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偽善者  作者: 灰庭論
第一部 小説
5/20

異性

 寮生活の休日は、土曜日の午後から日曜日まで都合一日半あり、休日の過ごし方は、すべて寮生の意思に任されている。部活動に励む者、寮部屋で勉強に勤しむ者、自宅へ帰る者、市街へ出る者など様々で、門限さえ守れば自由である。

 僕と悠木君は休日も一緒に過ごした。お互い家の用事でもない限り、自宅へ戻ることもなく、一週間を通して寮に留まっているためだ。

 それでも唯一、土曜日の午後だけは別々に過ごす。これは僕が、蔵書の豊富な市立図書館へ行くためで、それ以上の理由はない。門限の六時になれば、また一週間を共に過ごすので、土曜日の六時間だけが互いの一人の時間ということになる。

 休日を一緒に過ごすといっても、必要なお金以外は持っていないので、娯楽施設に近寄ることはなかった。それでいてさもしい思いを抱くこともなかったので、思えば仕合わせな寮生活を送っていたともいえる。

 お金がないからといって、それで寮部屋に籠るということはなく、天気次第で積極的に外に出掛けて行った。それでも自転車がなかったので、結局は近場の展望台で息抜きをするのがやっとだった。

 展望台は学園近くの丘の上にあり、そこから市街を一望できた。左手には煙を吐き続ける工場の煙突があり、それはさながらパイプをくゆらす工場長がそこにでんと座っているかのようである。

 一方、右手には開けた土地が眠っているだけで、のっぺりとした印象だ。そして正面には、地理的に太平洋の海が広がっているはずだが、当時の僕にはその海が見えなかった。あるはずの水平線はなく、その先で地球が切れているのだ。その時のぼくには、海の向こうの世界など存在していなかった。

 寮部屋から展望台へと場所を移しても、僕たちがすることは一緒だった。そこで陽が傾くまで喋り続けるだけである。それでも見晴らしのいい場所にいるせいか、開放的な気分に浸り、寮部屋では話さない照れくさい話題を平気で口にできた。

 僕はそれまでの人生で友だちと恋愛について語り合ったことが一度もなく、好きな子の名前は口が裂けても吐かないと決心していた。片想いしていることを同級生に悟られるのも恥ずかしく、好きな子とは絶対に口を利かず、徹底的に、頑なに無視をするようにしていた。

 小学生の低学年の時には、わざと好きな子に冷たくし、おそらく傷つけてしまったこともあるはずである。よくある話とはいえ、本当にひどいことをしたと思う。それでいて、その相手に好きな気持ちを感じてほしいと願っていたのだから、自己矛盾に苦しんだことは言うまでもない。

 でもそんなことは苦しいうちに入らない。僕を悩ませたのは別のことだ。

「僕は好きな子が二人いたんだ。一人は中一の時にクラスが一緒だった松山さんで、大人しくて、クラスで一番成績がいい人だった。なんだか一人だけ年上のような雰囲気で、その人のことを考えると、自分を必要以上に子供っぽく感じてしまって、実際に子供なんだけど、どうしようもない劣等感を抱いてしまうんだ。でも好きだった。あれは憧れもあったのかな。一年間クラスが一緒だったのに、結局、一度も話をすることができなかった。ただ遠くから見つめるだけで、時々目が合うんだけど、それだけで舞い上がってた。いま思えば、それは僕が見ていたから、向こうが視線に気がついただけなんだけど、その時は向こうも好きなんだって、いいように解釈してたような気がする。今はもう、ただすらっとして、長い黒髪を後ろで束ねていたっていうシルエットしか記憶にないけどね――」

 悠木君は途中で口を挟んだりせず、隣で黙って僕の話を聞いてくれている。

「もう一人は真田さん。真田さんとは一度もクラスが一緒になったことはないんだけど、とにかく明るいんだ。バレー部でボーイッシュでマンガみたいな子だった。同性に好かれるだけじゃなく、男子とも積極的に話をするような子で、僕にも向こうから話しかけてくるんだ。それで一度話しただけなのに、バレンタインの日にチョコをくれてさ」

「告白されたの?」

 悠木君が僕の顔をのぞき込んだので、首を振って否定する。

「違うんだ。真田さんはデパートの大きな袋紙に、小さなチョコレートを詰め込んで、それを一人一人に配っているんだ。全員だよ、全員。もちろん自分もたくさんいるうちの一人にすぎないんだけど、もう、それだけで嬉しくて」

 それを聞いて、悠木君は自分のことでもないのに、僕と同じように嬉しそうな顔をするのだった。

「チョコをもらったからっていう訳じゃないけどさ、気がつけばいつも探していたように思う。いや、チョコをもらったのがきっかけだったかもしれないな、うん。でもそれは、もうどっちでもいいや」

「うん、そうだよ。人を好きになるのに理由はないもんね」

 それでも、ない理由を求めるのが人間だ。たとえ自分で答えを導いても、それの答え合わせをしないと気が済まない。解答が複数存在していたとしても、真実は一つだと考える。それは間違いではないが、それも複数存在する答えの一つにすぎないのである。

 悠木君が何を思って、人を好きになるのに理由はないと考えたのかは知りようがないが、この時の悠木君は、きっと僕を気遣うために肯定してくれたのだと思う。

「チョコか、いいな」

 悠木君がしみじみと口にした。チョコを欲しがる彼はまるで子供のようで、それがとても可愛らしく見えた。

「悠木君は女の子にチョコレートとかもらわなかったの?」

「もらったよ、一度だけ。ぼくは小学校の時だったけど、隣の席の子がくれたんだ――」

 そこまで言って、急に悠木君が元気をなくす。

「でもね、それはチョコレートじゃなくて、青リンゴ味のグミだったんだ。もらったのは嬉しかったんだけど、ぼく、青リンゴ味のグミが嫌いなんだもん。でも、せっかくもらったから、無理やり口に詰め込んで、残さず食べたんだ。でも、あれは大変だったな」

 それを聞いて僕は思わず笑ってしまった。悠木君は真面目に話しているから、笑っては失礼だと思ったけど、どうにも我慢ができなかった。そんな僕の姿を見て、悠木君が口を尖らせる。

「シュウ君、ひどいよ。本当に大変だったんだから」

 僕が笑いながら謝ると、悠木君も笑いながら許してくれた。

「シュウ君のチョコレートはおいしかった?」

「それが、分かんないんだ」

 そう言うと、悠木君も分からないという顔をした。

「もらったけど、食べてないから」

「どうして?」

「どうしてだろう?」

 この時、僕はうまく答えることができなかった。おそらく初めて異性から贈り物をもらったということもあり、それが手元から失われてしまうのが惜しかったのだろう。もらったチョコレートは手をつけず、一年以上も本棚に飾っておいた。それから中学卒業と同時に、もう真田さんには会えなくなると思い、中身も見ずに捨ててしまった。

 いま振り返ると、もらってすぐに食べてしまえば良かったと思う。甘いはずのチョコレートなのに、今では苦い味のイメージしかできない。もし食べていれば、甘い思い出に変わっていたのだろうか。それはもう、僕には確かめることはできなかった。


 無言の僕に、悠木君が質問を変える。

「それでその二人とはどうなったの?」

 その二人というのは、僕が好きだった松山さんと真田さんのことである。

「何もない。たぶん、二人とも僕が好きだったことも知らないと思う。きっとこういうのは特別じゃなく、よくあることなんだよ。今はそう思うようにしている――」

 僕は赤面してしまうようなことを、悠木君には気兼ねすることなく語った。内面の恥部をさらすことに快感を覚えるようになり、話を聞いても接し方や態度が変わらない悠木君に安堵するのだ。

「それにね、本当はそれだけじゃないんだ。他にも色んな人を好きになった。かわいいなって思ったら好きになるし、話し掛けてくれただけで、その夜からその子のことを考えてしまうんだ。でもどこの誰が言ったのか分からないけど、いつの間にか、人は一人の人間しか好きになってはいけないって刷り込まれていて、僕のように色んな子を好きになってしまう自分は悪い人間だと思わされてしまうんだ。さっきは特別じゃないって言ったけど、やっぱり僕はおかしいのかもしれない。でも、これは僕が物心ついた時からそうだから、生まれた時から悪い人間だっていうことになるよね。だとしたら、それはそれで僕には責任がないって考えられる。それでも僕を悪い人間にしたいなら、気の済むまで石を投げればいいんだ。僕はそれをよけるつもりはない。やっぱり、僕はおかしな人間なのかな?」

 僕が尋ねると、悠木君はしばらく考え込んだ。いつもはすぐに言葉を返してくれるので、それは珍しいことだった。やがて、悠木君が口を開いた。

「よく分かんない。だって、ぼくは普通がなんなのか知らないから。『普通って何?』って訊かれたら、『ぼく』って答えるしかないもん」

 悠木君は知らないことを、正直に知らないと言える人間だ。人から聞いた話をする時は、ちゃんと人から聞いたという前置きを忘れない。もしも悠木君が嘘をつく時は、その時もこれは嘘なんだけどと、前置きしてから嘘をつくのではないだろうかと、僕にはそんな風に考えられた。


 一通り自分のことを話し終えたので、今度は僕の方から悠木君の恋愛について尋ねることにした。本当は悠木君の恋愛観を知りたくて、僕は自分の恋愛観を打ち明けたのかもしれない。なんでも知りたいと思ったし、なんでも知ってほしいと思った。

「悠木君は、好きな子とかいなかったの?」

「いたよ」

 すぐに答えが返ってきた。

「小学校から中学校を卒業するまで同じ学校だった」

「どんな子?」

「どんな子かな?」

 悠木君が空を見上げる。

「うんとね、丸い子」

「それじゃ、分かんないよ」

「うん。だってそんな感じなんだもん。ほっぺがリンゴみたいで、鼻が丸いの」

 僕は悠木君に好きな子について尋ねたのに、悠木君はまるで好きな食べ物を訊かれたみたいに答えるのだった。

「その子に思いは伝えたの?」

 悠木君が首を振る。

「そういうのはいいんだ。毎日学校に来てくれるだけで嬉しかった。いるだけでなんだか安心できるんだもん。ぼくも学校に行くのが楽しくて、教室にその子がいてくれるだけで嬉しい。うまく話せないし、目を合わせるのも申し訳なくて、顔もあんまり覚えてないけど、ずっと思ってたよ。あっ、だから丸い印象しかないのかな? 家に帰ってもその子の顔が思い出せないんだ。今はね、卒業アルバムに映っている顔が、その子の顔になっちゃった。それはでも平坦で、上から見ても、下から見ても平べったいから、ぼくが知っている印象と違う。だからアルバムを見たのは一度きり。それ以来、アルバムを開いていないんだ」

 話し終えて、悠木君はいつものように微笑んだ。

 僕にはその顔が、とてもかなしそうに映った。片想いだけで、経験らしい経験はしていないけど、僕たちは同じように失恋していた。それがどんなに子供っぽくても、心の容量いっぱいで人を好きになっていたわけだ。指先に触れた経験すらしていないけど、失った気持ちは心のすべてで、穴の開いた心は、今も風にさらされ、そこだけ冷たくなっている。

 それでも悠木君は微笑む。

「もう会えないけど、今も好きだよ。きっと、これから先もずっと好きでいるんだ。そう決めたんだもん」

「悠木君は、僕と違って一途なんだね」

 それには返事がなかった。

 こうして僕たちは、ちゃんと会話をしたことのない女の人について語り合ったのだった。

 ただ、これ以上、異性についての話はしなかった。もちろん性に関する知識だけは、僕だけではなく、悠木君も持ち合わせていたと思う。でもそれを口にするのは、お互いに抵抗があった。なんでも話すのが友情の証だとも思っていないし、むしろ触れない部分を守ることの方が大切に思えたからだ。といっても、そこまで考えるほど潔癖だったということではない。単に二人とも恥ずかしかったというだけである。

 しかし恥ずかしいというのも悠木君と二人きりの時だけで、自宅通学者のクラスメイトを交えて雑談している時は、みんなが話題にしているインターネットの情報について、積極的に参加したものだ。僕や悠木君はネットがないので、もっぱら聞き役に回るのだが、その時は互いに照れもなく話ができるのだから、不思議な感覚だったともいえる。

 僕は悠木君に対する態度と、クラスメイトに対する態度を意識的に変えていたが、悠木君にも変化があったように感じる。僕に対して積極的に話すのに対し、クラスメイトと会話をする時は受け身になるからだ。それがなぜだか、僕には嬉しく感じられた。

 性に関していえば、家族に対しても閉鎖的だった。一家団らんでテレビを観ている時に、テレビに性を連想させる映像が映し出されると気不味い空気が漂う。よくある話だけれど、テレビを家族で観ていた時代の話なので、今は懐かしく感じる話でもある。

 僕の家の場合は、そういう場面に出くわした時に、父親、または母親がテレビを消したりせず、意識していないということを、ことさら強調するかのように、黙ってやり過ごすようにしていた。それは急に口数が減り、明らかに不自然なのだけれども、誰もその空気を壊すことはしなかった。

 性に関して開放的な方がいいのか、閉鎖的であるべきなのか、そんなことは分からないし、個人で考えればいいことだと思っているが、でも、その考えに家族の存在が影響を与えるのは、少なからずあるのではないだろうか。

 僕が幼稚園に通っていた頃、父親の部屋から女性の裸が載っている本を発見した。それに興味を覚えて、何をするでもなく、ただ眺めていたら、その姿を母親に見つかり、突然ひっぱたかれたことがある。なんの説明も受けずに本を取り上げられ、その場に放置された。その時の僕は意味も分からず、よって涙も出ず、痛みだけが残り、何をどう考えていいかも分からず座り込むだけだった。

 これを鑑みるに、やはり僕は生まれながらにして悪い人間だったと思わざるを得ない。それも悪いことを悪いと思わず、自然な発露として、悪事を犯す人間だ。と、大袈裟に表現してみたが、ここまでは考えないにしても、釈然としない思いは今も残っている。

 だからといって、母親を責める気持ちにはならない。もちろん女性の裸が写った本を持っていた父親に対しても悪く思わないし、そういう本を販売する人も悪くないと思う。さらに裸になる女性も関係ない。女性の裸に罪は存在しないからである。それはボッティチェリの描くヴィーナスについても同様のことがいえる。

 悠木君とは家族について、あまり話をしていない。いくら急速に親しくなったからといって、気軽に話せることではないからだ。これは悠木君に限ったことではなく、僕は家族の話題をデリケートで、ナーバスな問題だと考えているからだ。

 人と会話をしていて、その人が話の中に家族のことを取り入れた場合、その人には家族のことを比較的気兼ねなく尋ねることができるが、しかし自分から家族の話題を持ち出さない人には、慎重にならなければいけないと思っている。

 また、家族についてオープンに話さないからといって悪いわけではないし、オープンに話せるからといって、明朗快活な人間とも限らないのである。むしろ僕のように家族に恵まれた人間は、他人を慮るのが当然で、気を遣って、遣いすぎるということはないと思っている。普段は無神経な僕も、そこだけは唯一自分を誇ることができた。その程度の配慮は常識だと考えるのだが、それによって自分が常識人だと主張するつもりはない。

 それでも完璧に人を気遣えているのかどうかは難しいところである。小学生の頃ならば、友だちの家に遊びに行って、そこで友だちの家庭環境を観察することができるけど、年齢を重ねるとそういうことも難しくなってくる。中学に上がったら、会話の中からその人の許容範囲を探らなければいけないのだ。

 無神経に生きることも可能だけれど、世の中を見渡して、無神経に振る舞える大人にだけはなりたくないと思ったので、僕は観察力を活用し、神経質に生きる方を選択した。たとえ無神経な人が朗らかに見え、神経質な人が病的に思われても、僕は構わないと思った。

 ただし、悠木君と家族の話をしないのは、デリケートな問題だからという訳ではなく、聞くところによると、とても温かな家庭で育ったためで、だから却って会話が広がらないというだけであった。僕は悠木君のように天真爛漫な子が、どうやったら育つのか非常に興味があるけれど、そこは想像だけで楽しむことにした。きっと知れば退屈だろうという、しごく簡単な想像がつくだろうから。


「ねぇ、今度の日曜日だけど、実習林に行こうよ――」

 それは日曜日の夜、消灯後のベッドの中にいる悠木君のひと言だった。

「先生が言うにはね、そこは小学生が遠足に出掛けるような場所で、大学の敷地なんだけど、出入りは自由だって言うんだ」

「へぇ」

「行きたくないの?」

「そんなことないけど、何しに行くの?」

「え? 歩くんだよ」

 悠木君が当然だと言わんばかりの顔をするが、僕にはいまいち理解できない答えだった。

「でね、きれいな景色をたくさん見るの」

 今度は小さな女の子みたいな顔をするのだが、僕はさながらその子のお父さんだ。

「だったら、僕はそこでスケッチしようかな」

「じゃあ、行く?」

「うん」

「やった!」

 悠木君が満面の笑みを浮かべた。

「なんだか遠足みたいだね」

「遠足だよ。おにぎりとおやつを買って行くんだ」

「懐かしい」

「うん」

「だったら飲み物も買わないと」

「うん」

「でも、晴れたらだよ」

「分かってる。ああ、楽しみだな」

 悠木君は遠足を待つ子供のようだった。僕は一度も遠足を楽しみにしたことがなかったので、それがとても新鮮に思えた。でも悠木君との遠足は、なぜだか胸がドキドキするのだった。


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