ずっと愛してる
『どうした? クラクラ』
俺は何度か、口を動かそうとした。声は出てこない。また周りを見た。一条たちもまた、俺に注目してきていた。精霊を模した目の覚めるような衣装はない。誰も喜びを爆発させてはいない。ただ、戸惑いがそこにあった。
ようやく、声が出た。だがそれは言葉になっていなかった。呻きとも喘ぎとも表現できるそれは小さくこぼれだしていき、周りの音からおいてけぼりにされた。俺自身も、全てのことから置いてけぼりにされた。
なんか面白いことしろ
期間:五十秒
目的:十五点以上の獲得
あと七回で死にます
『ぼくは最初に嘘をついた。どうでもよくはない』
頭がくらくらする。耳鳴りがして、目の前が歪んだ。
「倉下君!」
茉莉さんの声が上から聞こえる。俺は倒れてるのか。
どこを見ても文字が追ってくる。なんなんだこれ。一ヶ月? 絨毯が目の前にある。一ヶ月、戻ったのか? こんなのは聞いてない。前と全然違う。こんなの、訳が分からない。
気がつけば俺は立っていた。
なんか面白いことしろ
期間:五十秒
目的:十五点以上の獲得
あと六回で死にます
『ぼくは最初に嘘をついた』
即座に懐に手を入れた。いつ「何か」のきまぐれで追いつめられてもおかしくないと知った時から、常に持ち歩いていたもの。時空間を取り出す。五十時間? 五十分? いや五十秒。秒しかない。現実でまともに考えられるようにはできていない。
「トイレ行きます。すみません」
リビングから走り出た。誰かが追い付いてきて腕を掴んできたが、思いっきり振り払った。一条の怒鳴り声がしたが、構ってはいられなかった。
トイレの扉を開け、閉める。すぐに鍵を掛けた。時空間を右手でつかみ、祈る。
残り時間:二十二分四十八秒
俺は頭を抱えた。どこまでも続く白い風景を必死に見回した。何もありはしないのに、何かすばらしいものがあると思い込んだ。窮地の主人公に決まって舞い降りてくれるもの。胸のすくような奇跡を望んだ。
そんなものは、ありはしなかった。もしあったとしたら、もっと前にくれるはずだった。母さんがまだ生きているようにしてくれたはずだった。
前にこうなった時、どうして乗り越えられたのか。文字が示す目的を達成できたからだ。あの時は、三点以上獲ればよかった。今回は、十五点以上。時間は十分の一近くになっているのに、五倍以上面白くならなければならない。
残り十八分。現実で答えを示すために、あと数分程度しかここにはいられない。時間が拡大されたここにいても、時間に急かされている。今の俺にとって到底思いつかないようなことを思いつこうとしてもだめだ。前と同じく、一つのことにひたすら猛進するしかない。
このタイミングには、意味があるはずだった。前はわかりやすかった。一条たちの大喧嘩という問題があったから。今回はどうだろう。ロランだ。そういえば彼は、最後やけにあっさりとしていた気がする。辻田や藤野までアメリカに「招待」しようとしていたのに、最後の言葉は劇を楽しみにしている、だった。結局結論を出していない。そこを攻めるしかない。
残り十二分で、外に出る決意が固まった。現実ではおよそ三十秒ほど残されている。すぐにロランと話をしなければいけない。
時空間から出た瞬間、背筋が凍り付いた。そこはトイレではなかった。その入り口の前の廊下に、俺は這いつくばっていた。
「な、なんこれ……」
藤野の声。一条、辻田、茉莉さんもいて、全員俺を呆然と見下ろしてきていた。
なんか面白いことしろ
期間:五十秒
目的:十五点以上の獲得
あと五回で死にます
『ぼくは』
音が遠くなっていく。時空間の出入りを他者に見られると死ぬ。終わりではなく、一回の失敗としてカウントしてくれたようだが、何もありがたく感じなかった。
二回、さらに失敗した。トイレに駆け込んでも、外に出ても、一条たちは俺が入った時空間を見つけ出す。そして移動させる。出てきた俺を目撃する。ペナルティがやってくる。
わかったのは、時空間が使えないということ。彼女達を振り切れるくらい遠くまで行った時には、時間が足りなくなっているだろう。つまり本当の五十秒以内に、ロランとの会話で面白くならなければいけない。
あと三回で死にます
「なに終わろうとしてるんですか?」
テレビを操作しようとした茉莉さんが、止まった。彼女に言ったわけでもないので、その視線は気にせずに続けた。時間がない。なさすぎる。
「俺たちの劇の方が面白いです。舐めてるんですか? 勝負しましょうよ。勝負」
「おい、ちょっと」
一条が肩を叩いてくる。俺はその手を払いのけて、続けた。
「今度の文化祭、ロランさんも何かしてください。そうだ、劇を作ってください。俺たちの高校で発表してください。それで審査員とかに、決めてもらうんです。どっちが面白いか」
『すまないが、あまりこれ以上時間が取れない。この後予定がある』
ロランは苦笑していた。俺は自分の顔が歪んでいくのがわかった。なんで笑ってる? なんで相手にしてくれない? こっちは真剣なのに。追いつめられてるのに。なんで、なんで、なんで……
声を大きくした。
「いいから、勝負受けてくださいよ。怖いんですか? そっちにハンデとかはありませんよ。ちゃんとした、売れてる役者使ってもいいですよ。一条の方がどうせすごいんで。どんなベテランスタッフを起用してもいい。辻田と藤野の方がいいもの作れるんで」
『落ち着きなさい』
「聞けよ! 早く、早く……」
時間切れ。
あと二回で死にます
頭が絞られるような感触。
「わあっ、わああああ」
俺の口から勝手に叫び声が出てきた。ロランが言葉の途中で目を丸くしてくる。俺の両足が勝手に動いた。ソファの前を忙しなく往復し始めた。
「勝負しろ! あんたが劇作って、俺たちも劇作る。だから、勝負すると言え!」
『これは、どうしたというんだ?』
「早く言えよ! 早くしろおおおお」
俺の右足が勝手に振られ、指の先が縦長の窓に当たった。激痛と共に、ガラスが割れていく。誰かが悲鳴をあげた。俺も心の中で悲鳴をあげていた。そのうるさい声で、色々なものが吹き飛ばされていくのを感じた。
右足がぬるぬるする。多分、血がたくさん出ている。右手で割れた窓ガラスの一部を取った。手のひらが切れて、さらに血が出てきた。いい感じだ。前乗り越えた時も、血があった。強くガラスの破片を握り締め、自分の首筋に当てる。
歪んだ視界の中で、周りの全員が後退するのがわかった。
「勝負しろと言え。言わないと死ぬ」
『マリ、警察に連絡を。早く!』
「本気だぞ! 死んでやる。お前が殺すんだ。言えよ早く。さっさとしろ!」
「倉下君、やめて!」
俺は自分の天才的な閃きに感謝した。今だけは自分自身が大好きになった。ロランにとって、俺はただの高校生だ。俺の命を彼の天秤に乗せることはできない。
スマホを操作しようとした茉莉さんへと突進し、抑えつけた。大人の女性なのに、簡単だった。百七十センチくらい。一条とほぼ同じ。女性にしては高いが、意味はない。
彼女の肩を抱き寄せながら、ガラスの破片を喉に当てる。
「勝負しろ。じゃないと茉莉さんを殺す」
『君は……』
「どっちだ? 一条あいの方が大事か? 妻と娘、どっちが一番大切なんだ? 早く答えろ。どっちなんだよ! お前もこういう気持ちになれよ!」
こめかみに衝撃が来た。俺は横に倒れた。
一条がのしかかってくる。両腕を押さえつけようとしてくる。その拘束を何とか跳ね返したが、すぐに辻田と藤野も飛びついてくる。全員俺より体格がないとはいえ、三人分の重みはきつかった。
どいつもこいつも。皆、邪魔をする。乗り越えられなければ、終わるのに。全員、俺を追いつめようとしてくる。なら敵だ。敵なら、倒せば面白くなるかもしれない。美晴を、守ることができる。
気がつけば、右腕が振るわれていた。がむしゃらだった。だから破片から右手へと伝わってくる。気持ちの悪い肉の感触に遅れて気がついた。
かぼそい呼吸音が聞こえてくる。一条は息を吐くと同時に、血を大量に吐き出していた。全部、俺の顔にかかっていた。胸に刺さっているガラスの破片を見下ろしてから、俺の体へと倒れこんできた。
異様なほどの、痺れに襲われた。不愉快さしか伝えてこない最悪のものだった。周りが阿鼻叫喚になる中、俺はただ一条を抱きしめていた。自分が何をしてしまったのか、ただそれだけを考え続けて、目をつぶった。
あと一回で死にます
膝が床に付いた。それから俺は吐いた。吐きながら、化身を取り出した。目の前のテーブルへと投げつける。それはくるりと空中で一回転してから、完璧な姿勢で着地した。
周りが慌ただしくなる中、俺は化身しか見ていなかった。両手を上げる。
「こうさーん。降参します。わかりました。参りました」
『ディックヘッド!』
「何でもします。俺はどうなってもいいですから。お願いします。美晴は、美晴だけは」
『ディックヘッド!』
「こんなの、無理に決まってるだろ! わかんないんだよ! だから、だから、やめろ」
『ディックヘッド!』
「やめてくれ……」
『ディックヘッド!』
意味をなさない叫び声をあげて、俺は化身に飛びかかった。殴りつけても、蹴り上げても、噛みついても、すっぱそうな顔をしながらテーブルの上の定位置に戻る。テーブルごと壊そうとした。途中で誰かに止められる。
総合得点:十六点
たいして面白くならなかったので、死にます
息を浅く吸い込んだ。
俺は相変わらず立っていた。ロランが喋っている。前と変わっていない。
そんなことは、どうでもよかった。ずっと映り続ける文字でさえ、どうでもよかった。全力で床を蹴り、廊下へと続く扉へ突進した。玄関の方で並んでいる靴たちを踏みつけながら、外へと出た。
俺は走り続けた。土曜日の午前十一時過ぎ。住宅街を抜けて大通りに出ると、休暇を楽しむ人々が大勢歩いていた。そのほぼ全てに注目されても、走り続けた。石ころか何かを踏んで、靴下の布地に染み出してくるくらい血が出てきても、走り続けた。大勢の人にぶつかって怒鳴られても、走り続けた。多くの車にクラクションを鳴らされても、走り続けた。
「みはる、みはる」
途中でスマホを取り出す。美晴に電話を掛けた。出ない。俺はさらに走る速度を上げた。もう胸に心臓がぶつかってくるほど限界が来ているのに、足は動いてくれた。まるで別人のものみたいに。
確かこの日、彼女は用事があると言っていた。手芸部に入ってできた友達と、買い物に行くのだと。なら行き先は駅前のデパートだ。そうに決まっている。
駅の周りは、いつもより明らかに人が多かった。異様な雰囲気。そしてすぐに警察の車両や救急車が停まっているのが見えた。
人だかりの中に突っ込み、文句を言われながら進んだ。青いシートのようなものが、張られている。そのせいで何も確認できない。周りに立っていた警官が慌てて走ってくるが、その前にシートの下に潜り込むことができた。
丸い、金属製らしき物体が転がっている。その周りには血だまりができていた。次に、救急隊員らしき者達が集まっている方へと目を向ける。その隙間から、女性の腕が見えていた。肌に赤が飛び散っている。
近づくと、黒と白の四角模様が特徴的なワンピースが見えた。白い部分の多くが赤く汚れていて、濃い黒と汚い赤の組み合わせみたいで、全く合っていなかった。
隊員の一人が振り向いてきて何かを言ってきたが、俺には何も聞こえていなかった。
朝美晴が選んで着ていったものだ。藤野が勧めてくれたもの。でもわからない。確定はしていない。横に転がっている財布を発見した。それも見覚えがある。だがまだわからない。拾って、中を見た。写真が入っている。俺と母さん、美晴。そして……父さんがいる。皆笑顔だ。
でも今の美晴が笑顔かどうかはわからない。首が折れてしまっているし、顔の上の方がぐちゃぐちゃになっていて、全然わからない。唇もその周りも血まみれになっていて、笑っているかどうか判断できない。
たいして面白くならなかったので、貴方の一番大切な人が死にます
俺は安堵していた。この文字を出してくる相手の目は、節穴だ。美晴はまだ死んでいない。割れている頭からこぼれてるものを戻してやれば、すぐに治る。医者だって、素晴らしい健康体だと判断するだろう。彼女は俺が栄養を考えて作った食事を毎日食べていたし、吹奏楽部を辞めても早朝のランニングを俺と一緒に続けていた。
美晴の名前を何度も呼びながら、俺は彼女の頭の中身を拾い始めた。本当はすごく気持ち悪いけど、妹のものだと思うと愛着が湧いてくるような気もする。でも、そのうち動けなくなった。周りの邪魔な大人が止めてきたからだ。だから俺は殴った。たくさん殴った。敵だと思ったから、かんばって抵抗した。でも無理だった。何か硬いものがこめかみに当たって、俺は何もわからなくなった。
すごく、ぐるぐるする。
全部回転していて、曖昧になっていた。マンホール。色んな所からその言葉が聞こえてきた。突然爆発音がして、マンホールの蓋が吹き飛んだ。それが、友達と歩いていた美晴の顔に当たって……。面白くない。物語として唐突過ぎるし、わくわくしない。
いろんなところに連れていかれた気がする。せまいところ、ひろいところ。俺を楽しませようとしてるのかな? 意味ないのに。俺は、一人じゃ楽しめない。そんなことも、周りはわからないのだろうか。
くらいところ、あかるいところ。しろいへやがいっぱいだった。
三週目特典として、「目的」の不明欄が解放されます
目的:総合六十五点以上の獲得
しろいのがたくさんあるけど、文字だけは黒かった。俺はしばらくそれを追いかけて、指で挟む遊びをしていた。ベッドから落ちても続けた。しろい服をきたおんなのひとやおとこのひとに止められても続けた。虫みたいで、すごくいらいらしたから。
ずっとベッドに寝かされるのは嫌だった。だから俺はがんばって演技することにした。ちゃんとした倉下ともを思い出しながら、人と会話しようとした。なんとかなった。警察がホテルを取ってくれたので、俺は少しの間そこで寝泊まりできるようになった。
スマホは窓から外に投げ捨てた。家族の写真を見ていたかったのに、何度も何度も着信で邪魔されたからだ。あまりに邪魔だったから、何度か電話に出て叫んでやった。うるさいうるさい二度と電話してくるな。とにかく思いつくかぎりのことを言った。胸がぎゅうぎゅうした。男の声が答える時もあったし、女の声が聞こえてくる時もあった。全部、また電話するで終わっていた。だから俺はいらいらして、スマホを捨てることにしたのだ。早く終わらせなければいけない。
ホテルの人たちには迷惑をかける。それは避けられない。仕方のないことだ。だから俺は枕元にあるメモ帳に、ちゃんと感謝と謝罪の言葉を残した。許されるとは思ってないけど、こうするしかない。
俺は裸になって髭を剃った。それから電動シェーバーを持ったまま、バスルームに入った。冷水を溜め始める。そっちの方がもし発見が遅れたとしても、腐りにくいと思ったから。
深呼吸してから、水の張られた浴槽の中に入った。まだ残暑が厳しいとはいえ、さすがに冷たすぎる。でも今はその刺激がありがたかった。たくさんのことを忘れたいから。からっぽに近い感じで、進んでいきたいから。
電動シェーバーの電源を入れた。ブブブブ。その震えを感じてから、浴槽に落とした。
全身が硬直する。俺は水の中に沈んでいく。怖くてたまらない。でもそれくらいがお似合いだった。俺は俺を苦しめるべきだ。でもすぐに終わるだろう。溺れて終わるだろう。本当は、俺が溺れるべきだったのだ。
総合得点:十六点
たいして面白くならなかったので、死にます
喘ぐようにして、息を吸い込んだ。
『ぼくは嘘をついた。どうでもよくはない』
左右を見る。ロランが視界をかすめていく。体が横に傾いていくのがわかった。だが足をずらしてバランスを保った。立て直したと同時に、胸の奥からおかしくなるくらいの熱が湧き出てくるのを感じた。
まだ。まだ、終わっていない。
俺は震える手でスマホを取り出した。一度落としそうになる。寸前で持ち直して、番号を入力使用した。何度か間違えてから、履歴や連絡先機能を使えばいいと思い直した。美晴に、電話をかける。周りの目など気にしてはいられなかった。
『もしもし? とも?』
その場に崩れ落ちそうになる。美晴の声だ。生きている声だ。想像上のものじゃない。本物なんだ。頬が濡れているのがわかる。その声ごと抱きしめたかった。
四週目特典として、「手段」の不明欄が解放されます
手段:一条あい、辻田大志、藤野璃々
目をつぶってから、俺は口を開いた。
「美晴か?」
『わたしに決まってるじゃん。そっちからかけてきたんでしょ? 今、友達と歩いてるから。後でもいい?』
「今どこに?」
『駅前で信号待ち』
「逃げろ」
『え?』
「いいから逃げろ。冗談じゃない。どこか建物の中に」
『とも? 何言ってるの? おかしいよ』
「早く……」
大きな音がした。女性の悲鳴。何度か鈍い音が連続してから、通話が切れた。
画面の中のロランも含めた、五人分の視線が集まってきている。
それほど絶望的じゃない。会話はできた。十数秒ほどの猶予がある。ようやく、「何か」の意図がわかった。ハラハラドキドキ要素は、面白さを考える上で重要なものだ。ギリギリで美晴を救って、より面白くなる。そういうことを、求めてきているのだ。
「大丈夫だからな。お兄ちゃんがすぐに助けるから。待ってろよ」
もう、誰の顔も目に入ってなかった。俺は走り出した。その勢いのまま、リビングの縦長の窓へと蹴りを入れた。二回目だから、もうほとんどためらいがなかった。誰かが腕を掴んできたので、思いっきり振り払った。邪魔をしないでほしかった。
今度はよりひどかった。ガラスの破片の一つが足裏に刺さってしまった。俺はそれを器用に引き抜いてから、喉へと当てる。
「やめて!」
破片を自分の喉に突き刺した。馬鹿みたいに痛い。前死んだ時とは大違いだ。でも、我慢できる。また美晴に会えると思えば、どんな苦痛も乗り越えていける気がする。
五週目特典として、「要注意事項」の不明欄が解放されます
要注意事項:「手段」は、死にません
文字が現れる前から、既に通話ボタンを押していた。美晴が出た瞬間、叫ぶ。
「逃げろ! そこにいたら危ないんだ!」
『とも? 急に何? わたし今……』
「早くしろ! 安全な場所に行ってくれ!」
『わたし、友達と歩いてて』
「どうでもいい。急がないと危ないんだ。逃げてくれ」
『そんなの、ど、どこに?』
「建物の中でもなんでもいい! 早く!」
『わ、わかった。もう、意味わかんない』
走る音が聞こえる。少ししてから、ドアの開閉音がした。ほっと息を付いた瞬間、バリン、とガラスの割れるような音が聞こえてくる。また悲鳴があがった。「美晴ちゃん!」美晴の友達しき、女性の声も聞こえる。
俺はすぐに一条家を出て、駅へと向かった。既に現場には警察や救急隊員が到着している。またあの光景だった。俺は口を押えながら、青いシートの壁を見つめる。今度は、中に入っていく力が湧いてこなかった。
周りの話を聞いて事情を理解した。店の中の照明が落ちて、一人の女性に直撃したらしい。「事故」が起きた店に侵入し、散らばっていたガラス片の一つを拾った。自分のうなじへと刺した。
六周目です
「店の中じゃない! とにかく壁。マンホールから離れろ!」
ガードレール下に避難。その後、美晴は車に轢かれた。中に乗っていた男は、そのあと少しして息絶えた。心臓を患っていたらしい。既にまともな精神状態ではなかったらしく、一度美晴を吹き飛ばした後、その頭を轢いた。何度も往復したそうだ。
七周目です
「友達いるんだろ? 何人?」
『えっと、わたし入れて三人だけど』
「そいつら盾にしろ。後ろに回れ」
『とも……?』
「早くするんだ! じゃないとひどいことになる」
友達二人は、ひどく取り乱した様子で警察と話していた。飛んできたマンホールの蓋が、ありえない軌道で自分たちを避けて、美晴の頭に直撃したらしい。
十八週目。
どうやら、電話で指示しても意味はないようだった。美晴は全力で殺されにきている。何かが、全力で殺そうとしている。彼女がどんな行動を取ろうとも、その先で死が待っていた。だから、この方法は駄目だ。電話ではなく、直接俺が行って助けるしかない。
二十五周目。
猶予は十五秒ほど。俺がどんなに速く走っても、駅までは八分ほどかかる。誰がどう見ても無謀なことに思えるかもしれない。常識の範囲内にあるものしか、所持していないのなら。
時空間を投げる。その中に入る。出る。投げる。入る。出る。投げる。入る。これを繰り返すことで、人間の道を無視できる。真っすぐ駅前へと向かうことができる。だが、問題もあった。人通りの多い所では使えない。出入りを目撃される。だからルート選びは大切だった。
四十五周目。
高く投げすぎて、早く出すぎた。時空間から出た俺は落下して両足を折った。それでも、駅に着くことができた。四分。普通に走って向かう場合の半分だ。確実に進歩している。そろそろ、間に合うことができるだろう。生きている美晴と合流してからが本番だ。どんなことになっても、彼女の命だけは守らなければいけない。
六十八週目。
二分。初めて変化が起こった。警察も救急隊員も到着してない状態の現場。大勢の人々が、晒された美晴の死体を見つめていた。中には写真を撮っている者もいる。想像以上に、人間というのは肝が据わっているのかもしれない。スマホを構えている人たちに片っ端から突っ込んで、そのいけすかない機械を壊して回った。警察に捕まった。連行されている途中で道路に飛び込み、車に轢かれた。上手くいった。
九十六周目。
時空間? あんなのはクソだ。どんなに時間を引き伸ばしたところで、時間に追われることには変わりない。むかつく。役に立った試しがない。移動手段としてもゴミだ。二分から永遠に縮まらない。限界がきたのだ。こんなアイテムを使うのはやめにしよう。
「美晴が、俺と同じになればいい。そうだろ?」
『ディックヘッド!』
「俺は死んでも死なない。お前のクソゲーに参加してるから。だから美晴も参加させればいい」
『ディックヘッド!』
イオニアン・リング
効果:大切な人と共に生きよう
ペナルティ:ふられたら死にます
質の良いミステリー小説を読みきった時のような、高揚感があった。宝石のない白い指輪にキスを落とす。電話をかける。
「美晴」
『とも? どうしたの?』
「結婚してくれないか?」
『嫌だけど』
九十七周目です
どうやら俺は死んだらしい。額に手を当てて、苦笑した。上手く行くと思っていた自分が少し恥ずかしい。美晴が幼い頃だったら、成功していた。だってお兄ちゃんと結婚するって、言ってくれていたから。小学五年生の途中までは。成長は嬉しくもあるし、悲しくもある。
百十五週目。
「指輪、用意してるんだ。何も気にしなくていいから、はめてくれ」
『どうしたの? 気持ち悪いよ』
百二十七週目。
美晴は意外と色んな指示に従ってくれる。俺が押せば、大概何となかなる。
「いいから言えよ! はめるって言え! じゃないと美晴のこと、嫌いになるから。さっさとしろよ!」
『わかったから、やめてよ。な、なんでそんなこと言うの? はめるから。変だよとも』
「イオニアン・リングを、指にはめるんだな?」
『うん、そうする。だから、やめて。嫌わないで……』
涙まじりの声は、すぐにおぞましい叫びへと変わった。
あまり、聞くことができなかった。俺も悲鳴をあげていたから。薬指に激痛が走っている。そこを押さえながら床をのたうちまわった。スマホを持ち続ける余裕もなかった。
エラー
イオニアン・リングは消滅します
人差し指に、火傷のようなものが残った。第二関節の少し下、リング状の跡が残った。どうやら、無理やり事を進めてはだめだったらしい。俺は何度も祈ったが、結局リングが戻ってくることはなかった。指の跡だけが、その存在の証だった。
百二十八週目です
すぐに違うとわかった。
テレビ画面が消えている。茉莉さんがちょうどリモコンを置いて、きまずそうに振り返ってきていた。俺は右手の人差し指を動かした。疼きの正体。指輪の跡が残っていた。
「ロラン、さんは? 話してたはずじゃ」
茉莉さんが首を傾げる。
「もう終わりましたよ。大丈夫? 倉下君」
百三十六週目。
ずれた。
「美晴?」
『……』
何か話し出そうとした瞬間に、向こう側から鈍い音が聞こえる。いつもの悲鳴、音の連続。どんなに早くかけても無駄だった。電話に出た直後、彼女は死んでいた。猶予は二十秒から、電話をかけて美晴が出るまでの五秒ほどに縮まった。つまり、無謀から不可能に変わったということだった。
俺は、諦めるつもりなんてなかった。そんなのはありえない。妹の命を諦めるくらいなら、死んだ方がましだ。でも死ねないから、続けるしかない。ぐるぐるしていく。回転する。電話を取り出しながら窓を蹴り、ガラスの破片を手に入れる。死ぬ準備をしながら美晴の死の瞬間を聞く。
三百を超えた頃から、胸の底に泥が生じた。それはどんどん広がって行って、俺の肩や腕、足を重くしてくる。そして最後には頭の中へと入り込んできて、思考にも纏わりついてきた。
このまま永遠にぐるぐるし続ける。美晴の呼吸音だけは聞けるのではないかと期待し続ける。それはいい。飽きるなんてことはない。だが、泥もまた大きくなってきていた。それに引きずり込まれることが怖かった。どうして美晴は助かってくれないんだ? こんなにやってるのに、がんばってるのに。助かりたくはないのだろうか? 俺に助けてもらいたくはないのだろうか? 俺は嫌われたのだろうか? 疑問が泥を生み出し、泥が疑問を生み出していく。嫌われてるのに、好きでいるのは虚しい。なら、俺も嫌いになるしかないのだろうか?
美晴を嫌いになる。それこそ、一番怖いことだった。彼女とのこれからがなくなるだけじゃない。これまでが汚されてしまう。素晴らしい思い出の数々が、泥に沈んでしまう。それだけは嫌だった。死ぬことよりも、永遠にがんばり続けることよりもつらかった。
「愛してる」
『……』
「ずっと愛してる」
俺は、俺が大嫌いだ。




