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次は殺してやる

 部活動は、平日午後三時半から六時半までの三時間と、土日それぞれ十二時間ほど費やされる。多少、異常なのはわかっている。でも強豪校の運動部などではあり得る範囲なのではないだろうか。多分。

 だがこれも、一条、辻田、藤野に合わせただけのものだ。彼らには才能がある。だからこれくらいの時間でも、良いものができる。しかも彼らは、部活動の間だけ劇の制作に取り組んでいるわけではない。俺がいない所でもやりまくっているだろう。しかも自分からすすんで。楽しみながら。

 だから彼らに追いつくためには、自分の生活を諦める必要があった。俺のことよりも、演じる役のことを理解するようにする。ジェスタは、血を我慢して飲み続けてきた。さすがに血だけで生きるわけにはいかない。代わりに自分の食事に流動食を取り入れた。血をすするようなイメージで、そればかり食べるようにした。

焼き魚や肉料理、揚げ物などをミキサーにかけ、なめらかで食べやすいペースト状にする。野菜ももちろん入れるが、葉野菜は避けた。レタスなどは、ミキサーにかけてしばらくするとえぐみが出てくるからだ。市販の製品に頼る手もあったが、自分で作った方がおもろいのではないかと考えて、やめた。

 一条との稽古以外は、一条を浴びることにした。彼女本人ではなく、彼女の演技を。茉莉さんに頼んで集めた彼女の出演した映画、舞台、ドラマを何度も繰り返し見て分析した。今までもたまにしていたが、今回から日課にした。寝る前の二時間以上はそれに充てた。

 劇本番の彼女の演技も、たくさん食べた。劇終わりに中央席にある学校関係者のカメラを奪い、面白空間に収納。そうして既に何百何千もの映像が集まっていた。

彼女は前と同じ演技を絶対にしない。同じ役同じ台詞であっても、表現の味を変えてくる。リハーサルの演技をなぞりはしない。前の本番をなぞることさえも。日々の練習でさえそうしている。台本読みの段階でも毎回違う演技をぶつけてくる。ようやくどれだけ時間が経っても彼女に追いつける気がしない理由がわかった。彼女は自分の中に安易な基準を作らない。ここまでやれればいい、という妥協をしない。

だからこそ、彼女は絶対に満足することはない。演技で彼女の意表を突くことはできない。引き出しの数が違う。ただ年数を経るだけでは見つけられないようなものを、たくさん持っている。演技が嫌いな俺では、絶対に見つけられないようなものを。

 彼女の「味方」のままでは、これ以上点数は増えない。彼女の教えに従っている内は、彼女自身を震わせることはできない。

「俺はなんのために育ってきたんだ? あんたに飼われるためか?」

 ジェスタが感じているのは、怒りだ。でも俺自身は、哀しい。ジェスタも自分の母親と強くつながっていた。俺もそうだった。ジェスタは疎ましく感じていた。俺はそうじゃなかった。

 でも、本当に?

 思い起こさなければならない。

「飲みたくないもの飲まされて、どこへ行くにもあんたの言葉が付きまとう。邪魔をするな。彼女は俺が自分から関わりたいと思った、初めての相手なんだ。邪魔するな!」

 サッカーが好きになる前、俺は何をしていただろう? 家族以外に、好きなものがあっただろうか? 今はどうだろう? もし母さんや美晴が戻ってくるために、一条たちを犠牲にしなければならないとする。俺はためらうだろうか?

 それでもやるんだ、という声は思いの外小さかった。さらに想像を強める。美晴の代わりに、一条がマンホールの蓋で顔をぐちゃぐちゃにされる。母さんがそれを見て俺を褒める時の笑顔を向けてくる。あれは危険だから。とも、よくやったね。これで一緒にいられる。

 怒りと呼ぶには、苦しすぎた。ジェスタもそうかもしれない。自分の家族に怒ることは、他人へ向けるよりも苦しみが伴う。

「こんなことになるなら、俺を産まなければよかったんだ! あんたが俺を、産んだあとすぐに贄にでもやれば……」

 肌と肌が、強く打ち合わされた時の音がした。一条はもう一度両手を打ち鳴らしてから、氷の顔つきのまま俺に踏み込んできた。

「ここは、泣く場面じゃない」

 右手で、左腕を押さえていた。多分、俺を張り飛ばしたくてたまらないのだろう。我慢しているのは、後にとっておくためだ。つまりかなり本気で、彼女は苛ついている。

「そうだよな、辻」

 辻田は俺の顔を見てから、遅れて答えた。

「ああ。涙目くらいにはなってもいいけど、客にはわかりづらい。だからここは悲しみよりも、どうにもならない怒りを強く前面に押し出した方がいい」

「でも、すごかった」

 藤野が庇うように口を挟んだ。

「今まで一番、ぐぐってきたよ。倉下がこんな上手いなんて」

「上手くはない」

 一条の刺すような声。彼女は俺を睨みつけながら、肩を押してきた。俺は下がった。彼女はまた歩みを進めて、俺の胸の辺りをどついてきた。そのまま、体育館のステージ奥の壁まで追い詰められた。

「ただ、吐き出してるだけ。何も上手くない。お前、何を想像してやった? お前のは想像じゃなくて」

「母さんに、一条と関わっちゃいけないって言われる場面を想像した」

 一条はさらに続けようとした言葉を止めた。

「俺は最初従いそうになるけど、でも納得できない部分もあって。だから初めて母さんに反抗心を抱いた。ジェスタも、そういう気持ちだろ?」

 彼女の顔は冷たいままだった。

「それは想像じゃない。思い出を歪めて、無理やり新しい形を作ってるだけ。絶対にやるな」

「嫌だね」

 まるで俺が異星人の言葉を喋ったかのような空気になった。身を引いた一条に、俺は自分から顔を近づける。

「俺は誰かを演じる時、自分の感情を引き出す」

「やめろ」

「想像力が足りてないから、自分の思い出で補うよ。お前の嫌いなやり方で、お前を超えてやる。お前の才能を試してやるよ。挫折は、新鮮だろ? 多分久しぶりだろうから」

 彼女は針の目つきになった。

「私の教えたこと、無視するつもり?」

「俺には合わないんだよ。ずっと窮屈だって思ってた。これからはお前に反抗する。舞台上でお前を食ってやるよ」

 今までずっと失敗してきた鬱憤も存分に込めて、相手にぶつけた。対する彼女は、歯を剥き出しにして笑っていた。

「当然ペナルティはある。負けた方は、相手に自分の権利を全て委譲する。寝る権利も、食べる権利も。追う夢を、決める権利も」

 最後の言葉に、彼女は一番の反応を示した。

「お前、私の下僕になりたいの?」

「お前を下僕にしたいって思ってる。男とか女とか、関係ない。俺が今まで殴り返さなかったのは、後にとっとくためだ。俺は優しいから、肉体的な暴力をそのまま返したりはしない」

 少しぎこちなくなるのは、仕方なかった。この台詞に合うような実体験上の感情を引き出すのは困難だ。俺は自分に呆れていた。一条にあれだけやられて、なんとも思ってないのか? 自分はノーマル寄りだと思っていたのに。

「勝手にやってろ。間抜け」

 演技の先に賞品を与えることで、少しはぶれてくれるかもしれないと考えていた。だが彼女は澄んだ瞳のまま言ってきた。そこには、期待しかない。飼っている犬が飛びついてきた。次は顔を舐めてくるかもしれない。そういう、甘さを含む期待が。

 もちろん本番では、言い訳のしようがないほど負けまくった。前夜のリハーサルの時、一条は辻田と藤野に謝っていた。もしかしたら、劇そのものが滅茶苦茶になるかもしれないと。だがそうはならなかった。そうはならない範囲で、俺は食われた。

 俺たちの演技がぶつかり合って、劇の調和が乱される。最低限、そこまではいかなければならない。そこからがスタートだ。やがて一条は、今までにない強敵を相手に演技をすることになる。

 と意気込んでいられるのは、最初の方だけだった。今まで俺は、一条にしがみついていればそれでよかった。感じる緊張も、彼女の船から振り落とされて、暗い海に呑まれるのではないかという恐れから来るものだけだった。だがもはや舞台上で俺は独りになった。そばにいるのは、俺を喰らおうとしてくる主人公だけ。

 演じる役が、一条と敵対しているばかりではないことも、難しくさせていた。イリンは明らかな敵として存在しているが、メイユーと、亡くなった元恋人という立ち位置のフウセラは違う。この二人の女性は、ジェスタの良感情と密接に結びついている。だからそれらの役を演じている時だけは、一条を役から切り離して考える必要があった。じゃないと、反抗し続けることなんて到底無理だ。

 一方で、役そのものに対する理解は深め続けなければならない。

「フウセラって、ジェスタとどこまで行ったの?」

 俺の一言は珍しく、全員の注意をちゃんと集めた。

「恋人って言っても、色々あるだろ。付き合いたてと同棲五年じゃ、全然違うだろうし」

「そこ、こだわるのか?」

 辻田は面倒そうな声を出してはいるが、作業の手を止めている。

「こだわるね。フウセラの思い出は、俺の中に深く刺さってる。抜こうとしても返しがあって、無理なんだ」

 想像には美晴を使った。一番デートした回数の多い相手だから。完璧とはいかない。美晴は妹で、彼女ではない。そのずれを埋めるために、より多くの情報が必要だった。

 沈黙があってから、辻田が隣に座ってきた。前の席には、藤野が腰を下ろした。一条は教室の隅の方で目をつぶっている。気にしていないふりをしているようだ。

 フウセラは、体の弱い吸血鬼だ。ジェスタの亡くなった父の親友の娘。幼い頃から交流があった。自己主張をあまりしない、静かな女性だった。だから思い出のシーンは、全て落ち着いたものになっていた。口数が多くて奔放なメイユーとの場面の間に挟むことで、良い味が出ている。

「劇中の描写だけじゃ、手をつなぐくらいしかないだろ? でも付き合ってたなら、好き同士ならもっとやってたはずだ」

「ヤってたってこと?」

 辻田の言葉で、藤野が耳を赤くした。

「まあ、そうなるかな。どうなん、そこんとこ」

「結構深い問題だな」

「どこがよ」

 藤野は椅子をずらして、やや俺たちから遠ざかった。辻田は窓の方を向きながら答える。

「だって、そうだろ。当然、そこらへんの事情も現代日本とは違うわけ。しかもこいつら人間じゃないし。よく考えてみると、普通の恋愛観を当てはめるのはおかしいよな」

「確かに」

 藤野は考える顔になった。赤みは引いていった。

「でもそれなら、や、やってはないんじゃない? フウセラって体弱いし、折れそうだし。彼女もジェスタも、あんまり積極的な方じゃないだろうし。いってもちゅーくらいでしょ」

「人間のちゅーとは意味合いが違うかもしんない。より重いかもしれない」

「別にあたし、ちゅーが軽いなんて言ってないけど」

「僕も言ってねーよ。お前の頭が少女漫画なんだろ」

「は? じゃああんたはちゅーしたことあんの?」

「ないけど」

「あたしもない。なら生意気な口きくなよ。対等なんだから」

 彼らは俺の方を見てきた。

「そっちはあんの?」

「だからそれを今から考えるんだろ? フウセラと俺は……」

「ジェスタじゃなくて、倉下に訊いてるんだけど」 

 自分の役から抜け出すために、少し間を開けた。俺は振り返った。経験がないことはない。自分から頬にしたこともある。家族になら。

「いや、ない」

「なんか間あいたけど」

「お前らの言っている意味でなら、ないってこと。だから、難しいんだよ。いまいちフウセラと距離感がつかめないっていうか」

「謙遜すんなよ」辻田はにやにやした。「中学とかでいなかったの? お前、告白とかされそうだけど。普通に」

「ないけど」

「でもお前にぞっこんな……」

 藤野が辻田の膝を蹴った。辻田は彼女を睨みつけた後、何度か瞬きをした。それから面倒そうに口をもごもごさせる。二人共、俺を伺うようにして見てくるのが可愛かった。気を遣われてしまっているという申し訳なさが強くなるほど、心地良さも増してくる。

「話戻すけど、やっぱりヤってるよな。この劇中世界の事情を考えると、子供の数ってかなり重要になってくるんだよ。僕らの世界よりもはるかに。猶予が人間よりもある吸血鬼とはいえ、ある程度産んで増やさないといけない」

「えー、そんな考え、本人同士には関係なくない?」

「その時のジェスタは、劇本編のジェスタじゃない。もっと弱かった。フウセラもそうだ。そういう二人が、周りの圧力に屈しないなんてどうして言える?」

「でも、あの二人は、そんなんじゃ」

「じゃあなんでジェスタは、死んだフウセラのことをしつこく思い返すんだ? おかしくないか? わかったぞ。ヤってるとヤってないじゃ、思い入れが違うんだよ。ヤってるからこそ、悲劇性が増すんだよ。手つないだくらいでうじうじ思い出すわけねえだろ。多分」

「わかんな。倉下もそう思う?」

「そんな極端なもんでもないと思うけど。ただ、二人はちゃんとお互いのことが好きだったわけだろ。周りから強要されてたとしても、実際に事に及ぶ時は、二人きりのはずだろ? ならしてたって、おかしくないはず」

「してるしてないで、全部決まるの? なんかそれって、軽くない?」

「多分それは、現代の価値観を当てはめてるからだ。よく考えると、性行為って子供を作るわけじゃん。重要な儀式であると同時に、最高峰の愛情表現でもある。それを避けてたら、ジェスタの感情を軽く見ることにもつながる」

 セックスを甘く見るということは、両親を甘く見ることにもつながる。自分自身が産まれるきっかけになる行為を軽んじることになるから。家族という枠そのものを否定することにもつながるから。それは恐ろしいことだ。照れや嫌悪で避けていいことじゃない。

 失敗した、と思った。父さんと母さんはとても仲が良かった。小中学生の時に寝室を覗き見すればよかったかもしれない。数を打てば、そのうち目撃できたかもしれないのに。商品化されているものとは全く違う、本物を見られたかもしれない。

 いつの間にか、会話が止まっていることに気がついた。辻田と藤野は、俺を見てきている。何かを言いたげな顔。最近、こういうことが増えていた。俺が自分の思考に沈んでいると、決まってこうなる。

「ごちゃごちゃ言葉並べて、お前の舌、よく燃えそうだな。そんなに私とヤりたいの?」

 一条が目の前の机の上に座った。

「そんなことは、言ってないだろ」

「ジェスタのやったことならなんでも実践してみたいって、気持ち悪いくらい顔に出てた。役のために、私はお前とキスして、セックスまでしないといけないの?」

 からかうような調子ではなかった。底から響いてくるような、鈍器の声だった。刺すのではなく、潰そうとしている。そっちの方が治りづらいと見越して。俺は受けて立つことにした。

「お前がフウセラの格好して、演技もしてくれるならな」

「劇内で経過する時間はおよそ二週間。対して劇の上演時間は一時間。これによって生じる問題は何?」

「ジェスタの休憩時間がなくなる」

「感情の圧縮が必要になるってこと。演技にはリアリティが重要。でも現実と全く同じにしろと言ってるわけじゃない。考えてみて、一時間の間に、あんたは喜怒哀楽の全てを表現しなくちゃいけない。でも感情ってそんな頻繁に変わるものじゃないでしょ? 感情はグラデーションみたいになることが多い。青からいきなり赤に変わりはしない。紫を経て、変わっていく」

「だから?」

「一つ一つの行動に寄り添うことは大事。でものめり込むな。良い役者っていうのは感情に引きずられることを良しとしない。感情を引きずり回すこともしない。ただ外から誘導するの。でないと、演技に固さが出て、流動的じゃなくなる」

「お前の舌の方が脂乗ってそうだな」

「お前が自殺したいっていうのなら、止めないけど」

 一条を見上げた。机の上に座っていても、彼女はすっと背筋が伸びていた。おそらく幼い頃から意識してきたのだろう。だから俺は、実物で初めて一条を見た時、思ったよりも小さいことに驚いたのだ。

「二人とも」

 藤野の、途方に暮れるような声。これもよく聞くようになった。一条と話し続けていると、いつもこうなる。

「自殺って、どういう意味だよ」

「そのまんま。役作りと聞いて、役者じゃない奴らがよく思い浮かべるようなことを繰り返してると、溺れるぞ。それで素晴らしい役者がどれだけ死んだと思ってる? お前のやり方が行き着く先は、ノイローゼ、薬物中毒、自殺ってとこ」

「俺が、ドラッグやってるように見える?」

「見える。未知の麻薬に食われかけてるように見える」

「死にそうに見えるか?」

「関係ない。私がそうはさせない。お前、今日から本番まで学校来るな。私の家にこもってもらう。徹底的な矯正が必要みたいだから」

 素直じゃないな、と内心苦笑しながら俺は首を振った。

「学校には行かないと」

「今のお前に学校は必要ない。授業もまともに聞かないで、クラスメイトも中学からの友達も拒絶してる。来たくないんだろ? 本当は」

「お前が言える立場じゃないけどな」

 犠牲を経て、わかったこと。欠席扱いになるのは、登校日の日付が変わった後だ。つまり朝の八時半までに登校しなくても、それ以降に学校の敷地内に入ればいい。深夜に登校しても、出席扱いになるということ。

 確かにそれなら、わざわざ律儀に朝から学校にいる必要はなかった。そうしたくもなかった。だがそれこそが、おもろさにつながるのではないかという考えが拭えない。嫌なこと、苦しいことを避けてばかりいたら、点数は上がらない。

「俺は死なないよ。そんなことしない」

「そう思われてる人に限って、首を吊る」

 飽きている上に、苦痛を伴うことなんて誰が繰り返すだろう。演技をしていてそうしたくなることは何度もあるが、耐えられる。なら感情に引きずられながらでも、演技は続けられる。一条の忌避するやり方で、自分の演技を彼女に認めてもらう。それしかなかった。

 俺は今まで、喧嘩をしたことがなかった。半日くらい美晴と口をきかなくなったり、母さんと口論になったりすることはあった。でもそれは、許したり許されたりすることを前提とした、じゃれ合いのようなものだ。今まで喧嘩だと思っていたそれは大したことではなかったのだと、一条との関わりの中で理解した。互いに譲らないと、喧嘩は熱を持ったまま長く続く。

 一条が想像しろと言えば、俺は実体験を思い出す。一条がジェスタの喜びを想像しろと言えば、俺は母さんと美晴が生きていた頃を思い出す。一条がジェスタの悲しみを想像しろと言えば、俺は母さんと美晴の死体を頭に浮かべる。自分の感情を引き出して、ジェスタになりきりながら放出する。

 四十五点。

 毎回俺は、滅茶苦茶になった。本番も練習も関係ない。失神したことも数えきれないくらいあった。眠れなくなって、一日中ジェスタの台詞を叫んでいたこともあった。喉が潰れて、血の味を感じる。苦痛の中の血の味を嫌いになればなるほど、ジェスタの好みに近付くことができる。痛む喉に水を流し込むと、メイユーにより依存することができる。

 一度俺は、本気で溺れてみた。実際にそういうシーンがある。ジェスタがメイユーに抱きしめられて、その体の中で溺れかけるのだ。市民プールでそれをやったら、一条に思いっきりビンタされた。その周はどこにも連れて行ってくれなくなった。だから本番直前の時期に、毎回溺れることにした。

 毎回怖かった。一番嫌な苦しみ方だから。だからこそ、効果があると考えた。自分を縛り付けている何かが、解かれていくような気もしていたから。 

 五十二点。

「一条、苦しい」

 俺は彼女の家にいても、遠慮しなかった。堂々と彼女の教えと違う演技をした。翌日の朝、目を覚めたら彼女に首を絞められていた。異変を察知した茉莉さんに止められるまで、力を一切緩めなかった。

「俺が憎いのか?」

 茉莉さんが色々と言っているのを無視して、俺は一条だけを見た。

「だまれ」

「これはじゃれ合いじゃない。今までのお前と違う。何かあったのか?」

「次は殺してやる」

「殺してくれよ。俺を演技でヤってくれ。まだまだこんなもんじゃないだろ」

 中学二年生の時、彼女はベルリン国際映画賞の二番、銀熊賞を獲った映画に出演した。そこで彼女は殺し屋兼違法薬物の売人を演じた。映像でそれを見た時の震えが、まだこない。画面越しではなくすぐそばで見ているのにも関わらず。

 だから俺は、彼女の皮を剝いでいかなければならなかった。彼女の好きなことで、彼女の奥底にまで届かせなければいけなかった。

 五十三点。

 皮を剥ぐと、中身が出てくる。どろりと広がり、俺を溺れさせてくる。

 一条は底なし沼だ。彼女が知らないであろう解釈を思いっきり尖らせてぶつける。演技の中の彼女は、受けが得意だ。俺の演技を受け止めて自分のそれで包み、もっと大きくしてから投げ返してくる。それで俺は潰される。

 でも一度潰されても、死ぬわけじゃない。俺は復活する。一条だって無傷じゃない。俺は堅い。踏みつけるだけで傷ができる。彼女の足から出た血を吸い取って、俺は立ち上がる。なぜなら吸血鬼だから。

 俺の台詞が彼女にぶつかると、どこかへ飛んでいく。頭の中にある流れが失われていく。言い間違いや、記憶間違いが増えた。嫌と言うほど憶えているはずなのに、たまにそのまま思い起こすことを脳が拒否した。そういう時は、思いのままに言葉を吐き出す。脚本に書かれていたものとは全然違っていても、続ける。

 それで辻田に止められる時もあれば、そうでない時もあった。そうして、線を引く。アドリブがどこまで許されるのか。それを知ったら、あえて線を越え続ける。弱気になっていたら、俺なんかが一条を飲み込めるはずがないからだ。

 五十八点。

 気がつけば、一条たちの顔をずっと見るようになった。演劇部の活動時間が増している。全員が一条の家に集まって、寝泊まりすることが増えた。俺が買い出しに行こうとすると、全員が付いてきた。今まで、そんなことはなかったのに。訊けば、俺が犯罪をしそうだから見張るため、らしい。

 部屋で一人になっても、俺は一条たちを浴びていた。演劇部の活動映像を見てから、イヤホンをして眠る。一条、辻田、藤野の録音された声を聞きながらだと、簡単に寝入ることができた。

 五十九点。

 時折、一条は間を取るようになった。俺の演技の後に決まって。動揺してるのかと思えば、すぐにものすごい演技を喰らって返り討ちに遭う。その時の演技は、彼女の素の肉体の匂いがした。それに浸っていると、時間が飛んだ。気がつけば本番で、その本番も十秒くらいで終わるような感じだった。

 俺は、その感覚をつかもうとがむしゃらになった。また味わいたかった。自分がたいしたことのない馬鹿だと思わせてくれるから。彼女の才能にひれ伏すことは、快感だった。美晴が俺の高校を受験して受かった時と同じくらい、気持ちよかった。


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