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どの文字が一番エロいと思う?

面白くならなきゃ死ね


場所:野岸市内

期間:一年生の修了式まで

目的:総合六十五点以上の獲得

手段:一条あい、辻田大志、藤野璃々

要注意事項:「手段」は、死にません


校門を通った。時刻は八時二十分。ちょうど生徒の登校がピークを迎える時間帯だ。だから必然的に多くの注目を集めることになった。

「何見てんだよ。失せろ」

 一番近くにいた女子生徒に向けて言うと、彼女もその周りの者達も慌てるようにして去っていった。俺は満足しながら頷いた。

 校舎を見上げる。白黒だ。サングラスを掛けているから、当たり前だった。一条に貸してもらったやつじゃない。もっと真っ黒で、長いワンレンズのサングラス。漫画やアニメで出てくるような、近未来風のものだった。サイバーパンクとも言うらしい。

 今日はやや風が強い。頭を撫でてくる感触が心地いい。やはり、ツーブロックの髪型にしたのは正解だった。中学以来だ。すーすーする。馬鹿みたいにボールを蹴って走っていた頃のことを思い出した。

 自分のクラスの教室に入っても、誰も寄ってこなかった。前の停学明けの時とは大違いだ。副担任から担任に変わった数学の若い女教師も、俺を見てびっくりしていた。でも、何も言ってはこない。

 一つ目の授業が終わった後から、ぽつぽつと何人かが話しかけてくるようになった。俺は全部無視した。なるべく視界にも入れないようにした。しつこい奴には舌打ちをして牽制した。ネクタイを緩めて、ワイシャツのボタンも多めに開けたりして。そういうふうに格好にも気を遣ったから、効果が出てほっとした。

 辻田や藤野は、昼休みになってからようやく話しかけてくれた。俺はサングラスを外してから、机を動かし始める。

「机くっつけようぜ。飯食い終わったら図書室行こう」

 藤野は黙って俺を見たまま、自分の弁当を開けていた。想像する限り最悪の空気の中での昼食だったが、俺は満足だった。もっとこういう時間を設けるようにしよう。

 食事も終わり、何か言いたげな二人と図書室に向かう途中、面倒な奴らに遭遇した。

「もっとも……」

 亮吾は話しかけてはきたものの、それ以上何も言葉が見つからないようだった。だからお前はディックヘッドなんだよ。ずきずきする胸を無視しながら、俺は心の中で彼を罵倒した。

 沙良も声をかけてきたが、無視した。辻田と藤野が居心地悪そうにしているが、仕方がない。彼らもそのうち慣れるはずだった。

「おい! お前、いいかげんに」

 あからさますぎたらしい。珍しく亮吾は怒っていた。腕を一度掴まれたが、すぐに振り払った。今までにない強さで。気持ち悪かったが、我慢するしかなかった。

 多分、今日は学校の皆がもやもやを抱えている。何となく、そういう雰囲気があった。ニュースでもやっていたから、広まるのはあっという間だっただろう。教師たちも皆沈んでいる様子だった。安藤先生は結構人望が篤かったらしい。

 沙良が前に回り込んでくる。少し泣きそうになっていた。こういう女ってすぐ泣くよな。自分を殴りつけたくなりながら、そう強く思った。

「わ、私達にできることがあるなら」

「うざいな」

 沙良と亮吾は息を呑んだ。一歩下がった。それを追いかけるようにして、俺は一歩前に出る。

「そもそもお前ら誰だよ。邪魔すんなよ」

「お前、おかしいよ」

 亮吾がやっとの思いで出したらしい言葉を、俺は鼻で笑った。

「頭悪いだろ、お前。母親が首吊って、妹が顔ぐちゃぐちゃになって死んで。おかしくならない方がどうかしてる」

 沙良が息を大きく吸い込んだ。先ほどまで多少は生徒の声で騒がしかったのに、今はしんとしている。廊下にいる者達全員が、俺の様子を窺っているみたいだった。

「もう話しかけてくんなよ」

「お前……」

「サッカー部とかと仲良くしてろよ。アホ面して球蹴りでもしてろ」

 かつての三年間、部活内で喧嘩が起きることは全くなかった。全員、居心地の良い運動部を求めているような雰囲気があった。この学校の生徒そのものがそういう傾向にあると感じていた。人をまともに殴ったことがある奴なんて、ごく少数だろう。

 だから亮吾も、それ以上詰め寄ってくることはなかった。沙良と一緒に取り残されたような顔でその場に固まっていた。歩きながら、こっそりと自分の胸を殴りつける。血の流れが気持ち悪い。ひんやりしてもいて、熱くもある。不安定だった。

誰かを嫌いになるためには、どうすればいいか。嫌われればいい。

 この「ゲーム」の失敗ペナルティ。俺の一番大切な人が死ぬ。一周が終わるごとに適用されるらしいが、前までは大丈夫だった。多分美晴のことしか考えてなかったからだと思う。でも、これからは違う。人と関わる機会がある以上、誰かのことを考えずにはいられない。少しでも気持ちが傾いてしまえば、どれだけ母さんや美晴のことを大事に思っていても、新たな犠牲が出る。

 どこか誰にも見られない場所に行って、落ち着きたかった。だが我慢した。亮吾や沙良、他の中学からの友達の姿を思い浮かべる。その一つ一つに、泥を投げていった。俺なんか、早く忘れてくれればいい。生きていればこの先もたくさんの出会いがあるだろう。俺みたいな奴なんて、嫌な思い出の一つに沈んでいく。そういう風にして幸せになってほしい。

 サングラスはやはり便利だった。特にこれは顔にフィットしているから、横から見ても目の様子がわからない。だから何度もまばたきして色々とごまかしても、周りにばれなかった。


「おもろくなくね? 正直」

 辻田の書いた脚本を破りながらいろいろ言ってみたり。

「キモいよこれ。俺の口には合わないというか」

 藤野の作った吸血鬼の歯をゴミ箱に捨ててみたり。

「違う。なんか違う。演技下手じゃね?」

 一条との稽古を文句で何回も止めてみたり。

 俺は一日で徹底的に嫌われた。

 一条、辻田、藤野はペナルティの対象にはならない。つまり彼らのことを一番大事に思っている上で失敗したとしても、彼らが犠牲になることはない。要注意事項が言っているのは、そういうことだった。

 結局、文化祭の発表は立ち消えになった。一条は途中から学校に来なくなった。父親のオーディションを受けに行ったらしい。そして次に藤野が学校に来なくなった。辻田は授業時間も休み時間もずっと本を読んでいるようになった。文化祭の日は、誰も来なかった。


 総合得点:十九点

 たいして面白くならなかったので、死にます


 九月中旬の一条家。つまり俺が「戻った時点」では、十六点獲得している。そこから一ヶ月で三点。惨憺たる結果だが、学びもあった。それでも三点。やはり一条たちに関する行動を起こすことで、点数を得られるようだった。負の方向であっても。

「ずっと愛してる」

 電話に出たばかりの美晴に言ってから、俺は再び行動を始めた。

 ニュースなどを確認して、犠牲が予想を超えていないことを確認する。自分のやったことは正しかったのだ。

「誕生日?」

 辻田は傍らに置いたサングラスを気にしながら、怪訝そうに本を閉じる。

「今月なんだろ?」

「九月二十六日。それがなに?」

「お祝いしたいんだけど、いい?」

 箒で空を飛びたいと言われたかのように、彼は腕を組んでうなった。「二周目」の時も、俺は祝おうとしていた。驚いたことに、一条、藤野、辻田の全員が九月の下旬から十月の上旬にかけて生まれていた。だからそれぞれの家とかでお祝いしようと提案したが、彼らは嫌がった。代わりに全員分の誕生日祝いとして、皆でカラオケに行ったのを憶えている。あれはあれで楽しかったが、今回からは違う。もっと容赦なくやらなければいけない。

「辻田の家でお祝いしようぜ」

「めんどくさ」

 そう言いながらも、口元が少しだけ緩んでいる。

「そんな盛大にやるもんでもない」

「大丈夫。一条と藤野は来ないから」

「そうなのか?」

「女子いた方が盛り上がる?」

「別にいらん。うるさくならないし。お前だけ?」

「そうそう。あとさ、誕生日の一週間前から行ってもいい? つまり、辻田の家に連泊したいんだけど」

「嫌に決まってるだろ。馬鹿か?」

 今の俺の境遇を知っててためらいなく罵倒できる、貴重な存在だった。それでも俺はしつこく頼みこんだ。同情を誘うような演技もした。寂しいとか、住んでるとこに一人でいたくないとか。自分でも気持ち悪いと思うくらいだったけど、辻田は真面目に聞いてくれた。

 五回目の頼みを切り捨ててから、辻田は両手を上げた。

「しつこすぎる。わかったから。一応訊いてやる。何でそんなことしたい?」

「辻田の誕生日を祝いたいから」

「黙れよ。倉下、いいかげんキレるぞ。本当は?」

 俺は辻田が持っている本を見ながら、答えた。

「辻田に弟子入りしたい。俺さ、小説書きたくなったんだ。色々教えてくれよ」

 胡乱そうに細まっていた目が緩んで、少し輝きだした。それを見て、俺はさらに自分自身のことが気持ち悪くなった。


 辻田の両親の承諾も、簡単に取れた。主に父親の方の成彦さんが乗り気らしい。彼らも俺の事情は知っていただろうから、断りにくかったのもあるかもしれない。

辻田から成彦さんと佳乃さんのお菓子の好みを聞いて、駅前のデパートで全て揃えた。後は自分用の調理器具やら歯ブラシやら着替えやらをスーツケースに詰め込んで、辻田家へと向かった。

 俺が手土産のお菓子を渡したり、家事をなるべく手伝うことや自分の食事は自分で作ると言って佳乃さんに止められたりしている所を、辻田は退屈そうに眺めていた。遠慮や気遣いが多く含まれた会話が終わった後、すぐに俺を二階の自分の部屋へと案内した。

 一般的な家族の家という感じだった。掃除の行き届いた階段を上がり、特に何の飾りもない辻田の部屋に入る。予想していたよりもはるかに整理整頓がなされていた。というか物らしい物があまりなかった。学習机の上に、シンプルなデザインのノートパソコンが置いてある。

 辻田はその背を愛おしそうに撫でてから、本棚の方へと向かった。俺はその机に、かけていたサングラスを外して置いた。辻田の本棚には、三十冊ほどの本しか収められていない。大体見たことがある作品だ。辻田から勧められたものばかり。

「なんか、少なくない? 辻田のことだから本棚一杯で、その上にも積み重なってるもんだと」

「あー、ステレオタイプね」

 辻田は俺の方を見ずに、本の背を人差し指の先でタップしていた。別の本にもやっている。

「僕さ、落ち着かないんだよ。駄作が部屋にあると。そりゃあ今まで読んできた本全部ここに置いてたら、お前のイメージ通りの光景になってたかもな」

「面白くなかった本は、別のとこにやってる?」

「ちげーよ。無駄だろそんなの。売るか捨てるか燃やすかしてるよ。だいたいは」

「それって……、どうなの?」

「知らね。いいだろ別に買ってるんだから。最速記録は五秒だな。読み終わった後すぐに親父のライターで燃やした。お袋に止められたけど」

「何歳の話?」

「小一くらい? で、どんな話書きたいの? 小説、書きたいんだろ?」

「……わかんない」

「相変わらず珍獣だなお前。書きたいことないのに書きたいとか……」

 辻田は机を叩いた。俺はびくついた。相手は俺の反応なんて気にもしていない。にやにやし始めたかと思うと、机の棚に置いていたメモ帳を手に取り、書き始めた。

「何してんの?」

「話が浮かばない小説家が、ネタを探しに自分の記憶へとダイブする話。近未来SF。認識がごちゃまぜになってるから、わけわかんない怪物とか出てきたりする」

 辻田は我に返ったかのように俺の目を見てきた。ペンを置き、メモ帳で俺の頭を叩いてくる。

「いった」

「メモ帳持てよお前。大事だから。何か浮かんでも飯食ったり電車乗ってたりすると、すぐにどっか行く。もったいないから、メモ帳持っとくんだよ。思いついたら即メモれ」

「おお。わかった師匠」

「次そのノリしたら殺すからな」

「一条みたいなこと言うなよ」

「一条がパクったんだよ」

 辻田は少し考えるような間を置いてから、振り返ってきた。

「食べたらうんこしたくなるだろ? それと同じ。お前毎日一条から進められた映像作品見たり、僕が貸した小説とか読んでるじゃん。なら、書きたいことくらい見つかるだろ」

「って思うじゃん? 辻田みたく行かないよやっぱり」

「なんで読んでるのに書かないでいられるんだろうな。わからん」

 本当に不思議そうだった。俺からすれば、宿題とかにされているわけでもないのに長い文章を自分からすすんで書ける方が異常だった。異常者の辻田は、机の方の棚にある本を指で叩いていく。

「形から入るのもいいかもな」

 そこには、数冊の本が並べられている。「ハリウッド式シナリオ構築」だとか「小説の一歩を踏み出す」だとか、そういう指南系のものだ。何度か、それらと辻田を見比べた。

「意外。こういうの嫌いそうだと思ってた」

「フィクションの弊害だな」

 辻田と会話していると、たまに不安になる。もう少しやりとりを続けてからたどり着くであろう言葉を、いきなり挟み込んでくるから。

「つまり?」

「たいしてもの知らない奴が考える作家像が、世に広まってるってこと。お前の言いたいことってさ、つまりあれだろ? 感覚でやってやろう、みたいな? 天然物信仰って根強いよな。弊害だよ弊害」

「ごめん、まだあんまりわかんないんだけど」

 辻田は指南本の背をタップし続けている。

「天才に対するイメージと似てるんだよ。人間ってさ、感覚的なものに神秘性を感じるだろ。抽象的になるほど、それっぽく聞こえる様にできてる。でもさ、違うんだよ。本当に向いてる奴って言うのは、全部やるんだよ。油断なんてしない。感覚的なものも大事だけど、理論も必要なんだ。クラシックとかあるだろ、ベートーヴェンとか。あれなんて感覚でちょちょいと作られたものじゃない。ぞっとするくらい緻密な理論の膨大な積み重ねでできてる」

 本当に辻田は十五歳なのだろうか? 

「理論を否定するなら、理論を知ってからじゃないと意味がない。お前の言う通り、嫌いだよ。小説の学校とかよく広告とかで見るけど、くそ食らえって思ってる。理論を安心のための道具として使いながら、書く。おぞましい。理論を知ったら、それを脳味噌で作ったハンマーで叩き壊すんだよ。その残骸が床で散らばっている様がどんな形になっているか、それは人それぞれだ。それが小説の原動力になる。作家性とかいうものになる」

 夕食はローストビーフ、椎茸たっぷりのつみれ汁、小松菜のごま和え、だし巻き卵だった。サングラスを少しずらして、色合いを確認する。あまりにも見覚えがあったために、俺は指摘してしまった。

「クックポンの」

 減点一。

「わかりますか?」

 佳乃さんは同志を見つけたと言わんばかりに嬉しがっていた。どれも料理アプリの人気おかずだ。特に細かく刻んだネギ入りの醤油ソースが付いたローストビーフは、俺も一度作ったことがあった。美晴が喜んで食べていたのを憶えている。

 減点二。俺は佳乃さんと料理談義をしながら、心の中で自分を張り飛ばした。辻田の母親を殺す気か? 性懲りもなく美晴の思い出に浸りやがって。すぐに考えろ。言葉を尽くせ。目の前で喜んでいる女性の嫌いなところを頭の中で並べるんだ。

 食事中、あまり口数の多くない方の佳乃さんとは対照的に、成彦さんの方は常に話し、笑うような人だった。相手によっては行儀が悪いと思われてしまうだろうが、彼がいるだけで食卓が賑やかになるのも確かだった。

「へえ、大志が脚本かあ。いいことだ。ずっと書いてたからな。楽しいだろう」

 辻田は鼻を鳴らしてから、角が丸くなっている小さな長方形の容器の蓋を開けていた。英語が書かれているプラスチックの蓋。

「大志は、上手くやれていますか?」

「俺が見たかぎりでは、楽しんでるみたいですね」

「女の子もいる部活で? そりゃすごい! 一条あいさんもいるのに!」

「うぜーな」

 俺は続く言葉を失った。辻田の方を一瞥してから、親の方を伺う。彼らは相変わらずニコニコしていた。そこに取り繕うような気配は何もない。

「ともくんは部活で何してるんだい?」

「一応主人公の役を演じてます」

「似合いそうですね。一条さんの相手役?」

「まあ」

「そりゃすごい!」

 また成彦さんが叫んで、さらに話を続けようとしたところで、俺は我慢ができなくなった。

「すみません、ちょっといいですか?」

 成彦さんと佳乃さんは不思議そうにしている。俺は隣でチキンナゲットばかり食べている辻田を手で示した。

「おかしくないですか?」

「お袋、はりきりすぎだよな。いつもはこんなに豪華じゃないよ」

「お前だよお前。あのさ、なんで買ったナゲットばっか食ってんの?」

「世界一美味しいから?」

「皆と同じもの、食べた方がいいだろ」

「同調圧力?」

「そういうのじゃなくて。せっかく作ってくれたんだからさ」

「気にしなくていいですよ、倉下さん。昔からそうなので」

 自分の作った料理を、息子が食べない。そういう状況にあるのにも関わらず、佳乃さんは平穏だった。指摘している俺を可笑しそうに見てきている。

「でも、いいんですか?」

「良くはないですよ。だから」

 突然佳乃さんは指を一本立てた。その瞬間、辻田が舌打ちをする。

「野菜ポイント! 五点」

「は? 高いって」

「連続日数ボーナス」

「まだ二日目だろ。倍率おかしい。倉下来てるから、忖度入ってるだろ」

「一点追加。次文句言ったら二点。あとそんたくなんて言葉、お母さんはわかりません」

 成彦さんが自分の胸を叩いた。

「父さんの肩たたきで、減点チャンス来るぞ」

「失せろ」

 辻田はナゲットに入っていた紙製の箱を潰して、食卓から去った。

 俺はまた胸がきゅっとなった。言葉をぶつけられた成彦さんは、また大声で笑っている。それから小松菜を一気に口へとかき込んでいた。「食べ方が汚い」佳乃さんが布巾を相手へ寄せながら注意する。それから俺に向けて、「倉下さんは礼儀正しいですね。こっちにも見習ってほしいです」と笑いかけてきた。「そうだそうだ」と、成彦さんが頷いていた。

 釈然としない思いのまま、夕食の片付けを手伝ったり、他の皆が入ってから風呂を利用した。二階の部屋に戻ると、星の模様がたくさんの水色パジャマを着た辻田が、ベッドに寝転がってスマホを見ていた。横向きにしている。

「ゲームしてんの?」

 辻田は面倒そうにイヤホンを片耳外してから、 

「映画。配信便利だよな、ほんとに」

 サングラスを机の上に置いてから、椅子に座った。ベッドの方へと寄る。

「あのさ、いつもそういう感じ?」

「何が」

「親に対してさ、ああいう言葉づかいなの?」

「お、説教か?」

 そこでなぜ楽しそうにするのかはわからない。俺はまだ、辻田をまるでわかっていないのだと感じていた。

「真面目に聞け。だめだろ、あんな態度」

「何でお前に言われないといけないんだよ」

「ご飯食べないのもそうだし。辻田、あれはやばいって」

「反抗期だからしょうがないだろ。思春期も重なってるし。なんでこの二つって同時期に来るんだろうな。人間の欠陥だよ」

 口から笑いの名残みたいな息が出た。辻田の言葉について頭が勝手に考えようとする。それを抑えながら、俺は続けようとした。だがその前に、辻田に遮られた。

「倉下はねーの? 中学生くらいから反抗期って来るだろ。親と喧嘩したことは?」

「・・・・・・俺は、なかった」

「マジ? 一度も?」

「うん。出された料理も絶対残さなかったし。普通そうだろ? だってさ、親に産んでもらって、さらには育ててもらったんだから。普段の行動でなるべく恩返ししてかないと」

「僕、異常か。やったぜ」

 後半の方の話はほとんど聞いていないようだった。でもなぜか、苛つくことはない。辻田が普段そうだからということだけではなく、彼の父親と母親の、あまりに自然な受け入れ方にも影響を受けていた。辻田の行動そのものが、家族の中の流れの一つに組み込まれている。それを無理に修正しようとすれば、家族全体が乱される。そう感じてしまった。

 辻田が急に立ち上がる。何をするのかと思えば、またメモ帳を手に取っていた。

「普段の行動で恩返し。いい言葉だな。もらっていい?」

 辻田の真っすぐな視線に、あまり対することができなかった。

「う、うん」

「一日に二メモ。ハイペースだ。やっぱ外部からの刺激は大事」

 その幼い子供のような笑顔で、結局色々とどうでもよくなってしまった。

 

 平日でも休日でも、辻田家の雰囲気は変わらなかった。成彦さんはかなり仕事が大変そうだが、ほぼ必ず夕食の時間が終わるまでには帰ってくる。こっちがお腹いっぱいになってきていても、彼が玄関から来てすぐに佳乃さんの作った料理を頬張っている所を見れば、少し食欲が戻ってくる。

 辻田は母親の手料理と食べたり食べなかったりしていたが、俺が来てから三日目くらいで、大量の野菜料理を食べさせられていた。佳乃さん曰く、ボーナスタイムらしい。辻田が好き勝手するたび貯まっていくポイントが一定量に達すると、特別メニューを食べる義務が発生するそうだ。そういう時は絶対に、辻田は文句を言わなかった。乗り越えたら、必ず好きな本を一冊買ってもらえるから。

 本。辻田の両親も読んではいた。成彦さんは新聞を流しで見て、佳乃さんは料理本やテレビ関連の雑誌を飛ばし飛ばしで読んでいた。二人とも、小説は全く読まないようだった。

「息子さんの作品とかは読んだことないんですか?」

 辻田が自分の部屋で作業をしているところを見計らって、尋ねてみた。

「読んでもあまりわからないので」と佳乃さん。

「誰かがマンガにしてくれたら、いいかもなあ」と成彦さん。

 親の影響で読書に興味を持つ。親が作家だから、自分もなりたい。陳腐な考えは、辻田には何もあてはまらなかった。少し、ぞくっとした。

 辻田家での生活にも終わりが近づいてきた時、俺はもう少し深く辻田と向き合うことにした。

 暗い部屋の中、俺は布団の上で寝返りを打った。横のベッドの上にいる辻田は、壁の方を向いていた。

「起きてる?」

 片手が少し上がり、横に振られる。

「訊きたいことあるんだけど、いい?」

 大きく息を吐き出してから、辻田は俺の方に寝返りを打ってきた。眼鏡を外している辻田の顔は、とても眠そうだ。

「明日にしろよ」

「辻田ってさ、何か悩みとかある?」

「学校の友達が勝手に泊まってくること」

「いいから。真面目な話」

 その口から自然に出てきた友達という言葉に、胸が苦しくなった。嬉しくなるべきなのに、苦しかった。それをごまかすようにして、言葉を重ねる。

「あるだろ。高校生なんだから。言ってみろよ」

 目を何度かこすり、大きなあくびを一つしてから、辻田はベッドの端に寄ってきた。真剣な顔になっている。ちゃんと訊こうと、俺もベッドの方へと体を寄せた。耳をすませる。

「一つだけある。解決できないのが、悔しくてたまらない。正直、どん詰まりって感じ。一条で抜くのって、どうすればいい?」

 勝手に吐き出された息が喉に引っかかり、俺は咳き込んだ。隣の部屋で寝ている辻田夫妻を起こさないように、片手で口を押さえる。

「お前も聞いてただろ。二回は抜けって。脚本書く前にいっつもチャレンジしてるんだけど,無理なんだ。始める段階にすら行かない」

「抜くってさ、あれだよな? 隠語の方だよな?」

「隠語か? わりとそのまんまの意味じゃね? ちんこをさ、こう」

「つまり、一条で興奮できないと?」

「そうそう。無理矢理やっても気持ち悪いんだよ。生理機能がぐちゃぐちゃになる感じする」

 にやにやしているわけでも、顔が赤くなっているわけでもない。辻田は本気で悩んでいるような様子だった。彼のこういう姿は初めて見る。初めて見るのが、こんな話題でだとは思いもしていなかった。

「お前抜いた事あるって言ってたよな? 経験者の話が聞きたい」

「もう少し声小さくしろよ」

 晒されているという感じがする。自分の感情そのものが撫でられている。多分辻田以外の人間を、今は気にしなくていいからだ。だからすごく楽になる。素で苦笑したのは、ものすごく久しぶりだった。

「辻田お前、女子好きか?」

「至高だろ」

「なら一条は至高の至高だろ。なんで無理なんだよ。勃ちはするだろ」

「いや? 少しも。お前は勃起すんの?」

「まあ・・・・・・するけど」

「一条のどんなやつで抜いたの?」

「えっと、グラビア」

「グラビアのなんだよ。僕も見たぞ。どこがエロいんだよ。あいつ爆乳ってわけでもないし」

 俺は口を押さえながら吹き出した。辻田からそういう言葉が出てくるとは思っていなかった。なおさら可笑しい。普通の高校生の会話って感じがするのに、おもろい。

「だから、顔なんだって顔。大人っぽいけど、えっと、どこか幼さもあるだろ? そこがいいんだよ。エロい」

「顔でエロさ決まるなら、グラビアの意味なくね?」

「一条の場合さ、なんていうか、シチュエーションもいいんだよ。わかる? 普段制服着てるような奴が、平気な顔して脱いでんだよ。やばいだろ。しかもさ、グラビア専門ってわけじゃない。私役者なんですって顔して脱いでる。そこがエロいんだよ」

「具体的にはどういう写真で抜いたの?」

 語った自分がかなり恥ずかしくなって、俺は天井を見た。

「確か、その、水着姿になって、ベッドに寝っ転がってるやつ」

「水着の見た目は?」

「黒の丸い、こう、王道のやつ」

「細かい様子をもっと。表情、仕草とか」

「舌出して、ちょっと背中逸らしてた。胸強調してる感じ」

「結局胸じゃん」

「胸だけじゃねえよ。全体の雰囲気が」

「粘膜」

 急に声が大きくなったので見てみれば、辻田は真面目な顔で天井を見ていた。

「舌がポイントだろ。やっぱ粘膜出してるとエロくなるんだな」

 うーん、とうなる声が聞こえる。暗闇にも目が慣れてきて、彼が目を細めながら口を右頬に向かって寄せているのがわかる。

「え、だめ?」

「だめだな。ビジョンがない。抜けるビジョンが。お前なんかうろ覚えじゃね? いつ見たんだよそれ」

 言われて気がついた。そのグラビアはまだ発表されていない。高校二年生の時のものだ。

「結構前」

「じゃあ訊くけど、お前今でも一条で抜ける?」

 当たり前と答えようとして、自分の胸の途中で引っかかった。そういえば、最後に自慰行為をしたのはいつだろう? 週に二回程度はしていたはずだが、それははるか昔のことに思えた。そもそも俺は、最近何かで勃起しただろうか? 

「無理かも」

「これ無駄話か? 眠いんで寝てもいいですかね?」

 茶化しつつも、辻田は本気で残念そうだった。どうにかして力になってあげたいと思いつつ、俺は言葉を絞り出した。

「逆にどんな女なら抜けんだよ」

「色々と考えてはみた。一条がだめなら藤野でいけるんじゃないかって」

 また俺は咳き込んだ。これ、大丈夫か? ポケットに入れている稼働中のボイスレコーダーにそっと触れる。絶対に演劇部の女子たちには渡らないようにしよう。辻田に巻き込まれて俺も殺される。

「一条とは全然タイプ違うだろ? あのギャル。だから想像したんだ」

「何を?」

「セックスに決まってんだろ。お前も水着の一条見て想像したんだろ?」

「まあ・・・・・・うん」

 これは男子高校生の一般的な会話だろうか。辻田のせいで、少しずれているような気もする。

「でもだめだった。イメージの中でも結局勃たなくて、あいつに罵倒された」

「・・・・・・それ、結構良くね?」

「どこかだよ。むかつくだけだろ。じゃあお前は藤野でいけるのか?」

「や、そりゃあ、わかんない。俺藤野でそんな想像したことない」

「おかしくないか? 一条だとイメージできるのに? ひどすぎるだろお前」

「辻田だって」

「僕はどっちも抜けない。お前は一方が抜けてもう一方は抜けない。一貫性のある奴ない奴、どっちがひどい?」

「こんな会話したことない」

「僕も」

 横を見ると、辻田は楽しそうに笑っていた。

「倉下は面食いのクズ野郎と」

「お前それ、藤野に失礼だろ。藤野だって可愛い」

「どういうとこ?」

 辻田は布団を体に被せながら寝返りを打った。クーラーが効いている室内。涼しいくらいだが、彼にとっては寒いようだ。切ればいいのに。

「笑顔。よく笑うから、えくぼがすぐ見える。こう、太陽みたい。あとすぐ赤くなるとことか? 可愛いと思うよ」

「抜くためには?」

「えっと、藤野はすぐ吹き出すから。そういうことになっても笑ってる感じで」

「なるほど」

「もっとちゃんと動いてよ、こんなことも満足にできないの? とか。顔赤くして笑いながら見下してきてほしい」

 辻田は拍手をした。

「やればできるじゃん。面白い」

「おもろい? やった」

 俺は達成感を得てから、何かが違うことに気がついた。

「お前の悩み聞いてやってんのに」

「言ったろ、最初の方に。文字でしか抜けないって」

「官能小説ってことだよな。でもこの部屋」

「親父もお袋も、買ってくれないんだよ。僕のおこづかいはすぐ普通の本に消えるし」

「頼んだのかよ・・・・・・。鋼の精神すぎるだろ。じゃあどうやって?」

 辻田は天井を見たまま答えてきた。

「書店のそういうコーナー言って、立ち読みする。憶える。家に帰る。思い出す。終わり」

 俺は彼の横顔を見つめた。冗談を言っているような表情ではなかった。

「全部、憶えてんの?」

「なわけ。使えるとこだけだよ。だいたい一作品五場面くらい?」

「そんなに違うか? それでできてるなら、他の二次元とか三次元とかもいけると思うけど」

「文字じゃないと無理なんだよマジで。エロ小説は、こう、文字そのものが発情してるって感じがするんだ。いい作品だと特に」

 また素の苦笑が出た。文字が発情? そんな日本語があるなんて知らなかった。

「だから去年くらいから、五十音チャレンジもしてるんだ。あいうえおとか。それ単体で興奮できるかどうか」

「無理だろ」

「やってみろよ。お前はどの文字が一番エロいと思う?」

 時計の針が動くのが聞こえてくるくらい、静かになった。俺は必死に脳を回転させた。難しい問題より、考えてもこなかった問題に対する方が、頭の絞られる感触が強まる気がする。

 俺は渾身の答えを出した。

「ぱ」

「おっぱいから来てるだろ絶対。不合格」

「だめ?」

「だめだめ。文字そのものに興奮してるわけじゃないだろ。文字から、実物のおっぱいを想像しちゃってる。その時点で、一次元から三次元の転換が起こってる。だめだろ」

「俺が想像したの、漫画のおっぱいだけど」

「屁理屈こねるな」

「じゃあ辻田の答えはなんだよ」

 辻田は鼻を鳴らした。

「こつこつやって、たちつてとのてまできた。まだ、見つけられてない」

 本当に悔しそうに言うので、それ以上文句を言う気がなくなってしまった。文章というか、文字というか。それに対する接し方が、普通の人からかけ離れている。まるで一つの命、人間のように扱っていると感じた。

「じゃ、今度はこっちの番だな。僕にも質問させろ。お前の言葉遣いで、気になることが二つある」

 返しでこちらの悩みを訊かれるかと身構えていたので、少し拍子抜けした。

「言葉遣い?」 

「一つ目。お前さ、関西人にでもなったの?」

 また、飛ぶ感覚。辻田と一緒にいると、そう珍しいものでもなかった。

「つまり?」

「面白いって言わないじゃんお前。言わなくなったっていう方が正しいか。意図的だろ? おもろい、おもろいばっか」

 妙な感覚だった。勝手に自分の知らない部分の皮を剥かれたような気分。でも痛くないし、気持ち悪くもない。

 俺は勝手に辻田の机の上に立っている化身を目の端で捉えてから、答えた。

「面白いってさ、なんか嫌じゃない?」

「わからん」

「語感が気持ち悪いっていうかさ。冷たい感じしない? だから、おもろいって言うことにした。そっちの方が、柔らかいと思って」

 辻田がベッドから離れて、机までやってきた。化身がいるすぐそばで手を動かし、メモ帳に書き込んでいく。途中でその手を止めて、俺を見下ろしてきた。

「面白いの語源って、知ってる?」

「いや」

「面、白い。面は顔で、白いはそのまんま白。白い顔ってことにもなるんだ。江戸時代とか、あっただろ? 今の風俗の代わり。吉原とか。そこの花魁の顔、だいたい真っ白だったんだ。粉かけてた。それ見た外国人が奇妙だってなって、面白いっていう言葉ができた説」

「へえ」

「もう一つある。面っていうは顔だけじゃなくて、目の前っていう意味もある。目の前が白い。つまり光に照らされて開けてるってこと。目の前が開けるような感覚。価値観の拡大や、ひらめきとか? そういう感覚から、面白いって言葉が来てる説」

「知らなかった」

「面白いって言葉そのものが、面白いんだ。なかなかないよ。それでもお前は使いたくないんだな」

「うん」

「でも面白いの代わりにおもろいを使うのは、間違ってるかも」

 正直、話の内容そのものはどうでもよかった。辻田が遠くを見るような目をしながら話す光景そのものが、大事だと思って聞いていた。

「おもろいは、面白いの関西弁。それだけじゃない。おもろいっていうのはさ、ただ楽しいとか可笑しいとかだけじゃない。独創的だなあっていう響きも含まれてる。面白いが独創的じゃないってわけじゃないけど」

「そんなの、どこに書いてるの?」

「どっかのネットの記事にあった。なるほどって思ったから、僕の中の法則の一つになった。しかもおもろいって、なんか今っぽいだろ? 言語の流動性も表してるんだ。だから、面白いよりも面白い部分があるとは思う。代わりに使うなんて、もったいない」

「そうだな」

 辻田が満足そうに喋っているだけで、十分だった。

 辻田はベッドに戻ってから、何度か寝返りを打った。俺は二つ目の指摘を待っていたが、沈黙が続いた。そこには、辻田からはほとんど感じたことのない感情が伝わってきていた。つまり彼は、話を続けることをためらっている。

 だから俺の方から急かした。

「二つ目は? 早くしろよ」

 辻田は足で布団を下の方にずらしてから、大の字の姿勢になった。

「今のお前の家さ、親戚のものなんだっけ? 元の家は?」

「売りに出されてる」

「お前さ、今住んでる方の家、家って言わないよな」

 今度は、知らない臓器を勝手に引き出された感じだった。こっちは気持ちが悪かった。

「そう?」

「住んでるとことか、居るところととかそういう表現しかしてない。やっぱり、家だって思ってないのか?」

 俺は真面目に考えてみた。あれは、快適ではある。親戚の別荘にしてはある程度設備がしっかりしていたし、テレビも大きくて、ソファが柔らかい。クーラーもトイレも複数ある。文句など、言えるはずがなかった。

 だがずっと、他人の家に住んでいるような気分だった。それだけは拭えない。今は特にそうだ。帰っても、帰った気がしない。

「家だとは、思ってない。うん、辻田の言う通り」

「僕がどうこう言うものじゃない。でも、ただ、」

「気になるな。言えよ」

「お前の妹は、違ったから」

 思ったほど、乱されてはいない自分がいた。それは多分、辻田の心情を考えていたからかもしれない。美晴が死んでから初めて学校で会った時も、彼はいつも通りだった。それは興味がないというより、俺を気遣ってのことだった。それがわかったから、乱されなかった。

 辻田が黙っているので、俺は笑った。

「いいよ。聞きたい。続けろよ」

「お前の妹とは、たまにラインしてた」

「知ってる」

「あいつは、家って呼んでた。自分の家だって。兄とは違うなって話したら、結構チャットの間が開いた。で二時間後くらいに、それは寂しいって来た。わたしはともがいるから家だと思えるって。同じじゃないのは寂しいって」

「そっか」

「だから僕はこう返した。あいつにとっても重要なのはどこに住むかじゃない。誰と住むかなんだって。それから、お前が美晴を宇宙一素晴らしい異性だって思ってるって。そう返した」

 それは、一条と日本酒を飲んでいた時の言葉だった。

「一条から?」

「そう。そしたら電話かかってきて、めんどくせえって思ったから無視したけど、三回くらい来て。出たら、お前との思い出について長話された」

「うざかったか?」

「そりゃあ。でも、嫌じゃなかった。文章に起こしたらくどくなっただろうけど、話として聞くと悪くなかった。だから、そうだな」

 言葉を出しあぐねている。辻田のそんな様子は、初めて見た。俺も似たようなことになった時、安藤先生は待ってくれたから。辻田は身じろぎしてから、一度俺を見てきた。でもすぐにまた寝返りを打って、天井の方に顔を向けた。

「なんでだろうな。死にたい奴、死んだ方がいい奴にかぎって死なない。物語とかでもそう。ずっと生きてた方がいい奴にかぎって、いなくなるんだ」

「ありがとう」

 俺はもう、辻田の方を見なかった。見ない方がいいと感じた。

「だから、お前は生きろよ。お前もそういう方だから。ずっと生きろよ」

 想像していた。知る限り、美晴が俺以外の異性と電話で長話するような、そういう関わり方をしたことはない。歓迎すべき変化だったのかは判断しかねるが、それでも変化だった。未来に向けた流れだった。辻田も、文字でしか抜けないだとか言わなくなるかもしれなかった。

 でもそんなのは、全部なかったことになった話だ。

「ありがとう。あと、おめでとう」

「なんだよ。おめでとうって」

「〇時すぎたから。十六歳、おめでとう」

「どーも」

 辻田は鼻をすすってから、その二十分後に眠った。



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