82話 ありえた異世界生活
キリコと名乗ったそいつはどうやら俺のことを知っていたらしかったが、その時の俺は、キリコのことを覚えていなかった。
抜き出された俺の記憶は、以前にこの世界で死んだ俺のアイテムストレージの中にあった。
アイテムストレージという能力自体さえ自覚していなかった。
もししていれば、この時点なら、『この世界で魔王となり、老いて死んだ俺』のアイテムストレージにも簡単にアクセスできたことだろう。
一般的な過去の記憶を失っている冒険者の俺はその時点で二十代に突入していた。
キリコが転移してきたのはやや時差があって、この時点ですでに、俺たちには年齢差が生じていたし――
その年齢差は、俺たちが転移を繰り返すほど、だんだん、開いていくことになる。
ともあれ俺は、俺と知り合いらしいキリコが、俺のいく先々にくっついてくることを嬉しく思った。
まったくの他人視点だと、キリコは若く美人な女の子でしかなかった。
それが前世(前の世界)での知り合いだとかでついてくる状況は、そういう類型のラブコメを知らなくても、ワクワクするものがあったのだ。
ただ、俺がそういう普通の男性っぽいところを見せるたびに、キリコはある言葉をつぶやいた。
「許せない」
この時点のキリコは、俺が『俺らしくない』行動をとるたび、かなりの不機嫌顔でそんなことを言う。
凄む美人の迫力は、どれほど人生経験を重ねたって怖がらないではいられない。
俺はキリコに『許せない』と言わせない立ち回りを心がけ、どうにか、記憶があったころのような性質にだんだんと矯正されていったようだった。
ただし避け得ない『許せない』もあって、それは、俺がキリコと再会した直後ぐらいに、先輩冒険者の女性と結婚したあたりでぶつけられた。
この世界に来てからというもの、なにかと『同じ出自だからね』ということで世話を焼いてくれる女性がいたのだ。
当時の俺は『記憶喪失、身元不明仲間』ぐらいの意味で捉えていたが、そんなやつは珍しくないので、特別俺だけ親切にしてもらっているあたりに、相手からの好意を感じ取った。
その女性に指導を請う中でともに冒険し、ともに命の危機を乗り越えていくあいだに、いい仲になり、ついに結ばれた。
キリコが転移してきたのは俺とその女性の関係がすでに成熟しきったころだったのだ。
それでもしばらくは俺と、その女性と、キリコと、あとは一人二人入れ替えながらパーティとしてやっていた。
しかしキリコもまたこの世界で伴侶を見つけると、俺たちはなんとなく別行動をとるようになり、そのまま自然と縁が切れたのだった。
しばらくは連絡もなかったぐらいの関係性だったが、ある日唐突にキリコの伴侶たる男性と再会して、『そういえば』というテンションで、話が切り出された。
「キリコ、死んだんですよ」
冒険者が死ぬことはよくあった。
同じ年に十人冒険者になったとすれば、三年で半数になり、十年で二人になる、と言われている。
その減る要因はさまざまではあったけれど、要因のうち三割ぐらいは『死』で、冒険者総数の多い土地にいると、その三割程度の理由で冒険者でいられなくなった者も珍しくはない。
だというのに、俺の受けた衝撃は並大抵のものではなかった。
へぇ、と口で言いながらもボロボロ涙がこぼれて、頭痛がして、呼吸さえままならなくなった。
明らかに異常で、キリコの夫となったそいつにさえ引かれてしまうほどだった。
……その日から俺は知らない光景を夢に見るようになった。
たくさんの木造机が行儀良く並べられた空間で、同じ服を着た若い連中が、よれよれの動きやすそうな服を着た老人の背中をながめている。
老人は黒板に(この世界にも黒板はある)この世界のものとよく似た文字を書いていて、どうやら俺や他の連中は、それを手元の紙に写しているようだった。
しかし俺の視線はついっと横にそれて、老人ではない者へ焦点を合わせる。
長い黒髪の後ろ姿。
退屈そうに頬杖をついた様子。
背中しか見えないのに、そいつがとびきりの美人であることがハッキリとわかる。
知っているんだ。そいつが夕暮れのグラウンドをながめてたそがれている一葉の絵画めいた姿の内側で、最近ハマっているゲームの攻略フローチャートを考え込んでいることを。
俺はそいつの考えを読んで笑う。
するとそいつは一瞬、俺を振り返る。
今、私を笑ったわね。
そんなモノローグを幻視する。とんでもねぇ性格で、とんでもねえ推測力で、とてつもない被害妄想。けれど当たっているので俺は息が詰まったようになって、ちょっとだけ体が後ろにそれる。
そんなタイミングで教師が俺たちのほうに振り返り、「ここ、読み上げてみろ」と俺を指すもんだから、俺はびっくりして言葉に詰まって、慌ててしまって裏声が出て、そのせいでクラスに笑いが起こって、あいつも、溜飲が下がったみたいに柔らかく微笑む――
そんな、夢。
記憶をアイテム化して取り出された俺の中にも記憶が残っていたらしかった。
その残滓をたどるうちに、俺はだんだんと俺のことを思い出していった。
俺はどうやら、かけがえのないものを失ったらしい。
でも、夢のようにぼんやりとしか、そのかけがえのないもののことを思い出せない。
世界は相変わらず魔王と人類の戦いが起こっていた。
俺の人生は魔王とあまり関係のないところで続いていった。
魔王はずっと君臨し続けて、しかし侵攻をしてくることはなかった。
モンスターがそのへんをうろうろしていることを『侵攻』とみんなは言うけれど、モンスターはわりと自由にうろつくものだという認識が、いつのまにか俺の中にはあった。
俺が老いて死ぬぐらいの時間が経過しても世界は大して変わらない。
永遠に同じ文明レベルで停滞し続ける剣と魔法のファンタジー。世界はちょっとばかし不便に思えるけれど、それだけだった。
晩年の俺はキリコのことばかり考えていた。
はっきりとは思い出せない。前世の知り合いだ、という話も聞き流していた。もっとしっかり話し合っていればよかった、という後悔をする毎日。
「あたしと一緒になった時点でさ、なんかイヤーな予感はしたわけよ。……うん、正直に言いましょう。いや、自分でこんなこと言うのもどうかと思うんだけどね? そうとしか思えないから言っちゃう。アンタはさ――」
――選択を間違えたんじゃない?
長年連れ添った恩人であり妻でもある女性からそう言われて、瞬間、雷に撃たれたような衝撃が走った。
どういう意味かはっきりしたところはわからなかったけれど、『選択を間違えた』という言葉には、深く、深く深く深く、腑に落ちるものがあった。
「あたしより、あの子を助けるべきだったのかもね」
それは寂しそうで、けれど、自信満々な言葉だった。
こいつの言動にはいちいちそういう、無駄な自信というのか、未来でも知っているかのような確信というのか、そういったものがあった。
俺はつい、「なにを知っているんだ」と問いかけた。
そいつは答えた。
「そりゃあ、一個先の世界ですよ」
わけのわからないことを言うやつだった。その答えもまた、何度か告げられたことがある、『いつもの、冗談みたいな解答』だった。
でも。
俺は――この周回の俺は、もっともっと、彼女たちの発言に真剣に耳をかたむけるべきだった。
彼女のことを思い出す。
キリコやエイミーと同様――俺が、救いたくって何度も人生を繰り返す要因となった、最新の世界ではもう死んでしまった、彼女のことを。




