スモーキンセクシーベイベー!
◆
最後に他の教師の声を聞いてから、どれくらい経っただろう?
ふとそんな疑問を覚えて、安藤は時計を見た。午後十時を過ぎている。確か日本史の園田先生が帰ったのが八時前だったはずだから、二時間は一人で作業していたことになる。
目の前のPCをシャットダウンしてから、ため息をついた。年々、肩が疲れやすくなっている気がする。それなのに仕事の量は増えていくから、教師不足が騒がれるのも当然だ。自嘲気味に笑ってから、荷物をまとめた。
疲れていても、毎週一度は必ず行っていることがあった。駅周辺の見回りだ。野岸市の中心街は都心の繁華街ほどではないにしても、夜遅くまで賑わいを見せている。その明かりに吸い寄せられたのか、本来いてはいけないはずの学校の生徒が混ざっていることもあった。過去に三度、それで問題になったことがある。全て安藤が対応していた。だからこれからは、未然に防ぐための取り組みを続けると決意していた。
何カ所か見回りをして、自分もどこかの店に入ろうかと考えた時、騒ぎが聞こえてきた。路地裏の方だ。行ってみると、いかにも酔っていますと言いたげな男が、若い男を殴っている所だった。
安藤はすぐに止めに入ろうとしたが、その必要はなかった。若い男の方が何か手を動かしたかと思えば、鈍い音がした。殴っていた方のスカジャン姿の男が苦しみ始める。
「絡んできたチンピラに、逆転勝ち」
立ち上がった若い方の男は、細長い棒を握っていた。直前まで、そんなものを持っている気配すらなかった。倒れている方へと、顔を近づける。
スカジャンが呻いた。若い方が手を叩く。「ディックヘッド!」その妙な叫びを聞いて、改めて安藤は確信した。そして胸が締め付けられた。今日学校に来なかった、担当しているクラスの生徒。今日の見回りはほとんど彼のことが念頭にあったものだった。
倉下はへらへら笑いながら頭を下げてきた。
「安藤先生、こんにちは」
「こんなところで、何してる?」
「そこは、こんばんはだろって返すとこですよ」
自分の言葉に自分で笑っている。目の下に濃い隈。口の周りに、うっすらと髭が生えている。私服姿だが、かなり汚れている。ずっとこの路地裏にいたかのような姿だった。安藤は腕を組んでから、顎を右後ろに引いた。
「来い」
「夜の生徒指導室? おもろそう」
倉下は少しも抵抗しなかった。腕を引っ張るのを途中でやめても、大人しく後ろをついてきた。初めてのパターンだった。補導されるような生徒は、とにかく反発する。教師側を懐柔しようとするような小狡さがあるなら、そもそも教師に見つからないからだ。倉下には反発も、小狡さも合わない。
安藤の住むアパートにまで来ても、平然としていた。
「お腹すきましたー」
「カップ麺ならたくさんある」
「嫌です。炊き立てご飯と新鮮なおかずで」
「冷蔵庫漁ればいい」
安藤も食事を取ることにした。テレビを付けて、人気のトーク番組にする。倉下が作り置きの野菜炒めとレンジで温めた一人分の白米を食べている間、安藤はインスタントのカレーうどんとおにぎりを食べた。倉下は所々で笑っていたが、嘘くさかった。目もちゃんと動かして笑顔を作っているが、安藤を騙せるほど自然な表情ではなかった。
倉下が四回目くらいの笑い声を上げた時に、テレビを消した。
「いいとこだったのに」
「大丈夫か?」
倉下は無視して、台所まで食器を片付けに行った。洗い物をする音まで聞こえてくる。それを居間で聞いているという状況。懐かしく感じつつ、安藤は棚の上から煙草を取っていた。
戻ってきた倉下は、安藤を見ながら座った。片膝を抱え込み、首を傾げる。
「煙草吸うんですね」
「意外か?」
「何か、思い出したりしてるんですか?」
「いや? 煙草は気持ちいいから吸うんだろ」
倉下は斜め上を見てから、苦笑する。これは、本物の表情という感じがした。
「教師らしくないっすね。全然」
「今は別に、教師としてお前と接してるわけじゃないからな。お前に殴られた、寂しいおっさんとしてここにいる」
「やめてくださいよ。あの時はほんとに……」
「もう謝罪は受け取った」
「でも、先生に俺は」
「俺が傷ついたとでも思ったのか? あんな腰も入ってないビンタで? お前、あの時初めて人を叩いたろ?」
倉下は愛想笑いのようなものを浮かべた。前まではそれが得意な生徒だと思っていたが、今は下手だった。
「歴戦の先生に言われたら、きついです」
「俺から手を出したことは、教師になって三十年間一度も無い」
「こわ」
安藤はライターで煙草に火を点けた。壁に寄りかかりながら座り、天井を見る。煙草を咥え、少ししてから右手で掴んだ。口から離し、煙を吐き出す。倉下の方は、段々と顔が下がってきていた。自分の右の膝頭に額を当てて、目は伸びた左足の先の方へと向けている。
ぼそりと、言ってくる。
「がんばっては、みたんですよ」
「何をだ?」
「死ぬことを。手首切ったり、川に飛び込んだり、屋上から飛び降りたり。色々やってみました。でも、無理でした」
「そうか」
「そうか、って。もっとあるでしょ。何度も死んだんです俺は。信じてないんでしょ? だからそんなふうに流せる」
「信じる。お前が本当だって信じてるなら、俺も信じる」
「なんでそんなこと、言えるんですか?」
「お前が俺の生徒だから」
「さっき、教師としてじゃないって……」
さらに続けようとして、倉下は力が抜けたように笑った。面白いから、楽しいから笑うのではなく、喉に詰まった息を吐き出すようにして笑う。安藤は自分の幸運に感謝していた。もう少し出会うのが遅れていたらと思うと、ぞっとする。
「学校、行った方がいいですかね?」
「好きにしろ」
「俺、やばくないですか? 停学とかもしたし、内申点壊滅的ですよ。あーあ、どこの大学にもいけなーい」
「辛いか?」
倉下は宙を見つめたまま固まった。その間に安藤は一本吸い終えていた。箱から追加を取り出す。本当ならこの二本目で終わらせる日だったが、もっと消費することになると予想していた。
頬を揉んでから、倉下は口を開いた。
「さあ? わかりません」
「好きなだけ寝ろ。好きなだけ食え。好きなタイミングで風呂に入れ。それに飽きたら、学校のことを考えてみてもいい」
あはは、と倉下は笑った。徐々にその笑い声が小さくなっていく。視線も再び下がっていき、伸ばしていた左足を自分の体に寄せた。両膝を腕で抱え込み、膝頭同士の間に鼻を落とす。安藤はその様子を長く見ることはせず、天井を見上げながら煙を吐き出した。
何度か、呼吸の音が聞こえる。倉下は意識して呼吸をしているようだった。それでも安藤は待ち続けた。明日も学校でやることはたくさんあるが、そのどれよりも今のこの時間のほうが重要だと考えていた。だから、いくらでも待とうと思っていた。
「中学は、楽しかったんです」
安藤は三本目の煙草を取り出した。
「中学校の途中までは、ほんと無敵って感じで。俺以上に幸せな奴なんていないって本気で信じてました。でも父さんが死んで、母さんがすごく悲しんで、でも俺と美晴のために頑張ってくれて。悲しいはずなのにたくさん笑ってくれて。だから中学の最後までは楽しかったんです」
倉下は両耳を塞いでいた。まるで自分の声しか聴きたくないかのようだった。
「でも、また色々あって。俺、俺は、母さんみたくがんばろうと思いました。辛かったけど、美晴が辛いのを見るのはもっと辛いから、がんばろうって。美晴の幸せのために生きようって、本気で思いました。でも、でも、でも……」
「苦しいか?」
「苦しいなんてもんじゃないですよ。どう言えばいいんですか? この、こんなことを、どう受け止めたらいいですか?」
「受け止める必要なんてない。逃げたっていい」
「逃げようとしましたよ!」
両手が耳から外れて、床に叩きつけられた。
「何度も何度も、逃げました。この場所から出て行こうとしました。でも無理なんですよ! 絶対に逃げられない。どんな手を使っても、無理なんですよ」
安藤は煙草を咥えながら、繰り返されるその動きを目で追っていた。ためらっている。がむしゃらで、もう何もかもどうでもいいはずなのに、担任の教師が住んでいるアパートの床を傷つけることすら思いっきりできない。なのに、安藤自身にビンタはできる。そこの違いは、なんなのだろう。それこそが、倉下をまだ生かしているものだ。安藤はそう直感した。
床を叩く音が停まる。倉下は両手で顔を覆って、大きく肩を上下させていた。こちらに表情を見せないまま、低い声で言ってくる。
「先生は、直面したことがありますか? 期間がある程度決められてて、目的も手段も注意事項も意味不明。なのに失敗すると容赦なく大切なものが失われていく。途中でリタイアすることもできない。想像できますか?」
「結構簡単な謎かけだな」
ばっと、倉下は顔を上げた。背筋もいくらか伸びている。ようやく生き生きとした反応が返ってきたことにほっとしながら、安藤は続けた。
「人生。簡単だろ?」
「……でも、そんなの」
「いや違うか。条件に合わんな。人生はリタイアできる。不正解だ」
「どういうことですか?」
「そのままの意味だ。いいか? 俺は多分将来的に自殺する。病気や老いで頭がやられてなければの話だが」
倉下は安藤を見てきた。口が少し開いていた。
「簡単なことだ。俺も昔、お前みたいな思いに駆られたことがある。交通事故で妻と幼い息子を失った時、何度も死のうとした。それでもできなかった。生きていたくないのに、どうして死ねないんだろう? 答えを教えてくれたのが、俺の恩師だった」
妻と息子の部分で、倉下は顔をそらした。安藤は同情や共感が欲しくてこの話をしたわけではなかった。そんなの期待できるはずがない。最愛の家族を失った時、自分は二十代後半だった。目の前の男は、十五歳でそれを経験した。同じであるはずがないのだ。
「その恩師は言った。中途半端で死ぬことは負けなんだって。まだやりたいこと、やり残していることを全部やりとげてから、好きに死ねと。そんな滅茶苦茶な言葉と一緒に、殴られたんだ。終わってるだろ?」
「そう、ですね」
「でもその言葉と拳のおかげで、俺はここまで教師をやれている。あと、そうだな。五十年くらいは必要だろう。俺がやりたいと思っていること全部やりとげたら、死ぬ」
「百歳、超えてるじゃないですか」
「俺の人生だからな。それくらいはやらないと、妻と息子に会った時に申し訳ない」
倉下は卑屈そうに笑った。
「天国とか、信じてる感じですか?」
「いいや? 俺は別のものを信じている。死んだら、こことほぼ同じ世界へと行く。そこには、既に死んだ者たちが住んでいる。俺の妻と息子も、今の俺のことを見ながら待っている。俺が全てやり遂げてから、会いに来てくれることを。だから天国や地獄なんて大層なものも、生まれ変わりなんてものも信じていない。そんなのは、俺にとって都合が悪いからだ」
「都合が悪いって。そんなことで」
「そんなことでいいんだ。今この世界で生きている誰もが、わからないことなんだから。それなら、都合良く考えた方がいいに決まってる」
倉下は少しだけ顔を上げている。安藤を見てきていた。
「俺は、今すぐ死にたいんです」
「そうか」
「そんなの、中途半端だとか、どうでもいい。今死にたいんです。何も感じないようにしたいんです! 俺にとっては、家族が全てでした。皆がいないと、ずっと苦しいんです。何も楽しくないんです……」
「今日俺が、学校でどれだけ追い回されたと思う? あの演劇部の奴ら、お前の中学からの友達。俺じゃなくてもいい。他の誰かに寄りかかれ。迷惑なんて考えるな。そいつらは、きっと受け止めてくれる」
「はあ?」
安藤は手ごたえを感じていた。今間違いなく、倉下は憤っている。それは負のものではなかった。どんな形であれ、前へと背中を押してくれる類のものだった。
倉下は拳を壁に叩きつけた。今度はためらいがなかった。
「気休め、言わないでくださいよ。話聞いてたんですか? 家族なんですよ! 俺が欲しいのは。会いたいのは! それが友達って……。馬鹿なんですか? 友達なんかが、家族の代わりになるわけないだろ!」
叫び終わった後の荒い呼吸音が落ち着いていくまで、安藤は待っていた。煙草の箱をテーブルの端へとやった。
「お前がそう思っているのなら、それでいい。なら信じろ。死んだ後に家族に会えると。お前はただ少し、ここに留まっているだけだ」
「自分の生徒に、自殺を推奨するんですか?」
「推奨? ぬるい表現をするな。俺はお前に命令してる。事故にも犯罪にも巻き込まれるな。誰にも迷惑をかけることなく、最高の形で自殺しろ」
「頭おかしい」
「今死ねば、最悪だ。お前は死んだ後に責められる。お前が大好きな家族に嫌われるぞ」
倉下は膝を伸ばし、壁に手を付いて、安藤と顔を合わせていた。睨んできている。そのこと自体が、光だった。自分は確実に教師としての枠を逸脱している。そう思っていても、安藤は止まれなかった。恩師がしてくれたこと。それを本人に返すことはもうできない。
「死ねないんだろ? なんでだ? 人間は簡単に死ぬぞ? なのになぜ死ねない? お前は優秀な生徒だ。簡単なはずだろう?」
「うるさい」
「生きているということは、まだ何かをやりたがっているということだ。やり残しているということだ。それをやれ。余すとこなくやりきれ」
倉下は睨みながら、涙目になっていた。安藤に寄りかかろうとしていた。もう目の下の隈なんて気にならない。瞳の奥底で燃えている何かの影でしかない。
「どうしようもない理不尽。そうした敵に対する一番の復讐は何か、わかるか? 幸せになることだ。悲しい、苦しい、後ろめたい。そんなのを全部吹き飛ばすくらい、幸福を強く感じることだ。幸せになれ。文句のつけようがないほど幸せになれ。倉下とも、お前は幸せになるべきだ。好きな人でも好きなことでもいい。見つけて、一緒に歩いて、完璧に満足したら死ね。死んでも終わりじゃない。最高の形で死ぬことができれば」
「家族に、胸を張って会える」
倉下は、泣きながら立ち上がっていた。大きく息を吸い込んでから、天井を仰ぎ見ていた。それからおもむろに懐へと手を入れる。何かを取り出すのかと思ったが、違った。出てきた右手には何もない。何かを握っているように指が曲げられているが、何も見えなかった。
自分の右手に向かって、倉下は顔を近づける。
「お前を殺す。面白さで殺してやる」
直後、倉下は体をくの字に曲げた。そして叫んだ。
「スモーキンセクシーベイベー!」
少し呆気にとられた安藤は、そのせいで遅れて気がついた。振り返ってきた倉下には、暗いところがほとんどなくなっていると思っていた。だが、違う。涙も吹き飛ばすほどの勢いで叫んだはずなのに、今の彼は再び重く沈んでいた。
「安藤先生……」
手を伸ばしてくる。安藤は何となく自分の右手を出して、倉下と握手をした。彼は泣きながら、何度か手を上下に振った。
「ありがとうございます。安藤先生は、俺の一番の恩師です」
「そうか」
面と向かって言われると、さすがに安藤も居心地が悪くなった。
「すみません、すみません。ありがとうございます」
「謝るな。あまり恩に感じる必要もない。お前は俺の言葉を手段にして、自分で自分を持ち上げたんだ。お前がすごいんだ」
「はい。すみません……」
本当は泊まっていくべきだと思っていたが、倉下は帰ることにしたらしい。玄関で靴を履き終えても、まだ倉下は泣いていた。ティッシュを貸そうかと言っても、断ってきた。安藤の方を何度も振り返りながら、扉を開けて出て行った。
鍵を閉めてチェーンをかけた後、安藤は大きく息を吐き出した。拳を自分のこめかみに当てる。どれだけ酔っても、あんなことにはならない。倉下が学校に顔を出してきたら、いつも通りにしよう。それが一番だからだ。
ふと気になって、腕時計を確認した。まもなく日付が変わろうとしている。ちゃんと眠れるように少しだけ酒を飲もうかと、安藤は冷蔵庫へと向かった。
◆
階段を降りようとして、俺はその場に崩れ落ちた。手すりにつかまりながらバランスを取る。階段の上に座り、両手で頭を抱えた。嗚咽が止まらなかった。
日付が変わった。
欠席可能日数:残りマイナス一日
条件が満たされませんでした
たいして面白くならなかったので、貴方の一番大切な人が死にます
「俺を、許さないでください。憎んでください」
周りの風景が溶け落ちていくのを見ながら、始めることにした。




