表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽善者  作者: 灰庭論
第一部 小説
9/20

滑川豊 (なめかわ ゆたか)

 悠木君とお金について話したことは一度もない。借りたこともなければ、貸したこともなかった。だから悠木君が介護施設から帰って来てから、実際に先生から報酬として千円を受け取ったことは本人の口から聞いているが、それがどのように使われたのかまでは把握することができなかった。また、それは僕にとってどうでもいいことだと考えていたので、積極的に尋ねようとしなかったというわけだ。

 いくら僕がはしたない人間だからといって、人の財布の中身までのぞくようなことはしない。それはスーパーのレジに並んでいる人の、前の人の財布をのぞき込む、あのなんともいやらしい顔を何度も見たことがあるからだ。それを目撃してから、僕は人の財布の中身をじろじろ見ないように気をつけた。さり気なく見るような真似もしない。それもせせこましいように見えるので、自分はやらないように注意をしているのである。

 そういうことで、僕は悠木君がボランティアの報酬をどのように使おうと気にしなかったのだが、僕が気にしなくても、滑川は執拗に悠木君をからかうのだった。


 ある時、売店に並んでいる悠木君を見つけて滑川はこう言った。

「悠木、いや偽善者、おまえボランティアして稼いだ金でパン買うのか? パン買う金があったら、貧しい奴に恵んでやれよ」

 悠木君の耳に、その声は確実に届いているはずである。それでも悠木君は、その声に反応することなく、目を合わせず、言い返すこともせず、ただ黙ってパンを購入するのだった。

 おそらく滑川の言葉に間違いはないのだろう。世界には貧困があり、貧しい者にパンを恵むことは尊い行いである。それなのに僕は、滑川の言葉に悪意を感じた。子供が持つ正義感による裁きではなく、正義を盾として、それを悪用した人工的な悪意である。ただし、それを悪意として認識できるのは第三者だけで、滑川自身は正義を疑っていないと推察される。それが僕の考える二項対立の限界だった。

 つまり滑川自身は、間違ったことを言っているつもりはないということだ。この世に矛盾のない絶対悪というものがあれば、滑川の正義が悪意に変化することはない。しかし現実はリバーシの白黒の駒のように、善と悪が背中合わせにひっついて、それが一つの個体として存在している。盤上の駒はもれなく白黒で、一つとして例外はない。それがとても厄介なことのように思えてしまう。

 リバーシは、始めに盤の中央に白と黒の各二つの駒が置かれ、ゲームが始まれば駒は増え、それが何度も白黒ひっくり返る。しかし盤上の四隅に置かれた駒だけは、絶対に途中でひっくり返ることはないのだ。白なら白、黒なら黒で、ゲームが終わるまで色が変わることはない。

 僕は、そこが非常に厄介に思えてならなかった。ほんの一握り、たった四つだけ最後まで戦況に流さない駒があるのだ。単純に世の中をリバーシに例えるなら、多くの者は流れの中で何度も裏表に転じるが、中には決してひっくり返らない者もいるということである。また、その四隅の駒が命運を握り、ゲームの行方を左右させるのだから困ったものである。

 僕も滑川も四隅に置かれるような駒ではなく、流れによって白と黒が何度もひっくり返るような人間だ。言っていることと、やっていることが違っていたり、意見をコロコロ変えたりするのが特徴で、芯もなければ筋もない、そんな人間である。

 そのような信念のない滑川だが、悠木君に対する人工的な悪意をひっくり返すのは難儀である。なにしろ滑川が批判する際に口にした偽善者という言葉は、滑川にとっての正義の言葉だからである。そこに悪意の認識はない。認識がなければ改心は困難だ。

 それに滑川の場合、認識していないどころか、自分の言葉に酔っている可能性すらある。つまりは正義の名のもとに、人を裁く快感に浸っているということだ。ヒーローが悪者をやっつける爽快感に近いだろうか。悪い奴を倒すのは痛快で、それは僕も同じように感じることができる。勧善懲悪が娯楽として成立していた時代があったように、そこには分かりやすい興奮作用が存在しているからだ。


「パン買う金があったら、貧しい奴に恵んでやれよ」

 その言葉を、滑川は気持ち良さそうな顔をして言った。

 これが本当に正義なのだろうか?

 思わず「だったらおまえが恵んでやれ」と言い返そうと思ったが、悠木君が黙っているので、僕はその言葉を腹に抑え込むことにした。

 それに滑川のこと、僕がそう言ったら「じゃあおまえもやれよ」と言い返すに決まっている。それで僕が「おまえがやったらな」と言って、滑川が「いや、おまえが先だ」となる。それで僕が「おまえの方が先に言ったろ」と言って、滑川が「真似すんな」と言う。このように僕と滑川が言い争いをしたら、それくらい幼稚な会話しかできないのである。

 滑川という人間は、喜瀬がいなければ自分で言葉を抽斗から出すことができず、相手の言葉尻を捉えて揚げ足を取るか、バカみたいに同じことを繰り返すしかできない人間だ。それは僕もその程度の会話や言い争いしかできないのでよく分かるのだった。

 誰かが話を展開してくれないと先に進めないので、僕と滑川だけでは同じ話を延々とすることになり、まさに堂々巡りにしかならないのである。それを僕は小学生の頃から何度も似たような経験を繰り返していたため、僕と同じタイプの滑川との会話は大体の想像ができるのだった。

 それでそういう奴と会話をした時は、決まって寝る前に、あの時ああ言えばよかった、などと考えるのだ。いつだって地球が半周してくれないとモノを考えることができないのである。

 それと会話が通じない人がいる。真面目に反論するのが嫌になる人のことだ。こちらが何か言っても、相手には言い訳にしか聞こえず、まともに話を聞こうとしないのである。

 話し合いをしようとすると、すぐに逃げられ、気がつけばいつも取り残される。また話し合いはしないくせに、捨て台詞だけはべらぼうにうまいから性質が悪い。

 その捨て台詞にしても、ちゃんと保険を掛けてあったりするから悪質だ。それを象徴するかのような滑川の言葉がある。そう、会話が通じない人というのも、滑川のことだ。


「悠木、安心しろ。偽善者はおまえだけじゃない。先生も偽善者だからな。そう、喜瀬君も言ってたよ」

 最後の部分。

「喜瀬君も言ってたよ」

 ここに滑川の性格がよく表れていた。自分の言葉に説得力を持たせるために、他人の名前を無断で借用し、自説を補強する。いや、自説を補強するために他人の言葉を引用するのは何も悪くはない。悪いのは、滑川のように引用元の真意を汲み取らず、自分に都合よく乱用することにある。滑川にとって、言葉の前後にある脈絡などどうでもいいことなのだ。

 これが自分の言葉を持たない人間の特徴であり、他人を平気で利用する人の悪癖でもある。こういう発言をする人はもれなく無能であり、人の意見に流されやすい人間でもある。ちなにみ僕の口癖は、「みんな言ってるよ」だ。

 悠木君は滑川の言葉がスカスカだとよく分かっているようで、滑川の言葉にいちいち反応するということがなかった。カッとなるのは悠木君の横で聞いている僕の方で、自分が言われているかのように腹を立てた。


「おい偽善者、よくそんな汚い金、持っていられるな」

 しかしながら、僕は滑川の言葉に腹を立てつつ、同時に滑川の言葉が間違っていないことも自覚していた。だからこそ余計に苛立ってしまうのだ。

 ボランテイアというのは自発性と無償性が定義に含まれており、学校の先生が生徒に半ば強制的に参加させるものや、賃金が発生するものであってはならないのである。崇高な理念であるため、教材としていたずらに扱ってはいけないということだ。

 ボランティアで生徒に報酬が支払われるということはもっての他で、こんなことがなければ、僕たち生徒の間で混乱が起こることもなかったのである。学校で生徒にボランティア活動をさせるのならば、無理にボランティアという言葉を使わず、広義に解釈できる地域活動とでも呼べばいいのである。


「よくそんな汚い金、持っていられるな」

 滑川の言葉が、僕の頭の中で反すうした。

 僕は滑川が何百万円もする車で送り迎えしてもらっている姿を目にしていた。よく洗車されたきれいな車だ。それでこざっぱりとした服を着て、きれいなシートの後部座席に乗り込む。お小遣いとしてきれいなお金をもらって、それできれいな買い物をする。こまめに散髪しているのか、長めの髪がいつもきれいに切り揃えられていて、シワ一つないきれいなホワイトシャツに身を包む。


 心から、羨ましいと思った。

 それは金持ちになりたいという単純な理由ではない。お金に対してきれいな感情を持てる、滑川の純粋さが羨ましいのだ。ひがんだり、いじけたり、ねたんだりせず、お金に対してこずるく、歪んだ考えをしない滑川が、心底羨ましかった。

 実際に滑川がお金に対してどう考えていたのかは分からないが、人に対して「よくそんな汚い金、持っていられるな」と言えることに、僕は人生の余裕を感じるのだ。

 親の財布から金を盗んだことのある僕には、絶対に口にできない言葉だった。両親に見つからず、誰もそんなことは憶えていないだろうが、僕が盗みをしたことは、一生消すことができないのである。だから僕はお金に濁った感情しか抱けず、一生きれいなお金は巡ってこないだろうと、悲観的に考えるのだった。


 中学時代にクラスメイトだったK君の家がお金持ちだった。

 父親が会社の社長で、大きな家に住んでおり、友だちが多い子で、ふっくらした見た目と同様、明るくて大らかな性格をしていた。K君はよく家に友だちを招待していたが、あまり教室で話をしない僕まで誘ってくれて、いつもは遠慮するのだが、好奇心が先立ち一回だけお邪魔したことがあった。

 まずリビングの壁紙の白さに驚いた。バニラや日焼けしたノートの白ではないのだ。それはまぶしくて目が痛くなるような白さだ。僕はこれまでくすんだ色の壁紙しか見たことがなかったので、息がつまる思いをしたことを憶えている。

 見るからに高そうな望遠鏡、価値がまるで分からない骨董品、全自動の麻雀卓、洋酒のコレクションなどは、映画やテレビで見るお金持ちそのものだった。

 僕がお邪魔した時はK君のお父さんもいて、気持ちよく歓迎してくれたのを憶えている。日曜日だというのに服装がおしゃれで、話しぶりは気さくだけど、それが馴れ馴れしいものではないのだ。生意気な言い草かもしれないが、それは子供の目でも、もてなし方やコミュニケーション能力の高さが理解でき、つまりひと目で尊敬できる人だと感じさせるものだった。


 K君の周りには、とにもかくにも、よく人が集まった。

 それはK君の人の好さというのもあるけれど、でも僕の目にはどうしても人が群がっているようにしか見えなかった。

 K君と遊べば新しいゲームで遊ぶことができたし、お菓子でもアイスでもなんでも奢ってもらえる。K君も友だちに奢って偉そうにしたり、顔をしかめたりすることもなく、みんなと楽しくしていることに喜びを感じているように見えた。

 K君の周りにいる友だちにしても、かわいい下心はあっても、とことん利用して、たかってやろうと考えていた人はいなかったはずである。僕はほとんどK君と遊ばなかったけど、K君の元から人がいなくなるということはなかった。

 僕はK君のその姿を見て、お金持ちの家に生まれるのも大変だと思った。僕だったら、自分に群がる人間をゴミのようにしか思えなかっただろう。時にほくそ笑み、時に辛辣な言葉を放ち、時に心の中で見下す。そんなことを考えてしまう僕だから、お金持ちの家に生まれなかったのは、それはそれで理にかなっているとも言えるわけだ。どう考えても、僕は富を継承する人間に相応しくはない。

 だからといって富を放棄するとか、お金に無関心、また無頓着だったという訳ではない。むしろ逆で、僕ほどお金に執着している人間はいないと思っている。「世の中は金じゃない」とか、「金で買えないものがある」とか、そんなことを思うには思うけれど、それが本心じゃないことを自分がよく知っているのだ。

 僕は人一倍お金に執着しているのに、それを表に出さないように努めてきた。小学校の卒業文集に、将来の夢として、お金持ちになりたいと書いていたクラスメイトがいたが、僕はそれを見て、その正直さに胸を打たれたのだ。

 僕はといえば、お金が欲しくて欲しくてたまらなかったのに、それを隠して嘘を並べるのだから、どちらが素直な人間であるか一目瞭然である。そんな僕は、清貧とか、慎ましいとか、聞こえのいい言葉を見つけては、それで自分を慰めることしかできなかったのである。

 それとK君が、給食に好き嫌いがあるというのも羨ましかった。僕は出されたものを残すことができず、食べ物を残すことに罪悪感が生まれるのだ。

 それは一般的には褒められることかもしれないが、常識的に考えて、三十人以上いるクラスで身体が大きい人も小さい人もいるのに、それで同じ分量を残さず食べさせるというのは無理があるというものだ。

 これは結局、給食のメニューですら標準というものがあり、その標準に三十人以上を揃えてしまおうというところに無自覚な意図が透けて見えるが、それは穿った僕の考え方に基づく感想であり、実際は必要摂取カロリーを考え、よかれと思ってやっていることなので、自分の考え方を肯定しようとまでは思わないようにしている。

 人目には食べ物を粗末にしない人や、もったいないの気持ちが分かる人に見えるかもしれないが、僕にはそれらが自分を小さくしているとしか思えないのである。

 そうして牙を抜かれ、草しか食べられない人間になり、「わたしたちは優しい人間ね」って、勝手に仲間意識を持たれる。本音は肉が食べたいのに、食べようと思った時には、牙が一本も残っていないのである。

 そのうち狩りの仕方も忘れ、狭い草地に追いやられ、食べる草もなくなった時に初めて、自分たちが絶滅することに気がつくのだ。それでも死ぬ間際に「あなたの生活は質素だけれど、美徳に満ちた人生でした」と笑って送られるのだから、おめでたい話ではある。


 どうして僕は滑川が嫌いなのだろうか。

 T君やS君、それに喜瀬のような同級生には悪い感情を持たない。彼らを分かりやすくエリートとしてひとまとめに分類したとしても、鼻もちならない人たちとは思わないのだ。むしろ努力している姿を目の当たりにしているので、邪魔をせずに密かに応援していたいという思いがある。

 ならば滑川がお金に不自由していないから腹が立つのか。

 それもどうやら違うようである。K君に群がる人に悪感情を抱いても、K君自体には何も思わないからだ。むしろ生まれた時から重圧と闘っているように感じられ、想像すると苦しくなるほどである。


 では、なぜ僕は滑川が嫌いなのか。

 おそらくそれは、滑川がエリート崩れを起こしてしまっているからではないかと考えられる。T君やS君が前を向いて上を目指しているのに対し、滑川は後ろを振り返り、下ばかり見ている。上を見るのは、人の顔色や、旗色を確認する時だけである。

 上の者に対するそこそこのおべっかと、下の者に対する陰湿な罵詈雑言の使い分けが見事なのだ。競争は勝てないと思った時点で、すでに競技からリタイヤしている。負けが決まるまで勝負したりしない。最後まで勝負をしていないから、本気を出せばいつでも勝てると思っている。

 しかし現実は逃げてばかりである。それがチャンスから逃げているとも知らずに、どこまでも逃げ続ける。チャンスはいくらでもあった。ちょっと辛抱して、根気よく勉強すればよかったのだ。それなのに努力もせず、虫のいいことばかり考えて時間を浪費させるのだ。

 滑川は典型的なエリートのなりそこないである。チャンスがあり、素質があり、環境も申し分なかった。それにも係わらず怠けたのだ。それで逆恨みするかのように、自分の不運を人のせいにする。

 それは不運でもなんでもないのだが、とにかく弱者を見つけては罵声を浴びせて憂さを晴らす。弱者を罵倒するが、自分もその弱者になっていることに気がつかずに、それでも罵倒し続けるのである。傍から見ると、いびつな構造である。

 さらに滑川について説明すると、僕は滑川が喜瀬の取り巻きであるかのように仲良くつるむのは構わないと思っている。だが滑川がリーダーに従順な人間であるというのは間違いだ。

 喜瀬がつまずいた時に、真っ先に裏切るのが滑川のような男で、つまずいた人間にさらなる追い打ちをかけるようなことをしてしまうのが滑川豊なのだ。一番信用できない、卑怯な人間なのである。結局、僕はそこに自分の姿が重なり、苛立ってしまうのだ。

 よくある話だが、結論として僕は滑川という鏡に自分の姿が映し出されているから嫌いになってしまうのだと思う。人の影に隠れる卑怯さ、状況によって立場を変える狡さ、平気で人を裏切ることができる薄情さ、何もかも自分のことである。だから僕は滑川を好きになることができなかった。

 先ほどから僕は自分を腐した表現ばかりしているが、これは滑川について考えると後ろ向きになってしまうだけであって、常に自己嫌悪に陥っていたわけではない、ということは言っておきたい。あくまで滑川のような奴のことが頭から離れない時だけである。

 悠木君について考えている時の自分は、神々しいばかりに輝いていると思っている。自分が高められ、時に浄化され、またある時は新しい自分を発見する。悠木君のことを考えている自分が、この頃は一番好きだった。

 自分を嫌いになったり好きになったり、この頃の僕は忙しかった。忙しかったといっても、そんなことは寝る前に少しだけ考えるだけで、陽気になったり陰気になったり、僕だけが特別というわけではなく、誰もが似たり寄ったりだと思っている。

 滑川もまた、話し相手によって変態を起こす人間の一人だ。喜瀬と一緒にいる時は、喜瀬の出方に合わせて大人しくしている滑川も、榊と二人きりになった途端、薄ら笑いを浮かべるエリート崩れに身を持ち崩す。そういうところまで僕と変わらないのだった。


 僕は「友だちは選べ」という言葉が好きではなかった。

 それを誰が言っていたのか、どこで耳にしたのか憶えていないが、その言葉にはどこか人を蔑む冷たさがあり、僕は子供の頃から嫌悪感を抱いていた。

 それはまるで自分の友だちをバカにされたように感じられ、胸倉を掴みたくなるくらいの憤りを覚えるのだ。あそこの家の子供とは遊んではいけないよ、そのニュアンスがいかにも差別的で、僕はそれに反発を抱いた。と同時に、その遊んではいけない子供が、実は自分のことではないかと考え、その言葉を聞くたびに悔しくなるのである。

 しかしその言葉が差別的な言葉ではなく、主体性のない自分自身の内面へ向けられた言葉だと理解した時、初めてその言葉を受け入れることができたのだ。

 染まりやすく、影響されやすい。流されやすく、汚れやすい。これらはすべて僕のことである。「友だちは選べ」という言葉は、そんな僕の本質をこれ以上ないくらい見抜いた、的を得た言葉だったのである。

 僕はそれを思い知り、この世には本質を理解していない言葉がたくさんあるんだと気がつくことができた。もちろん自分の理解が、その言葉の本質だとは思っていない。あくまで自分は誤解する人間だと理解したにすぎない。それでも誤解を認識できただけで、ずいぶん視野が広がったと考えることができた。

 友だちは選べとは、自分が選ばれる友だちであれ、という意味の逆さ言葉のようなもので、主体性のない僕のような人間の目を覚まさせるために語感の強い言葉に転用されたのだと思う。

 それに加え、友だちを選んだとしても、己を磨いていないようでは、選んだ友達と話を合わせることができないのだから、結局は自分が選ばれるくらいの努力が必要になる。これは選択の自由の過酷さも含意されているのではなかろうか。

 悠木君との友だち付き合いは有意義だが、対等に付き合おうと思えば、それこそ悠木君と同等の気遣いや心配りを要する。会話のための知識も必要だ。僕にとって選ぶとは、それくらい大変なことなのである。

 厭人的、厭世的に考えることもあるが、僕はやはり何事においても中途半端だから、はたから変人に思われるのは怖くなってしまう。しかし中庸ならまだしも、ふらふらしている半端者だから、結局は白い眼で見られることに変わりはないというわけだ。


 きっと僕と同じだったのかもしれない。

 本当は滑川も喜瀬と対等に付き合いたいと思っていたのではなかろうか。勉強が出来て、スポーツが出来て、二人はライバルだと言われるような。それがどうしても肩を並べることができず、努力することなく、あっさりと諦め、喜瀬の陰に隠れるようになったのだ。喜瀬の前では利口なふりをして、付き合いの楽な榊と一緒の時に本音をもらす。滑川は僕と同じで、常に楽な方に逃げる人間だから、僕は簡単に滑川の気持ちが分かってしまうのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ