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ちゃんとあんた泣かせたの、初めてだし

翌日から、藤野はさっそく行動を開始した。具体的にはまず、部室を少しいじった。入口の扉の窓を黒い紙でふさぎ、扉が簡単に開けられないよう椅子や机で封鎖し、カーテンも全て締め切った。 

 俺は出て行こうとしたが、止められた。辻田も当たり前のように残っていたので、そう大げさなことにはならないと思っていた。だが、間違いだった。藤野がてきぱきと一条のブレザーを脱がせ、ワイシャツのボタンを開け始めた時から両手で目を覆った。さらに布ずれの音や、ぱさりと軽いものが落ちていく音がした後で、誰かが近づいてくる気配がした。

「見ないなら出てけば?」

 一条の声が近くにあるということを、俺はあまり意識しないようにした。

「見てもいいの?」

 藤野がやや早口で言ってくる。

「ぐずぐずしないでよ。見る見ないとかどうでもいい。倉下、あんたも脱ぐの」

「交代でやったら? 一条が採寸してる間は出てるから」

「時間が惜しい。さっさとしろ」

 藤野は羞恥を脳から取り出された状態になっているようだった。その声には有無を言わさない迫力があった。その集中を邪魔するのは良くない。俺は手を顔から離した。

「一条の隣に並んで。早く」

 緊張でも興奮でも申し訳なさでもなく、感じたのは拍子抜けした、という思いだった。細かい刺繍の施された淡い水色のブラジャーも、その上にある胸の間の線とか鎖骨とか首筋とかも、感情の表面をかすっていくだけだった。意識はするけど、深く波打ってはこない。

 藤野が本気になったのは良いことだった。俺がスラックスを脱いでも顔一つ動かさない。黒のトランクスをこっそりと少し上にずらしてから、一条の横に並んだ。

「あんたが黒? 解釈違い」

 舌打ちをした藤野の隣で、辻田がじろじろと俺の腹の辺りを見てくる。

「筋肉質だな。少し太めだし。筋肉、削れないの?」

「無茶言うなよ」

「ジェスタの細身設定に寄せたいね。シルエットがゆったりになるような衣装にするか」

「一条の胸もちょっと足りないよな。水の精霊にしては」

「そっちは簡単でしょ。バストアップブラとか、パッド入れればいい」

「身長差はマジでちょうどいい。理想的」

「うん。ただ、いつもぴって直立してるわけじゃないから、劇中の立ち方歩き方で見栄えは変わってくる。それ考えると、若干倉下が高いかも。一条の方に、厚底の靴履かせたい」

「靴ね。俗っぽくなるのは避けたいな」

「精霊っぽい靴探すの、面白そう」

 辻田も藤野も、いつも通りだった。だから俺もいつも通りでいられた。この空間に居ることそのものが、柔らかい日差しのようだった。

「倉下が身長一八五センチ、体重七九キロ。一条が七〇センチ、四七キロね。次、」

 藤野はメジャーを持って、素早く採寸を行っていた。俺よりも一条の方が細かかった。首回り、肩幅、バスト、アンダーバスト、ウエスト、ヒップ、股下、太もも周り、膝周り、ふくらはぎ周り、足首周り、足のサイズなどなど。彼女が言う数字を、辻田がそばでてきぱきとメモしている。新鮮な光景だった。一条の胸のカップ数がⅮとわかっても、誰も気にしてはいない様子だった。

 その後、衣装のデザイン案について、藤野がイラストで描いてきたものをいくつか採用することにした。唯一意見が割れたのが水の精霊、メイユーの衣装案だった。さきほどまで一緒に協力して作業していたはずの辻田と藤野が、派手に衝突した。

「なんでこっちなんだよ。肌出しすぎだろ。メイユーのキャラに合わない」

「水の流れを表現したいの。こっちの方がはまる」

 辻田が指示したのは裾が長めのドレス風衣装で、藤野が支持したのは、肩とお腹がさらけ出され、生足がスカートの隙間から見えるような、中東の踊り子のような衣装だった。

「下品になるだろ。よく考えろよ」

「考えてるよ。キャラに合わないっていうけどさ、メイユーの奔放さを表現できてるのはどっちだと思う? あんたの書いた話読んだ時、すぐに思い浮かんだの。舞台の上で、一条がメイユー役として踊るように……」

「踊る場面なんて一つもねえだろ。ちゃんと読んだか? このキャラはな、明るいだけじゃないんだよ。自分の水が犯した過ちを胸に秘めてる。そこに暗さと奥ゆかしさがある。こっちのドレスが合ってるんだ」

「衣装は内面を表現するためだけのものじゃない。こうしたいこうなりたいっていう理想を表現できるものでもある。メイユーは最後まで明るく生きたいって考えてる。それが衣装にも反映されたら、いいでしょ? それにさ、こういう格好をした彼女が、心に深い後悔を抱えてる。いいギャップじゃん。面白くなる」

「ギャップそのものを狙って、見た目の造形を台無しにしたら意味ないだろ。なるべく一条の肌色を見せないで、水を模した色の布で包むみたいにすれば、もっと、精霊感が出る。そっちだと、ただ異国感が出るだけだ。人間味は消せない」

 前までの周回の時にも、衝突はあった。彼らそれぞれに大事にしている考えがあって、どちらも真剣にやっているからこそ起こることだ。だが、今は違った。ただの議論なんかよりもずっと激しい食い合いのような雰囲気が、痛いほど伝わってきた。

 制服を着直した一条が、その火花の中へと入り込んだ。

「私にとってはどっちも良く見える」

「じゃあ、口出さないでよ」

 吐き捨てた藤野に舌打ちをぶつけてから、一条は続けた。

「でも、別の側面から意見は言える。メイユーは大事な役。一番出演時間も多い。でも私には他の役もある。頻繁に着替える必要があるから、脱ぎやすい衣装の方がありがたい」

 藤野と辻田は、お互いから視線を外し、考えるようにして宙を見始めた。徐々に藤野の口元が緩んでいき、辻田の眉間に皺が寄っていく。

「ってことは~?」

「黙れ腹ぷよギャル」

「死ね性悪ガリメガネ。降参しろよ。衣装っていうのはさ、着る人がいて初めて機能すんの。わかります? 表現の他にも、役者の事情にも合わせないといけないの」

「ドレスでも、着脱楽にできるやつ作れるだろ」

「あたし才能ないからわかんない。どうやるの~?」

「キモい伸ばしやめろ。代替案だな、よし。これはどうだ? 脱ぐんじゃなくて、破る前提の衣装にする」

 藤野の眉が上がった。

「予備を何個も作っとくんだよ。で一条が役を変える時に、舞台裏でさっと破りながら脱ぐ。これなら部位が分かれてる踊り子風よりも、ドレスの方が一気にできるだろ」

 もし辻田が同じようなことを小説に絡めて言われたら、三日は口をきかなくなるに違いない。それくらいのことを、藤野の好きなものに対して言った。しかもそれでは、彼女の負担がさらに大きくなる。さすがに口を挟もうとしたが、藤野の顔を見てやめた。

目を少し細めて、興味深そうに口を片方の頬に寄せている。

「へえ。初めて聞いたそんなの」

「衣装ってさ、ある程度の期間使い続けるイメージがあるじゃん。でも藤野、お前にパリコレとかのビデオ見せられてさ、考えてた。短い間だとしても、作品としての美を誇るような服があってもいいと思って。終わりがすぐそばにあるからこそ、美しくなるものもある。サンドアートとか、それこそ演劇そのものも、似てる。即興性のある美っていうのかな。映画の爆破シーンとかも、リアルにこだわる監督は一回でも失敗すれば何千万の損害っていう瀬戸際に立って、やることもある。一瞬の映像のためだけに。でもそれも、立派な作品だ」

「即興性のある衣装ね。つまり破り捨てること自体も、その美に含まれてるってこと?」

「そうそう。面白いだろ?」

「面白い。世間には受け入れられなさそうだけど」

「くそくらえ」

「同感。でも、メイユーの衣装には採用できない。さすがに製作量が多くなりすぎる」

 辻田は舌打ちをした。椅子を軽く蹴った。

「ちゃんと聞けよ。メイユーの衣装にはって、言ってるでしょ。イリンとフウセラの衣装の一部に、採用してみる。終わりとか儚さとか、そういうのが似合ってる二人だから」

 辻田は鼻を鳴らしてから、何度か頷いた。

「アイデア料は?」

「マック奢ってあげる。ってなると思う? つまんねーよ」

「つまんねー女」

 藤野が黒板の上に掛けられている丸時計を見る。そして慌てるようにして、俺のそばまで小走りで近づいてきた。

「もう昼休み終わる! 早く早く」

「え? あ、弁当。今渡す」

 渡してから蓋を開けた瞬間、藤野はブロッコリーに目を止めた。眉が少し下がった。

「なんでブロ」

「ドレッシングかかってるから、いけると思う」

「食感が」

「唐揚げと一緒に食べろ」

 一条と辻田がやりとりを見てきていたが、何も言ってはこなかった。大急ぎで食べている藤野を横に、脚本に関する打ち合わせを始めた。

 あんたとあたし、一条と辻田って感じ。藤野はかつて、部内で波長の合う者をそう分けた。だが、結局それは間違っている。演劇部は確かに二つに分かれている。俺と、俺以外に。先ほどの話も、俺はどうにか事を荒立てないようにすることしか考えられなかった。議論をさらに前に進めることなど、考えもしていなかった。

 手に埋め込んだ時空間、そこから小型カメラのレンズだけを外に出して彼らを撮影しながら、何度も心の中で疑問を投げかけた。なぜ、俺だったのだろう。俺が選ばれたのだろう。同じ学校に、俺なんかよりおもろい奴はこれだけいる。彼らの内一人がもし選ばれていたら、どうだっただろうか。きっと一発でクリアしていたに違いない。そうに決まっている。

 俺は手を握り締めて、拳を作った。一条の視線がやや動いて、俺を通り過ぎた。盗撮に完全に気づかれる前に、時空間を制服のポケットに入れた。



 藤野が力を入れていたのは、衣装だけではなかった。

「時間は?」

「三十秒くらい」

 彼女は俺の顔を存分に利用して、特殊メイクの練習をしていた。様々なことをやった。粘土に着色をして鱗を作り、首や頬の一部に貼ったり、顔全体を水の色に塗ってみたり。やはりヒロインのメイユーだけは、納得するものができるのに時間がかかるらしい。

「目標は、十秒。省略できるとこは省略しないと」

 俺に初めてメイクをしてくれた時とは、動きがまるで違っていた。あの時は一時間以上の猶予があった、だが劇では違う。複数の役をこなす一条のメイクには、迅速さと正確さが無謀なほど高いレベルで要求される。そのために、藤野は練習を積んでいた。

 それが終われば、衣装や小道具作りを再開させる。元々彼女は家庭用の電子ミシンを使っていたが、それだけでは分厚い生地をしっかりと縫うことや、大量の服を素早く縫い上げることは難しいそうだ。だから俺のバイト代を使って、職業用ミシンとその補佐的役割を担うロックミシンというものを買った。会わせて十三万円ほど。普段は時空間に置いておき、必要になれば部室や彼女の部屋の中で取り出す。持ち運びや保存スペースの問題を気にしなくていいのは、大きかった。

 彼女は黙々と作業している。俺にはわからなかった。どうしてそんなに手を素早く動かせるのだろう。俺はいくら教えられても、波縫いを丁寧にやるところまでしかできなかった。自分で一から服を作ろうとしても、だめだった。風呂の中で溺死したり、ビルの屋上から飛び降りるよりも苦しかった。

 俺の何倍も速く、小さな手が動いていく。足が定期的に上下し、フットコントローラーの音が鳴っていた。彼女のベッドに腰掛けて、そんな様子を二時間ほど見ていた。

 それから手作業の方にとりかかった。衣装の幾つかに細かな刺繡を施し、手袋や靴にも飾りを施していく。針の穴に糸を通すことも、彼女は一秒の半分くらいの時間でこなしていた。

 夕食の時間、藤野に料理を振る舞ってから、彼女と食卓の上で向かい合った。

「藤野はさ、いつからやってんの? 服作りとか」

 美味しそうに味噌汁をすすってから、斜め上を見た。少し首を傾けている。

「んー、どうだろ。小学生に入った頃くらい?」

「きっかけとか、あるのか?」

 藤野の笑みが、やや小さくなる。

「きっかけ。うーん、あたし、ほんとに昔から作ることが好きだったみたい」

「みたい?」

「お父さんとお母さんがよく話してくれた。保育園の時からお絵描きとかばっかりしてたって」

「昔から、将来はこういうことしたいって思ってた感じ?」

「まあね」

 藤野は箸を置いてから、リビングの方を見た。彼女の現保護者は、二人一緒にアニメを見ている。それから声をかなり小さくして、言ってきた。

「でも、ここの家に来なかったら、わかんなかったかも。あたしね、中学生に入った時から、あんまりだったの。あんまり親と仲良くなかった」

 菜々実さんがちらりとソファ越しに振り返ってきたが、すぐに顔をテレビに戻した。

「そうなのか」

「うん。お父さんもお母さんも、公務員で。すごく自分の仕事に一生懸命だった。だからあたしにも、人のため社会のために役立つ仕事に就きなさいって、いつも言ってた」

「藤野がしてることも、人のためになってる」

 彼女は曖昧に笑った。

「今はね。でも、倉下はわかってない。中学の時のあたしがどんなだったか。ひどかったよ。友達作らない、授業聞かない、作業邪魔されたら親相手でもキレる、布やら型紙やら糸くずやら化粧品の容器やらで、部屋汚したままにする」

 右手の指を一本ずつ折りながら、藤野は苦笑していた。

「だからね、二人が亡くなる日も、喧嘩別れみたいになったの。ほんとは皆で山にハイキングしに行く予定だったんだけど、あたしが拒んで。二人だけが行って。だから、最後の言葉は」

「無理しなくていい」

「無理はしてない。最初の時は辛かったけど、でも学校行ってなかったから、一人で考える時間、たくさんあった。整理できた」

「後悔してる?」

「反省はしてる。言い合いも多かったけど、あたし、お父さんとお母さんのこと、尊敬してたから。仕事、がんばってたから。だから、もっとありがとうって言っておけばよかった」

「また、二人に会いたい?」

「話はしたい。でも、前みたいな環境に戻りたいかって言われれば、そうじゃないかも」

 落ち着いた表情で話す藤野に、俺は痺れるような衝撃を受けていた。

「でも、親だろ? やっぱりさ」

「あたしにとっては、難しい。好きなことを諦めることと、親のこと。比べるのは難しい」

 親に決まっている。

「あたし、幸せになりたいもん。親がいないことで寂しくなる時もあるけど、好きなことだけをずっとやってたい気持ちもある。だから、昔みたいな状況に戻りたいとは思わない。今は、演劇部もあるし。ななちゃんとてるくんはすごく優しいから。だから、ここが好き」

 赤くなっている藤野の顔、そしてリビングの方で目を拭っている菜々実さんと、その肩を抱いている忠輝さんの後頭部を見てから、俺は俯いた。落ち着いて表情が作れるようになってから、藤野と顔を合わせた。

「才能ってさ、何だと思う?」

 藤野はすぐに嫌そうな顔した。

「それ嫌い。気持ち悪い言葉だから」

「どうして?」

「経験とか、努力を無視してる感じがするから。でもそう言うと、努力できる才能もあるって答える人もいるから、なおさら嫌い。言い訳しなくていいじゃんって思う。才能って言葉、できる理由よりもできない理由に使われることが多いじゃん? そういうのすごく、むかつく」

「でも、同じ時間同じ環境でやっても、違いは出てくるわけだろ? 努力だけで測れないものもあると思うよ」

「それほんとに同じ? 違うんじゃない? 同じくらい好きなの? 同じ時間同じ環境で育っても、物事に対する思いは違ってくるでしょ? あ、今思いついた。才能っていうのはさ、見つける能力だと思う」

「何を?」

「好きなことを。何よりも優先したくて、それやってると食べることとか眠ることとかどうでもよくなるくらい、好きなことを見つける力。小さな頃から好きなことを存分にできたら、誰だってそれの天才になれると思う。辻田とか、一条みたいに」

「藤野も、天才だよ」

「まだまだ。これからだよ」

 藤野は好物がたくさん残っていることを知っている子供のような顔で、まだまだと繰り返していた。

 俺は、どうだろう。藤野の言葉を考えるなら、辻田みたいに小説が書けないのも彼女みたいに何かが作れないのも、それらが好きじゃないから、ということになる。当たっているような気がした。確かに、全く好きじゃない。最初は楽しいと錯覚するけど、徐々に苦しくなる。勉強の方がましだ。そっちは、暗闇の空へと踏み出しているような気分にはならないし、途中で急に飲み込まれるような虚無感に襲われることもない。

 俺の才能が見つけるのは、何だろう。何だったんだろう。



 限られた時間の中で、藤野は素晴らしい仕事をした。俺が演じるジェスタ役の衣装数パターン、そして一条が演じる三役の衣装もより多くパターンを作り、試作を繰り返した。俺がわからないほど細かい所に気に入らない部分を見つけ、藤野はあっさりと作品を捨てた。作っては捨て、作っては捨て。最終的に劇に関する美術が全て完成したのは、本番前日の夜だった。

「どう?」

 一条は背筋を伸ばした状態で、教室内を歩き回る。体の向きを変える時、腰や肩を覆っている薄い空色の布がなびいて、生き生きとした気配が放たれた。最後に一条が正面を向く。頬の辺りの淡い青の複雑な模様や、首筋に貼りつけられた鱗から、妖艶さが一層伝わってきた。

「いいと思う 倉下は?」

 布から厳密に選んで製作したおかげで、安っぽくなっていない。だから肌を大幅に露出した衣装でも、品が失われていなかった。一条の引き締まったお腹が、教室の電灯からの光に照らされて、美しい彫刻作品のように見えていた。

 辻田がどうして冷静に評価できるのか、わからなかった。「前」の藤野が妥協していた時とはわけが違う。あの時は既に完成していたコスプレ用の服をある程度加工しただけの、ちょっと飾りが豪華なワンピースくらいの見た目だった。それでも一条が着れば、様になっていたのだ。それがより一層……。

 もしこれを、美晴が着ていたら? だめだとわかっていながら、想像が止まらなかった。きっと、一生ものの思い出になっていたに違いない。

「すごいと思う。すごすぎる」

 俺は久しぶりの涙を受け入れていた。自分にはその資格がないと考えつつ、この場でしかできないことをしていた。

 藤野はガッツポーズを作った。

「やった」

「俺が泣いてるの、そんなに嬉しい?」

 藤野は興奮気味に頷いた。

「うん。だってあたし、ちゃんとあんた泣かせたの、初めてだし」

「どういうこと?」

 藤野はそこで口を押さえた。顔が恥ずかしい方の赤色で染まっていた。それから大いに逡巡の間を作ってから、頬を指で掻きながら言ってきた。

「辻田の小説でも、一条の演技でも、あんたは泣いた。でもあたしだけはなかった。今までは。だから、嬉しい。ありがと」

 相手の顔をまともに見られなかった。藤野の作品に感動したのは確かだ。でも泣いたのは、そのためじゃない。

 本番は、これまでよりもはるかに良いものになった。藤野が十三日間まともに寝ないで作ったものの数々が、舞台を彩った。不夜石のスープを打つ時は、毎回俺がその役目を担うことになった。怖くないの? と何度か尋ねたことがある。その度に藤野は何でもないことのように返してきた。

「もし何かあっても、倉下が何とかしてくれるだろうし」

「何とかできなかったら?」

「しっかりしてよ。でも、そうだね。もしその悪魔があたしを殺したとしても、あんたは恨まないよ。だって、今あたし幸せだもん。こんなに一生懸命やれたこと、初めてだから。助けてくれたあんたは、絶対に恨まない」

 俺は藤野をどうしたいんだ? えぐるようにして、自分自身に何度か問いかけた。一年生の内だけだなんて、どうして断言できる? 一生かもしれない。一生、藤野は毎日三食を摂らなければいけないかもしれないし、店のお菓子やジュース、インスタント食品を食べられないかもしれない。

 そんな自責は、藤野の心からの笑顔で溶かされていった。彼女が作った衣装を着て、彼女に舞台用のメイクを施される度に、弱くなっていった。

 一条にも少なくない影響があったらしい。彼女の演技は、今まで俺が何回も見てきたそれを容易に超えた。俺はまた、彼女についていくだけしか考えられないようになった。終わった後の客の拍手が、頭の奥底にまで響いてくるようになった。

 幕が下がり、舞台裏に下りた時、辻田と藤野が駆け寄ってきた。今までにない勢いだった。

「手出せよ」

 言うが早いか、辻田は俺の腕を無理矢理つかんできて、上げさせた。そして自分の右手を振り上げると、俺のそれと豪快に打ち合わせた。

「一度やってみたかった。男友達でもやるらしいから」

 ハイタッチした後の言葉は、最後の方が震えていた。

「異性の友達でもやってよ」

 一条に抱きついた後、藤野もまた俺とハイタッチをした。こっちの方がわかりやすかった。目を赤くして、鼻をすすっていた。

「何て言ったらいいか、わかんない」

「言葉がいらない時もあるだろ」

「わかってる。いちいち言うなメガネ」

 少しの間があってから、辻田と藤野はおもいっきり片手を打ち合わせた。一番大きな音が出た。藤野はそれから目を乱暴に拭い始めた。辻田は彼女に対して「泣きすぎ」と言いながら、俯いていった。

 不安定な声が、辻田の口から漏れた。

「今だけ言うからな。聞けよ。こんなに楽しいなんて、思ってなかった。今までで一番嬉しい。僕の考えた世界が、キャラクターが現実にやってきたんだ。皆がそれを歓迎してくれた。おい倉下、ありがとう。部に誘ってくれて」

 俺は浴びていた。目に見えない、容赦なく体を弛緩させようとしてくれる何かにさらされていた。

 最初の時とは、大違いだ。辻田も藤野も、今まで泣きはしてなかった。今回からは違う。彼らが彼らの好きなことを存分にできたことで流す涙なら、いくらでも見たい。これからいくらでも泣かしてやる。

 唯一冷静な十六歳の声が、俺を我に返らせた。

「正直ここまでできるとは思ってなかった。次からはもっと良くなる」

 笑みを辻田と藤野に向けている。一条はそれから無表情になって、後半の言葉を俺に向けて言ってきた。

その黒い瞳に向かって、心の中で宣言した。お前の演技を初めて見た時、泣かされた。だから俺も泣かしてやる。一条あいの嬉し涙を必ず撮ってやる。


総合得点:三十五点

あまり面白くならなかったので、貴方の一番大切な人が死にます



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