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死ねインポ

当然、よろしくとはならなかった。俺はその後救急車で病院に運ばれた。幸い重傷ではなかった。そんなことよりも学校を途中で離れていいのかが気になった。だが、文字は何も言ってこなかった。どうやら一度登校さえしてしまえば、早退しても欠席扱いにはならないらしい。

 その日が金曜日だったことも幸運だった。入院とまではいかなかったが、さすがに一日未満で傷の処置をしたり色々な心の準備を済ませるのはきつかった。土日の休みを使って、俺は自分の課題と向き合うことにした。

 意識すると、すぐに文字が浮かび上がってくる。


 インスピレーションアイテムを解放しますか?


 部屋の扉が閉まっているのを確認した。少し気分が悪いが、仕方がない。ゆっくりと頷くと、突如として机の上に様々な物体が出現した。驚いて後ろに仰け反り、椅子から転げ落ちそうになったが、背もたれに何とか食らいついてこらえた。

 現れたのは四種類の物体だった。それぞれに重なるようにして、文字が現れる。


 不夜石のスープ

     効果:一本の注射につき八時間の睡眠効果を即座に得る

     ペナルティ:一日(現実時間)三食摂らなければ死にます

           既製菓子類、甘味加工飲料、インスタント食品類を摂ると死にます


 チャック付きの透明な袋の中に、十数本ほどの小さな注射器が詰められている。容器内には、透明な液体が半分ほど入っていた。効果も見た目もかなり怪しかった。できれば、使いたくはない。


 時間拡大収納空間

     効果:現実の三十六倍時間が引き伸ばされた携帯式空間

     ペナルティ:貴方以外の生きた人間を入れると死にます

           貴方の出入りを他の人間に見られると死にます 


 すごそうな名前をしていながら、実物は手のひらで包める程度の白い長方形の物体だった。頭を傾け、考える。つまりこの中で一年間過ごしても、現実では十日ほどにしかならないということなのだろうか。似たようなものを漫画やアニメで見たような気がする。


 ユニークの化身  

     効果:貴方のアイデアを五段階で評価する

     ペナルティ:一日一つ、プリティ評価以上のアイデアを言わなければ死にます


 一言で表すなら、動物の人形だった。だが、その種類がわからない。最初に目に入るのは、二本の金色の角だ。側頭部から伸びたそれは頭の後ろで大きく曲がり、頬にまで戻っている。横から見れば、丸い感じの逆コの字になっていた。瞳は黒くつぶらで、その周りだけが黒い毛で覆われている。そこだけなら、パンダみたいだ。他の顔の部分や丸まった胴体部分は白色の毛で覆われており、床についた尻からは犬のような尻尾が伸びていた。

 その表情は、穏やかな笑みになっている。どこか人間くささを感じて、不気味だった。

 最後に、とてもシンプルなデザインの白い指輪を見た。イオニアン・リング。これが一番よくわからない。母さんがいつも指にはめていた結婚指輪にも似ている気がするが、宝石をはめる部分がない。この指輪と怪しい注射器のパック、そして小型の白い箱をリュックに入れてから、再びキメラ動物の人形に向き直った。

 今日中に一つは「プリティ評価以上のアイデア」を言わなければならない。おそるおそる声を出した。

「こん、こんにちは」

 パンダ顔が歪んだ。すっぱいものを食べたように口をすぼませる。

『ディックヘッド!』

 無邪気な子供の声。

「どうすればいいですか?」

『ディックヘッド!』

「もう始まってます?」

『ディックヘッド!』

 その単語の意味をスマホで調べた。日本語に訳すと、男性器の頭頂部分。能無しの男性を意味するスラングらしい。つまり、最低評価なのかもしれない。そのぎらついた角を人差し指でつついてから、続けた。

「お、お花を育てる」

『ディックヘッド!』

 プリティにこだわりすぎた。

「明日の学校の自己紹介で笑いを取る」

『ディックヘッド!』

「全校集会で笑いを取る」

『ディックヘッド!』

 下唇を噛む。もう少し、思いきった方がいい。

「彼女を作る」

『ディックヘッド!』

「一条あいと付き合う」

 言ってから、耳の辺りが熱くなった。自分自身がすごく、浅い存在のように感じられたからだ。だが、化身は違うようだった。その表情が変わり、穏やかな笑みを見せた。

『プリティ!』

 思わず椅子から立ち上がりかけた。こんなにあっけなく? 文字を見れば、ユニークの化身のペナルティの項目欄が消えていた。明日まで、もうこの妙な人形を相手にしなくてもいいということだ。でも、俺は化身をしまう気にはなれなかった。まだ漠然とした、かなりの不安が残っていた。

「一条あいと結婚する」

『ディックヘッド!』

「え? えっと、一条あいと離婚する?」

『ディックヘッド!』

 もっと面白くなるような……

「く、クラスの女子全員と付き合う」

 自分は最低最悪だ。化身は再び変化していた。満面の笑みになっている。

『ビューティフル!』

「やった。じゃ、そうだな、むしろ今度は……よし。クラスの男子全員と付き合う」

『ビューティフル!』

 俺は思わず両手を打ち鳴らした。異常なものを相手にしているはずなのに、その怖さを高揚感が消していた。

「クラスの全員と同時に付き合う!」

『ラブリーフォックス!』

 化身は肉球で拍手していた。それも涙を流しながら。俺も目の辺りに重みがやってきていたラブリーフォックス、ビューティフル、プリティ、ディックヘッド。これで、四段階の評価を知ることができた。前進できたことに、安心していた。

 トイレに行こうと部屋の扉を開けた瞬間、どたどたと足音がした。右を見ると、美晴が急いで自分の部屋に入ろうとしているのが見えた。ドアに手をかけたところで目が合う。彼女はばつの悪そうな顔をしてから、控え目に言ってきた。

「あんまりがんばんなくてもいいよ。その、大丈夫だって。普通にしてれば」

 化身と話すのは美晴がいない時だけにしよう。どこか心配そうに、一方で嬉しそうに部屋へ入っていく彼女を見て、そう決めた。





 やってきた月曜日。二回目の高校一年生の始まりとなるこの日、俺は正門で待っていた担任の教師に生徒指導室へと連れていかれた。

 向かいのソファに座った安藤先生は、正直あまり顔を合わせ続けたくない相手だった。太めの黒眉の下、一重瞼の目が針のように細まっている。浅黒い肌は毎日のように陸上部の顧問として活動している証拠だ。黒と灰色のスポーツウェア以外の服を身に着けている所を、俺はかつての三年間見たことがなかった。

「どうしてここに呼ばれたか、わかるか」

 疑問のはずなのに、語尾が下がっている。慣れない迫力だった。散々他の生徒に説教している場面は見てきたが、俺自身が睨まれたことはなかった。今日までの話だけど。

 安藤先生は両膝に拳を乗せた。もう五十は超えているはずなのに、筋肉質だ。

「お前は門を無理矢理超えて、落ちた。もしその時頭から落ちていたらどうなっていた? たった数十センチ頭から落ちただけで死亡した例もある。お前はこの学校を、自殺の現場に変えようとしてたんだ。わかるか」

 自殺。その言葉を聞いて思わず目線を上げた。口を開きかけて、途中で止まる。安藤先生の目は真剣だった。俺に向かって言う意味を、きちんとわかっているような顔だった。

「それだけじゃない。お前が落ちた後、俺と久山先生が向かっている間に、お前の妹までもが門を越えようとしていた。お前を助けるためにだ。いいか、お前はこの学校で二人殺しかけた。お前と、お前の妹を。わかったら、噛みしめて反省しろ」

 俺が何を大切にしているのか、何を大切にするべきなのかを、理解しているような言い方だった。だから、返事をして頷く以上のことは何もできない。

 朝のチャイムが鳴る中、安藤先生と一緒に一年B組の教室へと向かった。安藤先生の雰囲気は生徒指導室のことが嘘に思えるほど柔らかくなっていた。指の絆創膏のことを訊いてきたので、慣れない自炊をしたからと答えたら笑っていた。

 教室に入った後、俺は安藤先生の横に立ちながら前を見た。

「二週間ほど遅れたが、新しいクラスの仲間だ。しかも、面白い自己紹介をしてくれるらしい」

 一瞬安藤先生を恨みかけたが、一応気を遣ってくれたのだとわかった。先生が話すまで、クラスの生徒は誰も俺を真っすぐ見てはこなかった。どう扱っていいのかわからないようだ。その気持ちは、理解できる。皆、高校三年生の頃よりも少し幼い感じだった。

 おーと声をあげてくれたのは、中学の頃の部活仲間だ。そこから控え目な笑顔が広がっていく。ありがたく思いながらも、俺はかなり緊張しながら口を開いた。

「倉下ともです。中学の時はサッカーしてました」

 知ってるよ、という顔が半分以上だった。この時点で自己紹介は無事に終わったも同然だが、それは普通だったらの話だ。美晴の顔を思い浮かべながら、俺はもっと大きく口を開けた。面白くなるようにと願って。

「俺は自分のやりたいことを後悔のないようにやっていきたいと、思ってます。なので、えー、隣のクラスの一条あいさんに告白したいと思います」

 少し間があってから、おおーと声が上がった。前よりも大きい。ほとんどの生徒が俺の発言を笑みで受けてくれていた。

 元サッカー部の男子の一人が手を挙げた。

「なら、今日やってみたら? 四日ぶりくらいに来てるんだよ。もっとも、やったれ~」

 え。

 教壇に寄りかかって成り行きを眺めていた安藤先生が、大きく頷いた。

「いいじゃないか。今日の昼休みに挑戦だな。お前たち、あまりはやし立てるなよ。遠くで見守ってやれ」

 はーいと何人かが答え、既にクラス全体の期待がのしかかってくるのを感じていた。

 俺は安藤先生を恨んだ。


 A組の教室から出てきたその女子生徒に話しかけた時、なぜか超えてはいけない線を思いっきり蹴飛ばしてしまったような感覚になった。

「話? 私に?」

 向き直ってくる前から既に、彼女がこの高校の制服を身に着けていることが不思議に思えていた。光の輪ができているツヤツヤの長い黒髪、大きな瞳、隙一つない肌。CMじゃんと思いながら、俺は頷いた。

「はい。個人的な話で」

 一条あいは斜め上を見た。考えている姿でさえテレビっぽい。揺れる睫毛の長さに見とれていると、はきはきとした声が耳に入った。

「時間、どれくらいかかります? 半から予定があるので。それまでなら」

「あ、はい。じゃあ」

 一条は歩いて俺を通り過ぎた。ものすごくいい匂いがしたけど、なぜか嫌な胸騒ぎは止まなかった。少し進んでから振り返ってくる。ついてこいということだろうか。俺が歩き出すと、彼女は小さく頷いてから玄関の方へと向かった。

 体育館の裏口まで来るのに、少なくない注目を受けた。おそらく誰も、俺の成功を予想している者はいないだろう。俺自身もそうなのだから、当たり前だ。

「で、話って何ですか?」

 塀の方の桜を眺めて、気持ちを落ち着かせた。正直、青春してるなあみたいな気持ちはほとんどない。それよりも相手に対して申し訳ないという思いの方が強かった。さっさと終わらせた方がいい。

 俺は息を浅く吸い込んでから、やや震えがちの声を出した。

「話っていうのは、まあその、こういうこと言われるの飽き飽きしてるかもしれませんけど、俺と付き合ってください」

 後半の方は一気にかぼそくなった。なぜなら、一条が急に近づいてきたからだ。下がろうとしたら、体育館の壁に背中が当たった。かまわず彼女は足を進め、少し高めの鼻が俺の顎先十センチくらいのところまで近づいてきた。

「この高校でちゃんとツラ見せて言ってきたのは、お前が初めて。入学してから八通手紙もらったけど、全部燃やした。ここ、玉の小さい男が多いみたい」

 父親が世界的な映画監督。アメリカで育ち、幼少時からハリウッド映画に出演。日本に来る前には、銀熊とかいう強そうな名前の賞を獲った映画の脇役としても出ていた。「逆輸入高校生女優」とよく言われていた一条あいと、目の前の女性が同じだと思えない。

 突き刺すような眼差しで、見上げてくる。

「まずお前、誰だよ」

「くら、倉下ともです」

「くらくらもととも? 長すぎる。くらくらでいい。で? くらくら。お前は私と付き合って何がしたいの? 目見て話せ」

「ひゃ、あの、ええと。俺は、こう、一条さんに変なことしたいとか、そういうのはなくて。お願いがあるんですけど、俺と付き合った後、一日くらいで別れてほしいんです」

 一条はきれいな造形の顎を引いた。首を小さく傾けてから、ゆっくりと息を吐き出す。

「とにかく、そちらにはなるべく迷惑をかけないようにしますから」

「お前、私をふるつもりなの?」

「一条さんが俺をふるんです。俺が悪い感じにしときますから。例えば、浮気とか」

「私と付き合っておきながら、お前、浮気するつもりなの?」

 俺はほとんどまともにものを考えられなくなっていた。そばに立っているだけで、相手の雰囲気に歪められる。そんな感触を持ったのは初めてだった。

「じゃ、じゃあ、えと、価値観の相違みたいな? それでも俺が一方的に悪いみたいにしときますから」

「どうしてそんなことしたいの?」 

 ラブリーフォックスだったから、とは言えない。もしかすれば、何か面白い答えを言えば切り抜けられるかもしれない、

それができれば、何も苦労はなかった。

「な、なんとなく?」

 俺は大きく背伸びした。させられた、という方が正しいかもしれない。既に一条は俺の股間にぶつけた右膝を下ろし、両肩を掴んで支えてきた。まともに立つことすらできない俺に向かって、さらに顔を近づけてくる。

「なんとなくで、私の時間を無駄にしたの? 死ねインポ。今度視界に入ったら、両方の玉蹴り潰すから」

 全てを完璧な笑顔で言いきった後、一条は早足で歩き去っていった。俺はしばらく地面でのたうち回ってから、ゆっくりと校舎の方へと戻り始めた。見物しているはずのクラスの奴らは全員いなくなっていて、玄関の前で安藤先生が待っていた。一条自身が無理やりキスさせられそうになったことを報告してきたと、彼は俺を生徒指導室に連れて行った。俺は一条を恨んだ。



 「高校生でアカデミー賞を獲る」『ディックヘッド!』「高校生で直木賞を獲る」『ディックヘッド!』「高校生でジャンプに漫画を連載する」『ディックヘッド!』なんなんだくそ。「高校生で劇団四季のトップになる」『ディックヘッド!』「高校生でボクシングヘビー級世界チャンピオン」『ディックヘッド!』「空手王」『ディックヘッド!』

 一条あいと付き合って、すぐにふられる。これがラブリーフォックス。わからない。一体どういう基準で評価が決まっているのか。

 放課後、亮吾たちにマックへ行こうと誘われたが、断った。皆いつも通りに接してくれようとしているのが、余計申し訳なかった。色々な誘いを蹴ってでも、俺は未知の場所へと行ってみたかった。何かいいアイデアが浮かぶかもしれないと思ったから。

 図書室へは、ほとんど行ったことがなかった。勉強は外の店か家でやっていたし、図書室本来の目的である本については、今まで全く興味がなかった。

 中はグラウンドや体育館とは違い、とても静かな空気が漂っていた。長机が並ぶ自習スペースでは、三年生らしき集団が勉強している。どこか面倒そうにやっている彼らとは違い、俺の目に留まった生徒は自分だけの世界に入り込んでいるようだった。

 本を数冊重ねて置いている。椅子の背から体を離し、固そうな表紙の本を両手で持って食い入るようにして読んでいた。眼鏡を掛けた小柄な男子生徒だ。同じクラスの生徒。確か苗字は辻田。二年生以降は違うクラスだったはずだが、曖昧だった。それくらい関わりのない相手だった。

 気になったのは、その目だ。わずかに上下している。本の字を追っているようだ。その本を穴だらけにしそうなくらい、針みたいな視線だった。昼にぶつけられた別の相手の視線と、驚くほど似ていた。

 その生徒の向かいに座った。相手は少しも気にしていない様子で、読書を続けている。

「それ、面白い?」

 辻田は頬杖をついて、ページをめくった。俺は少しためらってから、右手を伸ばし、辻田の顔と本の間に指先を入れた。その目だけが動き、俺の方を見てきた。

「誰? お前」

「倉下。同じクラスじゃん」

「一条あいにキスさせようとした奴」

 彼はまた読書に戻った。俺は前に身を乗り出し、辻田の顔を下から覗き込んだ。

「俺さ、今まで小説とかほとんど読んだことなくて。何か面白いのない?」

 急に本が閉じられた。舌打ちをしてから、辻田は机の上で本を滑らせる。それは勢いよく俺の胸に当たった。俺は小さく咳き込んでから、その本を開いた。

「これ、おもろい?」

 顔を上げると、既に辻田の姿はなかった。彼はもう図書室の入り口近くにいる。そしてこちらを全く振り返ることもせずに出て行った。

 俺は入り口の扉が閉まるのを見てから、本へと視線を落とした。妹がたくさん持っているものとは違い、表紙が硬くて大きい。確か、ハードカバーとかなんとか。ページをめくると、いきなり大量の文字が目に飛び込んできた。うっと声を出してから、ペラペラめくる。半分まで来たところで、二枚のコピー用紙が挟まれているのを見つけた。手に取って広げてみると、手書きの文字が大量に目に飛び込んできた。だが今度は、あまり胃もたれしなかった。すぐ終わるならと、気合を入れて読み始めた。


 図書室の入り口の扉が開かれて、誰かの足音が迫ってくるのがわかった。それでも顔を上げられない。その気配がそばにまで近づいてきて、コピー用紙を無理矢理取ってきた。その時紙の端が右の親指にかすり、小さな切り傷ができた。わずかに血が出てくる。

 顔を上げると、辻田が明らかに怯んだ様子で血を見ていた。それから俺と目を合わせると、さらに驚いたような表情になった。

「お前、泣いてんの?」

 口を開けようとして、まだ何も言えない自分に気がついた。

 子供のネズミの話だった。読んでいる間、俺はネズミになっていた。母親のために下水道を駆け回り、餌を探していた。下水道の暗い雰囲気、いつ捕食者がやってくるかわからない恐怖、それでも走り続けるネズミの、母への思い。文字を読んでいるだけだとは、到底思えなかった。俺はそこからあふれ出るとてつもなく大きな流れに打ちのめされていた。最後にネズミは溺死するが、残されたのは沈んだ気持ちだけではなかった。この時間はいつも少しお腹がすくはずなのに、今は何も飲めないし、何も食べられない。

 指の腹から流れ落ちる血と一緒に、涙も目から落ちていった。何度か首をゆっくりと降ってから、絞り出すように声を出した。

「俺、俺、はじめて。初めて、読みきった。全然小説とか読めなかったのに、初めて最後まで読めたんだ。すごく、面白かった」

 辻田の針のような視線がはじけていく。緩んで、別の何かに変わっていく。突き刺すようだったそれが、包み込むような何かに。

「これ、これさ、辻田が書いたの?」

「だったらなんだよ」

「辻田は、自分の母親のこと、好きなの?」

「別に。普通だけど」

 だったら、なおさらすごい。つまり彼は、これを完全に想像だけで書いたということになる。

「これ、賞とかに送らないの?」

「それ習作だから。あと短すぎる」

「小説って、すごい」

 辻田は口を曲げてから、視線を横にずらした。

「それよりも、もっとすごい作品、たくさんある。僕なんかよりもすごい作者たくさんいる」

「おすすめとかある?」

「ちょっと待ってろ」

 彼がやや早足で図書室の本棚群に向かった後、俺は自分のリュックを開けていた。そこから、ユニークの化身を取り出す。その妙な動物の人形に向かって、限りなく小さな声で言った。

 音が爆発した。

『スモーキンセクシーベイベー!』

 化身は俺の手のひらから飛び上がり、轟くような声を出した。その子供の声に重なり、オーケストラのクライマックスのような演奏音が響いていく。化身の全身から光が放たれて、金色のテープみたいなものが飛び散った。それから騒音を鳴らしながらあちこち飛び回り、最後に高速で回転しながら落下し、俺の目の前の机の上に着地した。

 その間、俺は両手で口を押さえながら固まっていた。終わって少ししてから、周りを見る。三年生の集団は相変わらずだるそうに勉強していて、遠くのカウンターにいる図書委員は居眠りしている。さらに視線を動かすと、辻田が数冊の本をもって戻ってくるのが見えた。

 彼は机の上に本を置いた後、不思議そうに俺を見てきた。

「なんだよ?」

「ここに何か見える?」

「別に何も」

 辻田の視界には、絶対に化身が入っているはずだった。俺は静かになったそれをリュックにしまいながら、震える声で言った。

「じゃ、明日の昼さ、予定ある? 俺についてきてくれない?」

「なにすんだよ」

「リベンジ告白」

 辻田はきょとんとした。


 一条は仕事で休む可能性もあったが、幸い次の日も続けて登校してきてくれていた。

「一条いた一条いた。早く行こうぜ」

「わ、わかったって」

 昼休み、辻田を教室から連れ出す途中、クラスの他の生徒が呆気に取られていたが、その反応に構う余裕はなかった。一条は少し早足で、玄関に向かおうとしている。遠ざかっていく背中に向かって、慌てて声をかけようとした。

 が、その前に彼女は振り向いていた。逸っていた気持ちが一気に冷やされるほど、その目は俺を殺す気満々でいる。でも、それは長く続かなかった。彼女は周りを見てから、落ち着いた表情で言ってきた。

「返事はしたはずですが」

 既に見物人が集まり始めている。俺はかなり舞い上がっていた。

「だから今度は二人で告白しに来た」

「おい」

 辻田に背中を叩かれる。同時に周りでくすくす笑いが起きた。一条はゆっくりとまばたきしてから、

「前と同じ場所で聞きます。ついてきてください」

「嫌です」

 多くの視線が集まっているのがわかる。一瞬自分は何をしているのだろうと思ったが、すぐにそんなためらいは消えていった。一条はまた周りを見てから、腕を組んだ。それから何かを抑えているような顔を真っすぐ向けてくる。

「わかりました。ここで聞きます」

 思った通りだ。前は彼女と二人きりになったのがいけなかった。人の目がたくさんある場所なら、本性を簡単に表せるとは思えない。話もちゃんと聞いてくれるだろう。

 俺は一歩相手へと近づいた。手で後ろにいる辻田を示す。

「この人は辻田。すごくいい話を書くから」背中がまた叩かれる。「だから彼が脚本書いて、一条がそれを演じる。一緒に演劇部作ろう」

 一条はやや前かがみになっていた。目が蛇のように細まって、下から俺を見てくる。既に俺は、周りの音があまり聞こえなくなっていた。一条の動きだけが、全てのようだった。

その薄い唇が開かれる。

「どうしてそんなことしたいの?」

 正解なんてわからない。ただ、自分の思いを正直に言うことが大事だとわかり始めていた。

「面白くなると思ったから」

 言いきった直後、周りの音が一気に戻ってきた。それでも、静かだった。多くが予想したものとは全く違う話になったことで、どういう展開になっていくのか、ほとんどが耳をすましている。そんな静寂の中、一条は俺の眼前にまで歩いてきた。

 彼女の顔には、笑みが浮かんでいる。それは、今までテレビのCMなどで見たことのあるものとは違っていた。白い歯がやや見えている様は、まるで獣が威嚇しているようだ。いつ首元に食らいつかれるかわからない。寒気がした。

「まだ足りないものがあるって言ったら、どうする?」

「え?」

「それを補って、また私の所に来たら? その時は、考えてあげる」

「うん。うん、わかった。ありがとう!」

 辻田が聞いてないぞと言わんばかりに睨んできていたが、それすらも嬉しいくらいだった。確かに前進できたことが、想像以上に俺を興奮させた。だから、まだ一条がすぐ近くにいることも気になっていなかった。

「お前自身にも足りないところがあるって言ったら?」

「お、それは一体?」

「頭」と言ってから満面の笑みで左膝を俺の股の中にめり込ませてきた。天地がひっくり返る。口から勝手に首を絞められている時のような声が漏れる。下腹の方にひどい圧迫感を覚えながら、俺は床をのたうち回った。生徒の集団の中から悲鳴が上がる。誰かが爆笑している。かすんだ視界の中、一条がさっと靴を履いて外に出て行くのがわかった。

「おもしれ―女」

 辻田が少しも面白くなさそうな顔でつぶやいた。



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