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偽善者  作者: 灰庭論
第一部 小説
7/20

ボランティア

 遠足の翌朝、目を覚ますと身体が気怠かった。どうやら風邪をひいたのは悠木君ではなくて、悠木君に注意していた僕の方だったというわけだ。

 それでもその日は、いつも通りに授業を受けて、気力で乗り切ろうとしたのだが、午後になって熱っぽくなり、これでは悠木君に迷惑を掛けることになりそうだと思い、風邪をひいてしまったことを自己申告することにした。

 その日から大事をとって、僕は寮部屋とは別の療養室で休むことになった。熱は翌日には下がり、あとは鼻水が出る程度だったが、念のためにと五日間その部屋で生活をするようにと指示を受けた。授業を休んだのは丸一日だけど、その間も悠木君は療養室に見舞いに来てくれていたので、顔を合わせない日というのはなかった。

 療養室で休んでいる僕に、悠木君はこれで汗を拭くようにと、濡れタオルを用意してくれて、それで手の届かない背中を拭いてもらい、自分の母親にもやってもらったことがない、その真剣で献身的な看護に、恥ずかしがるのは却って失礼だと思い、僕はすっかり甘えきってしまったのだった。

 食事を部屋に運んでくれたのも悠木君で、その上、僕が食べ終わるまで部屋にいてくれて、食べ終わった食器まで片付けてくれるのだ。もし風邪をひいたのが僕ではなく、最初に悠木君の方だったら、僕はここまで献身的にはなれなかったと思う。僕はそれを無心で行動できる悠木君が羨ましかった。

 僕も悠木君と出会うまで絶対に信じることができなかったが、どうやら世の中には見返りを求めない人がいるらしい。奉仕を厭わず、嫌な顔を見せずに看護に当たるのである。

 もしも僕が悠木君に出会わなければ、一生涯そんな人はいないと決めつけていただろう。どういう人を友人に持つかで、人生観はいとも容易く、ころころと変わってしまうものである。

「ごめんね」

 僕が口にしたのは、感謝の言葉ではなく、詫びの言葉だった。

「何が?」

 振り返って、背中を拭いてもらっている悠木君の顔を見ると、僕が何を言っているのか、意味が分からないという表情をした。

「ほら、こうして迷惑を掛けてさ」

「迷惑なんか、掛かってないよ」

「でも、色々と身の回りのことをやってもらっているし」

「それは、ぼくが勝手にやってること。シュウ君こそ、鬱陶しいと思ってない?」

「そんなこと、思わないよ」

「よかった」

「ありがとう」

「そう言ってくれるだけで、すごく嬉しい」

 僕は、男同士の友だちには恥ずかしくて、絶対に口にできないことを言葉にした。口にした自分の顔が赤面していたかどうか分からないが、素直に口にしてよかったと思っている。悠木君と出会って、然るべき時に感謝の言葉を口にしないと、あとで後悔してしまうことを知ったのである。

 いつもは大抵、片仮名の「サンキュウ」とか、言葉足らずの「どうも」しか使わないが、悠木君には「ありがとう」を返すのが自然だと思った。悠木君は粗野な僕を、いつの間にか上品にしてくれたのである。まだまだ修行が足りず、洗練されているとは言い難いが、僕は悠木君を寮生活の手本にして、自分を磨いたのである。


 すっかり風邪も治り、療養室を出て寮部屋へ戻った土曜日の放課後、問題の発端となった出来事が起こった。それは先生からボランティアへの参加を、寮生を対象に打診されたことに始まる。振り返っても、これが事件の最初のきっかけだったと思わざるを得ない。これさえなければ、違った未来が待っていたように思う。

 そのボランティアというのは、介護施設の催し物をサポートするというもので、単なるお手伝いなのだが、先生はボランティアであることを、ことさら強調した。参加は自由であるが、それにはもう一つ特殊な条件があって、それは一人頭、日当千円が支払われるというものだった。

 それを聞いた僕たち寮生は、一様に戸惑いを見せた。教室は自宅通学者を除く二十一名の寮生が残っていたが、みんなどう解釈していいものか困っている様子だった。そこで真っ先に反応したのが、クラスのまとめ役をしている喜瀬勇吾きせゆうごだった。

「先生、そのボランティアは報酬を受け取らずに参加してもいいんですか?」

 僕が訊きたいと思っていたことを、喜瀬は先生に尋ねた。

「報酬はきちんと受け取ってもらいます」

 先生は報酬を支払う理由を説明せずに、訊かれた質問にだけ答えた。

「それはボランティアじゃなく、アルバイトだと思います」

 これも喜瀬の発言だが、僕と同じ意見である。

「どう解釈するかも、みんなの自由です」

「バイトで一日千円は安いよ」

 これはニヤけ顔をした榊研二郎さかきけんじろうの言葉だ。喜瀬の隣の席で、いつも大きな声を出して話している男である。

「いや、額が問題じゃないだろう」

 それに応えたのは喜瀬の後ろの席に座る滑川豊なめかわゆたかで、喜瀬と榊と滑川の三人が、このクラスのいわゆるリーダーグループを形成していた。

 他のクラスメイトは誰も口を挟まず、いつも大人しくしている。それは大人しい生徒だからということではなく、こういう話し合いの場では、誰も意見らしい意見を持つ者がいないというだけである。それぞれ頭の中で考えてはいるが、みんな自分の意見に自信がなく、行儀よく話を聞くというスタンスで、椅子に座ったまま固まってしまうのだ。

 休み時間や学校から一歩外に出たら、それぞれ騒いだりはしゃいだりするが、こういう話し合いの場では、みんな決まって大人しくなる。それを見て僕たちが大人しくて行儀のよい生徒だと思うのは大間違いで、単に積極性が欠如しているにすぎないのだ。みんな声の大きな人に任せ、それに従うだけである。その癖、人任せにしておきながら陰で文句をたれるのも、僕たちの特徴だったりする。要するに、僕を含めて大したクラスではなかったということだ。

「それに先生は自由参加って言うけど、ボランティアなら自発的にやらなければ意味がないんじゃないですか? 先生に頼まれたら、僕ら断れないから、ほとんど強制参加と変わらないと思います」

 喜瀬の発言だが、僕も同じことを考えていた。僕と喜瀬は考えることが似ていた。

「自由参加は自由参加です。強制はしません。誰も参加する人がいなければ、それでも構いません」

 先生は、僕たちと先生が対等の関係ではないということを、よく分かっていないように思えた。先生自身は対等な関係を築こうと公平に努めているようだが、先生と生徒が対等であるはずがなく、こういうのは却って困ってしまうのだ。

 僕たちは、自分たちで自主的に考えるより、まだ指示に従っている方が楽に感じる人間だ。なにしろ、この頃の僕たちの口癖は「面倒くさい」なのだから。といっても、先生がとてもいい先生であることは疑いようがない。ただ、教室にいる僕たちと波長が合わなかったというだけである。

「弓形君は病後なので、参加は控えましょうか」

 突然、僕の名前が出た。

 その瞬間、緊張が走ったが、すぐにホッとしてしまった。これでテストをクリアしたような、そんな気の抜けようである。僕としてはクラスメイトの動向を窺いながら、件のボランティアに参加するかどうか決めようと思っていたので、一足先に肩の荷が下りた気分だった。

「弓形、千円損したな」

 榊の言葉に何人かのクラスメイトが笑った。

 僕はその言葉を、半笑いでやり過ごした。

「先生」

 喜瀬が積極的に発言する。

「先生はボランティアって言いましたが、介護施設に行って催し物を手伝えばいいだけですよね? だったら、みんなで手伝いに行けばいいんじゃないですか? そういう風にはできないんでしょうか?」

 喜瀬の後から、滑川が続ける。

「俺らは別にお金とかいりませんよ」

 その言葉に、何人かのクラスメイトが頷いた。

「全員で行くのは構いませんが、その時はちゃんと報酬を受け取ってもらいます」

 先生は報酬にこだわる。お手伝いよりも、その報酬を受け取る、受け取らないということの方が大事だと言わんばかりだ。

「だったら、僕は参加しません」

 喜瀬がいち早く不参加を決めた。

「俺もやめておきます」

 滑川が、いつものように喜瀬の後に続いた。

「だったら俺もやめようかな。千円じゃなく、三千円だったら行くけど」

 榊がふざけつつ、前の二人に意見を揃えた。

 その後は誰も続かなかった。

「他の人はどうしますか?」

 先生が教室を見回すが、誰も反応しなかった。

 喜瀬が不参加を表明したことで、クラスの総意は決まったようなものだ。これが先生から個別に相談されたら参加する生徒がいたと思う。しかし他のクラスメイトの目があると、途端にみんな小さくなるのだ。

「ええ、質問を変えます。みんなの中で、参加したいと思う者は手を挙げて下さい」

 先生は、より具体的な意思表示を求めた。

 そこで一人だけ手を挙げる者がいた。それは悠木君である。

 先ほどから悠木君がどうするのか気になっていた。僕の予想では悠木君が参加するかどうかちょうど半々だと思っていた。悠木君のことだからお手伝いは喜んで引き受けると思ったが、そこに報酬を受け取るという条件が加味された場合、すんなり引き受けるとは限らないんじゃないかと考えたのである。

 結果として躊躇なく手を挙げたところを見ると、喜瀬のように深く考えずに参加しようと思ったのだろう、それも無心で。それは実に悠木君らしい行動のように思えた。

「悠木君の他には?」

 先生が尋ねるも、悠木君の後に続く者は一人もいなかった。

 僕はその時、クラスで一人だけ参加を決めた悠木君を見つめる、喜瀬の冷たい目つきが気になった。おもしろくなさそうな、軽蔑する眼差しである。それをきっかけに悠木君は、文字通り喜瀬のグループから目をつけられるようになった。

 入学してから、僕は常に悠木君と一緒にいて、喜瀬が同じ教室にいてもまったく会話をすることなく過ごしてきた。それでも喜瀬は教室で一番目立つので、喜瀬の言動というのは目についた。しかし喜瀬は、僕や悠木君に関心を示すことはなく、向こうから話しかけてくるということは、これまで一度もなかったのである。それがこのエセ・ボランティアのせいで、悠木君が一気に喜瀬の反感を買ってしまったのだ。


 早速、教室を出て寮部屋へ戻る廊下で、喜瀬のグループが、僕と悠木君に話し掛けてきた。

「悠木、なんでおまえ、さっき手を挙げたんだ?」

 喜瀬の話を、榊は横でニヤけながら聞いて、滑川は喜瀬の背中の後ろから悠木君を見ていた。

「だって、誰も行かないと、大変かなって思って」

「いや、お前ちゃんと考えてる? どう考えたっておかしいだろ? オレと先生のやりとり聞いてたか? 報酬が支払われるボランティアなんてないんだよ」

「うん。知ってる」

「だったら手を挙げんな。先生の方がおかしいんだから、全員で反対しないとダメだろ。あんなのボランティアじゃない」

「うん、でも、ぼくは行きたいと思ったから」

「いや、それがダメなんだって。学校行事だろうが、強制で参加させるようなボランティアはあってはならないし、ましてやボランティアで生徒に報酬が支払われるなんて、オレは聞いたことがない。ボランティアを簡単に語るなって話だ。お手伝いならお手伝いでいいんだよ。無理してボランティアなんて言わなくてさ」

 喜瀬は、先生のことだろうが学校のことだろうが、臆せずハキハキ物申す。誰も喜瀬の話に横やりを入れる者はいなかった。

「ぼくも考えたけど、その催し物は明日だし、時間がないから、長く考える時間はないと思って」

 悠木君が喜瀬に気押された感じで、控え目に答えた。

「それも先生の狙いなんだけどな」

 喜瀬はすでにあきれた様子だ。

「これでも、後で問題にならないか?」

 滑川の言葉に、榊が合わせる。

「俺も思った」

「何が?」

 喜瀬が二人に尋ねたが、答えたのは滑川だった。

「いや、学校の先生が生徒に金を渡していいのかって」

「そんなのは問題ない。インターンシップだって普通にあるし、校外学習としての研修なら、もっとあってもいいくらいだ」

 モノを何も知らない滑川が、喜瀬に一刀両断された。滑川は無理に出しゃばらず、僕と同じく、足りない頭なら、僕のように黙っていればいいんだ。それでも滑川は恥の上乗りをする。

「そうか、だったら先生は給料として支払われるお金をオレたちに割り振るつもりだったんだな」

 榊も滑川に便乗する。

「本当はもっともらえるんじゃないのか? 千円はねぇよ」

 と滑川と二人でバカ笑いするのだった。

「問題はそこじゃないだろ」

 バカ笑いに参加しないのも喜瀬の特徴だ。

「介護施設の研修なら研修でいい。それならオレだって報酬はきちんと受け取る。それをいちいちボランティアにするなってことなんだよ。違うか?」

 喜瀬に睨まれた滑川と榊から笑顔が消えた。

「偽善だろ、こんなの」

 喜瀬の目が鋭く、冷たい。

「悠木」

 教室で悠木君を見つめていた、喜瀬のあの冷厳な眼差しだ。

「おまえ、偽善者だからな」

 面と向かって言われた悠木君が、目に涙を浮かべる。それでもしずくは溢さなかった。

 そうして喜瀬のグループは、捨て台詞を残して去って行った。


 悠木君は何も言わずに歩き出すが、僕はなんて声を掛けていいのか分からず、黙ってその横に並んで歩いた。悠木君が口を開いたのは、僕たちが寮部屋に戻ってからだった。白眼の部分は多少赤かったけど、涙を流した痕はなかった。

「シュウ君は、風邪をひいてなかったら、手を挙げてた?」

 僕は間髪入れずに頷いた。

「ああ、やっぱりそうだと思った。だったら一緒に行きたかったな」

 悠木君の表情は笑顔だけど、声は残念そうだった。

 その時、僕は本心を隠していた。

 悠木君の質問に頷きはしたものの、それは予想していた質問だったので、悠木君に合わせるための答えを事前に用意していたというだけである。

 本心は、喜瀬の意見とまったく同じだった。ただ喜瀬のように、悠木君を偽善者だとは思わない。喜瀬と僕の違いは、悠木君を知っているかどうかの違いである。それは決定的な違いともいえる。

 そこでふと、僕は別のことを考えた。

 そもそも悠木君は、偽善者という言葉を知らないのではないだろうか。なぜなら悠木君は自分を偽善者だと疑う機会など、これまでの人生に一度もなかったと思うからだ。実際に悠木君と話して、悠木君の人となりを少しでも知れば、喜瀬だってあんな捨て台詞を吐かなかったはずである。今度、直接喜瀬に教えてあげた方がいいかもしれない。悠木君は偽善者なんかではないと。

 ほんとうの偽善者とは、僕のことである。

 そして、それは気をつけて隠し通してきたということもあり、これまで誰にもバレていないという自信があった。外面のよさはもちろん、子供であることと、それに加えて人と会話をする時の言葉数を抑えてきたので、今まで見つからずにやってこられたのである。

 それともう一つ、偽善者であることを隠し通す方法がある。

 それは「かっこつけるな」とか、「善人ぶるな」とか、時々そういった言葉で他者を批判してやるのだ。偽善者と対極の立場に自分を置くことで、それだけで周りの者に偽善者ではないと、単純に錯覚させることが可能となるわけだ。これは喜瀬が悠木君に向かって偽善者だと批判したことと原理は一緒である。僕は喜瀬のように冷たく言い放つことはないが、やっていることは同じで、これは喜瀬と僕の考え方の本質が似ていると思って間違いない。

 それにしても、偽善者ではない悠木君が偽善者だと批判を受け、偽善者の僕が批判を受けずにのうのうと生きる。どうしてこの世は、こうもアベコベになっているのだろうか。鏡の向こう側が本当の世界で、僕が立っている場所がニセモノの世界かもしれないと、そう疑わずにはいられなかった。

 この世を本当の世界に変えるには、ニセモノの僕が本物になるしかないのかもしれないが、それはとても勇気がいることで、行動する前に僕はくじけてしまう。勇気のない自分を正当化させる言い訳は後から考えて、今はヒーローが現われるのを黙って待つのみである。

 ただしヒーローが現われたとしても、すぐにそのヒーローを応援するとは限らない。とりあえずは様子を見る。形勢次第では、肩入れしたヒーローもろとも攻撃の対象になりかねないからである。

 結局そんなことだから、僕は人間ではなくとも、野次馬で充分だと考えてしまうのだ。体験することがどんなに素晴らしいと言われても、観客席でふんぞり返っている方が楽に決まっている。汗を流して特等席から野次られるのでは、バカらしくてやっていられない。たとえチケット売り場の行列に並ぶだけの人生だとしても、それが僕にはお似合いだからだ。


 翌日、悠木君は先生の運転する車で介護施設に向かい、夕方にはいつもの笑顔で帰って来た。それから寮部屋で、僕にその日の出来事を楽しく語った。それでこの話は終わりだと思っていたが、世の中にはしつこい人がいるものである。


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