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お前が死ねばよかったのに

藤野の誕生日、ちょうど休日だったこともあり、全員が家にいた。朝から居間に集まり、それぞれが作業を始めた。創作の日と名付けられているらしい。週に一回、土日のどちらかで必ず行われる。

 菜々美さんは、テーブルの上に大きなタブレット端末を広げて作業していた。ペンのようなものを持って、漫画を書いていた。二年前くらいに月刊誌の賞を取ってから、最近ようやく連載にこぎつけたという。いつも家にいて、堂々としているのはちゃんと理由があった。

 忠輝さんは、趣味として木彫りをやっていた。彼によれば、表札をいじったこともあるらしい。つまり、唯一手作り感のあった藤野の名前の部分は、彼が彫ったものだったようだ。

最初あの表札を見て、藤野だけ排斥されていると感じた。菜々美さんと忠輝さんの名字も違うし、複雑な家庭だと断定した。だが実際は単純だった。付き合っている二人が、藤野を大切にしているというだけ。俺はそれを考えて、素直に嬉しくなれなかった。それ自体が、たまらなく嫌だった。

 藤野は小道具づくりをしていた。俺たちの劇で使うものだ。手伝おうとしてもすぐに邪魔になったので、俺は皆が作業している間ずっと家事をしていた。昼ご飯も夜ご飯も、俺が作った。ケーキだけは、他の皆が選んで買いに行っていた。

 皆と合わせて誕生日の歌を歌っている時も、藤野がろうそくの火を吹き消している時も、祈念の写真撮影をしている時も、俺は周りの目の動きを見ていた。観察に集中していた。

 別れの日のことは、だいたい辻田家と一緒だった。忠輝さんとは握手をして、菜々美さんとは拳を打ち合わせた。いつでも来ていいというお決まりの言葉をもらい、俺は玄関で待っていた一条に連行された。

 一条家に着き、中に入る。靴を脱いだところで、止められた。

「ねぼけてんの?」

 茉莉さんは完全に出迎える姿勢になったまま、一条の方を不思議そうに見ている。一条は俺を睨みつけてきていた。途方に暮れた。

「えっと、なんです?」

「頼めよ、早く。辻とリリーにはやったんだろ」

 さらに考えてから、弟子入り云々の話だとわかった。ずっと菜々美さんと忠輝さんの嫌いな所を絞り出すようにして考えていたので、すっかり抜け落ちていた。

「ああ、じゃあ、よろしくお願いします」

 彼女は床を指差した。

「跪いて、宣言しろ。それから私の手の甲にキスしろ」

 既に茉莉さんがスマホを取り出していた。それを気にしつつ、俺は膝を床に付けた。差し出された白くて薄い一条の手を取る。

「俺は、えー、一条あいさんの弟子になります。もうなってますけど。でもこの一週間は、より深くなります。こんな感じ?」

 一条は無言で顎を下に振ってみせたので、俺は花の香りがする手の甲に口を近づけた。

「サングラス、外せ」

「いや、でも」

「殺すぞ」

 俺はサングラスを外してから、さっと口づけを一条の手に落とした。それから再びサングラスを身につけて、立ち上がる。茉莉さんが小さく拍手をしていた。まだ恥ずかしくなれる自分が残っているとは、思っていなかった。

 俺が寝泊まりする部屋は、茉莉さんの夫用の個室だった。ロラン・ダタールが日本に来た時に利用する予定のものらしい。夫婦が違う部屋で寝るのかと不思議になったが、自分が気にすることではないと思い直した。

 俺が一条家内を見て回っている間、一条と茉莉さんは出かけていた。どこへ行くのかは聞いていなかったが、相当の用事だったらしい。陽が沈む時間まで、俺は一条家で独りで過ごした。

「どこ行ってたんだ?」

「東京」

 どうやら一条はそれなりに機嫌が悪いようだった。言ってから俺の足を三回蹴ってきた。俺の顔を見るたびに舌打ちしてきた。食卓に座るまでその空気は続いたが、四人目の登場によってそれは変わった。茉莉さんが大きなタブレット端末を食卓の端に立てて色々操作をすると、画面に男が映し出された。

『おはよう』

「いただきます」

「いただきまーす」

 ロランの挨拶と同時に、茉莉さんと一条が食事を始める。定期的に、こうして一緒の時間を過ごしているのだという。ロランの方は午前三時あたりらしいが、彼はいつもそのくらいに起きているらしい。

 会話は基本的に英語だった。主に一条とロランが話す。途中まで茉莉さんも参加していたが、俺を気づかってか、日本語で小さく話しかけてきた。

「ごめんなさいね、いつもこうなの。倉下君、学校の成績いいんですよね? 娘から聞きました。英語、好きですか?」

「好きっていうか、まあ、やってはいます」

「いい英会話の教師知っているんですよ。個人的に伝手があって。教え方が上手で」

「今結構そういうの多いですよね。でもお金も結構取るからなあ」

「必要経費みたいなものです。こちらで全部負担しますので、明日からでも大丈夫ですか?」

 俺はまばたきをした。不思議そうに茉莉さんが見てきている。ロランと一条もいつの間にか会話をやめて、俺に注目していた。きんぴらごぼうを一口食べてから、俺は箸を置いた。

「俺、やるんですか?」

「はい。英語、大事ですよ。あいは小さい頃から触れてきたので大丈夫ですが、倉下君の年齢から身につけるとなると、やはりある程度はみっちりやらないと」

「さすがにお金までは。遠慮しときます」

「だめですよ。必要なんですから。私がいつでもあいに付いていられるとは限りませんし。特に海外ともなると」

 ん?

『問題はないだろう。ぼくも大人になってから日本語を憶えた。マリといろんな話ができるように。クラクラもそうすればいい』

 ロランはコーヒーを飲みながら、さも当然のように言ってくる。

「足引っ張られると困るから、やれよ」

「こら、あい。そういう言い方はないでしょう。そういうことですので、倉下君。明日からでいいですね?」

 一条家全員からの圧を感じて、俺は頷くしかなくなった。

 それから、英語は嘘みたいに全く使われなくなった。ロランも日本語で話すようになった。内容は主に、一条の過去についてだ。まだハイハイしかできない時に行方不明になって、茉莉さんとロランが血眼で探した結果、知らない家で知らない家族と遊んでいる所を発見したとか、アメリカの幼稚園に入って三日目の時にちょっかいを出してきた男子の目を潰しかけたとか、そういう話が終わるたびに、感想を求められた。

『平仮名の名前は、珍しいそうだな。クラクラの名前は、どういう由来がある?』

「友達のとも、あと絆っていう字も、ともって読んだりします。人との関係を大事にする子になるようにとか、そういう思いが込められてます」

 ロランは当たり前のように話しかけてきていたが、俺としては複雑だった。そもそも茉莉さんと一緒の空間にいることも気後れしたし、よく考えれば一条のことをまともに見られるかどうかも怪しかった。特に胸の辺りは見づらかった。ガラス片で刺した時の事を、否応なく思い出させられるから。

「あいっていうのも、由来があるんですか?」

『平仮名というのは、面白い。あといは、五十音の一番目と二番目だ。英語で言えばAとB。ただそれだけのことなのに、日本語においては愛という、極めて重要な意味になる』

 それからはまた、一条に関する思い出話だった。だいたいが、俺に伝えるためという感じがした。片付けを手伝っている途中、茉莉さんがこそこそと話してきた。

「さっきの、あいの名前の話、信じてます?」

「はい?」

「本当は、最初漢字の愛にしようと言ってきたんです。シンプルが一番だって。でも私はもっと可愛い感じにしたかったから、平仮名にしようと提案を」

「茉莉さんの案だったんですか?」

 彼女は笑いながら、エプロンを外し始めた。

「これからもあの人、色々言ってくると思いますけど、話半分でいいですから。後付けが上手いんです。ああいう芸術肌の人たちって。お互い苦労しますね」

 エプロンをたたんでから、茉莉さんは続けた。

「私は、ロランとあいの世界には入れません。理解できないから。でも支えると決めました。二人は自分の世界だけで完結できますが、そうではない時もあります。彼らが〝外〟で気分を落ち着けたくなったら、私の出番です。これからは、倉下君にもお願いできそうですけど」

「さあ、どうですかね」

「大丈夫ですよ。あいは多分、自分の恋人にちゃんと寄りかかれる子ですから」

 俺が首を傾げると、茉莉さんも首を傾けた。右手で口を押さえてから、少し耳を赤くする。

「恋人、ではない?」

「はい」

「私としたことが・・・・・・、すみません。あまりにも娘が貴方のことを話すので。早合点しました。いやだ。ずっとそのつもりで話していて」

「なんか、すみません」

「いえいえ。でも、遠慮はしないでください。自分の家だと思って、過ごしていいですから」

「ありがとうございます」

「娘もああいう感じなので、倉下君がいると賑やかになります。男手があるのも助かりますし。一週間と言わず、好きなだけいてください」

「本当に色々とありがとうございます」

 俺と同時に、茉莉さんも頭を下げてきた。

「こちらこそ。本当になんて言ったらいいか。・・・・・・本当に、倉下君は頑張っていると思います。すごく苦労されているのに」

 ぞっとした。茉莉さんがやや涙目になっているのを見て、生の恐怖を感じた。薄々感じてはいた。でもあまり考えないようにしていた。同じ煙草を吸っているわけでも、見た目が似ているわけでもない。なのに、この人が一番思い出させてくる。

 だから、今までのようではだめだと感じた。藤野や辻田との関係にも影響しそうだから、積極的にその家族に嫌われには行かなかった。だが一条の場合はもっと思い切った行動が必要なのかもしれない。だから俺は冗談を装って、指摘した。

「でも、まあ、あれですね。ロランさんを好きだって言う割には、思いきったことしますね。一条を、あいさんを野岸南高校に入れたのって、茉莉さんの母校だからですよね。しかも、初恋の人がいたところだとか。意外とやりますね」

 俺としては嫌われる覚悟で言ったことだった。だが茉莉さんは眉をひそめることもせず、ただきょとんとしていた。それから、口を押さえて笑い始めた。

「茉莉さん?」

「すみません、ちょっと。それ、ふふ。あいから直接?」

「はい、そうですけど」

「可愛いとこあるんだから。あの子もまだまだ子供ですね」

 俺が呆気に取られていると、茉莉さんはまだ笑いながら続けた。

「私が野岸市の出身なのは正しいですけど、別の高校ですよ」

「そう、なんですか?」

「はい。もっと遠くの女子校です。それに初恋って。ふふふ。私の初恋は幼稚園の時です。あいにそんなこと、話したこともありません」

「じゃあ、どういうことですか?」

 茉莉さんの目が意味ありげに光った。

「言ったでしょう。ああいう種類の人間は、後付けが得意なんです。あと、嘘と真実を混ぜるのも得意」

 翌日、俺は言われた時間の十分前に起きる予定だった。だが俺を目覚めさせたのは小さめの目覚ましの音ではなく、一条のビンタだった。既に赤色のランニングウェアに着替えていた彼女に急かされて、外へと出た。

「なんで今日の空、雲が少ない?」

「気圧の関係とか」

「死ね。想像しろ。誰かに盗られたからかもしれない。どこかで過剰に雨を降らせてる奴がいるかもしれない。次、あの電柱の歴史をプレゼンして」

 走りながら、一条に次々と質問された。あちこちを見させられた。五キロ程度の、俺もいつもやっているくらいのランニングだったが、常に喋らされたので異様に疲れた。同じくらい話していた一条は少し息切れしている程度で済んでいたので、慣れの問題だ。

 朝の運動の後は、朝ご飯。オートミールの卵粥と、きのこと海藻のサラダ、ヨーグルト。一条と全く同じメニューを食べることを命令されていたので、俺も茉莉さんが作ったそれらを食べた。レシピもちゃんと聞いて憶えた。

 七時前に藤野がやってきて、一条のメイクを始める。藤野によれば毎日コンセプトカラーとやらを変えているらしいが、俺にはただ微妙に一条の顔の輝き方が変わったとしかわからなかった。

 登校途中で辻田と合流。彼と一条は、脚本を持ちながら横に並んで歩いていく。

「ここ。メイユーが微笑むってト書き。理由は何? 悲しい場面なのに」

「ジェスタの血に怯んだとこだろ? ジェスタを安心させるためだ。ほんとはたいしたことないって思わせるために笑った」

「でも、その後に彼女はジェスタの傷にためらいなく触れてる。危険なのに。どっちにとっても。おかしくない?」

「怖くないって示すために、多少の危険を冒したんだ。歩み寄りって感じ。だからここの微笑みは、自分自身を勇気づけるためでもある」

「なるほど。じゃあ、ここの・・・・・・」

 歩きながら、藤野が一条の髪に櫛を入れている。家の中で済ませたはずだが、納得できない部分があったようだ。俺は一番後ろを歩きながら、彼らの周りを確認した。全員、前をあまり向いていないようだから。

 想像力。一条と一緒に過ごしていると、その言葉がたくさん出てくる。とにかくイマジネーションだと。演じるためには、ひたすら想像することが重要らしい。

「重みは、歴史から出てくる。いい? 私たちは無機物を演じるわけじゃない。人間でもないけど、生きてる役を。なら歴史がある。それを強く意識して。貴方の演じるジェスタは、脚本の範囲でだけ生きているわけじゃない。彼が母親のイリンの子宮内にいるところから、想像して。劇中の時間になるまでどんなふうに生きてきたのか、追体験するの」

「子宮」

「羊水の中で浮かんでいるところを、感じて」

「そんなの、無理だ。わからない」

 尻を拳で叩かれた。

「背筋を伸ばせ。重心を上に。ケツ引き締めろ。堂々と歩け。舞台の上でもそうするつもり? どんなに深く考えていても、上品に歩け。失敗したらどんどん叩くの強くしてくから」

 すぐに尻の感覚がなくなった。そういうもので興奮できるような体質でもないので、ただただ痛くて苦しいだけだった。そんな中で、俺は一条に言われたことを考え続けた。自分の経験の中に、答えを求めた。

 ばちんっ。

 俺が母さんのお腹にいた時、どうだっただろう。何を考えていたのだろうか? 何も考えてはいないと思う。まだ、産まれてきてもいなかったのだから。

 ばちんっ。

 一条がそういう考えを許さない。想像あるのみ、と言ってくるだろう。もっとヒントになりそうな記憶は、なかっただろうか。

 ばちんっ。 

 俺が産まれた時のこと。母さんは何回か話してくれていた。かなりの難産だったらしい。まず陣痛が微弱だった。そのため痛みを伴う子宮収縮による分娩の進行が遅く、出産の時間が長引いた。そしてさらには、俺は骨盤位だった。つまり逆子だ。帝王切開も考えられたが、その時いた所は個人病院で、必要な大量の輸血液が少し足りていなかった。

 ともはね、回転したの。生きるために回ってくれた。

 誇らしげに語る、母さんの顔が思い浮かぶ。総合病院の助けを待っている間に、俺は子宮内で回転したそうだ。つまり、足が産道の方へと向くようにした。もしその行動がなければ、母体の負担も鑑みて、俺の命は諦めることになっていたかもしれない。

 そこまで来ると、母さんはいつも眉間に皺を寄せて宙を睨みつけていた。どうしてそんな選択肢を言ってくるんだろう。あの時の医者は皆、おかしかった。ともは絶対産まれてた。お母さんが死んでも産んでた。

 ばちんっ。

 俺は現実に引き戻された。舌打ちをしながら一条が前に回ってくる。俺の顔を見て、少し目を大きくした。

「そんなに痛かった?」

「いや。いや別に」

「答えは?」

「俺一人だけじゃ、無理だ。そっちがイリンを演じてくれ。それに乗っかってみる」

 一条は斜め上を見ながらうなった。

「わかった。今日の台本読みはジェスタとイリンの場面を中心にやる」

 起きている間は、ほとんど休まる暇がなかった。声出しの練習をしてる時も、食事を取っている時も、風呂上がりのストレッチをしている時も、一条は俺に付きっきりだった。

 でもまさか、寝る時もそうだとは思っていなかった。

「今日見た赤色のもので、一番良かったものは?」

 真っ暗な部屋の中で、質問してくる。

「ポスト」

「その歴史をプレゼンして」

「足の方の塗装がけっこう剥がれてた。だから数十年前のものっぽい」

「それじゃだめ。ポストがそこに建ってたのはなぜ? どんな思いで誰かはそれを作ったの? それが歴史。数字じゃない。思考、感情こそが歴史」

「もう十一時なんですけど。寝ません?」

 俺は既にベッドに横たわっていた。下の方にある布団を押しつぶすようにして、一条が座っている。そのせいで足を伸ばしきることができず、いつもの寝る体勢を作れなかった。彼女は指摘を受けてから、腰を浮かせる。そして、そのまま前に倒れ込んできた。

 枕の端が、一条の鼻に当たっている。睫毛がちゃんと見える程度には近い。今までもこの近さで対したことはあるが、寝っ転がってはいなかった。パンダ配色の、ふわふわしてそうな布のパジャマを着てはいなかった。同じ枕に顔を触れさせているような状況ではなかった。

「ここで、寝るのか?」

「うん」

「自分の部屋に行けよ」

「ママにも言ったし、大丈夫」

 こちらを見たまま、手に持っていたスマホを操作する。少ししてから、俺に見せてきた。ラインのチャット画面だ。くらくらハブり所、と名付けられているグループ。

「辻田が言ってた。お前、何回もうなされてたって。藤野は、そもそもお前は眠れてないみたいだって言ってた。だから、添い寝してあげる」

 俺だけを入れてないグループラインで、俺に関する情報を共有していたらしい。そこには突っ込まず、やや一条から離れた。

「茉莉さんマジで許可したの? 思ったんだけど、あの人少し抜けてるよな」

「他の女の話しないで」

 一条の声が低く、蠱惑的になった。顔をずらし、枕の真ん中近くにまで来た。長い黒髪から、高そうなシャンプーの匂いがしてくる。

 しばらく沈黙が続いた。一条は遠慮なく俺の目を見続けてくる。久しぶりに人の目をちゃんと見た気がした。サングラスを付けている間は、何も見ないようにしていたから。

「お前が死ねばよかったのに」

 大人の女性が愛を囁いてくるような声音で、言ってきた。声が、俺の肌を突き破って、中にある臓器を鷲掴みにしてきた。俺は思わず目をそらした。

「美晴が生き残ったら、私の妹にできた。ここに住まわせるくらい、なんてことない」

「急に、なんだよ」

「お前を生け贄にして美晴が戻ってくるなら、私はためらわない」

 憤慨するべきか、悲しむべきか。この発言は明らかに、それまでの一条の暴言とは次元を異にしていた。多分茉莉さんが聞いたら、思いっきり叱るくらいはする。でも俺は、聞いた直後から一条を抱きしめたくなっていた。そして突き放したくもなった。感謝と憤りが、それぞれの原型を留められないほど混ぜられた。

「ひどいな」

「何でお前、生きてるの? 死んでないの?」

 一条の顔は無表情だった。辻田や藤野とは違う。美晴のことを話している時、彼らは多少なりとも乱れていた。だが一条は、むしろいつもよりも安定している。

「俺が一番、不思議に思ってるよ」

「今首を絞めたら、お前は死ぬ?」

「やってみれば?」

 手入れの行き届いた両手が、俺の首を覆った。容赦なく締め付けてくる。だがそれは一瞬のことだった。苦しい声でも上げてやろうかと考える前に、一条は手を戻した。

「やめた。もったいない。もっと憎くなったらやる。とっておく」

「そっか」

「私に殺されたくなかったら、死ぬ気でやれ。どんなことにも」

 一条は笑っていた。凶暴で包み込んでくるような、歯の見せ方だった。

「ありがとう。できればもっと言ってくれない?」

「死ね。お前みたいな変態よりも、美晴の髪一本の方がまし」

「その調子」

 俺は目を閉じた。一条の容赦ない罵倒に包まれながら、意識を沈ませていった。最近で一番、気分良く寝入ることができた。


 一条は気分屋でもある。いつも通りの質問、訓練まみれの一日を送るかと思えば、急に全く別のことを提案してくることもあった。

「プール行くぞプール」

「どこの?」

「近くの市民プール」

 本当は自然の池や川にしたかったらしいが、茉莉さんに強く反対されたという。ここらの水場は意外と深いところが多いから、安全を考えてのことだろう。俺も大賛成だった。かといって、プールに喜んで行けるというわけじゃない。

 だが俺は、断らなかった。一条の役作りを間近で見られる機会は貴重だったから。助手として招集された辻田と藤野は、最初は面倒そうにしていた。彼らはどちらも、泳ぎがあまり好きではないらしい。

「なんか、逆じゃね?」

 川の中の流木、地獄に垂らされた蜘蛛の糸こと辻田は、俺の両腕を引っ張りながらプールの中を進んでいる。隣のレーンでは、藤野が同じように一条を先導していた。

「なんで僕と藤野がお前と一条に泳ぎ教えてんだよ」

「あ、ちょ、離すなよ。つじたあっ! お願いします」

「わかったわかった」

 隣で、藤野が一条の手を離していた。一条がぴっと伸びたまま沈んでいく。慌てて藤野が潜り、救助していた。藤野はワンピースを模した黄色の水着、一条はフリルの付いた黒ビキニだったが、正直見物する余裕はまるでなかった。

「一回立てよ。お前の身長なら余裕で足着くって。怖くなくなるから」

「離すなよ、頼む」

「力抜け。リラックスしないと沈むぞ」

「離すなよ、離すなよ・・・・・・」 

 結局、三十分ほどでギブアップした。俺と一条両方が。

「泣きべそ。だっさ」

「お前もな。なんだあの亀。軽いのによく沈めるよな」

「死ね。やり方を変える。桶に貯めた水でもいい。そこからやるべきだった」

 休みながら、辻田と藤野がクロールで五十メートル泳ぎきるのを眺めた。天は二物をきちんと与えるようだ。物書きやメイクなどの才能の他にもちゃんと。

 一条の役作りにも付き合いながら、あっという間に一週間が過ぎていった。そして日曜日。一条の誕生日当日、再び突飛な提案をされた。

「一緒に東京来い」

「いいけど、何しに?」

「車じゃなくて、電車で行ってやる。感謝しろ」

「うん、ありがとう。だから何しに?」

 茉莉さんは先に車で向かっているとの話だった。なら一条もそれに乗っていけばいいのに、わざわざ俺を引っ張るようにして野岸駅まで連れてきた。いくら俺が目的の場所を尋ねても教えてくれなかった。

 電車が来た時、俺は少し歩みを遅らせた。一条が乗るのを確認してから、大きく踏み込んで電車内に入る。

「この一歩は小さいが、俺にとっては二五〇〇点の一歩である」

「何言ってんの?」

 俺はにやにやするだけに留めておいた。一条に尋ねられても尻を叩かれても、答えなかった。お返しだ。

 いくつか乗り継ぎをした。千葉県の境を超え、山手線を利用する。そこから東京港区の新橋まで行き、下りた。それなりに風景を憶えていた。近くのお台場に行ったことがあるからだろう。超高層ビルが並ぶ中、俺は一条の背中についていった。

 テレビ局をいくつか回った。かなり偉そうな番組のプロデューサーや、大河ドラマに良く出ているベテランの女優。この二人に謝るために、一条は今日東京に来たらしい。いくら拒絶されようが、すれ違う関係者から白い目で観られようが、続けていた。

一条が仕事で関わるはずだった相手に対して、本当に申し訳なく思っているのは伝わってきた。それが受け入れられる時もあるし、拒絶される時もある。重要なのは、一条がしたことの重さを、俺が一番わかっていなかったということだった。

 演劇部のために、仕事から全て離れた。部を作った時はそれに関してびっくりしたし、プレッシャーを感じていた。だがそれからは、どうだったか。俺は多分、一条に対しての責任というものを、深く考えてはいなかった。

 俺は一条も、辻田や藤野のことも、まともに考えてなんかいなかった。ただ美晴が死なないようにすることだけを考えていた。演劇部そのものを一番真剣に捉えていなかったのは、俺だ。

 良かった。でも、次はもっと良くなる。初めて文化祭での舞台を終えた時、一条はそう言っていた。自分の浅はかさに腸が煮えくり返った。何が良かっただ。何が次はもっと良くなるだ。どうしてあの時の俺は、一条にそんな言葉を言わせて平気でいられたのだろう。

 何が、あと半年残ってた、だ。俺はちゃんと、あの舞台を本気でおもろくさせようとしていたのか? 違う。容赦をしていた。通過点のように考えてしまっていた。俺はおもろくなろうとしていたんじゃない。安心したかっただけだ。これくらいやれば大丈夫だろうと、思いたかっただけだ。

 文化祭の劇を、死ぬ気でおもろくする。まだその後も半年残っているから、目標の半分の点数だけ稼げばいい、なんて考えは捨てる。あの劇だけで、クリアできるくらいおもろくなる。それくらいしなければ、乗り越えられない。

 家に戻った後、茉莉さんの作ったケーキを皆で食べた。それからのことは、曖昧だ。俺は既に、次のことで頭がいっぱいになっていた。

 一条の十六歳の誕生日から約二週間後、本番が来た。俺はできる限りのことをしたが、もちろん何かが前に進んでくれるとは思っていなかった。俺はまだ、何も知らないも同然だ。辻田と藤野、そして一条のことを、徹底的に知らなければいけない。

 拍手を背に受けて、俺と一条は体育館のステージ裏に引っ込んだ。何か言われる前に、俺は走り出した。扉を抜けてステージ横に飛び出し、思いっきり白い長方形の小箱を投げた。

 時空間が観客のカメラの一つに当たるのを見てから、周りの光景が崩れていく。

 一条家のリビングで美晴にいつもの電話をしてから、一人になった。


 総合得点:十九点

 たいして面白くならなかったので、貴方のの一番大切な人が死にます


 時空間の中に入る。新たな物が追加されていた。ボイスレコーダー数本と、大きなカメラが一つ。全て床に転がっている。俺はそれら全てに、ペンで四五六週目と書いた。

 今は、四五七週目。つまりこれらは、「前の世界」の物体だ。時空間に入れておくと、次の週に行ってもそのまま保存されるようだった。カメラの方は盗んだも同然だが、この世界のそれはちゃんと残っている。持ち主の手元にある。

 違いを把握しよう。俺は毎回違う行動をする。それに対する一条たちの反応も違ってくる。それを記録しておけば、理解に役立つ。積み重ねていけば、どう究極的におもろくするかもわかってくるだろう。



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