23:女幹部は恐怖する
「名前を、訊いても良いかな?」
そう尋ねて来た、倉間と呼ばれる男の目に、蛍は寒気を覚えた。
「職場」で、見かけたことのある目だ。
人を人と思っていない、道徳心や倫理観に欠けた目──そんな目をする男が、ジュエルナイツの司令官なのか?
蛍は混乱しつつも、正体を悟られぬよう視線をそらして、乾いた喉を震わせた。
「広江……と申します」
震え声を、樹に聞かれるのは嫌だったが、どうしようもなかった。
倉間は舌なめずりするように、にたりと笑った。
「そうか……広江さん、か。穂坂君とは付き合って長いのかな」
「ええ。それなりです」
「それなり、か。随分と警戒心の強いお嬢さんのようだな」
倉間は樹へ向き直った。二人の顔は、薄暗い駐車場ではよく見えない──そう考えた瞬間、頭上のライトが点灯された。
その眩しさに、蛍は一瞬だけ視界を奪われた。
「はい。ええトコのお嬢さんなんです。せやからあんまり、困らせんといてあげて下さい」
目をしばたかせて見た樹は、愛想笑いすら浮かべていなかったが、言葉だけは丁寧だ。
次いで倉間との間に割って入り、再び蛍を庇った彼の背中は、とても大きく見えた。
不穏な空気を隠さない部下へ、肩をすくめた倉間の流し目が、蛍の手元で止まった。いや、正確には、彼女の指にはまる形見の指輪だ。
咄嗟に、その指輪を左手で覆い隠そうとして──蛍は動きを止めた。
目がくらみ、束の間恐怖を見失ったことで、冷静さが取り戻されたのだ。それと同時に、腹も立った。
樹の手を払いのけ、なおも無遠慮に母の形見を、じろじろ眺める倉間に。
そしてそんな彼に一瞬でも怯え、樹の背中に隠れてしまった自分にも。
蛍は真っ直ぐ、倉間を見据える。
「この指輪が、どうかされましたか?」
「いや、よく似た指輪を知人が持っていたのでね、気になって」
「そうですか。大量生産品でしょうし、そういうこともあるかと」
抑揚のない蛍の声に、樹はぽかんとなり、倉間は面食らう。
「い、いや……その指輪は特注というか、大量生産されたものではなくてね……良ければ、君がその指輪を手に入れた経緯も──」
「お断りします。樹さんのお知り合いとはいえ、私にとっては初対面の方です。そんな方に、ペラペラと個人情報を話すべきではない、と考えております。また、家族からもそう、言い含められておりますので」
樹の言い訳へ当てこすっての発言に、彼はこっそり忍び笑いを漏らした。
「ナイスミドルな司令官も、深窓のお嬢様には敵わへんってことですね」
朗らかに言った樹は、一拍置いて。
「これ以上、僕の友達を困らせるんは、止めていただけませんか?」
思わず倉間が頬を引きつらせるような、低い声で最後通告をした。
空いた左手でゆっくりと握りこぶしを作った秘書らしき女性も、微笑を崩さぬまま、倉間へ耳打ちする。
「実働…………反感…………」
そんな単語が聞こえて来た。
実働部隊である、樹の反感を買うのは良策ではない、ということだろうか。
秘書の言葉に、わざとらしくスーツのしわを伸ばした倉間が、ため息を吐いた。
「……急に声をかけて、悪かったね」
「いえいえ。僕の方こそ、休日をお邪魔してすんません」
先ほどまでの殺気をかき消して、樹はいつもの呑気な口調で応じた。
そのまま、高級車に乗り込んで走り去る二人を見送った。
車が見えなくなったところで、ようやく樹の肩から力が抜ける。
「あー……おっかなかった……どんだけ女好きやねん、あのオッサン……」
ぶちぶち不平を零しながら、樹は振り返る。
「……ほ、蛍ちゃんっ?」
そこで目を剥いた。
蛍は笑う膝を両手で抑え込み、立っているのがやっとだったのだ。
車にもたれかかっている彼女を、身をかがめた樹が支える。
そのまま縋り付きたい衝動を、蛍は歯を食いしばって堪えた。
険しいその表情が更に不安を煽ったのか、樹は恐る恐る彼女を覗き込む。
「大丈夫、蛍ちゃん?」
「大丈夫です。少し、気が抜けてしまっただけです」
「……せやんな、怖かったよな。ごめんな」
無表情の蛍の分も、とばかりに、樹が泣きそうな顔になっている。どうして彼はこうも、感情表現が豊かなのだろう。
しかし今は、それどころではない。
咄嗟に弱気を衝動でねじ伏せたものの、倉間の視線や声が、今も体にまとわりついているようで怖かった。加えて──
「あの、倉間さんの後ろにいた女性……」
「添金さんって秘書さんやね。あの人がどうしたん?」
「あの方にも、底が見えない薄気味悪さがありました」
「蛍ちゃん、鋭いな」
樹が苦笑する。
「あの添金って姉ちゃんも、元々軍人やっとったとか、そんな噂があるんよ。正義の味方のはずやのに、素性がよう分からんヤツばっかでごめんな」
「そんなことないです。樹さんのご家族が、顔の濃さ以外は平々凡々だということは、重々承知しております」
励ますつもりで言ったのだが、返って来たのは非常に情けない顔だった。
「そこは忘れてええから! とりあえず、車乗ろう! もう遅いし!」
「そうでしたね」
樹に介助されるような形で、助手席に乗り込む。
彼も車を回り込んで運転席に座りながら、
「蛍ちゃん」
と声をかけた。
蛍は樹を見上げる。
「なんでしょうか。顔が、いつもより怖いですが」
「うん……自分が情けなくてな」
「情けない?」
「ほんまにごめんな、怖い思いさせて。司令官を近づけさせてもうて」
「いえ、不可抗力ですから、気にしていません」
首を振り、蛍は微かに震えの残る腕でシートベルトを引っ張る。しかし、金具へはめる前にその手を、樹に握られた。
驚いて再度、彼を見上げる。
「樹さん?」
その声にハッとしたのか、樹は仰け反るように手を離した。
「ごっ、ごめん! なんかつい、蛍ちゃんが不安そうやったから!」
悲鳴のような弁明を述べながら、運転席の窓側へ身をよじる彼を、蛍が追う。
そして今度は、蛍が彼の手を取った。樹が真っ赤な顔で、目を丸くする。
「蛍ちゃん……どうしたん?」
「不安でした。怖かったです。だから、握っていてください」
じっと彼を見上げて、身を乗り出してそう訴えると、柔らかな微笑みが返された。
「うん、分かった。手ぇ握っとくから、安心してや」
「ありがとう、ございます」
手から伝わる彼の体温と、声の優しさに、蛍の体に残っていた震えも恐怖心も、じわりと溶けて行った。
不思議と、樹の前では弱音も吐露出来た。
きっと彼がいつも、自然体でいるからだろう。
繋いだ手を見つめて、蛍はそう考えた。




