一条あいの敵になる
一条の態度は悪化の一途をたどっていた。もはや劇の終わりにハグをしてくれていたのが嘘みたいだ。本当はもう、それだけじゃ足りない。頬にキスとかでもだめだ。それ以上のご褒美が貰えなければ、割りに合わないくらいの時間が経っている。
ただ、点数だけは少し上がっていた。四十一点まできた。何も進展していないし、解決もしていないのに、おもろくなっていると判断されている。もっと一条の怒りを、素の感情を剥き出しにさせればいいのだろうか。
「あいはもう寝てますよ」
「茉莉さんに話があって」
茉莉さんと一条が別々で行動している時は限られていて、そういう時は大抵俺は一条から離れられない状況にいる。だから、彼女が寝ている時間帯が唯一の機会だった。
茉莉さんはカップに入れた紅茶を電子レンジで温めてから、俺の分をテーブルに置いた。表情はわからないが、多分、少し気詰まりに思っているようだ。手の動きが少しぎこちない。
「私も午前に仕事があるので。あまり長くは」
「一条あいさんの弱みについて教えてください」
「弱みって」
「強いとこはたくさん見ました。昔から、彼女はずっとそうだったんですか?」
驚いているということは、体の動きから伝わってきた。徐々にその揺れが小さくなっていき、やがて視線が真っすぐ向けられていることを感じた。俺の目はおそらくちゃんとそれに対してるだろう。
「そんなことを訊かれるのは、久しぶり」
「俺の他にも、こんなことを?」
「大変でしたよ。あいが現場で頑張るほど、親が疑われました。例えば、苦しみや悲しみの演技がすごすぎて、実際に虐待されているのではないかとか」
「それは、大変でしたね」
話は話として受け取って、自分の奥深くには染み込ませない。一条茉莉という存在のことを深く考えずに済む。
「あの子は普段、暴力なんて振るわないんです」
声が優しくなった。固さが取れてくれたのはありがたいが、黄色信号だ。その柔らかさに呑み込まれないよう、俺は意志を強く持った。
「そうなんですね」
「ごめんなさい。倉下君には迷惑をかけっぱなしで。昔は、もっとひどかったんです。私やロランには優しい子なんですが、周りには……」
「昔って、中学生とか?」
「ピークはキンダーガーテン、幼稚園年長くらいの歳の頃でした。同い年の子と少しもそりが合わなくて、そのころまだ私は会社勤めをしていたんですが、しょっちゅう呼び出されていました。ですが本格的に役者としての仕事を貰えるようになってからは、落ち着いたように思えます。こう言ってはあれですが、倉下君と接しているあの子を見ると、懐かしくなります」
「よく、周りの子を泣かせていたんですね」
「逆です。あいはよく癇癪を起こして、泣きながら暴れていました。一人で夜トイレにも行けず、私がいないとすぐに熱を出したりして。おねしょも、八歳くらいまでは定期的にしていましたね」
声に笑みが混じり、小さくなっている。つまり弱みを話しているつもりのようだ。
「もっと前は?」
「前、ですか?」
「つまり、赤ちゃんの時とか」
「たくさん泣いて、たくさん熱を出してました。こんな不安定な命があるのかと驚いた記憶があります。あとは、そうですね。喉が強いとも思いました」
首の動きで、遠くを見ているとわかった。
「忘れもしません。産まれた直後から、あいはずっと泣いていました。喉が潰れるかと思ったくらい。寝て起きた後も泣いてばかりいました。二日目も、三日目も。ようやく泣き終わったと思ったら、ぱっと笑ったんです。私の腕の中で。少しも声が枯れていませんでした」
この相手に相談したのは間違いだったかもしれない。俺はひどく後悔した。その声に含まれている滲み出すような愛情は、猛毒だった。防いだ手にも移って、害を及ぼすほどの。
母親が娘のことを一番理解しているとは限らない。家族だからこそ、見せない面もあるだろう。ならば、友達はどうだろうか。俺よりも一条に近い立場にいる友達なら。
「弱みだって?」
辻田は周りを気にした。男子トイレの中なのに、一条を恐れているようだ。学校でも俺は常に一条とべったりだったので、気にする気持ちはわかる。
「何に利用するんだ」
「別に。なんとなく」
「まあ、わかる。やってけないよな。よく耐えてるよ。僕だったらもう五回は手出てる」
「辻田だったら、返り討ちにされてるだろ」
「つっても、たいしたことは言えないぞ。そういうの、倉下の方がわかってると思うけど」
「それでも教えてほしい。俺の知らないことがあるかもしれない」
「うーん、胸が中途半端に大きいとか?」
「それ、前も話しただろ。やめよう。またボコボコにされる」
「じゃあ、演技のことだな。お前が欲しいのはそれ関係の弱みだろ?」
「でも強みしかない気がする」
辻田は何かを思い出すようにして、視線を遠くにやった。
「お前も見てただろ。一条が初めて僕らの前で演技した時」
「お前がお題出したやつ」
はるか昔のことのように感じられる。辻田は作業を止めて、俺の方を見てくる。両手を広げて、俺の反応を待っているかのような仕草をした。
「わかんない? ここまで言っても」
「全然」
「僕は正直、拍子抜けしたんだ。もっとえぐってくるような凄みがあると思ってたから」
「すごかっただろ」
「レベルは高かったよ。そりゃあな。でも、違和感があった。四つのシチュエーション出しただろ。そのうち三つは、難しいやつにしたんだ。でもとっかかりはあった。一条と共演した役者が演じていた役に近づけた」
辻田が一条への課題を考えていた時点では、一度も彼らは話をしたことがなかったはずだ。一条に試されることを見越した上で、彼女の作品を研究していたというのか。
「おかしいと思ったのは、一番簡単なはずの役の演技が、一番弱かったってことなんだ。おかしいだろ? 軍人や娼婦、老人は演じられるのに、中学生は無理だなんて」
思い出していた。初恋を自覚した女子中学生。一番初めに提示されたシチュエーション。
「そうか?」
「他と全然違ったよ。普段の一条の演技は、劇薬って感じだ。こっちの想像力を強く刺激してくる。でもあれにはなかった。下手じゃないけど、不安定だった」
「一条は、異性を好きになったことがないのかもしれない」
「戦争に行ったこともないし、娼婦として働いたこともない。まだ高校生で、年寄りじゃない。なのにそういう役の演技はできる。堂々と。あいつは想像そのものに没入できるタイプの役者だろ? 経験してないことにも、入り込める」
「じゃあ、どういうことになるんだ?」
辻田は宙を見ながら、親指で顎を触っていた。
「今考えられるのは二つ。一つ目は、役者自身の悪感情が邪魔している場合。つまり恋愛に関するものを嫌悪してるみたいな感じだな。二つ目は、既に強烈な実体験があって、それを消化しきれてない場合。一つ目と似てるけど、こっちはより根が深い。否定してないのに、沼にはまりこんでる。あいつは私情の入る演技を嫌うから、上手くいかないのも納得だ」
「一条は自分の初恋の経験に邪魔されてるってこと?」
「さあ? 断言はできない。でもどっちの場合にも対応できる策はある」
「なに?」
「もっと強烈なもので上書きすんだよ」こっちに向けて両目を大きく開けた。
論外だった。成功する見込みがない上に、実行しただけで取り返しのつかなくなる行為だ。俺はそのおぞましさに対する覚悟ができなかった。
藤野にも訊いたが、そちらは大したことは聞けなかった。家事が全くできないだとか、朝の歯磨きも母親か藤野にやらせようとしてくるだとか。一条が一人暮らしに向いてないという事実しかわからなかった。
一条の初恋。目を惹くタイトル。相反する要素が並んでいると、インパクトが強い。弱みとして上々だが、本人に直接尋ねてみるわけにもいかない。非常に気が進まないが、再び茉莉さんと話すしかなかった。
娘の初恋について教えてほしいと頼むと、彼女は無駄な動きをたくさんした。その対応に時間を取られてから、ようやく本筋の話に入ることができた。
「難しいですね。子供って親にはあまり話さないものでしょう? あの子は特にそうですから」
「こう、兆候のようなものはなかったですか? 特定の異性のことばかり話すとか。その異性と一緒にいると、普段の態度とはまるで違うものを見せたりとか」
茉莉さんはくすくす笑った。
「ああ、その。俺以外で」
「そうですね。小さな頃は性別関係なく突き放していましたし、多少落ち着いてからは、演技以外で顔を赤らめることなんてなくなりました。ただ」
「ただ?」
「映画を見ている時だけは別でした。年上の俳優ばかり出ているような映画を、食い入るようにして見ていましたね。その時の目は、輝いていました」
「つまり、同じ役者相手なら、恋をしていたかもしれないと?」
「どうでしょうね」
茉莉さんは肩を少し上に動かした。否定気味の動作だ。
「あいは、学校よりも撮影現場に馴染んでいたことは確かです。周りは年上だらけですから、頼っていた面もあるでしょう。ですが、恋愛感情となると……。憧れは多少あったかもしれませんが、あまり考えられません」
「断言できるんですか?」
「映像でうっとりと眺めていた役者に現場で会っても、挨拶だけして全く話さないことがありました。話さないのと尋ねてみたら、あいはこう答えたんです。自分が好きなのは演じている役であって、役者そのものではない。尊敬はしてるが、必要以上に関わりたくはないと」
その時の顔や声がくっきりとイメージできるくらい、らしい言葉だった。
「じゃあ、役者以外で。何か、彼女が異性に関して一生懸命になったことはありますか?」
少し身を引いてから、茉莉さんは戸惑ったような声を出した。
「ええと、異性、異性。他にはもう」
「何でもいいんです。聞かせてください。少しでも何かあれば」
「ロランの誕生日プレゼントは毎年選んで贈っています。でも、父親ですし」
「家族でもいいんで」
「家族。あ、そういえば、五歳くらいの頃でしょうか。半年くらい、」そこでためらうように区切った。右手の親指を左手で握る。恥ずかしい時の動作。「半年くらい、私に言い続けてきたことがあります。家族が欲しいと」
頷いて先を促す。
「あいのことだけで手一杯だったので、二人目は全く考えていませんでした。ですがあの子は違ったようで。弟が欲しいと繰り返し言ってきました」
「弟、ですか」
美晴との絡みを思い出す。妹を欲しがる方が自然な気がした。
「難しいと答えたら、じゃあ既に産んでないかと訊いてきました。あいは、その。私に隠し子がいることを願っているみたいでした」
「本当に昔から、変わってたんですね」
「それもいないと言ったら、泣かれました。思えば駄々をこねるような泣き方は、あれだけでしたね。物をねだるような感覚でまとわりつかれたので、大変でした」
一条の気持ちがわかると思える機会は、貴重だ。俺もそうだった。美晴が生まれた後、それまで自分がどこか欠けていたのだと自覚した。母さんにも、美晴が生まれる前はわがままな子だったのに、お兄ちゃんになって変わったねと何度か言われたことがある。一条は、「お姉ちゃん」になりたかったのだろうか?
一条のことを知る助けにはなったが、大きな一歩とは言えなかった。まさか俺自身が「弟」になって、彼女を満足させるというわけにもいかない。彼女が演技のこと以外で心の底から満たされるとは、思えなかった。
今回の難しさを、改めて理解する。辻田に小説で勝てなくても、藤野にメイクや衣装で認められなくても、彼らを満足させることはできた。でも一条は違う。彼女には、演技で対抗しなくてはいけない。彼女と同じ役割を、劇において俺は与えられている。最低限それを全うできなければ、点数は伸びていかないだろう。
「天然の池に行く」
彼女はプールだけでは満足できなくなっているようだった。今までそんなことは一度も行ってこなかったのに、メイユーの意識に近付くために俺まで連れて行こうとした。
「やめた方がいい」
「なんで?」
「池って、あそこだろ。北の方の。あそこ、立ち入り禁止だから」
「どうでもいい」
「危険なんだ。道路が近くて、岸周りの傾斜も大きい。広くないけど深い。溺れたら終わりだ」
一条は舌打ちしようとして、途中で俺の方に顔を近づけてきた。片眉を上げている。
「詳しいな。行ったことあるみたい」
俺は相手を直視できなかった。
「小学生のころから、地元じゃ有名だったよ。事故が定期的に起こるって」
「ふうん」
捕食者のような目つきだったが、それ以上追及してくることはなかった。俺の方が落ち着かなくなって、別の質問をした。
「いつも、ここまでやんの? 役作り」
「馬鹿? なわけないでしょ。死にたいならまだしも」
「この劇は、特別ってことか」
「お前が特別しょうもないから、やってるの。どうしてもいじめられたいようだし」
「一条は、演技が好き?」
「愛してる」
一条はベッドに腰かけた。俺を見ながら、別のものに蕩けるような情を向けている。それがわかっているからこそ、彼女の部屋で二人きりの状況の中、そういう言葉を言われても響いてはこなかった。
「もし役者にならなかったとしたら、自分はどういう生き方をしてると思う?」
少し間を作ってから、答えてきた。
「ママの子宮の中で溺れてると思う」
「ごめん、つまり?」
「産まれる前に自殺してるってこと」
「そんなこと」
「ぬるかった。体が全然動かせなくて、ぬるい水の中に漂ってた。真っ暗で、鈍い音だけが聞こえて。産まれる前はそうだった」
「なんでそんなの、憶えてるんだよ」
「どこから人間か、わかる? 私は、意識が芽生えた瞬間から私だった。異常に早かった。引っ張り上げられたの」
「何に?」
「想像を絶する苦痛。えぐりだしてくるような恐怖。舌を噛みきりたくなるくらいの、憎しみ」
瞳の黒い部分が広がり、深くなっていた。俺はそれに引きずり込まれて、溺れそうになった。
「私は生き始めることが怖かったんだと思う。死ぬことと同じ。知らないものが怖いのは、ごまかしきれない」
「今は?」
「未知に対する耐性をつけた。知らない誰かを演じてると、皮が重ねられてく」
睨みつけられながら言われると、まるで俺が悪いみたいだった。
「将来の夢ってある?」
「これ、インタビュー?」
「俺が知りたいだけ」
録音はしているが。
「演じてる途中で死にたい」
「死ぬことが、夢か」
「最高のエクスタシーであるべきだと思わない? 誰もが恐れる死であっても。私は好きなことをしている途中で死にたい」
「演技のためなら死ねるみたいな?」
「それしか作品をよりよくする方法がないのなら」
「おかしくないか、それ」
相手の目が蛇のように細まった。
「好きの度合いを示す時に、死ねるかどうかで表現するのって、おかしいだろ。だって本当に好きなら、ずっとそれをやってたいって思えるだろ。本当に愛してるなら、永遠にそれをやり続けるって言った方がよくないか?」
目が普通の大きさに戻り、斜め上へと向けられた。
「それ、誰かの受け売り?」
「辻田が似たようなこと言ってた」
「ああ、納得」
彼女は壁に貼ってあるおびただしい量の自分の写真を見ながら続けた。
「強者の言葉だね。羨ましい」
「そう、なのか?」
「どんな好きなことでも、やり続けていれば嫌いになる瞬間がある。でも、やめられない。また始める。本当にやばいのは、嫌いになることじゃなくて、飽きること。それをやっても乾きがなくならないこと。私には自信がない。多分五百年くらいやったら、演技に飽きると思う。すごく恐ろしいことだと思う。それこそ、死なないとやってけない」
超越してやる、と辻田は言っていた。人間に寿命があるのは、最大の敵、飽きることから逃げるためだ。何もかもに飽きたのに生き続けなければいけないとしたら、それはどんな地獄にも勝る。だから僕は超越してやる。永遠に生きても飽きないくらい、好きになってやる。二十四時間で劇の小説を全て仕上げた後、俺に抱えられて家に送られる途中で、寝言のように言っていたことだ。
どうして俺は、耐えられているのだろう。永遠ほどにはないにせよ、かなりの時間を同じことに費やし続けている。なのに怖くない。全ての周の記憶があるし、途中で発狂したことはないと断言できる。
多分、好きではないからだ。今やっていること全て、嫌いだからだ。嫌い続けていられるからこそ、恐れがなくなる。飽きることへの恐怖が別のものに変換される。まともでいられる。
「才能って、なんだと思う?」
一条は面倒そうな顔をした。
「下手な記者みたいな質問やめて」
「一条の考えが知りたい」
長いこと考えていた。それから、指を二本立てた。
「二つの答えがある。どっちも正しいって思ってる。一つ、才能は速さだということ。どんな凡人でも、百年千年かければそれなりのものができる。でも才能がある人は、半年で同じものを完成させる。自分で得た感覚を飲み込んで、血肉にする。つまり意識を無意識に変換できるスピードがあればあるほど、天才と呼ばれる可能性が高くなる」
漫画でも、良くある話だ。部活物で、入部したばかりの主人公が才能を発揮して、先輩をごぼう抜きしていく話。
「この点で考えると、私は普通寄り。天才でも何でもない。役者歴が十三年。もっと短い時間で、私よりも素晴らしい演技をするようになる人はたくさんいる」
「本当にそう思ってる?」
「二つ、才能は過程を楽しめる能力だということ。結果の魔力はどんなに強い人もだめにする可能性がある。オスカーを獲ってなくても最高だと言える役者はいるし、ノーベル文学賞を獲っていなくても素晴らしい作家はいる。承認欲求は大事。でもそれだけじゃ続かない。私は、演技ができるだけで生まれて良かったと思える。辻もリリーも、きっと同じ。作る過程そのものを愛している。結果が伴わなくても、続けられる」
「だから、否定し続けたのか?」
答えが聞けたらそれで終わるつもりだったのに、俺の口は勝手に続けていた。
「辻田と藤野の作品、お前は最初ボロクソに言ってた。でもおかしい。辻田の話を聞いたら、採用された今の劇の話と同じくらいか、それ以上におもろそうなものがたくさんあった。藤野だってそうだ。あんなに徹底的に否定されるものじゃなかった。お前は嘘ついてたのか? 良いものだと思ってても、悪いものだって言い続けてたのか? 過程そのものを楽しんで、結果の魔力に耐えられるかどうか、試してたのか?」
一条の唇が、片方だけ吊り上がった。
「正解って言いたいけど、ヒントを何個も与えられた上に、時間が大幅に過ぎた後の回答は認められない。お前は、訊いたことある? あいつらが何かに応募して、その結果を待ったことがあるのかって」
「いや」
「私はある。答えはない、だった。信じられる? あいつらはあれだけ自分の創作に没頭し、自信を持っていながら、試されたことがなかった。それで満足していたの。自分の中で完結していた」
その時の感情を思い出すようにして、彼女は机を引っ搔いた。
「その未来を想像して、ぞっとした。お前が最初だったのも良くない。あいつらは、お前のたちの悪い優しい反応が評価の全てだと思い込んでいた。そんなわけがない。自分で良いものを作ったと思っても、容赦なく否定されることなんてざらにある。あいつらの未熟な経験で、それを乗り越えられるとは思えなかった」
「だからお前が、否定役を担った」
「さっきは結果の魔力なんて悪い風に言ったけど、結果そのものはとてつもなく大事。なぜなら、良い結果は良い過程につながるから。周りの人が認めてくれれば、より良い環境が提供される。ならどうして、試されることを避ける気になんてなれるの?」
夏休みまでの一条の演劇部における行動は、才能に対する彼女の考えの一つだけを反映したものにすぎないのか。そんなはずはなかった。
「俺らは、無茶をしてる。ありえないくらいの」
「そう思う?」
「普通劇って、制作期間が長いものなんだ。ブロードウェイの劇は、早くて考案から上演まで三年かかるって聞いた。本当に良い物を作ろうと思ったら、十年はかける」
「ネットで知恵をつけるのが得意だな」
「それなのに、俺らは一カ月半くらいでやろうとしてる。お前が辻田の劇案を却下し続けたから。何カ月も。最初から、そのつもりだったんだな? 短い時間でより良いものを作る。そういう、速さの才能を試したんだ」
「あらゆることが、時間との戦いだから」
実体験が何個もあるのだろう。その時の様々な波乱を思い出すようにして、一条は眉間に皺を寄せた。
「どんなに良いものを作る人だとしても、締め切りを守らなければクズ。そのくらいの意識でやらなきゃ、どこかで潰れる。自分の不出来を時間のせいにして、成長の目を潰す。あいつらは、そんなつまらない終わり方をしていい才能じゃない」
その目の光を見て、改めて確信した。俺なんかよりもずっと、一条は辻田と藤野のことを真剣に考えている。友達としてじゃない。仲間として好きになっている。だから、俺は溶けた。そのまま床に流れ落ちて、一条にひれ伏したかった。その想像には、胸を掻きむしりたくなるほどの痛みが伴った。
舌打ちが聞こえてきた。
「だから私は、失敗すればいいと思ってた。文化祭の劇、本当は台無しになるはずだった」
一条は、俺を害虫か何かのように苦々しく見てきている。
「五年、十年単位で考えれば、目の前の失敗なんて成功の糧に過ぎない。徹底的な失敗が、徹底的な成功を生み出すの。あいつらは見事挫折し、まっさらな状態で伸び始めるはずだった。それを、お前が邪魔した」
「そりゃ、そうするだろ」
「中途半端なものができるか、ひどく失敗するか。その二択だった。なのに、そうはならない。多分、かなりのものができる。お前のせいで」
「おかげ、だろ」
「気に入らない。お前はおぞましい。辻とリリーに、お前は奉仕した。気味が悪い」
「散々だな」
「でも考え方を変えると、お前が一番の鍵かもしれない。好きでもないことを他人のために続けられるような奴がいなかったら、多分、私達は崩壊していたから。お前が私と辻とリリーを繋ぎとめてる」
一条は壁の方を見続けている。目を合わせてくれない。彼女から、俺へのちゃんとした評価を聞くのは初めてかもしれなかった。
「だから、私にも奉仕しろ。二年生になったら、この高校を辞めてもらう」
ようやく、顔を合わせてきた。目が爛々と輝いている。
「無茶苦茶だな」
「辻とリリーの了承は得てる。良さそうなシェアハウスもいくつか候補を見つけた」
「どこのだよ」
「ロサンゼルス。パパのチームと顔合わせをして、それからは、それから次第」
未来の話を一条から聞くと、耳から血が出てくるようだった。
何度も出ては消えていった疑問が、再び湧いてくる。どうして、俺だったのだろう。
一条家の夕食の場で、俺はさきほどの会話を整理していた。
幸福な家庭は全てお互いに似通っているが、不幸な家庭はどれもその趣が異なっている。トルストイの言葉は、俺の中で確立された方程式のように存在している。
「大志のやりたいことを、好きなようにやれてれば、心配はありません」と佳乃さん。
「本は読まない。でも大志があれだけやってるんだから、すごいことなんだろ」と成彦さん。
「りりちゃんの好きなことは絶対に否定しない。その楽しさはわかるから」と菜々実さん。
「あの子なりの幸せを見つけるまでは、友達兼保護者として支えてやりたい」と忠輝さん。
そして、ロランと茉莉さん。彼らの視線の動きも、話からも、あふれ出ていた。自分の子供、家族の道を絶対に否定はしないと。そこからこぼれ落ちそうになった時だけ、全力で支えるのだと。その道に理解があろうがなかろうが、変わりはしない。幸福は確かに、似通っているのかもしれない。
なんで俺だったんだろう。こんなはずじゃなかった。彼らよりなんかよりもずっと、幸福な家庭になるはずだった。でもおもろくはなかっただろう。それで十分だった。そんな男なのに、どうして俺だけが選ばれたのか。辻田でも、藤野でも、一条でもよかったはずだ。選ばれるべきは、あいつらだった。
ロランが冗談を言って、茉莉さんが笑う。一条は笑っていないが、茉莉さんの顔を見てから茉莉さんの作った料理を口に入れている。その時初めて、口元が緩む。
それでも、それでも。俺は最大限の自制をしながら表情を保った。きっと俺は選んでいただろう。もし一条たちにこの呪いを移すことができるようになったとしても、抱えることを選んだ。彼らや彼らの家族に俺と同じ苦しみを味わわせるのか? できるはずがなかった。そこまで、堕ちたくはなかった。
幸福には容赦があるが、不幸にはない。ロシアの文豪にならって、俺も言葉を考えた。
幸福には容赦がある。父さんが死んでも、母さんは俺たちのために頑張ってくれた。幸せだった。そして母さんが死んでも、美晴がいてくれた。俺は幸せだった。美晴が死んだ。それでも俺は、消えずにいる。
不幸には容赦がない。父さんが死んだ。母さんは何度か手首を切った。でも自分で治療して、その日の夜は決まって俺と美晴を抱いて寝ていた。俺はサッカーを辞めた。美晴は頭が良かったのに、東京の私立中学の受験を辞めて、地元の中学にした。母さんが死んだ。俺は呪われた。呪われたせいで、美晴も死んだ。俺は、消えたくてたまらない。
一条は、俺が欲しくてたまらないものを持っている。持っていながら、それだけで満足していない。藤野だってそうだ。両親を亡くしているものの、理解のある叔母夫婦の元で養われている。俺と美晴には、そんな親戚なんていなかった。なのに、不登校だった。叔母夫婦に心配をかけてまで、自分の好きなことに没頭していた。
辻田もそうだ。どうして耐えられる? 俺がサッカーを好きでいられたのは、シュートを決めると父さんと母さんが喜んだからだ。その日の夕食が豪華になって、皆楽しげに話してくれるからだ。でも辻田は、そういうのじゃなかった。たとえ両親が自分の作品を読んでくれなくても、同じものを好きじゃなくても、続けていられた。
一条は、簡単に死を持ち出す。茉莉さんは絶対にそんなこと望んでないのに、演じてる途中で死にたいと言う。理解できなかった。彼女は多分、自分の好きなことを家族よりも優先するだろう。藤野も辻田も、そうに違いなかった。
だから、嫌いだ。小説を書くことも、メイクをしたり衣装を作ることも、演技をすることも大嫌いだ。俺にはその才能がない。なのに、彼らがそれをしている所を見るのは好きだった。否定のしようがないほどの、安らぎを得ていた。だから、演劇部の皆が好きだった。彼らだけがいる部室の中で、ずっと過ごしたいくらいだった。
「舞台上で、一条あいの敵になる」
『スモーキンセクシーベイベー!』
周の初めの面白空間の中、飛び回る化身を見ながら、自嘲の思いで口が緩んだ。馬鹿だから忘れていた。多分俺は無意識の内に、自分が主人公だと思い込んでいたのだ。化身にとって、それは違っていた。
この物語の主人公は、三人いる。最後の一人には、最も手ごわい敵を用意しなければいけない。千年の凡人に十三年の天才は対抗できるのか? おもろくなるに違いない。




