90話 エンディング2 エイミー1
漠然と、なにも望まない癖のついた人生だった。
彼女は最初から自分のことについてなんとなく知っていた。
『なにかを望めば疲れる』『望みを口にすればもっと疲れる』。
……まあ、そんなのは当たり前のことで、誰もが身に覚えがある寓話みたいなものかもしれないけれど、彼女はもっともっと直接的に疲れたし、ひどいほどにごっそりと気力を奪われて倒れ伏すなんていうことがよくあった。
物心つく前からそんな調子だったものだから、体との付き合い方なんかすっかり覚えてしまって、そうやって『なにも望まない少女』は完成した。
漠然と生きている。
言われたことだけこなしている。
反感を抱くこともたまにあるけれど、そんな気持ちを抱くとひどく疲れるから、押し殺す。
押し殺しているうちになにも感じなくなって、生きやすくなる。
空洞のような人生。
それでいいと思ったことはなかった。『それでいい』とさえ、思うことがなかった。ただ自分はそうして生きるのが一番楽だから、そうして生きていただけだ。
幸いにも、彼女はそういう生き方を許される環境にいた。
物心つくころにまわりにいた大人は自分の体のことを知っているふうだったし、その人から説明があったのか、村の人たちも彼女が空洞であることになにも言ってこなかった。
同世代の子供たちはたまに来たが、話しかけようが手を引いて連れ出そうが、彼女が本当になんにも返してこないのをわかって、離れていった。
自分を世話していた女の人がいつからか来なくなって、代わりに男の人が現れた時も、なにも思わなかった。
けれど困ったのは男の人が『仲良くなろう』としてきたことだった。
どうやらその人は自分の機嫌をとりたがっているらしい。
困る。そんな必要はないのだ。命じられればその通りにするし、命じられないことは決してしない。最低限の生理現象への対処は体が勝手にやってくれる。
前に自分を養っていた女の人は『仲良くなろう』とはしなかったのに、男の人はどうやら、自分に『空洞』以上の役割を求めているようだった。
ひどく、疲れるのに。
言葉を発するのは嫌いだった。倒れるほどに疲労するから。
でも、言葉にしないといけないようだった。
「ほうっておいて」
精一杯の望みをこめた言葉を放って、その直後に倒れてしまった。
その望みは三日ぐらい叶った。
男の人はなぜか村に近づけない事情がたくさんできたらしく、しばらくは望み通り『ほうっておかれた』のだ。
けれど、男の人はまた来て、仲良くなろうとする。
事情はたくさん語られた気がする。でも、幼かった少女にはその全部がわからない。
ただ、自分を世話していた女の人は死んでしまって、そのあとをたくされたのが男の人だということだけ理解した。
たくさんの言葉をかけられた。
一割もわからなかった。男の人は話し方がじょうずではなかった。
たくさんの物を与えられた。
興味のあるものは一個もなかった。もともと、『興味を持つ』という習慣がない。
執着心もなく、希望もない。
その代わりに喪失感とは無縁で、絶望することもない。
死を望んでいるわけでもなく、生きたいという意志があるわけでもない。
望みはなにもない。
強いて言えば、疲れたくないという気持ちだけがあった。
だから、男の人のことが、嫌いだった。
唯一の望みを邪魔する人だから。
……でも、あきらめの悪い彼は何年もそうやって『仲良くなろう』とし続けた。
彼には彼で使命感みたいなものがあったのかもしれない。
それか、正解となる『子供の扱い方』みたいなものを抱いていて、それに沿った行動しかできなかっただけなのかもしれない。
気づけばその人は自分の父親として認識されていて、自分と同じ家に住まい始めた。
なんてしつこい人なのだろう。
なにものも嫌わなかった少女の中に、はっきりと『嫌い』という感情が湧き起こっていた。
どうなっても構わないと思っていた少女の中に、しっかりと『この人と過ごすのはイヤ』という気持ちが根付いていた。
家出した。
まだまだ幼い子供の家出だ。
遠くには行けなかった。
村の中でちょっと見つかりにくい場所を見つけて、そこに隠れた。
干し草を入れておく倉庫だ。村は畜産業をやっていたものだから、人は少ないが土地は広く、隠れる場所はそれなりにあった。
半日ほど見つからなかった。
『仲良くなろう』としてくる人がいない暮らしを思い出した。それはすがすがしくて心地がよかった。疲れることもなかった。
でも単純なことに、お腹が減ってきたし、退屈になってきた。
退屈!
ありえない心境だった。だってただの空洞だったのに、いつのまに自分は『退屈』なんていうものを覚えたのだろう?
暇つぶしを望んでいた。
お腹がすいたなというのは本当にどうでもよかった。体は食事を望んでいても、心はそれを重要視していない。
でも、退屈だけは我慢ならなかった。周囲を見回して誰かを探した。誰でもよかったような気はする。でも、浮かんだのはあの大きな男の人だった。
そして、もう一人。
自分を世話していた、女の人だった。
もういない彼女のことを妙に思い出した。
『仲良くなろう』としない人だった。最低限のことだけしてくれた。
それは、その人が自分を軽視しているとか、人と仲良くなるのが苦手とかじゃなくて、自分が誰かと仲良くなることを全然望んでいないというのを察しての行動だったようにも思えた。
仲良くなるのを、望んでいなかった。
仲良くなりたくないと、望んでいた。
人と仲良くするのは、ひどく疲れるから。
仲良く遊ぶ自分は、いろんなことを望んでしまって、なにかひとつでも望むたびに、ひどく体がだるくなるから。
もしもこんな体じゃなかったらと思ったことが、あるような気がする。
でも、それだけは望んではならなかった。
自分の体をみんなみたいに簡単に疲れないものに変えようという望みだけは抱いてはいけないと、心が知っている。
抱きそうになると、とてもとても高い場所から下を覗き込んだような気持ちになる。目の前に暴れ牛がやってきた時みたいな気持ちになる。
ごうごうと燃え盛る炎を見ていた時に、後ろから押されて、よろめいて炎に飛び込みそうになった時みたいな、お腹の底が震えるような気持ちになる。
今、その気持ちになっている。
それは、とてもとても怖いことだった。
こんな気持ちになった時には、ふだん仲良くしようとしない女の人がそっと近寄ってきて、いきなり抱きしめてくれた。
今は、いない。
死んでしまったらしいから、いない。
だから、彼女は、口にした。
「だれか」
女の人はもう戻らない。
だから、思い描くのは、父親になったという男の人のことだった。
「だれか」
たった二回言葉を発しただけで、意識が途切れそうなほどに疲れてしまった。
でも、今、意識を失いたくなかった。
なんでもない暗闇が急に怖くなることぐらい、誰にでもあるだろう。
誰もいない家の中で、不意に背後に誰かいるような気がして、振り返るに振り返れない心境に陥る瞬間が、誰の人生にも一回ぐらいはあるはずだ。
目を閉じるのが怖くて、ベッドに横になったまま、眠らなければいけないのに、疲れて眠りたいのに、なんだか眠りたくない夜ぐらい、経験があるだろう。
彼女の意識をつなぎとめているのは、そんな気持ちだった。
「おとうさん」
彼女の言葉は、叶うらしい。
求めたものが現れた。
例の男の人が、うずだかく積まれた牛の飼料をかき分けて現れた。
彼女は無意識に腕を伸ばした。
大きな男の人は彼女の小さい体を抱き上げた。
こうして彼女の家出は終わり、その後、また同じような生活は続いた。
彼女は相変わらず空洞で、なにも望まないし、なににも執着しない。
でも、男の人のことは嫌いではなくなった。
空洞のような人生だけれど、そこに吹き抜けるものを選ぶことを彼女は覚えた。
たったそれだけの進歩。
父親となった人と過ごして覚えた、退屈という感情の正体。
寂しいのはいやだという望みを、彼女は獲得した。




