の階からさらに上に来たところで口を開いた。
「そのまま校長室まで連れてって」
俺は壁に叩きつけられた。一条は顎で先に行けと促してくる。本当は彼女の謝り方が素晴らしいと褒めたかったが、煮立った油に水を注ぎこむようなものだと思ったので、やめた。
校長への直談判は、長期戦になった。最初は実行委員長と同じような理由で却下されたが、今度は俺も相手を怒らせるような発言はしなかった。
「俺、ほんとにこれにかけてて。じゃないと死にそうなんです」
だって、母親と妹が立て続けに死んでるんですよ。演劇部の活動を悔いなくやらないと、学校で死ぬかもしれません。恥も外聞もなく訴えた。一条にはまた演技を頼んでおいた。ただただ、俺の悲しみによりそってくれるような演技を。
校長先生が検討すると言った二日後、パンフレットが修正された。演劇部の発表は、大トリになった。一番最後にやれば、多少延びても影響は少ないと判断されたのだろう。とにかくこれで、一条のあらたな出番を確保することができた。
六十一点。
後は、俺自身がもっとぐちゃぐちゃになればいい。
俺が形を失っても、一条に受け止められてまた別の所に放られると、確かなものとして固まってくれる。稽古やその他の日常の場面では他人未満の空気感だったが、舞台上では比翼のようだった。一方通行の比翼。俺は一条の目と翼がなければ、飛べない。彼女は違う。俺なんかすぐに振り落として、どこまでも飛んでいける。
それを極限にまで難しくするのが、俺の仕事だ。一条が不快になるくらい泥のように纏わりついて、その翼を重くする。嫌いなことでも、長年の積み重ねがある。俺の演技を、もう彼女は完全に無傷では流せない。
劇を終えて舞台裏に下がった直後、俺は一条に殴られた。今度はとてつもなく痛かった。
藤野や辻田に止められている中、一条は蒼白な顔で呼吸を荒げていた。自分の拳を自分で押さえつけている。まるで殴ったことが本意じゃないみたいだ。本気でやってくれていいのに。彼女が荒ぶるほど、俺は自分の演技の成功を実感できる。
六十三点。
やられ方は、様々だった。殴られるだけじゃない。キスされるのかと思ったら、頬の肉を噛み切られたこともある。獣同然だった。流血を伴うくらいのことも、平気でやってくる。頭に血がのぼってのことじゃない。いつも青白い顔で、一条は俺を傷つけていた。まるで抑えつけられない自分を恐れているかのようだった。
いいぞ。
六十三点。
よくない。雲行きが怪しくなってきた。劇の中盤、俺は一条にマウントを取られた。イリンとジェスタの親子の言い争いのシーン。山場の一つだ。そこで俺は母さんと目の前の一条を混ぜ合わせてそこに沈みこんだのだが、それがあまりにも気に障ったらしい。
劇は滅茶苦茶になったが、新鮮だった。のしかかられて殴られながら、変化を期待した。だが点数は変わらなかった。劇が台無しになろうが最後までやり通そうが、六十三点のまま。
百回やっても、千回やっても、六十三点。あと二点取りさえすればいいのに、どんなことをしても届かない。辻田や藤野にしつこく不満があるかどうか尋ねても、ないと言う。一条の敵にもなれている。なのに、変わらない。
今までの苦しみとは、次元が違った。自分が行動を起こすことで、点数が下がったこともある。だがそれよりもきつい。どんなに前とは違うことをしても、点数には現れない。荒涼とした砂漠を水無しでさまよっているような気分になる。
その鬱憤を、全て演技にぶつけた。一条に投げつけた。
「私はお前のママじゃない。お前みたいな気持ち悪い赤子を産んだ記憶はない」
「全力でやってるだけだろ」
「一人でシコってろ。ゴミが」
五十二点。
「どこが悪いかだけ、言ってくれよ。そこだけなんだ」
「死ね」
「他の二人も、お願いだ。悪いのは俺だけのはずなんだ。俺さえなんとなかれば、完璧になるんだ。教えてくれ」
「見てらんねえな」
辻田は部室を出て行った。藤野は迷ってから、その後を追った。
三十九点。
俺はジェスタになった。早めに藤野に牙を作ってもらって、常に装着する。そして、薄手の長袖の黒服。ジェスタとしての衣装も常に身に着けた。学校にもそれで通った。赤く着色した流動食と水ばかり飲んで、彼の口調、思考を過去の自分を参考に作り上げて、そこに沈み込んだ。
二十二点。
俺が足を引っ張っているからだ。どうして俺なんかが出しゃばっているのだろう。一条と釣り合いが取れるのは、プロの中でも上の方の役者だ。だから俺は、一条と共演していた男役者の映像も熱心に見た。彼らのようにやれれば、最低限のことはできると信じていた。
十五点。
「もうやめて」
藤野の叫びで、俺は自分の手を噛む作業を止めた。もうそれなりに血がだらだら出ている。尖らせた歯を思いっきり食い込ませた結果だった。
「倉下、おかしいよ」
「おかしいのはお前らだろ」
俺はおかしくなっている。さすがにそう認めざるを得なかった。
「なんでこんなこと続けられる? 子供みたいに目輝かせて、延々とできる? 頭がおかしいのはお前らだ。人間じゃない」
七点。
人間じゃないのは、俺だ。嫌いなことを、馬鹿みたいに長くやってきた。そんなことができる人間なんて、どこにいる? だから報われるべきなのは俺のほうじゃないのか? 頭がおかしくなっているとしても、これだけやったんだから、もういいんじゃないのか?
なのにどうして、こんなことをする?
総合得点:〇点
つまらなかったので、貴方の一番大切な人が死にます
「面白いって、なんだよ」
面白空間の中で、俺は化身と向かい合っていた。ほとんど食べてしまいたいくらいだったが、どうせ数分もしたら俺の胃の中から出ているだろう。綺麗なままで、部屋に戻っている。燃やしても埋めても、変わりはしない。
『ディックヘッド!』
「面白くなっただろ、あいつら主人公にして、障害も用意した。あいつらはちゃんと乗り越えた。六十三点まで取った。なら、いいだろ。あと二点くらい、さっさとよこせよ」
化身は無表情のまま、無邪気な笑い声を上げた。初めての反応だった。それがどうしようもなく、我慢ならない光景に思えた。
「答えろよ! あと少しだったんだ。どうすればいい? お前が決めることだろ。こんなのフェアじゃない。基準を教えろ、いいかげんに」
『ディックヘッド!』
「ディックヘッドじゃねえよ! なんなんだよ。アホらしい。面白いなんて言葉、大嫌いだ。気持ち悪い。なんで面白さなんてのがあるんだ? いらないだろ。俺には、いらなかった。面白くなんてならなくてよかった。俺以外にも代わりはたくさんいたはずだ。俺は面白くなんてなりたくない。初めからそうだった。生まれてからずっとそうだった! 俺は楽しければそれよかったんだよ。幸せなら、それで十分だったんだ!」
『ラブリーフォックス!』
化身は涙を流している。そのまんまるとした手で、拍手している。
口を少し開けて、俺は息を吐き出した。化身は十五秒ほど動作を続けてから、唐突に静かになった。いつもと変わらない。
「楽しくやる」
『ビューティフル!』
満面の笑み。また少しして、化身は無表情に戻った。
「幸せになる」
『ラブリーフォックス!』
俺は目をつぶった。鈍い拍手の音だけが意識の中に割って入ってくる。異質な拍手だった。劇をやり終えた後の、どうでもいい奴らのそれよりも無機質で、胸の底にまで響いてくる。
「倉下ともが、幸せになる」
『スモーキン』
化身が宙に浮いた直後、俺の足が風を切っていた。鋭い痛み。足の甲に化身の丸く曲がった角が刺さった。かまわずに、足を振り切る。何かを全力で蹴るのは、とても久しぶりで、懐かしい気分だった。
「幸せだろ」
『セクシーベイベー!』化身は空中で一回転しながら、叫んでいた。
「俺は、幸せだ。不幸じゃない。だって、これが終わったら、会えるんだ。最高の自殺して、母さんと美晴に会うんだよ! 幸せに決まってる」
『ディックヘッド!』
「俺は幸せのためにやってるんだ。そうじゃなきゃ、一体、なんのためにこんな」
本当に?
化身のいけ好かない子供の声ではなかった。ずっと近くで、ずっと大人の声でそれは響いてきた。
「俺は、幸せなんだ」
『ディックヘッド!』
もう一度化身を蹴った。空中でぴたりと止まる。甲高い笑い声を上げながら、それは八の字で飛び始めた。目で追って、一番地面の近くまで来たところを狙い、三度蹴った。化身は口をすぼめて、最低評価を言い続けていた。
足から伝わってくる血の感触が、痺れを生じさせる。足の先から、脛、膝、太ももを矢のように通り過ぎ、下半身から上半身へ、そして頭へと到達する。痺れから、声に変換されていた。そのまま口から放出される。
「全部お前のせいだろうが。母さんと美晴を殺したのは、お前だ! 俺を一人にした。そんなんでどうやって、幸せになるんだよ。無理に決まってるだろ!」
化身は敷かれた俺の布団の上で、微笑みながら鎮座していた。
「馬鹿じゃないのか? 俺の、俺の幸せなんて、簡単なんだよ。簡単だったんだよ。もう、幸せになってたんだ。俺は高校を卒業して、大学に行くはずだったんだ。美晴は高校に入学して、母さんは、慣れてきた職場に行って。それで良かったんだ。全部お前だ。お前がいなかったら、全部上手く行ってたんだ!」
本当に?
「だから、もう一度会えれば、死んで会えれば、俺は、それだけで。それを目指してるだけで、幸せなんだ」
安藤先生は、自宅に入ってきた強盗に殺された。まだ成人していない若い男に。その犯人は、先生のかつての教え子だった。化身が仕組んだことだとしても、起きたことは変わらない。先生は、それでも幸せだっただろうか? 向こうで妻と息子に会えただろうか? わからない。
俺は結局、自分を騙す才能すらなかった。何も強くはなかった。俺は天国も地獄も生まれ変わりも信じてはいない。死後の世界そのものを信じていない。死ねば無になると、考えている。
そうでなければ、俺は耐えられなかったから。高校に入学する前に、自分を殺していただろうから。死んだ者がまだ存在するのなら、その事実だけで眠れなくなるだろう。それだけしか考えられなくなる。
「本当は」
いつの間にか、俺はその場にへたり込んでいた。生じた熱は全て固まり、金属よりも重いものになって全身を床へと押し込んでいた。
「本当は、一番会いたいのは、父さんなんだ」もう誰にも話しかけてはいなかった。化身のことさえ、意識から飛んでいた。「また会えたら、俺は、今度こそ代わりに死ぬんだ。そうしなきゃいけないんだ」
『ディックヘッド!』
化身が目の前にまで移動してきていた。
「俺と美晴。子供は二人いた。俺が死んでも、美晴がいる。でも、父さんは、父さんだけだったんだ」
『ディックヘッド!』
「うるせえよ」
『ディックヘッド!』
「うるせえ……」
俺は化身を殴った。柔らかい毛の感触がした。撫でるような殴打は、相手に何の声も上げさせることはなかった。ようやく、まともに相手を見る。化身はすっぱそうな顔をしていた。
両手で抱え上げ、そばに寝かせる。いつもは倒れたらすぐに起き上がるのに、ずっと横になっていた。
「皆を、生き返らせろ」
無言。
「母さんと美晴を戻せ。安藤先生を戻せよ」
無言。
「俺は、そうじゃなきゃ……」
本当に?
仰向けになる。どこまでも続く白い空。雲も太陽もないから、影が全くない。空間感覚を狂わせてくるような空を見上げていると、頭にしつこく残っていた熱が散っていくのを感じた。
六点。その数字が思い浮かんできて、全身にじんわりと広がった。一番最初に、俺は六点を取った。三年間で六点。今は一ヶ月で、その十倍近く獲得できる。でも、一点の重みは変わらない。一点多く取るのに、どれだけの試行が必要か。散々実感させられていた。
逆にどうして、六点も取れたのだろう? 一条たちと関わることもせず、新しいことにほとんど挑戦せず、同じような日常を三年間繰り返して、なぜ〇点ではなかったのか? 六を三で割ると、二。最初の周、俺は一年間で二点を取っていた計算になる。俺は三年間幸せに過ごした。母さんと美晴、そしてもう友達じゃない友達と一緒に。
今足りていない二点は、そういう二点だった。
「俺が、幸せになる」
『スモーキンセクシーベイベー』
化身は寝っ転がったまま、呟いた。子守歌みたいだった。俺は目をつぶり、そのまま寝た。誰かの声で耳を塞いでなくても、眠ることができた。
八時間過ごした後、俺は面白空間を出た。スマホを確認する。通知が多かった。その全てが、俺のことを心配するメッセージだった。既にニュースで美晴の死が報じられている頃だ。一条、辻田、藤野以外全てをブロックしてから、俺は大きく伸び上がってあくびをした。




