喜瀬勇吾(きせ ゆうご)
僕と喜瀬は似ても似つかない、まったく違うタイプの人間である。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、質実剛健、人間を形作る要素のどこを比べても、僕は喜瀬よりも劣っていた。
それでいて僕が喜瀬の考え方に共鳴してしまうのは、僕たちが元々一つの個体で、生まれた時に僕の良い部分がすべて喜瀬に持っていかれたからだと、でたらめに思い込んでいたからである。
それは僕の空想的な思い込みだが、僕にとって喜瀬は、物語の主人公と変わらなかった。妬ましいとか、羨ましいとか、憎らしいとか、それら言葉に出来る感情は、どこか現実感に乏しく、自分の気持ちを正確に言い表しているとは思えないのである。それならまだ、世界が違うという空想的な表現の方が、自分の気持ちに近いように感じた。
これはある種、人気俳優への憧れみたいなものだろうか。いや、人気俳優が演じる学園モノの連続ドラマを観ている感覚に近いのかもしれない。ドラマの主人公に感情移入して、自分をそこに投影して見ている状態のことだ。
それならば僕が喜瀬の意見に共感を覚えるのも説明できる。つまり共感ではなく、なぞるように吸収していたということだ。自分の気持ちと同じということではなく、僕が喜瀬の意見を踏襲していったということだろう。自分の気持ちを的確に言い表してくれている、という感覚のことだ。
喜瀬が主人公で、僕が脇役に回るというのは、いかにも僕らしい発想である。僕は脇役どころか舞台にも立ちたくないと思っている人間だ。主人公なんて、あんなものはなるものではない。批判の的や、嫉妬の対象になるだけの損な役回りだと、僕はとっくに勘づいているからだ。
主役になるくらいなら、まだ外野で徒党を組んで野次を飛ばしている方が、気は楽なのである。もちろんそれは急ごしらえの方便で、自分に行動力や実行力、また、統率力がないことは承知しており、それを誤魔化すために言い訳しているというわけだ。
僕のような舞台に立ったことのない観客は、とにかくいい加減なもので、その主人公が自分の思い描く通りに行動してくれているうちはいいが、途中でそれはないだろうという行動に出ると、作品そのものに興ざめするのである。
勝手に期待して勝手に落胆するという、僕はそんな自分本位な見方でしかモノの価値が計れないため、主人公の行動が理解できないという理由だけで批判してしまうのだ。もし主人公が観客に牙を向けるようなら、僕たちは客席で固まり、集団になって、徹底的に叩きのめすのである。
だから僕は、学園生活の主人公役を喜瀬に押し付けたのだ。しかし喜瀬は僕の思いなど関係なく、自ら学園の主人公になった。これは主人公になったというよりも、自力か他力か、自薦か推薦か分からないが、主人公になる人は主人公になってしまうようである。
その巡り合わせにすら憤りを覚えることもあるが、人から嫉妬していると思われるのも情けないため、主人公が自ら墓穴を掘るのを、物陰でひたすら待つのである。散々持ち上げて、ここぞという時に手の平を返して叩くのは、僕のような卑屈な人間の専売特許である。
自分の説明ばかりになったので、ここでもう少し喜瀬について説明しておくと、いつも洗顔仕立てのような顔をしており、眠そうな顔や苦痛を浮かべる表情は、在学中一度も見たことがなかった。せいぜい自分に苛立って悔しがるくらいで、それも喜瀬にとっては前向きな行動がもたらす表情にすぎない。
背は高すぎず、線が細いという印象を与えることがなかったので、齢十五の男子であっても、たくましさが感じられた。そういう人は身体的にバカにされるという経験をしないので、迷うことなく自信家になることができる。喜瀬に限って、他人を見下すということはないが、同じ目線で会話をするということもなかった。
義務教育課程では発育の平均値を公表していたので、その平均という数値で身体に関して優劣が生まれてしまう。喜瀬などは努力することなく平均値以上を獲得できる部類に入るが、平均値をクリアできない者は、何をどう努力すればいいのかも分からず、年がら年中、身体のことで思い悩むのである。それは身長や体重だけではなく、髪の毛から、顔のパーツ、肌の色から、歯の健康状態まで、一日中、頭から離れないのだ。
その平均値という指標を今さら悪いことだとは思わない。よかれと思ってやっていることが、仇となってしまうのは世の中の常であり、特に僕の人生ではよくあることだからだ。
僕はむしろ平均に埋もれることを望んだので、平均値など物事における数値化はありがたいものだと思っている。つまり平均であることに重きを置いて、平均を良しとする道を自ら選んだということである。
平均値を問題にしないのは僕だけではなく、喜瀬も同じようだ。ただし喜瀬の場合、その意味が極端に異なる。喜瀬にとっての数字は、自己の優秀性をアピールする材料になるからで、モチベーションのことを考えれば、それは燃料と言い換えてもいいかもしれない。使い方は違うが、僕も喜瀬も数値化が必要であることに変わりはないように思える。喜瀬は自己の優秀性を、僕は自己の凡庸性を、どちらも自分に見合った形で、平均値を利用しているというわけだ。
学校の廊下に貼り出されたテストの順位表では、常に一番上に喜瀬の名前があり、卒業するまで、その順位は変わることがなかった。科目別ではたまに抜かれることもあったが、喜瀬を抜いた生徒は継続して順位を保つことができなかったため、実力として評価されないのだ。
出来がいい方の私立高校ではないというのに、なぜか成績優秀者が紛れ込む。割合としては学年に一人か二人しかいないのだけれど、卒業後に喜瀬が国立大に進学したことを思えば、なぜ始めから地元にある公立の進学校や、地元から離れた有名私立に行かなかったのか、僕には理解できなかった。
まぁ、しかし、それも観客である僕の悪い癖で、自分が何でも他人を理解できると思い込んでいるところが、僕の頭の弱さである。貧弱な知識と、脆弱な精神で、微弱な経験しかしていないというのに、どんなことでも自分には理解できると思い込んでいる。
その上、自分に理解できないことは、レベルが低いものとして、笑って扱き下ろすのである。考えてみれば、僕に喜瀬の思考が理解できるはずがないのだ。それでも僕は、観客として主人公に野次だけではなく、唾まで飛ばすのである。頭が回らないから、下品なことをする。モノの道理としては、悔しいほど当たっているというわけだ。
そんな僕から見て、ただ一つ喜瀬に欠点を見出すとすれば、襟首に汗の染みがついたホワイトシャツを卒業まで着古してしまったことが挙げられる。
他のクラスメイトにも同様の染みが見られたが、喜瀬には相応しくなかった。いくら男子校とはいえ、喜瀬には染みのないバリッとしたシャツを着ていてほしかったのである。
男子校ということで無頓着に考えていたのか、やはり喜瀬には、常に完璧であってほしかった。ドラマの主人公はいつもきれいな衣装を着ているので、僕は喜瀬にも、それと同じことを要求したのかもしれない。
しかしこれは、着ているシャツくらいにしか文句をつけることができないということで、いかに喜瀬に落ち度が見つからなかったかという例えでもある。
シャツに染みが見つからなかった場合、落ち度が見つかるまで粘着して、観察を続けていたような気もする。それが主人公に課せられた義務だと、僕は信じて疑わなかった。自分本位であることは承知の上で、観客席にいる以上は、監視しなければ気が済まないのである。
監視はするが、喜瀬と会話をしたという記憶が、僕にはほとんどなかった。悠木君が偽善者ではないことを、僕の口から弁護しようと思っていたが、当時の僕には、喜瀬と話し合うだけの言葉を持ち合わせておらず、自分の弱い頭をさらけ出すだけだと思い、尻込みしてしまったからである。羞恥心の薄れた今ならば、なんの抵抗もなく喜瀬と話すことができただろう。
そういうこともあり、喜瀬は誤解したままボランティアから帰って来た悠木君を、翌日以降も偽善者と呼び続ける結果となってしまったのである。これは悠木君を理解できなかった喜瀬にも非はあるが、それを知っていて何もできなかった僕に責任の大部分があると思っている。早い段階で誤解を解いておけばよかったのだ。
喜瀬と悠木君がボランティアについて戸口で話をしていたが、僕は口を挟むことができず、ただそれを寮部屋の隅で黙って聞くことしかできなかった。
「オレは偽善まる出しのボランティアが嫌いなんだ。個人が自発的に行動を起こすまで強制してはいけないと思っている。付き合いでやっているうちにボランティア精神が芽生えるなんて嘘だね。そんなのはただの同調者だろ。やっている中身より、活動している自分に酔っているんだ。そういう奴はもれなく他人を見下すよ。結局みんな優位に立ちたいだけだからな」
相変わらず喜瀬の言葉は、まるで僕が考えていることを代弁してくれているようだった。頭をのぞかれている、もしくは僕を肯定してくれているという、奇妙な錯覚を起こす、ぴたっと嵌まるような快感である。
「ぼくはお手伝いをしに行っただけだよ」
それに比べて悠木君の応対は拙い。言葉数も足りず、説明しきれていないのである。とても喜瀬と同い年とは思えなかった。
「で、満足なんだろう? それは自己満足といってな、自己満足のうちならまだいいけど、そのうち何もしない人間を冷たいと思うようになるんだよ。それでおまえも先生と同じように、ボランティアを他人に強制するようになる。そこまでいったら、他人のためのボランティアではなく、冷たい人間にムチを振り下ろすための道具に成り下がるんだ。おまえもそのうちそうなるよ」
僕が言葉にできない気持ちを、喜瀬はいとも簡単に言葉へと変換してしまうのだった。
それには驚くが、ただし、喜瀬はその言葉を使う相手を間違えている。それは悠木君であってはならないのだ。頭がよく回る人は、勘違いするスピードも速い。
「ぼくはならないよ」
悠木君はまだ何か言いたそうだったが、それ以上、言葉にできない様子だった。必死で言葉を見つけようとするが見つからず、結局は口ごもってしまうといった有様だ。
喜瀬も悠木君の言葉を待っているようだったが、しびれを切らして、自分の話を優先した。
「駅前で募金活動をしている姿を見て、オレはいつも考える。財布に募金できるだけの余裕がある人間はいいが、金に困ってる奴はどう思うだろってな。募金して気持ち良くなれたり、募金できることに感謝したりできる人間がいて、方や、募金ができなくて、甘いお菓子を買うことにも後ろめたい気持ちになる人間がいる。金持ちは募金で徳を買えて、貧乏人は募金で罪悪感を抱える。こんな逆さまな世の中ってあるか。誰々はいくら寄付しましたって、金額を競うようになったらお終いじゃないか。本末転倒とは、このことだよな。権力の道具になっているのが、どうして分からないんだ」
思えば、喜瀬の言葉の一つ一つが、その後の僕の言葉になっていたんだと、今さらながら考えてしまう。喜瀬は間違いなく僕の人生に影響を与えた。
「誰も、募金しない人を悪い人だなんて思わないよ」
そりゃ悠木君は思わないだろう。だから、喜瀬は話す相手を間違えているのだ。喜瀬が懸命になって突いている正義の矛も、悠木君の正義の盾が相手では居抜けない。お互いにやり合う相手を取り違えているのだから、会話が噛み合うはずがないのである。
「おまえがこの先、いつまでも悪く思わないでいられる保証はない」
喜瀬は、何がなんでも悠木君を否定するつもりのように見えた。きっと悠木君が喜瀬の意見に同意しても、もうそのまま素直に受け取ることはないだろう。それが喜瀬の強固な信念でもあり、頑固なところでもあった。それくらいの頑固さがなければ、強固な信念を築けないということでもある。
「俺だって、何もボランティや募金が悪いと言っている訳じゃないんだ。一部の人間だよ。ボランティアを食いものにして、売名行為に利用しているのはな。ボランティアに参加しない人間を、まるで冷たい人間のように見る、俺は、あの人を軽蔑した目が嫌いなんだ。衣食が足りるまで、待てばいいじゃないか。子供に強制してまで、洗脳させる必要があるのか? 俺だって自由になる金があれば、募金だってするさ。だけど強制は断じて、させない。させてたまるか」
僕は喜瀬の考えに同意する。
しかし、だからといって喜瀬が絶対に正しいとは思っていない。結局、喜瀬にしても僕にしても、この段階では口だけだからだ。いくら己の正義感でエセ・ボランティアを批判しても、行動が伴っていなければ説得力に欠ける。それは何もしていない僕が言うのだから間違いない。
要は、喜瀬も人を裁く道具としてボランティアを利用しているにすぎないのだ。つまり他者を偽善者と批判するために、エセ・ボランティアを非難しているということであり、本当に批判したいのならば、まずは行動が先にこなくてはいけないということだ。それが傍目八目で見ている僕には、よく分かるのである。僕の言葉には中身がなく、軽いのは、そういった理由に起因しているというわけだ。
「おまえ、先生から金を受け取ったのか?」
喜瀬の問いに、悠木君がこくりと頷いた。
「おまえ、やっぱ偽善者だな」
その指摘には、何も反応しない悠木君だった。
僕は、ここだと思った。
悠木君が偽善者ではないことを説明するのは、この瞬間しかない。
それなのに、僕は何も言えなかった。横から口を挟むことができず、黙って悠木君のそばに突っ立っているだけ。それどころか、喜瀬に感知されないように、存在を消していたのだ。
情けないが、それが僕のありのままの姿である。目の前に間違ったことがあり、自分が訂正できる立場にいるというのに、僕は何もできない、何もしない人間だ。
「オレはボランティア活動やチャリティー・イベントで金を稼ぐ奴らが許せない。人の善意で儲ける奴は最低だ」
糾弾する時の喜瀬の話し方は冷たい。でも、その冷たさに僕は彼の熱い思いを感じた。
「人の善意で家を建て、群衆にアピールして名声を得る。そんな奴らは人間のクズだ」
喜瀬がじっと悠木君を見つめる。
「悠木」
うつむいていた悠木君が、喜瀬を見上げる。
「全部おまえのことだよ」
名指しされた悠木君が、またしても泣きそうな目をした。
それを見ても僕は、喜瀬に何も言えなかった。
喜瀬は言いたいことを言い終えたのか、それ以上は口を開かず、自分の寮部屋へと戻っていった。
結局、悠木君は喜瀬に何も言い返せないまま話を終えた。
僕と会話をする時のように言葉が出てこないのは、それはそれで仕方がない。偽善者呼ばわりされて言い訳すら思い浮かばないのだから、それこそ悠木君が偽善者ではないと証明したとも受け取れる。喜瀬はどう理解したのか定かではないが、僕には悠木君が偽善者ではないと確信できる会話だった。
それともう一つ確信したことがある。それは僕が大切な友だちを守れない男であるということだ。友だちが同い年の同級生から冷たいことを言われても、僕は何もしなかった。悠木君が誤解されていると知っていても、それを釈明しようともしない。
果たして、僕ほど意気地のない人間が、この世に二人といるだろうか。世の中で、これほど卑怯な人間はいないだろうという人間が、僕だった。この発見は、さすがに自分でもショックだった。
悠木君のことを一生ものの出会いだと感じているのに、その友だちがあらぬ批判を受けても知らんふり。僕は喜瀬に教えたかった。人間のクズは悠木君じゃなくて、その後ろで息をひそめている、この僕だよって。
喜瀬は何も間違ったことを言っていない。正論すぎるほど正論だった。でも肝心なところを間違えている。それは言う相手を取り違えているのだ。偽善者の批判を受けるのは僕でなければいけない。僕こそが何もしない傍観者であり、薄ら笑いを浮かべた善人の仮面をつけた偽善者である。
喜瀬が部屋を出て、僕と悠木君は二人きりになった。いつもニコニコしている悠木君も、この時ばかりはさすがに元気がなかった。
「ひどいな。もう少し言い方とか考えればいいのに」
本人がいなくなってから、僕は喜瀬に対する文句を言った。今さらだけど、喜瀬を悪く言えば、悠木君の気持ちが少しでも楽になると思ったからだ。そこら辺も、いかにも性根の腐った人間が思いつきそうな思考回路になっているというわけだ。
「喜瀬だって、自分では何もしていないクセにさ」
「やめよう」
悠木君が白うさぎのような顔をして僕を見る。
「ここにいない人の話はしたくない」
まるで僕の浅い気遣いが見透かされたかのように、話を止められてしまった。
「シュウ君の気遣いは嬉しいけど、喜瀬君のことを悪く思いたくないんだ。喜瀬君は、ぼくと真剣に向き合ってくれたんだもん」
なんていうことだろう。悠木君は喜瀬に偽善者だと罵倒されたのに、僕による喜瀬に対する批判をかばってしまった。悠木君はどこまで人がいいのだろうか。これでは「お」がつくほど人が好すぎる。
「ぼくね、シュウ君の、人の悪口を言わないところが好きなんだよ。これまで一度も人の悪口を言ったことないもんね」
悠木君がきらきらした顔で僕を見る。そのまぶしい眼差しに、僕は居た堪れない気持ちになった。
「ぼく、人の悪口を聞くと、すごく気分が悪くなって、すごく悲しくなるから、シュウ君が人の悪口を言わない人で、本当に良かったって思ってるんだ」
僕は悪口を言わない人間ではない。悠木君の前では、良いことは口にしても、悪いことは口にしないようにしているだけだ。それは悠木君が人の悪口を言わないから、そのスタンスに合わせているだけである。つまり悪口を言わないのは僕ではなく、悠木君の方だということだ。
その日の夜、僕は小学校四年生の時に東京から転校してきたクラスメイトのことを思い出した。
T君が初めて登校してきた日の朝は忘れられない。
一週間以上洗濯していない上下のジャージ姿の僕の前に、よそ行きの洋服でT君は現われた。その姿を見て、僕はなぜだかひどく恥ずかしくなってしまったのだ。学校の教室なのに、まるで散らかった家の中で平然と暮らす生活を見られたかのような、そんな気恥かしさである。
坊ちゃん刈りがとてもよく似合っており、それが決してバカにされるものではなく、シャツの上に着たベージュのベストと髪型がうまく調和していた。床屋でスポーツ刈りしかしたことがなく、一年中ジャージ姿で登校する僕たちクラスメイトの男子とはまるで毛色が違うのである。
転校生だというのに、T君には臆したり緊張したりする様子は一切見られなかった。すました顔で自己紹介を済ませると、しゃんとした姿勢で椅子に座るのだった。テレビで見る東京の人よりも、ちゃんとした東京の人のように見えたのを今でも憶えている。
利発な印象通り頭が良く、転校初日から授業に戸惑う様子が見られないことから、クラスに上級生が紛れ込んだかのような錯覚さえ覚えた。もうすでに教科書の内容をすべて知っていて、それを授業で確認しているだけのような、実に退屈そうな態度である。それは怠惰な僕が感じる退屈さではなく、単純作業を強いられているかのような退屈さであった。僕はヨレヨレの背広で授業を行う先生にも気恥ずかしさを覚えてしまった。
僕はそんなT君に気後れしてしまい、僕の方から直接T君に話し掛けることはなかったが、他のクラスメイトは平然と接するのだった。話し掛けられた方のT君も自然に会話をしており、男女によって接し方が変わるということもなかった。僕は平然とT君に話しかけることができるクラスメイトにも気恥かしさを覚えた。
この気恥かしさは一体なんなのだろうか。
別にT君が僕たちをバカにしたように見ていたわけではなく、僕が一方的にT君の視線や、T君が僕たちを見て、どう感じるかを気にしていたのだ。
これは僕の中にある偏見なのだと思う。都会から来た、いかにも都会っ子らしい洗練されたT君と出会って、僕が田舎に住む人間に気恥かしさを感じたのだ。T君が田舎に住む僕たちに偏見を持っているのではなく、僕が田舎に住む自分たちをバカにしたということである。
大人になってから、T君のように洗練された人は、東京でも珍しいということを知ることになるが、小学生の僕にはT君こそが首都東京を映す鏡であり、人としての鑑でもあった。
T君との忘れられない思い出がある。
当時、僕は放課後になると日が暮れるまで公園で野球をしていた。人数が揃えば試合をして、人が集まらなければホームラン競争をする。たまに上級生に占領され球拾いをさせられる時もあれば、遊具で遊ぶ下級生に球拾いをさせたこともあった。野球に飽きればサッカーをし、サッカーに飽きれば裏山で遊ぶ。あの頃を思うと、遊ぶことよりも、誰かと一緒にいるということの方が目的だったのではないかと考えられる。
ある日、僕たちはいつものように公園に集まる約束をして、そこで転校してきたばかりのT君を誘ってみようと誰かが言い出した。さっそく僕たちはみんなでT君の元に向かって、公園で遊ぼうと声を掛けた。
「ぼくはいい。遊ばない」
僕たちは、T君にすげなく断られてしまった。
その時のT君の気持ちは、おそらく僕には一生理解することは不可能だと思う。表情からも気持ちを読むことができなかったからだ。僕たちはガッカリしたが、T君が同じようにガッカリしていたかは分からない。ただ、T君の背負った黒いランドセルがやけに重そうに感じたのは今も忘れられない。
それ以来、僕たちは放課後にT君を誘うのをやめた。これはT君を仲間に入れないということではなく、T君の邪魔をしてはいけないと思ったからだ。クラスメイトの男子はみんなそれを察していた。学校生活では他のクラスメイトと同じように接するが、放課後は接点を持たない。僕たちは自分たちでルールを決め、それを忠実に守る子供だった。
五年生に上がってT君とは別々のクラスになったが、時々見かけるT君は、やはりいつもきれいな洋服に身を包んでいた。
それから中学に上がって、T君が小学校卒業時に地元を離れたことを知った。
中学卒業時が顕著だが、頭のいい人はみんな地元を離れる。札幌に進路を合わせ、未来へと歩いて行くのだ。僕はいつもそういう人たちの背中を見つめる側の人間だった。僕の前には常に人の背中があり、周りからどんどん人がいなくなり、それを一人勝手に取り残されたと思い込むのだ。
そんな僕にできることといったら、追いかけることではなく、せめてそういう人たちの邪魔をしないと心に誓うことくらいで、悪く思うのではなく、羨ましがるでもない、ただただ邪魔をしてはいけないと思うのである。
ちょうどT君に見つめられて目を伏せた時のように、自分を恥ずかしく思って遠くから見送る。そして、見送ったことにも気付かせないように、さよならするのだった。
地元を離れる人の中には、何度も後ろを振り返る人もいた。誰よりも数字に強かったS君である。親元を離れて有名進学校に行くことに不安を抱え、合格が決まったというのに冴えない顔をするのである。
そんなS君を僕たちは励ましたり、応援したりしない。S君には僕たちの応援なんか必要としないからだ。S君が誰よりも優秀で、誰にも負けないということを僕たちは知っている。それほどの人に僕が声援を送ってはいけないのだ。
僕たちがしたことといえば、残された時間の中で一緒に遊ぶくらいで、言葉を掛け合うことは一度もなかった。それから別れらしい別れの挨拶もなく、僕たちは別れた。
田中君も佐藤君も、元気でやっているだろうか。
二人と別れた後も、僕は相変わらず人の背中ばかり見ていた。
人の顔色を窺う時は決まって遠くからで、いつもは人の背中の陰に隠れているのが常である。どうしたら目立たないか、いかにして見つからないか、考えることは後ろ向きなことばかりで、息を殺すように生活していた。
中学生になって、反抗期らしい反抗期を迎えることもなく、挨拶をされたら、挨拶を返し、人から話し掛けられたら、それに応じる。挨拶や話し掛けてこない相手には、こちらから一切声を掛けない。相手の出方に合わせて、鏡のように相手と同じような動作をするのだ。たとえ目立ちたいという願望があっても、想像だけで済ますことにしていた。
いや、僕はまたいつものように嘘をつくところだった。
僕が目立ちたいという願望があって、それでも目立つことができなかったのは、単純に自分にそれだけの力と勇気がなかっただけである。それをあたかも、目立とうと思えばいつだってできた、というニュアンスを含ませる書き方をしてしまうところに、僕の高すぎる自尊心の存在がある。それは努力しない人間には分不相応の心持ちだ。
僕はあらゆることから逃げ隠れしたことを、あたかも一大事であるかのように大袈裟に表現している。それは浅知恵しか考え及ばない僕が、よくやりそうなことだ。要は勉強もせず、怠けるだけ怠け、それでいて人気者になりたいと思うのが僕であり、周りの目に怯え、プレッシャーに耐えられず、プライドだけを大事に抱えている自分を誤魔化そうとしているだけである。
大人になってから都合よく辻褄を合わせるのは、歴史の改ざんならぬ、半生の改ざんに他ならない。嘘で塗り固め、少しでも自分をよく見せようとしているというわけだ。手っ取り早く自分を立派に見せようとするのは、いつも安易な道を選ぶ僕らしいやり口だ。他人に見栄を張るだけではなく、自分自身にさえも、過去を作り変えて、誤魔化してしまう。
イソップ寓話のオオカミ少年と似たようなものだ。嘘をつき続けるうちに、本当の自分を見失う。自分探しをするならば、嘘をつかない自分であらねばならないということだ。
なぜ僕がここで内省したかというと、それは僕と同じように、人の背中ばかり見ている人間を見つけたからである。いつもリーダー格の喜瀬の背中に隠れて、喜瀬が喋り出すまで自分から言葉を発そうとしない。喜瀬の言葉を待ってから、その言葉尻に乗っかる。つまり世の中で一番汚い男のことである。
大事な場面では姿を隠し、極力責任から逃れようとする男。都合のいい言葉だけを抜き出し、自分を正当化しようとする男。なんのためらいもなく、容易に手の平を返すことができる男。力のある人間には媚びて、力の持たない者には平気で罵声を浴びせる男。そして、この僕にもっとも似ている男。それが滑川豊である。