ぷ、プロポーズだよ
「悩み? ないけど」
藤野の嘘はわかりやすかった。まず声がいつもと違う。本当っぽくしようとして、必要以上に抑揚を消してしまっている。それからもっとわかりやすいのが、顔だ。いつも耳の先端が赤くなる。小学生の方がまだ上手く演技できるだろう。
それでも俺は、しばらく何も指摘しなかった。彼女の言葉よりも、彼女の様子そのものから問題を把握しようと考えた。
平日。朝早くに一条家へ向かう。必要なメイクをしてから登校。授業中は教科書などに隠れて雑誌やスマホを見ている。昼休みと放課後は部活動。部室内で舞台に設置する用の背景や衣装、小道具の制作をする。午後六時半まで続けて、帰宅。風呂や夕食を済ませてから、日付が変わるまでミシン等を使っての作業をし、就寝。かと思えば三十分もしない内にベッドの上で作業を再開し、三時くらいに寝落ち。俺が隣で寝たふりをしていても、気づかれなかった。
休日。朝早くに一条家へ向かう。必要なメイクをしてから駅前へと一条と共に買い物へ。俺が観察をした日は、ヘソ見せコーデというものに挑戦していた。それから電車で野岸市を出て東京の東側へと入り、一条が自分のコーディネートで歩いている姿を何枚もスマホで撮る。午後三時くらいに解散。帰ったらいつもの演劇部用の作業。夕食を挟んで深夜まで続ける。そして寝ては作業、寝ては作業と小刻みに繰り返して、朝がやってくる。
人間が続けていい生活じゃない。忙しい時の母さんでさえ、ここまでひどくはなかった。俺が理解できないのは、それでも藤野は幸せそうだということだ。顔の疲れをメイクでごまかし、笑う。授業中の寝落ちを教師に指摘された後、俺の方を見てきて笑う。どれも無理な笑顔ではなかった。自分の生活を心から楽しんでいなければ、出ないものだ。
「好きなもののために、死にたいと思える?」
菜々実さんや忠輝さんがいない時を見計らい、彼女の自室で尋ねた。藤野は手を止めて俺の方を見てきてから、少しの間考えていた。そして気の抜けたような笑みを浮かべる。
「死にたくないけど、うん。必要なら死ねる。なんでそんなこと訊いてくんの?」
「このままだと藤野が死ぬから」
彼女は右手を左右に振った。布が巻いてある。わずかに血が滲んでいた。
辻田は劇の話を考え、大まかな演出を決めていく。俺と一条は彼と話し合いながら、どうおもろくしていくかを考える。そして必要なものは全て藤野が作る。ジェスタの鋭い牙も、メイユーの衣装も、背景用の大きな数枚の絵も。他にもたくさん。最も負担が大きいのは、間違いなく藤野だ。俺も一条も辻田も、何かを作る技術はまるでない。できることと言えば、材料の調達や運搬を手伝ったり、制作の邪魔にならないようにするだけ。明らかに人手が足りないとわかりきっていたが、藤野は助けを求めなかった。
誰か高い技術を持つ、プロの制作の人に協力してもらう。ディックヘッド。藤野が自分の力だけで、全てを作り上げる。ビューティフル。化身はより厳しい道を望んでいた。だがこのままではいけない。辻田に小説を書かせた周から、藤野は必ず本番前に脱落するようになった。何十と繰り返しても、変わらない。
「何が足りない?」
藤野は机の上で手を動かし続けている。曖昧に口元を曲げた。
「全部かな」
「具体的には?」
「……時間と、お金」
この言葉を引き出すために、俺は一週間ずっと藤野への心配を表に出し続ける必要があった。不安そうな顔で作業を見守り続けたり、何度も言葉をかけたり。彼女は、そう簡単に弱音を吐いてはくれない。
「どうして急にそんな頑張り始めたんだ? 今までのペースでも十分だっただろ」
「辻田には言わないで」
衣服の縫い目を確かめてから、藤野は椅子を回した。俺の方に体を向けてきたが、目線は横に逸れている。
「美術館とか、いい感じのブランドショップに行くとさ、お腹が浮いてるみたいになんの。で、何度も上の空になって。家に帰って作りたくなる。それと同じ。辻田の脚本、あきらか良くなったじゃん。一条ももっとぶっちぎるようになったし。だからあたしもちゃんとやりたいって」
赤くなった頬を見ながら、俺は振り返っていた。本番までちゃんと体調が維持できていた頃の藤野も、終わったら満足しているように見えていた。だがあくまで、見かけだけだ。それは妥協された満足に過ぎなかった。
「ネットでコスプレ用の服を買ってそのまま使うのも考えたけど。やっぱりやだ。安っぽくしたくない。だから衣装も全部ちゃんと作る。あんたと一条専用のデザインで」
「オートクチュールってやつ?」
「それ通じんの、日本ぐらいだから。確かにフランス語でオートは高級、クチュールは仕立服っていう意味があるけど、本物のオートクチュールっていうのはパリで認められた店で作られるもののこと。ただのオーダーメイドをオートクチュールって言っちゃうのはほんとに恥ずかしいから」
藤野は咳き込んだ。俺はその呼吸が落ち着くのを待ってから、ゆっくりと言った。
「どれだけの時間が欲しい?」
「無限に。まあ多分、五徹くらいすれば見れるものはできる」
「二週間くらい寝ないでやったら、ちゃんとしたものができる?」
藤野は笑った。前よりも弱々しかった。
「やれっていうならやるけど?」
「お金に関しては?」
藤野は笑みを収めた。下唇を噛んでから、壁を見る。ため息まじりに言ってきた。
「部費ってどれくらいある?」
「六万」
「あと四倍は欲しい。サンプルを複数作ることも考えるなら、やっぱもう十万はいる」
「百万あれば、最高か?」
「そうかも。ミシンとかいいのにできるし。素材とか型紙も惜しまないで済む」
「一千万は?」
「最高。夢みたーい」
そう言って両手を上げてから、俺の方に顔を向けてきた。徐々に笑みを小さくしていく。弓を引くように、目を細めた。
「待って」
「簡単に解決するのは、お金の方だ。今すぐにでもいける。一千万だな。余ったら別のことに使っていい」
「ちょっと、倉下」
「時間の方も、考えがある。でもちょっと問題があって。俺の話をよく聞いてほしい」
「あたしの話も聞いて」
俺の前で片手を振ってから、藤野は腕を組んだ。俺の本気を確かめるようにして、下から目を覗き込んでくる。
「一千万って、お金のことだよ。日本円。借金でもするつもり? アホくさ」
「借金じゃない。もう持ってる。口座に入ってる」
「何の金?」
「美晴の保険金」
何度か指先で布を叩いてから、藤野は耳を赤くしていた。やや視線が揺れている。
「そういう冗談、笑えないよ。やめて」
「冗談じゃない。本気だ。他の誰かに使ってほしいって思ってた」
藤野は両手を上げかけて、途中で膝に落とした。
「だからって、あのさ、ほんとに洒落になんないから。だめに決まってる。そういうお金は、あんたのために使いなよ」
「俺は、お前のために使いたい。演劇部の発表がよりよくなるなら、惜しまない」
「あたしが嫌なの。どういう気持ちで使えって? やめてよ」
ここが限界だ。これ以上食い下がると、必ず拒絶される。藤野との間に確かな溝ができる。本番まで埋まることのない溝が。演劇部の中で、彼女が一番美晴と仲が良かった。それだけ重く受け止めてくれているということだろう。
無性に頭を撫でたかったが、自重した。
「じゃあやめる。ごめん変なこと言って」
「別に、いいけど」
藤野は大きく息を吐き出した。その気が緩んだ瞬間を狙って、俺は続ける。
「三十万と少しならいいか?」
「え? や、だから」
「保険金云々は関係ない。俺自身が稼いだ金だ」
「どうやってそんなの」
「バイトした」
「いつ?」
「内職でできるやつとか、いろいろ。隙間時間がもったいなく感じてさ」
実際は暇なんてなかった。一条との稽古だけでも忙しいのに、辻田や藤野に関する活動も含めれば、休む時間すら惜しい。だがそれはあくまで日中だけの話だ。午後十時から午前六時まで、日払いの夜勤バイトをいくつか掛け持ちした。高校生がダメな所も多かったが、ごまかしが効いた。サッカー以外で自分の身長に感謝したのは初めてだった。
住む所に戻るのが、大体七時過ぎ。そこから時空間内で睡眠を取れば、それでよしだ。現実時間の十五分くらい寝れば、万全の状態で学校へと向かうことができる。
藤野は心配そうに眉を下げた。
「あんた、お金足りないの?」
「いや、親戚から仕送りがあるから、今までも結構余裕だった」
「じゃあ、バイトする必要なんてないじゃん」
「俺、仕送り全部送り返してるんだ。一度も会ったことのない、よくわからない相手に養われてるの、気持ち悪くて」
本当の理由は、自分の稼いだ金で全てをやりくりする方がおもろいから。
「それなら、もらえない。やっぱり」
一千万を提示された時ほど、頑なな様子ではない。
「あげるんじゃない。俺が使うんだ。俺が俺の金を使うのに、藤野の許可は必要ない。ただ俺をほっとくと、やばいぞ? お前が必要としていない布とか、そういうのを勝手に買っちゃうかもしれない。絶対使わないのに、最新のミシンとか買っちゃうかも」
藤野は苦笑していた。明るい赤が、うっすらと頬を彩っている。
「なんなの、それ」
「俺だって服とか作ってみたいし。余ったら藤野にもやるよ。俺下手だから、雑に使い荒らした布とかになっちゃうかもしれないけど」
「もしかして、脅してる?」
「何買えば役立つか、藤野が教えてくれればいいんだけどな。演劇部に役立つものがいい」
そこで言葉を切る。藤野の方を見ると、唇を右の頬へと寄せて、上目づかいをしてきていた。軽くため息をついてから、両手を上げる。
「はいはい。わかったわかった。あんたに教えてあげる」
「できれば制作途中のアドバイスも欲しい。あれだったら、どんどん手を入れてもいいから」
「うんうん。結局あたしが全部やることになっても、恨まないでね」
「一緒にがんばろう」
「んふふ。そだね。ありがと、倉下」
部屋の使い古された道具の数々を見ていれば、察せられる。藤野は菜々実さんたちにあまり物をねだったことがない。彼女らしい遠慮が表れている。それを崩すのに、かなり苦労した。
「ところで、なんか解決したみたいになってるけど。時間の方は?」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
俺は部屋の扉がきちんと閉まっていることを確認した。耳を澄ます。菜々実さんは自分の部屋で仕事をしているだろうし、忠輝さんは会社だ。ただ万が一に備えて、警戒はしていた方がいいだろう。
藤野のベッドに腰掛ける。彼女へと手招きをした。藤野は椅子を動かし、俺の正面に近付いてくる。
「やっぱりさ、睡眠は大事だろ」
「そりゃあ、まあ」
「でも今の藤野には十分に睡眠を取る時間的余裕がない。なら、短い睡眠で疲れを完璧に取れるようになればいい」
彼女は肩をすくめた。
「あー、ショートスリーパーってやつ? それが何? 今からなれるわけないじゃん」
俺はサングラスを外して、机の上に置いた。空気に重さが生じた。俺の全身に伸しかかってくるようだ。だが藤野を視界に入れていると、徐々にそれが和らいでいった。
ポケットから白の小さな長方形の箱を取り出し、掌の上に乗せたまま藤野の目の前に持ってきた。彼女は黙って時空間を見つめている。
「俺は悪魔と契約してる」
鉛筆が最初に、箱から飛び出してきた。藤野は小さく悲鳴を上げて、のけぞった。次に、消しゴム、小さなビー玉、シャープペンシルの芯のケース。いくつかは手から落ちて、ベッドの上に着地した。
藤野は口を開いたが、何も声が出てこないようだった。
「これは、四次元ポケットみたいなもん。悪魔アイテムその一」
時間拡大収納空間
効果:現実の三十六倍時間が引き伸ばされた、拡張可能な空間
ペナルティ:貴方以外の生きた人間を入れると死にます
貴方の出入りを他の人間に見られると死にます
この時空間は、人間の扱いについては厳密だ。しかし、それ以外の物については何も指摘していなかった。つまり、こうして誰かの目の前で物を出入りさせても、問題がないということ。
藤野が落ち着くのを待った。彼女は椅子をゆっくりと動かしながら、再び俺の方に近付いてくる。両手を少し上げて、自分の体の前に持ってきていた。顔を引き気味にして、時空間を観察している。
「て、手品?」
「違うよ」
出した小物たちを、次々に戻していく。最初はいちいち肩を上下させたりして反応を示していた藤野も、少しずつ慣れていった。辻田から借りた本を出し入れする頃には、興味深そうに時空間を指でつついてくるようになった。
「悪魔って、どういうこと?」
「悪魔は悪魔。やばい奴。最悪な相手。たちの悪いクソパンダ」
「パンダ?」
机の上で、化身がにやにやしていた。
「魔法じゃん、すご」
「今回の問題を解決できそうなアイテムが、他にある」
俺は自分のリュックへと向かい、中に手を入れた。「最近」まで触ることもしていなかった、大量の注射器が入った袋を取り出した。
不夜石のスープ
効果:一本の注射につき八時間の睡眠効果を即座に得る
ペナルティ:一日(現実時間)三食摂らなければ死にます
既製菓子類、甘味加工飲料、インスタント食品類を摂ると死にます
「これ打てば、たっぷり寝た後みたいにスッキリできる」
藤野は俺とその透明な袋を交互に見た。浅い呼吸音が聞こえてくる。胸を一度押さえてから、椅子から立ち上がった。体をこちらに向けたまま、徐々に遠ざかっていく。
「怖がるなよ」
「それ、それって、絶対、あれじゃん。あんた、ばっかじゃないの? は、犯罪だよ」
俺は相手を安心させるように、慎重に笑顔を作った。
「麻薬とかじゃない。依存性はないんだ。もう結構自分で試した。副作用とかもない」
「な、なんなのそれ。どういう、薬?」
「さあ? 成分とかはわかんない。多分、誰にもわかんないと思う」
「そんなの、無理」
「信じられない?」
俺はベッドから腰を上げて、ゆっくりと藤野に近付いた。
「俺だって、信じてなかった。こんなのまやかしだって。でも違った。何回も試したんだ。全部本当のことなんだ。だったら、利用するしかない。今のままだと、藤野は絶対に本番までもたない。だから、打ってくれ」
「無理!」
「その効果を信じられないなら、俺自身を信じてくれ。頼む」
これ以上言葉を重ねることはせず、ただ俺は相手の目を見続けた。十秒以上目が合ったら特別な関係という説は聞いたことがあったが、二十秒以上経ってもお互いの視線が外れることはなかった。何もロマンチックではない。藤野は蒼白な顔のまま、固まっている。
やがて、その唇が固く引き結ばれた。何度か逡巡の間があってから、藤野は口を開いた。何かを押さえつけているような声だった。
「今までずっと、おかしいって思ってた。あんたのおかしいとこって、全部その、悪魔のせい?」
「そうかもしれない」
「美晴ちゃんが、死んだのも?」
強く見つめてくるその瞳は、潤んでいた。作られた拳が震えている。俺は一度、目をそらした。彼女の方はまだ直視してきていた。信じてほしい。そう言った時点で、ごまかしはもう許されなくなっている。
「関係は、ある」
顔を歪ませてから、藤野は深呼吸をした。拳を解いて、掌を自分の腰に擦りつける。
「悪魔が、美晴ちゃんを殺したの?」
「そう、かもしれない」
「じゃあその悪魔倒したら、美晴ちゃんを戻してもらえるの?」
藤野は将来、詐欺に必ず引っかかるだろう。荒唐無稽な話なのに、もう本当のことのように捉えている。いくら時空間の収納を見せたとはいえ、もっと疑うべきだった。
「わからない。でも、戦うしかない」
胸がつまった。背中がちくちくする。その感覚を必死に無視した。
一歩、また一歩と、藤野はベッドの方へと近づいてくる。もう怖がってはいないようだった。俺の持っている袋から目を離さないまま、目の前にまで来た。
「他の人には?」
囁くような声だった。
「いや、話してない。一条と辻田には、隠しておいた方がいいと思って」
「わかるよ、その気持ち」
藤野の指先が、袋に触れる。
「あんたとあたし、辻田と一条って感じ。あの二人ってさ、メンタル強すぎだよね。無敵だよ。あたしが色々と悩んでることも、あいつらにとっては一瞬で解決することなんだろうなって」
俺は黙って聞いていた。
「でも、あんたは違う。あたしと、似てるとこが結構多いと思う。なのに、黙ってた。ずっと一人で、ありえないことと戦ってた。すごいよ。尊敬する」
「そんなものじゃ、ない」
「ほんとはあたしにもずっと黙ってるつもりだったんだよね? でも話した。それくらい、あんたは追いつめられてるんでしょ? 最後に一つだけ訊かせて。学校のこととかで、あたしを助けたのも、悪魔のため? ただそれだけ?」
彼女から、この部屋から、この家から逃げたい衝動にかられた。そんな真摯な眼差しを向けてもらえるような存在だとは、全く思っていない。もっと責めてほしかった。そんなふうに納得しないで、もっと俺をどうしようもないくらいに。
「最初は、そうかもしれなかった。不登校の生徒を登校できるようにしたら、良くなるかもしれないって。でも、途中からはそれだけじゃなくなった。藤野は演劇部のためにすごくがんばってくれたり、妹と仲良くしてくれたり、たくさん、笑ってくれたり」
「うん」
「だから、それだけじゃない。藤野と友達になれて、心から良かったと思ってる。だから」
「もういいよ。かゆいから」
藤野は俺の隣に座った。ベッドが静かにきしむ。俺の胸のあたりまでしか身長がない彼女は、座っていても小さかった。一体その体のどこに、見てるこっちがうろたえるくらいのエネルギーがつまっているのだろう。
「信じるよ。でも、あたし、昔から注射怖くて。やり方もわかんないし」
「採血とかするわけじゃないし、痛くないよ。あと俺が打つから。やり方は心得てる」
「どこに打つの?」
「腕って言いたいんだけど。そこだと効いたり効かなかったりする。首にするのが確実」
うえ、と藤野は嫌そうに舌を出した。
「怖すぎ。目つぶっててもいい?」
「わかった。ちゃんと注射器も清潔にしてあるから、感染症の心配もないと思う」
「怖がらせないでよ……」
藤野は本当に注射が怖いようだった。美晴もそうだった。インフルエンザの予防接種の時はいつも、俺や母さんがそばにいないと絶対に受け入れようとしなかった。美晴以上に、藤野は注文が多かった。正面からは怖いから後ろからにしろとか、肩に触れていてほしいとか、ずっと耳元で励まし続けていてほしいとか。
ベッドの上で、俺は藤野を後ろからほぼ抱きしめるような恰好になった。彼女が好んで使っている香水の香りがする。簡単に包み込めそうなくらい、小さな体をしていた。美晴みたいだ。彼女と藤野が一緒に遊んでいる時は、本物の姉妹のようだった。
針を刺した瞬間、俺は藤野の頭を優しく撫でた。何のやましい気持ちも沸いてこなかった。美晴と一緒に風呂に入っているのと、同じだった。
少しして、藤野は俺から離れた。呆気にとられた様子で遠くを見つめていた。何が起こっているかは、顔でわかる。隈は残っていたが、目の開き具合や頬の色合いなどが見違えていた。たっぷり寝てから、起きて顔を洗い、朝ご飯を食べ終わった後のような充実感があった。
「すっご」
まだ何かを言いたかったようだが、俺を顔を合わせた途端、藤野は言葉を切った。軽く咳払いをする。耳の先を少し赤くしてから、喉が渇いたと言って部屋を出て行った。
俺は空になった注射器を見ていた。まだ十五本ある。足りなくなることはないだろう。前は疑問だった。時空間があるのに、似たような効果のこれがどこで必要になってくるのかと。どうやら、俺自身が使うものではないようだ。時空間が他人には利用できないからこそ、この注射薬が活きてくる。ペナルティがそれなりに厳しいのもわかるくらい、役に立つ。
ペナルティ。
俺はとんでもない大馬鹿だ。どうしてその可能性を今まで考えもしていなかった?
駅前のビルの屋上から飛び降りた時のことを思い出した。その時と同じくらいの衝撃が、全身にやってきていた。俺はすぐに立ち上がり、藤野の部屋の扉を勢いよく開けた。リビングへと飛び出し、すぐに台所にいる藤野へと顔を向ける。
「やめろ!」
悲鳴の後、ガラスの割れる音がした。
藤野はその場から飛びのいていた。台所の床には、割れたコップの破片が散乱している。中身の液体も飛び散っていた。
「な、なに?」
俺は台所の上に置かれている、二リットルのペットボトルを見た。炭酸入りの甘いジュース。
「どうしたの?」
物音を聞きつけて、菜々実さんも部屋から出てきていた。俺と藤野の間の床に広がる惨状を目にしてから、口をすぼめる。
「痴話喧嘩?」
破片を拾わなければ。でも俺の手は、別の何かを探しているみたいだった。寒気がゆっくりと、胸の辺りに降りてくる。
どうして、考えずにいられたのだろう。不夜石のスープのペナルティ。それは所持している俺だけではなく、使用した対象にも適用されるのではないか。つまり俺は、藤野に爆弾を埋め込んでしまったということになる。
俺はペナルティを受けても、やり直すだけだった。だが他は? 俺ではない誰かがインスピレーションアイテムのペナルティを受ければ、取り返しのつかない死が待っているかもしれない。二度と戻っては来れないかもしれない。
「倉下? ねえ、何か言ってよ」
藤野家の食生活。彼女自身の好みを考える。皆甘いものが好きだし、冷蔵庫には常にジュースが並んでいる。俺は事前の了承もなしに、彼女の好物を潰してしまった。人生を、歪めてしまった。
俺の右手が、勝手に台所の棚を開けていた。
「本当にごめん」
自分自身を罰する言い訳が得られるのは、甘美だ。すぐに自己嫌悪の毒に変わってしまいそうだけど、それでも、胸がすっとする。包丁を取り出した直後、菜々実さんが一歩引いた。藤野は恐怖で目を大きく開きながらも、手を前に伸ばしながら近づいてきた。
ごめん。心の中で何度も謝りながら、俺はよく手入れされた包丁を自分の首に刺した。万が一にも助からないよう、うなじまで貫通するくらい勢いよくやった。その苦痛が、俺を前へと進めてくれる罰になった。
「打たないの?」
繰り返すことには慣れていた。演じることにも。流れ作業みたいにはしたくない。特に演劇部の皆と関わっている時には。だからがんばって、素の俺を演じることに専念した。でもここからは、演技をしなくてもいい。新しい場面になるから。
藤野のさらけ出された首筋から手を離し、俺は彼女の正面に回った。
「メイクとか、服とかそういうのを存分に作れるようになる代わりに、自分の好きな食べ物や飲み物を自由に摂れなくなったとしたら、藤野はどうする? それでも打つ?」
藤野は腕を組んで、目をつぶった。顔を振り子のようにゆっくりと動かしながら、足をバタバタさせる。ベッドの軋む音が、静寂を断続的に破っていった。
おもちゃの選択に悩む子供のようにうんうん唸りながら十分ほど考えた後、藤野は目を開けた。口を大きく開く。
「どっちもやだ。完璧に作りたいし、クレープとか、ケーキとかも好きに食べたい」
主張も幼い子供みたいだった。
「でも、どうしようもないんだ。どっちかを取るしかない」
「じゃあ、あんたが何とかしてよ。あたしがどっちも取れるようにして。じゃないと打たない」
「そんなこと言われても」
「あんたもここから出さない。何とかするって言え」
筋も何も通っていない言葉に、俺は気圧されていた。ただのわがままだ。それなのに、不快じゃない。ペナルティを課してきている相手がどれだけ容赦ないのかも知らない、無責任ともとれる言葉なのに、俺に考える力を与えてくれた。
「それなら、藤野にはある条件を受け入れてもらわないといけない。これからは、俺が全部作る。藤野の食事も、おやつも全部。材料も全て俺が選んで作るから。三食全部」
菓子類に関しては、既製品のみがペナルティの対象になっていた。ならば、全部手作りなら問題ない。三食全ての管理も俺がやれば、不測の事態にも対応しやすくなる。
言っていて、気分が悪くなった。理由が、どこかへと逃げている。いや、俺の方がそれから逃げている。俺自身からも逃げたかった。卑怯な自分を感じたくなかった。
藤野は俺から離れて、ベッドの足の方まで後退していた。両手が頬に触れている。手の肌色、頬の鮮やかな赤色と、とても人間味のある配色になっていた。
「そんなの、あれじゃん。もう、告白どころじゃない。ぷ、プロポーズだよ」
俺は笑った。自分の中にある刺々しい感情が、かなり和らいでいくのを感じた。
「オーバーだな」
「あ、あんたの料理は確かに美味しいけど、毎日作ってもらうなんて、そんな」
「それくらいしないと、危ないんだ。本当に」
真面目に見続けていても、藤野の赤みは一向に引いていかなかった。彼女は何度か深呼吸してから、両手を下ろした。
「ど、どれくらいの期間?」
「一年生の間。多分」
「び、びびっくりした。一生かと。が、学校の時は? どうすんの」
「俺が弁当作るよ。絶対に買い食いとかはするな。食べたいものがあったら俺に言って。何でも作ってやるから」
藤野は頭を両手で抱えた。トマトみたいな顔が腕で見えなくなってしまった。今はもっとそれを見ていたい気分だった。可愛いし、ほっとするから。
俺には聞こえない大きさでぶつぶつと独り言を繰り返してから、藤野は叫んだ。
「わーっ、もう。わかった。わかったよもう。別に嫌なことでもないし。そうすれば? そうしたらいいんじゃない!」
「怒ってんの?」
「どっちも取りたいって言ったのあたしだし、しょうがない! その代わり、ちゃんとしてね。あたし遠慮しないから。有名店のクレープ再現してとか、平気で言うから」
「お手柔らかに」
「ななちゃんとてるくんにどう説明しよ」
その二人の名前が出てきたことで、俺の中でさらに何かが弾けた。熟した果実を握り潰し、甘い果汁と匂いが広がっていくような感覚。その心地よさに身を委ねたくなって、寸前で我に返った。
「外食とかも、行けないの?」
「うん。万全を期すなら」
「はあ。マジでどう説明しよ。あと半年くらいだし、どうにか……」
これ以上見てはいけない。針に刺された痛みと共に、警告が頭の中で響いた。それでも俺は悩む藤野を見続けた。胸の痛みが強くなっても、続けた。




