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偽善者  作者: 灰庭論
第一部 小説
4/20

先生

 寮部屋で目覚めると隣に悠木君がいて、教室では前の席に悠木君の背中があり、それが食堂では正面に変わり、さらに寮部屋に戻って自習をする時は背中合わせになる。僕は悠木君の周りをぐるぐる回りながら毎日を過ごした。

 入学当初の教室の中は、地元の自宅通学者、それも同じ出身中学の者同士が固まり、僕や悠木君のような市外からきた寮生は寮生で固まって休み時間を過ごしていた。しかし、こういったグループの特色は始めの頃だけで、そこから二、三か月もすれば、さらに波長の合う者同士でグループの再編が行われるのだった。気の合う人とはよく喋り、趣味や意識が違う人とはまったく会話をしない。

 しかし会話をしないからといって仲が悪いとかではなく、会話をしなくても問題ないというだけである。これはどこの高校でもありそうなことだけど、僕は一度しか高校に行っていないので、他の高校や他のクラスの状況については何も知らない。自分が見てきたものだけが正しいとは思わないし、知らないからといって間違っているとも思わない。


 この頃、悠木君とよく話していたのは、自分たちのクラスの授業を受け持つ先生たちの話題が多かった。特に担任の先生について、悠木君は熱心に語っていた。この日も寮部屋で自習をしながら話をする。

「ぼく先生が好き。シュウ君は?」

 悠木君は僕のことを「弓形君」ではなく、「シュウ君」と呼ぶ。これは僕が中学の時に友だちからなんて呼ばれていたかと悠木君に訊かれたので、「シュウ君だよ」と答えたら、悠木君も同じように呼ぶようになっただけだ。ちなみに僕は悠木君を「悠木君」と呼ぶ。理由は一緒である。

「僕はまだ分からないな」

「うん」

 僕の答えに、悠木君は笑顔で頷いた。

 悠木君との会話が楽しいのは、無理に相手の意見に同調しなくてもいいところだ。今まで僕が出会ってきた人は、気を遣って話を合わせる人や、またはちょっと違う意見を言うとムキになって、すぐに感情に波風を立てる人が多かった。

 それはそれで構わないけれど、気を遣って同調したり、頭から否定したり、それは結局主体性がなかったり、自分本位だったりするので、とても会話と呼べるものではなかった。主体性のない自分が言うのだから、これは間違いないことだと思う。

 十五にもなって初めて、僕は会話らしい会話をすることができた。それも悠木君との出会いがなければ、僕は会話を学ぶことができずに、年齢だけで大人になっていたのかもしれないのである。

 悠木君から学んだ会話というのは、自分の意見を持って話すことの難しさ、そして人の話を聞くことの大切さ、大きく分けてその二つだと考えられる。

 自分の意見を持って話すというのは、大人になっても難しいことだ。いや、大人になってからの方が難しいのかもしれない。大抵は誰かが考えたことを自分の意見として話してしまうものだ。それを受け売りだと非難する者はいない。それはその人に世間話以上の話を求めていないからである。

 そこで誰も話を聞いてくれないと嘆くのはお門違いではないだろうか。人に話を聞いてもらいたかったら、やはり自分で考えなければいけないということだ。そういう意味でも、悠木君のようにちゃんと向き合って話を聞くことができる人との出会いは貴重ともいえる。悠木君から学んだというのは、そういうことである。

 また悠木君のように、こちらが長考してもイライラせず、間違っても揚げ足を取って喜んだりしない、そんな人との出会いは人生でそれほど多くないということを、僕はその後の人生で知った。

 多くの人は話し相手を不快にさせるものである。粗探しばかりする人や、話を聞きながら心の中で小バカにする人や、話を曲解して極論に結びつける人や、自慢しかできない人など。もちろん僕もその中に含まれる。僕は悠木君と違い、人を不快にさせる側の方の人間である。だからそういう低レベルな人のことが分かるのだ。


 僕と悠木君の先生についての会話は続いていた。

 悠木君が先生を慕う理由について語る。

「ぼくは、先生が教室に生け花を飾るのを見ただけで好きになっちゃった。だって思うんだ。先生は教室を大切な場所だと考えて、花を飾ってるんだよ。だったら、ぼくもきれいに使わないとって」

「そう言われたら、中学生みたいに教室で騒ぐ人がいないね。それの影響があるのかな?」

「うん。あると思う」

「でも、それが先生の狙いだったりして。教室で生徒が騒がないように、高そうな花瓶をわざわざ置いているのかもしれないよ。それじゃあまるで僕たちを小学生のように考えているみたいだ」

「だとしても、やっぱりぼくは先生が好き」

 悠木君は僕が一生言葉にしないことを、恥ずかしがらずに言葉にした。良くも悪くも、自分の方が大人だなと、僕は思った。

 いや、しかしどちらが大人の振る舞いなのだろうか。

 僕は中学時代でも、クラスメイトと嫌いな先生について話しても、どの先生が好きかなんて口にしたことがなかった。つまり僕と悠木君は正反対である。僕のように悪口で盛り上がることと、悠木君のように悪口を一切口にせず、好きな話で語り合う。それが自分を高めようとする人間と、自分を粗末にしてしまう人間の差ではなかろうか。

 表立って悪口を言い合える友だち同士ならまだしも、僕のように人から見えない所で陰口を言う人間に益があるとは思えない。会話の不得手な人間が、参加できない議論の代わりに、言いたいことを言って憂さを晴らしているだけだ。そんな僕みたいな人間の言葉に、金言なんてあるはずがないのである。

 またしても僕は、いつもの癖で他人を無闇に見下したのかもしれない。悠木君を子供扱いする僕が、真の大人であるはずがないではないか。他人を下に見て、自分を持ち上げる。自分を肯定するために他人を否定してしまうのである。いつも安易な方法で自分を正当化しようとしてしまう。そして人よりも優位に立ったと錯覚して自己満足に浸る。どこまでいっても、どこにいようとも、僕は裸の王様であり続けた。それで世間は冷たいと、のたまうのだから自分勝手にも程がある。

 何の成果も残していないのに、僕は自分を王様だと思っているのだ。親に着る服を用意させ、食べる物を人に作らせておいて、誰彼かまわず文句をたれる。裸の王様は見栄っ張りでも王様だが、僕は王様ですらないのである。仕事を持つ先生や、会社の社長でもない人間が、ご機嫌取りのための「センセイ」とか、「シャチョーサン」と呼ばれてニンマリとしてしまう人間と変わらない。あんな大人になりたくないと思わせる大人は、僕のように子供の頃からロクでもない人間として、わがままに育っている。僕のような自己中心的な人間は幼い頃から自分勝手なので、子供には注意せねばならない。


 それから悠木君が小学生時代の先生にまつわる思い出を語り出した。どうしてそんな話になったかは覚えていないけど、ひょっとしたら僕が「小学生」というキーワードを持ち出したから思い出したのかもしれない。

「ぼくが小学生の頃にね、低学年の頃だったかな、授業が始まったのに、誰も静かにしようとせず、みんな友だちと騒がしく喋っていた時があったんだ。それを先生は注意しようとせず、黙ってぼくたちを見ていた。ぼくは先生が悲しそうな顔をしているのに気がついたけど、他の友だちは誰もお喋りをやめようとしない。ぼくはその時、みんなに静かにするように注意したかったんだけど、どうしても勇気が出なくて、声を上げることができなかったんだ。でもそんなことを考えているうちに、一人、また一人と、お喋りをやめて、やがて教室が静まり返った。ぼくは怒られるんじゃないかと思ったけど、先生は何事もなかったかのように授業を始めちゃった。それがなぜだかすごく悲しくて、本当は先生に謝りたかったけど、謝ることができなかった。今も先生に謝りたい気持ちがあるんだけど、もう謝ることができない。それが今でもすごく心残りなんだ」

 悠木君が人の話をよく聞くというのは、その小学校の先生のおかげでもあるのだろうか。それとも、やはり悠木君だから感応することができたのだろうか。そこら辺は判別が難しい。僕が同じ経験をしたとして、そんな些細なエピソードをいつまでも覚えているかどうかは分からないからである。僕のことだから、悠木君と同じ経験をしても、受けた恩も傷つけたことも、きれいに忘れてしまうに違いない。その癖、与えた恩と受けた傷は忘れず、いつまでも根に持っていたりするのだ。


「僕も言い出せなかったことがあるな」

 悠木君の話を聞いて、僕は唐突に思い出し、思わず口にしてしまった。悠木君が過去の話をしたら、自分も過去について話さなければいけないと思ったのだ。それがルールだとは考えてはいないが、返礼だとは思った。

「十歳の時に、僕は校庭に生えている桜の木を折った」

「え? ワシントン?」

 悠木君が興味を持ってくれた。

「そう、ワシントンの伝記に書かれている話と一緒」

「うん」

「わざとじゃないよ。枝にぶら下がっていたら折れちゃったんだ」

「それで、どうなったの?」

 悠木君が身を乗り出して、話の続きを促した。

「翌朝、学校の先生が、『昨日、校庭に生えている桜の木が折られました。心当たりのある者は、名乗り出るように』って、一時間目の授業の前に始めた」

「うん、それで?」

「僕は名乗り出なかった」

 それを聞いた悠木君は、僕を非難するでもなく、いつもの優しい顔で話の続きを待った。

「当然その時、僕はワシントンの話を知っていて、正直者であることは素晴らしいことだって知っていた。でも、僕が正直に名乗り出ることは、僕の行動じゃなくて、それはワシントンの行動だから、なんだかすごく恥ずかしいことだと思ったんだ。いや、そんなのは言い訳だって分かってる。でも、先生はやっぱりワシントンがやった行いを求めているような気がして、もし名乗り出たら、『よく正直に名乗り出た』とか言われて褒められるのも気持ちが悪い。そこまで予想できてしまうと、どうしても僕には名乗り出ることができなかった。いま思えば考え過ぎだって分かるし、やっぱり名乗り出る勇気がなかったようにも思う。怒られるかもしれないっていう思いが頭をよぎったし、単純に怒られるのが怖かっただけかもしれない。今も悩んでいるくらいだし、こんなことなら、やっぱりあの時、名乗り出ればよかったなって思う。うん、でも、それも今だから思うのかな」

 悠木君が真っ直ぐ僕を見ている。

「大丈夫だよ。今、ぼくに話してくれたから」

 そういって、いつもの笑顔で僕を見つめるのだった。

「シュウ君は嘘つきじゃない。いや、嘘をついてもいいよ。ぼくはそんなことで、人を嫌いになったりしないから」

 その言葉を、悠木君は僕の目を見ながら言うのだ。

 一生ものの出会いというのがあるならば、僕は悠木君との出会いがそれに当たると思った。死ぬまで友だちでいるような、そんな感覚である。この時、十五歳だった僕は、友情とか、親友と友だちの違いについて色々考えていたが、それらは言葉で説明することはできなかったけど、悠木君を思う気持ちで答えを知ることができた。それはつまり直感のようなものである。

「それに、ワシントンは桜の木を切ってないかもしれないって聞いたことがあるよ」

 悠木君がいたずらっ子のように、とっておきの笑顔を見せた。

「え? どういうこと?」

「伝記を書いた人の創作の可能性があって、その話が事実かどうかはっきりしてないんだって」

「桜の木の話が事実じゃないとしたら、ワシントンの正直者の話を、わざわざ嘘をついて書き足したっていうこと?」

 悠木君が頷いた。

 その瞬間、僕は声を出して笑った。正直であることの大切さを学ばせるために嘘かもしれない話を持ち出すなんて、なんて僕好みの笑い話なんだろう。そして僕はワシントンに対して、深く同情したのだった。


 あくる日も、先生の話題で占められた。寮部屋で自習する手を休めて話を切り出したのは僕からだった。

「高校生に日記帳を配るなんて、やっぱりあの先生、変わってるよ。僕たちをやっぱり小学生だとでも思ってるんじゃないかな」

 僕が思ったことを正直に話すと、悠木君は首を振った。

「ぼくはそう思わない。先生が自分の高校時代を振り返って、日記をつけておけば良かったと話してくれたのは、それは先生が心から後悔しているからだと思うんだ。それは先生が人生を歩んできたから助言できることであって、人伝えのアドバイスとは違うと思う」

「でも大人が過去を振り返って、あの時ああすればよかった、こうすればよかったというのは、よく聞く話だと思うし、それは助言というよりも、恨み辛みに近いような気がするけど」

「うん。そうかもしれない。だけどね、先生はぼくたちの先生だから、やっぱり他の大人とは違うと思う。うんん、他の大人の人と同じでも構わない。ぼくは先生の話してくれた言葉だから大切にしたいんだ」

「悠木君は、本当に先生のことが好きなんだね」

 そういうと、照れもせず、悠木君はニコっと頷くのだった。

 この、悠木君の人を好きになる感情というものは一体なんなのか、僕は考えてしまうのだった。一見、とても素直で純粋に思えるけど、一方で見方を変えると、やはりひどく幼稚に思えるのだ。まるで小さい子供が「パパ大好き」「ママ大好き」と言っているかのようで、可愛げはあるけれど、実年齢に照らし合わせると相応しくないような、そんな違和感のようなものだ。

 その無邪気さは羨ましい半面、それに羞恥心を覚えないのは、人として成長していないようにも思われ、ぼくは悠木君のように純粋には生きられないと考えてしまうのである。これは悠木君のように幼い容姿をしているから許される発言であって、僕のように実年齢よりも大人に見える子供が発言したら、周りから奇異に映るような気がするのである。

 しかしそれはすべて僕の感想にすぎない。自分が他人よりも深く人を好きになると考えるのに対し、他人が人を思う気持ちを知りもせずに軽く考えてしまう。常に相対的にしか自分を評価できないのだ。人と比べられるのを極端に嫌うのに、その癖、他人と比較しないと自分の幸福が計れないのだから、ちぐはぐもいいところである。

 三枚の絵を鑑賞して順番をつけるのはスポーツで、芸術はそうであってはならない。相対評価ばかりではなく、絶対評価も同じくらい大切にしなければいけないのだ。僕は悠木君を自分や他人と比べるのではなく、ただ悠木君を真っ直ぐ見つめて、自分に問い掛けたいと思った。それが悠木君の真価を知る、唯一の方法だと思ったからである。


 まだ日記の話は続いていた。

「僕は、たぶん日記はつけないと思う。小学生の時にも先生に日記をつけるように言われた時期もあったけど、結局、長続きはしなかった。夏休みの絵日記も書くような出来事がなかったしね。三日坊主にならないためには、始めからやらなければいいだけだ。だから、僕は日記を始めない」

「うん。先生も、それは個人の自由だって言ってたもんね。だからシュウ君がそう決めたなら、それでいいと思う」

「でもこれってさ、心証に影響するのかな? ほら、中学の内申書みたいに」

「関係ないよ。だって提出するように言われてないもん」

「そうだね。でもさ、教室で授業を受けている間に持ち物検査されて、そのついでに盗み読みされたりしたらどうする?」

「そんな心配はいらないと思うけど」

 悠木君の声が不安げだ。

「日記って、自分で読み返しても恥ずかしいのに、それを他人なんかに読まれたら大変だよ。そんなものを残していたら、気になって落ち着かない。だから、やっぱり僕は書かない。もし書いたとしても、読まれてもいいようなことしか書かないだろうな」

「そうか!」

 悠木君は突然何かを閃いたのか、ひと際大きな声を出した。それもよく通る高いキーで。

「分かった。日記って、絶対に人に読ませてはいけないんだね」

 僕はいまいち言葉の意味が理解できなかった。それを言うなら、人の日記は絶対に読んではいけないと、言い直すべきではないだろうか。悠木君というのは、時々というよりも、いつも視点が定まっていないようで、悠木君が自分を何者だと考えて話しているのか、僕には掴めなかった。

 これが思春期特有の全能感というものだろうか。僕が理解するに、脳が宇宙そのものとなり、この世界の創始者とアクセス、または自分を神さまと錯覚してしまう状態のことで、神秘体験という大袈裟な表現ではなくても、よくあることだと考えられる。

 その全能感という言葉を引用すれば、悠木君をすんなり理解することができそうである。悠木君の心は、変わりやすい地球の天気のようであり、自然の美や恵み、そこに畏怖や荘厳さが同居しているのが、その最たるところだ。青空のような心の向こうに、果てのない宇宙が広がっている。悠木君が白百合のように美しいのも、太陽のように眩しいのも、脆弱な精神が、すぐさま暗黒面へと堕ちていきそうな予感も含めて、すべて全能感という言葉で表すことができるというわけだ。

 いや違う。

 これは僕の神経を伝って感知した悠木君にすぎない。つまり僕自身が全能感に支配されて、脳内で悠木君を形作っているということであって、悠木君の実存そのものではないということだ。それは悠木君という鏡に映し出された僕自身の姿に他ならない。

 ときどき僕が、この世の中がすべて僕の脳で創られていると考えるのも、または人間関係の中で支配欲に突き動かされるのも、すべてこの全能感という言葉で置き換えることができる。多くの者が経験することだと言うけれど、未だに全能感に支配されているというのは、誰よりも僕が幼稚だからではないだろうか。その後に押し寄せるお決まりの虚無感といい、年齢にそぐわないほど幼稚なのは、僕の方だったのだ。

 その後、社会に出た僕は人生について考えることなどしなくなってしまったが、それでも全能感と虚無感の無限ループから抜け出せたかどうかは確信が持てない。時々発揮する幼稚性に恥ずかしさを覚えることもなく、いちいち立ち止まって考えることも少なくなっていった。

 それでも悠木君のことを考えると、僕はいつもあの頃に帰って、あのころ考えていたことの続きを再開する。そして袋小路にはまり、行ったり来たりを繰り返すのだ。果たして人間は、人間を知ることができるのか。もしもその謎の問いに解があるのならば、僕は神さまに教えてほしいと思った。


 日記の話は終わっていた。

 その会話以来、悠木君が日記を書いている姿は見かけていない。自習の合間に書いているかもしれないけれど、僕はその姿を一度も見なかった。おそらく、悠木君も日記が読まれることを危惧して書かなかったのではないだろうか。僕は日記帳が白紙ではもったいないと思ったので、それに絵を描いてスケッチブック代わりに使った。

 鉛筆で描いた白黒の絵は、言葉ではないけれど、それはそれで日記になっていたようにも思う。確かに先生が言うように、大人になってから絵を描くなんてことをしなくなったので、もっと描いておけばよかったと思った。でもそれは後悔ではなく、僕は十代のいい思い出として記憶している。

 僕には二十歳以前の過去に、帰りたいと思う場所がない。それは自分の幼少期が苦難の連続だったということではなく、客観的に見れば人並み、いや人並み以上に恵まれていたにも係わらず、僕が常に後ろ向きに人生を歩いてきたからで、ちらちら後ろばかり見ている人間に、振り返る場所なんかないということである。

 そう考えると、昔を懐かしむことができるのは、今を一生懸命に生きている人の特権ではないかと思われる。未来を見つめない僕に、過去を懐かしむ資格はないというわけだ。


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