31:女幹部と想い出
蛍の母ヴァイオレットは、身体が弱かった。
ために、彼女との想い出の大半は病床でのものだった。
指輪を渡された時も、母は病室のベッドの中にいた。
病によって痩せ衰えても、なおも美しい母は慈愛のこもった眼差しで、蛍の頬を撫でる。
そして小さな手に、自身の指輪を握らせた。
「蛍にプレゼントがあります。お守りの指輪です」
少したどたどしいが丁寧な日本語で、蛍の目を見てそう言った。
蛍は一度手の中に視線を落とし、柔らかな光を灯す指輪をしげしげ眺めた。次いで、大好きな母を仰ぎ見る。
「きれいです。お母さん、ありがとうございます」
微笑む彼女につられ、母も薄っすらと笑んだ。
「その指輪は特別な、魔法の指輪なのですよ」
「まほう? ハニーエンジェルのようなまほうですか?」
当時大好きだった、魔法少女アニメの主人公の名を告げると、母はこっくり頷いた。
「そうです。でもこの魔法は、本当に困ったときに使うのです」
「はい! ハニーエンジェルも、こまったさんのために、まほうをつかいます」
「ふふ、そうですね。蛍の大好きな人が困ったら、このように唱えてください。呪文は──」
覚えているのは、ここまでだった。
まどろみから目覚めると共に、幼き日の想い出も霧散する。
いつの間にか眠っていたようだ。寝返りを打った蛍は、枕の硬さに閉口した。
「……この枕、硬いわ」
「ごめんなぁ、筋肉質やねん」
頭上から思わぬ声が降って来て、慌てて顔を持ち上げる。
間近に樹の、精悍な顔があった。
どうやら、彼の膝枕で寝ていたらしい。
「え、なっ……、どうして」
彼の太ももに頭を預けたまま、蛍は羞恥に戦慄く。
一方の彼は、照れた笑顔で頭をかいている。
「車ん中で寝てもうたから、起こしたら可哀想やんなぁって、宰さんと話して」
ちゃっかりと、叔父を愛称で呼んでいることが気にならなくもなかったが。
「だからって、どうして膝枕なのですか」
「いや、隠れ家に枕なかったから。せやったら、太もも貸したろ!って」
「ならないでください。起こしてください」
身を起こし、蛍は樹をにらんだ。しかし、緩んだ笑顔で受け流される。
「まあまあ。眠れる時にちゃんと寝るのは、大事やで? あ、怪我の具合どう? 宰さんが手当てしとったけど」
言われて体を見下ろせば、あちこちに絆創膏やガーゼが貼られていた。腹部にも湿布の、ひやりとした感触がある。
「あ! 僕はそん時外出てたからね! なんも見てへんよ!」
腹を撫でていると、訊いてもいないのに樹が大慌てで弁明した。それが少々、滑稽であった。なんだか脱力する。
「樹さんは、やはり抜けていますね」
「急にそんなディスらんでも!」
嘆く樹を観察ついでに、周囲を見渡す。
隠れ家は、蛍のバイト先でもあるバーだった。
現在そこの休憩室に、樹と蛍はいた。壁際に置かれた茶色いソファへ、二人並んで座っている。
「あの、宰さんと父はどちらへ?」
樹の視線が、休憩室の扉へ向かう。
「宰さんは買い出し。あとお父さんは、もうちょいしたら着くって、さっき連絡があったよ」
そう言うと樹は蛍へ向き直り、深々と頭を下げた。
「ごめん、蛍ちゃん! 怪我させて、ほんまにごめん!」
その様子に既視感を覚えつつ、蛍は彼をなだめた。
「ホッケーマスク──添金さんに操られていたんですよね。でしたら、仕方ありません。恨みっこなしです」
「うん……ほんまごめんな……」
「ええ。気にしていませんから」
励ますように彼の肩を優しく叩くと、その手を取られた。
ぱちくり、と蛍は握られた右手を見つめる。
「あと、蛍ちゃん」
「はい」
「僕も君のこと、好きです」
あの時の告白を、覚えていたらしい。
ここは照れるべきなのか、喜ぶべきなのか。
最適な態度が思い浮かばず、結局蛍は無表情のまま彼を見つめ返した。
「それにつきましては、薄々勘付いていました、けど」
「う、薄々……結構分かりやすく出てたと、自分でも思うんやけど……」
「そうでしたか。察しが悪く、申し訳ありません」
「ううん。そういうとこも、蛍ちゃんらしくて好きやで」
優しくそう呟いた彼は、蛍の手の甲をそっと撫でる。
くすぐったい声音と感触に、蛍は視線を落とした。
「樹さんは、変わっていますよね」
「ひどっ」
「でも私も、そういう部分も樹さんらしいと思いますし……好ましく、思っています」
手が離される。
そのことに気付いた瞬間には、樹に抱きすくめられていた。
「片想い諦めんで、ほんま良かった……」
少し涙混じりのそんな呟きが、彼女の耳を震わせた。
「そうですね。私も学生証をポケットに入れっぱなしにしていて、良かったです」
蛍はそう言って瞳を閉じ、彼に身を預けた。
彼の着ている、強化スーツの肌触りはゴツゴツと最悪だったが、全く気にならなかった。身を預けついでに、そっと頬ずりもする。
兜が休憩室の扉を開けたのは、そんな瞬間だった。
「おや、お邪魔だったかな」
「いえ、全く!」
父の声にハッとなり、蛍は樹から身を離す──と同時に彼を突き飛ばした。
全く無防備だった彼は、勢いを殺さずに頭から床に落ちる。
しっぽを踏まれた、犬のような悲鳴が上がった。




