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小説の作者である弓形君についても書いておきます。印象としては作中の「僕」のままという感じがします。どの教科もそつなくこなし、絵を褒める先生もいれば、俳句を褒める先生もおり、何事にも器用で、物事のコツを掴むのがうまい生徒でした。それを中途半端と見るかは、すべて本人次第ということになります。
小説では地味な雰囲気を醸し出していますが、決して目立たない生徒という感じではなかったように記憶しています。本人は世渡り上手な自分を卑下していますが、それは社交的という言葉に置き換えることができるので、それを短絡的に短所と決めつけるのは早計ですね。
何事においてもそうですが、積極的な人間は慎重さに欠け、反対に慎重な人は行動力に欠ける場合というのは、往々にしてあることなので、どちらにしても一概に欠点と考えるのは問題です。それらの性格をどう活かすかが大事であり、粗ばかり気になっては落ち込むだけです。適材適所という四字熟語がありますが、これすなわち、適所を用意してあげれば、人材はいくらでも適材へと変わるわけです。上司、部下、同僚など、人との出会いはもちろん大切ですが、場所との出会いも重要なんですね。
北海道というのは、しばしば日本の縮図として例えられます。新商品のマーケティングが北海道で行われているのは有名な話ですね。東京への一極集中は、北海道にとっての札幌で、その近くにある港町の横浜が小樽で、松前と函館の方は京都のある関西でしょうか。個人的な分類はそれくらいしかできませんが、地方と呼ばれる北海道には、さらに中心から離れた地方が存在します。自宅から通える大学はなく、冷え込んだ経済では子供を一人暮らしさせる余裕すらない家庭が少なくありません。地元から離れる若者も、彼らを食い止めることができない市政や町政には、決め手となる意見や解決策を提示できないので、市民や町民は選挙で黙って紙に、政策のない候補者や、抽象的な言葉しか語らない候補者の名前を書くことしかできないのです。
そうした現実を目の当たりにしても、それでも私はクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」という言葉を口にします。私自身が高すぎる理想の前に屈しても、少年たちには理想を求めるのです。少し前に、ボランティアの高すぎる理想は切り捨てた方がいいと書いて、今度は大いなる理想を求める。自分でも矛盾していることも、発言した人間が、すでに挫折したことも知っています。知っていますが、それを全部分かった上で、やはり少年時代には、大志を抱いておきなさいと思うのです。
最後に亡くなった悠木君についても書いておきます。悠木君についても印象は小説の中に出てくる通りの人物だと思います。弓形君とは寮が同室で、一番親しかったということもあり、特徴がよく捉えられており、描写に違和感はありませんでした。おっとりした話し方で、常に微笑んでいましたね。話していると、こちらまで笑顔にさせてくれる、月並みな表現ですが、素直で優しい、いい生徒でした。
弓形君の小説の中にも少しだけ書いてありましたが、子供の頃に同級生の死を経験すると、人生観が変わるものですね。私は事故ではなく、心臓の病気ですが、それで小学生からの友達を亡くしました。私が高校三年生の時でした。
私が教師になってから、その子の話を生徒達の前で話したことはありません。その子の人生を利用して、命の大切さを説こうとは思わないからです。実際に、教壇でその子の話はしなかったはずです。その子との出会いと別れは、私の個人的な体験であって、教師として生徒に話すことではないと考えました。
例えば、その子の分まで生きようとか、人間はいつ死ぬか分からないとか、生きたくても生きられない人がいるとか、それら大切な言葉は他にもたくさんあります。しかし、それらの言葉は教えられて知るべきではなく、自ら経験して、そこで初めて実感すべき言葉だと思うのです。教えないことを肯定すると、教師失格なのかもしれませんが、発見する喜びや、実感する快感を、子供達から奪っては可哀想に思うんですね。ただ、このように書くと詰め込み型の学習を、暗に否定しているかのようにも解釈できるので、言葉というのは本当に難しいと思っています。学習法としては、私はむしろ詰め込み型に賛成なのですが、本質の異なる話は同時に出来ないということで、話を戻します。
そんなことも知らないのか、と若い頃によく言われました。この言葉を聞くと、決まって深く考えてしまいます。知るとは何か? 私はクロスワードパズルが好きで、よくやっていましたが、ある時、気がついたんですね。パズルの答えは知っているのに、実物の答えは何も知らないということに。行ったことのない地名を書いて、食べたことのない食材の名前を書く。私にとって、知るとは何だったのか、そこで考えてしまった訳です。
それはでも、新たな発見でした。私は何も知らない人間なんです。しかし、知らないことは知らないと思える人間だということが理解できました。あるものはあり、ないものはない。事実は事実であり、嘘は嘘なので、小説がフィクションであることを知っています。
悠木君に対するいじめはありませんでした。いじめの兆候も見られませんでした。それ以前の中学校においても、いじめがなかったことは確認しています。
ですから、なぜ弓形君がこのような小説を書いたのか、わたしには理解できませんでした。事故直後、悠木君の自殺の可能性について、弓形君に直接尋ねましたが、そこで完全に否定していたので、こうして今さら蒸し返す理由が分からないのです。
まず高校生にもなって、教室でいじめが行われるというのが考えられません。私の高校時代にはありませんでしたし、今年の春から高校に通っている上の息子も、学校にいじめはないと言っています。小学校や中学校では、いじめは深刻かもしれませんが、高校にいじめがあるとは思えませんね。
社会には、金銭トラブル、恋愛のいざこざ、暴力沙汰などが蔓延しているので、当然、高校生もそういった事件に巻き込まれることもありますが、それはでも教室のいじめとは本質が違いますね。本質が異なる話は同時に行えないので話を戻します。
ニュースなどで、いじめが深刻なのは知っていますが、私が子供の頃、少なくとも私がいた教室では、いじめはありませんでした。もちろん喧嘩や仲違いなどはありましたが、それはむしろない方が不自然で、悪質で、陰湿ないじめとは違います。しかし、そういった友達同士の喧嘩も、せいぜい中学生の頃までではないでしょうか。高校生にもなっていじめが常態化するというのは、いくら小説の世界といえ、リアリティを欠いた設定だと言わざるを得ません。
開校初年度に限らず、私が在職した四年間で、教室でいじめがあったという事実はありませんし、これは寮内についても同様のことが言えます。私が受け持ったクラスだけではなく、学園全体でもいじめはありませんでした。いじめを受けていた生徒がいるという話は、一度も聞いたことがありません。
下にもうひとり娘がいますが、娘も問題なく中学に上がることができました。それを自分たちだけで喜んでしまうと、いじめの被害に遭った人を傷つけるかもしれないので、得意になることはありませんが、親が子供の無事を祈るのは至極当然で、それが偽らざる気持ちです。
傷つくのはいじめられた人だけではないと云いますね。過去にいじめた経験を持つ人は、大人になってから突然、当時を思い出して、突発的に苦しみ出すと聞いたことがあります。罪悪感から命を絶つというケースがあるというのも聞きました。実際はどうか分かりませんが、子を持つ親になって、過去を振り返るきっかけが芽生えるのかもしれませんね。
ひょっとしたら弓形君は、悠木君に悪いことをしたと思って、そのまま喧嘩別れのような状態になってしまったことを悔やみ、その気持ちを小説にしたのではないでしょうか。謝りたいことがあるけど、もう二度と謝ることができない。その葛藤が作品に現われているような気がします。だとしたら、そこまで自分を追い込む必要はないと思います。