89話 エンディング1 キリコ
王都を少し離れた場所には集落があって、そこは畜産をおもとした産業としている場所だった。
広大な土地のわりに人口は少なく、住民はみな顔見知りで、隣人には優しく、それからちょっとばかりおせっかいで、よそものへの警戒心が強い。
獣人族ばかりが住まうこの土地に人間族である俺たち夫婦が居を構えようとしたのは、気候がよく、王都ほどごみごみしていなくて、でも望めばそれなりの頻度で王都まで出向けるのと……
あとは、近くの丘から見る星空が好きだった。
受け入れられるまでは時間がかかった。
小さな村には特有の『暗黙の了解』がいくつもあって、その多くを俺は最初からわかっていたのだけれど、微妙に知らないものもまじっていたから、そのあたりを失敗しながら覚えるしかなかった。
「なにも、そんなに頑張ってこの村に居つくこともないだろうに」
それは最初のころ、皮肉として言われた言葉だったと思う。
でも、この村がよかった。
……まあ、これは俺のわがままだ。
俺と妻は互いのわがままを一個聞く代わりに、自分のわがままを一個通させた。
だからこのわがままの返礼は、同じだけの手間と年数をかけてすることになるだろう。
数年という『よそものが村になじむ』には短い期間で、ようやく俺たちは村の一員として認められた。
俺は村で使う道具類を直す役割を負い、妻のほうは野生の獣などを狩る役割を請け負った。
俺たちの仕事ぶりの評判はとてもよかった。
俺の道具修理の腕前は王都でも通じると褒められ、妻は大型の獣さえも一人で狩って見せたからだ。
「なにも、そんなに頑張ってこの村に居つくこともないだろうに……」
その言葉は何年か前にかけられたものと同じだったけれど、そこに込められた感情はまったく違っていた。
村人たちは俺たちのことを『自分たちの村においておくにはもったいない人材』と思ってくれているようだった。
俺の道具修理やそれを成すための技術習得、妻の危険を顧みないハントに、かなりの労力がかかっていることを認めてくれているのだ。
この力と熱意を活かすのにふさわしい場所はもっと他にある。その働きぶりにこの村では報いることができない……言葉を尽くされ、そう説明された。
「ここがいいんです」
特別なお礼はいらない。
日々を健やかに過ごせる、村人として当たり前の稼ぎがあればいい。
報酬はすでに受け取っている。
彼らは知りようがないけれど、彼らが健やかに生存していることがなによりの報酬だったし、彼らが申し訳なさを感じるほどの働きをするのは、償いだという意識もあった。
そうして村での生活が安定したころ、王都方面から大きなニュースがもたらされた。
現在の国王陛下が退位し、そのあとを継ぐ次の陛下が定まったのだ。
それは当然というか、陛下の長子であらせられるお方だった。
ロイヤルファミリーはみんな人気があって、俺は陛下の末娘であらせられるスルーズ様を陰ながら応援していたのだが、世界は順当に進んでいて、彼女が次期国王となることはなかったようだ。
納得の結末だ。でもちょっとだけ残念だ。
俺たちに、ロイヤルファミリーとの関係があるはずもない。
スルーズ殿下は俺たちのことを知らない。
でも、なんとなく、応援していた。
……まあ、王位に就くのは苦労も多そうだし、逆によかったよ、とどの立場かわからない弁護などしてみて、妻には笑われた。
新しい陛下が即位されるその年に、俺たちのあいだに子供ができた。
その子にはエイミーという名前をつけた。
村人たちに祝福され、エイミーもまた、俺のような立派な鍛冶屋になるか、妻のように立派なハンターになることを期待された。
そういう社会なのだった。
親の職業を子がつぐ。子が多かったら王都や他の町にでも出稼ぎに出る。それが当たり前で、そういうふうに連綿と続く村なのだった。
俺がここに鍛冶屋として受け入れられた背景にも、この村の鍛冶屋の家が断絶していたというのが影響している。
家業制の弱点というのがまさに『子供がいなくて後継ぎがいなかった場合、家が断絶し、村に必要なはずの職業が消え去る』というのがある。
俺はその弱点にうまいことつけこむかたちで、村での居場所を獲得したのだった。
……まあ、鍛冶屋がいたなら、他の手段で村に受け入れられることもできたけれど。
エイミーが大きくなるころにはきっと、こういう制度にもちょっとした変化が起きていることだろう。
王族に拝謁できる機会などには足繁く王都に通ってはいるのだが、そういう時に見聞きする王都では、すでに職業選択の自由が始まっているようなのだ。
この王都から近くて遠い村にその自由が受け入れられる日はまあ、遅くとも二十年以内じゃないかな、とつぶやいてみる。
根拠がぜんぜんないものだから、また妻には笑われる。
「あなたは最近、そういうの好きよね」
「『そういうの』って?」
「根拠のないことを、もっともらしく言うこと」
「悪いかな?」
「いいえ。普通のおじさんみたいで好きよ」
俺たちのあいだには十歳以上の年齢差があるのだけれど、最近はもう、気にならないぐらいお互いに歳をとった。
俺も妻も高齢で子供ができたせいか、生まれた子はやけにかわいく、気を付けないとついつい過保護になってしまう。
長生きしたいな、と子供を見ながらつぶやく。
すればいいのに、とあいつも子供を見ながらつぶやいた。
それきり、言葉は交わさなかった。
夕暮れになって、遊びまわっていた子供たちが家に帰っていく。
俺の家のまわりはこうして子供たちの遊び場になっていた。
村の中にも広い場所はあるのだけれど、村からちょっと離れた俺の家が、子供たちの冒険心を満たすのにはちょうどいい距離らしい。
帰っていく同世代の子供たちを見送るエイミーはいつも寂しそうで、みんなが帰ったあと、どろんこの彼女を抱き上げて抱きしめるのは日課になっていた。
ぎゅっと我が子を抱きしめていると、ふと、こんな言葉が口をついて出る。
「いい暮らしだよな」
言ったあとで、大昔に思ったことを思い出した。
ありえたかもしれない人生を妄想したことがある。
ひょんなことから世界を救うことにした時の話だ。
俺と妻がお互いに十代の時に出会っていて、世界の命運などぜんぜん関係ない生き方をしていたら、きっと、こんなふうに平穏な暮らしの中で、子供を抱きしめている時に『異世界も不便だけど悪くはなかったな』と物思いにふけったかもしれない、なんていうことを、思ったことがあった。
不便だけど、悪くはなかった。
……まあ、不便なのは、認めるけれど。
悪くなかった、どころではなく。
いい暮らしだな、と口をついて出た。
その落差に、なんとなく笑う。
「どうしたの?」
近寄ってきたキリコが問いかけてくる。
そちらを振り返れば、落ちていく夕日のせいで妻は逆光になっていた。
柔らかいオレンジ色の光に包まれた世界の中で、彼女だけが影絵のように黒い。
不気味さを感じるコントラストのはずなのに、俺は、妻のシルエットの中に、若かったころの彼女を幻視して、笑った。
あんまりにも柔らかくなった彼女と昔の彼女との落差に、笑ったのだ。
笑ってばかり、いるのだ。
この、世界の暮らしの中で。
「本当にどうしたのよ」
妻も笑った。
俺はしばらく考えて、
「ああでもない、こうでもないって、いっぱい考え込みながら生きてきたじゃないか」
「そうね」
「……いや、若かったよな、と思って」
どうやらこの世界は、想像より素晴らしかった。
世界は平和で、世はすべてこともなし。
いったい、何年越しなのだろう。
俺は異世界に転移してスローライフをしている。
戻りたいと思うことはすでにほとんどなく、目に見えない未来に怯えて考えこむことも、めっきり少なくなった。




