海のノクターン
忘れているなら忘れたままでいて欲しい、それは紛れもない本心だった。
フィリはワンピースの裾をはためかせながら翔太郎と出会った浜を歩いていた。本当はだめだと、大人たちから口酸っぱく言われているのだがフィリは夜の海が好きだった。静かな波音と空を覆う無数の白い光がなんとも心地よかった。
ふと、あの夜もこんな感じだったなとフィリは遠い過去を思い出していた。
水棲馬、否、アッハ・イシュカの癖に自分を喰わず、あの日の夜も大人たちに囲まれながらフィリに、名もなく世界に捨てられていた自分に逃げるよう言ったあの優しいアッハ・イシュカ……。
生まれ変わった姿で再会できるとは思ってはいなかった。散歩がてら砂浜を歩いていた時、物思いに耽っているあの男の姿があの夜と重なってなんとなく声をかけた。声をかけて少し話そうかなと思っただけなのだ。そしたら、真逆、あの人だったなんて、なにかのイタズラか?と思った。
ただ、流石に記憶はないようだが、あの優しい声や瞳は変わっていなかった。
「本当、神様ってのがいるなら神様のいたずらなのかなぁ」
と、海に向かって呟いた。返事なんてない、ただの独り言になるはず、だった。
「神様のいたずらじゃなくて運命だからじゃない?」
フィリは後ろから聴こえた懐かしくも優しいあの声がしたことに驚き振り返ると、暗闇からひとりの男が歩いてきた。
「なん、で……」
「さぁ?なんでだろうね?」
と、にっこり笑いながらこちらに向かって来る男を見つめた。少し明るめの柔らかそうな、茶色い髪と健康的な色をした肌。いわゆる正統派イケメンと呼ばれるような顔立ちとゆったりとした服を着ていてもわかる、スタイルの良さは夜の海でも十分画になる。
「来るな、て、言ったのに、なんで来たの、翔太郎……」
「あんな顔で来るな、って言われても、説得力ないよ?」
いつの間に側に来ていたのか、翔太郎に優しく抱きしめられていた。
「ごめんな……」
翔太郎は小さくそう呟いた。フィリは頭の処理が追いつかずその意味が分からなかった。翔太郎はそんなフィリの様子を苦笑いを浮かべながら優しく頭を撫でた。
「俺、さ、全部思い出したんだ。自分の前世のことも、フィリのことも」
「嘘……だって、あれは……」
「この地に纏わる伝説の元の話は、俺たち、いや、前世の俺たちなんだろ?」
「どう、して、それを」
途切れ途切れながらも何とか紡いだ言葉はちゃんと届いたらしく、優しく笑いながら彼は全てを話した。物心着いたあたりからずっと見ていた夢の話、そして、その夢がなんなのか知るためにここに来たこと。浜辺でフィリが立ち去った後、フラッシュバックするように前世の記憶が戻り、夢が自分の前世で少女の正体がフィリだと気づいたこと。
「ずっと忘れてて、いや、待たせてごめん」
「翔太郎?」
「好きだよ、フィリ。今も昔も」
「ばかぁ……」
フィリはひたすら翔太郎の腕の中で泣きじゃくった。嗚呼、なんて、私は幸せ者なんだろう、と本気で思った。もう会えないと思っていた相手とまた、心を通わせ、一緒にいられるなんて。
そっと顔を上げると翔太郎は優しく微笑みかけ、そして二人はそっと目を閉じどちらからともなく優しく口付けた。