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偽善者  作者: 灰庭論
第二部 手紙
16/20

 さて、事件の詳細を記述する前に、小説に出てきた登場人物について、私の方からも説明しておきます。弓形君の小説を読んだ後なので、印象が引っ張られる感覚がありますが、一度冷静になって、思い出したことだけを書きたいと思います。

 まずは作中の喜瀬勇吾についてですが、これは加瀬勇太君ですね。加瀬君のことはよく憶えています。剣道部の主将で、クラス委員を務めて、卒業後は国立大学に進学しました。結局、私が在職中の四年間で国立大に進学したのは、彼一人きりでした。授業料免除の特待生だったので、成績を落とさぬよう、彼も必死でした。小説では恵まれた人のように描かれていますが、実際は経済的に苦労していたようですね。彼にとって寮制高校の特待制度はまたとないチャンスだったのかもしれません。また、彼の中学卒業時に学園の開校が間に合うのだから、これを運と呼ぶのか、縁と呼ぶのか分かりませんが、素晴らしい巡りあわせだとは思います。

 加瀬君で思い出すのが、実行委員長を務めていた学園祭です。彼は出店で純利益を上げるにはどうしたらいいか、お金の計算ばかりしていました。飲食店を営んでいる生徒を見つけては、その保護者と食材確保の交渉を行い、借りられるものはすべて借りて、そのためにあちこち走り回っていた姿は、今でも忘れられません。

 考えてみれば、新設校で上級生がいなかったということもあり、それで積極的に動けたというのもあるんでしょうね。失敗を繰り返しながらも、彼にとっては有意義だったわけです。加瀬君が卒業した後は、彼が三年間で完成させたマニュアルが残り、それを後輩が使用するというシステムになりました。それで失敗はなくなりましたが、すでに出来上がったものを繰り返す加瀬君の後輩と、失敗を経験した加瀬君では、どちらが幸福か、これは判断が難しいところです。長男と次男ではどちらが得か? という問題に似ていますね。私はひとりっ子なので、よく分かりませんが。

 次に作中の榊研二郎ですが、これは児玉竜哉君でしょうか。身体が大きくて、ひょうきんだったのだから、間違いなく児玉君ですね。彼も目立つ生徒でした。開校した年の一年間だけしか受け持っていませんが、印象に残る生徒です。

 彼は小学生の頃からアイスホッケーをやっていたようで、高校でもアイスホッケー部への入部を希望したんですが、部員が揃わないこともあり、部を発足するだけの予算が下りず、正式にはスピードスケート部の所属扱いになっていたはずです。将来は地元の実業団のアイスホッケー部への入団を希望していましたが、それも叶わず、就職浪人として、高校を卒業していきました。

 社会人のチームに入るような選手は、高校もスポーツ推薦で入るくらいでなければいけないようです。学業だけではなく、スポーツの世界でも、子供たちに高いレベルの環境を用意するということが大事なんですね。プロを目指す子供たちにとって、スカウトの目に留まりやすい環境を用意することが大切だと考えます。スポーツ推薦枠を利用して有望な選手をかき集める高校に、なぜか批判が集まることがありますが、それはアマチュア・チームによる選手の育成、また、それによるプロ・チームへの貢献を軽視した、認識の甘い軽口と言わざるを得ません。大人になってからの三年と、子供のうちの三年は、同じ時間でも価値が違うのです。大人の頭で「三年間はあっという間」などと、安直に考えてはいけないんですね。進学校が存在しているように、スポーツ強豪校も社会で重要な役割を果たしているのです。批判は大いに結構ですが、経済を動かすとはどういうことか、仕組みとなっている一つ一つに目を向ける必要があると、私は考えています。

 その後の児玉君ですが、地元を離れて、実業団のトライアウトを受けているという話を聞いたことがあります。しかし合否については確認していません。白鳥学園にスポーツの特待制度ができたのは彼が卒業してからなので、加瀬君とは違い、彼の場合、タイミングが悪かったということになるかもしれません。

 児玉君が在学中に、校内で暴力事件を起こしたという事実はありませんので、小説に出てきた榊研二郎の一連の行動は、一切なかったものとして訂正しておきます。

 次に作中の滑川豊についてですが、これは名簿を見ても、写真を眺めても、完全に一致するような生徒は見当たらず、作者である弓形君の投影された人物なのかと思いましたが、家庭環境の描写に違和感があるので、別にモデルが存在しているはずですね。色々考えましたが、加瀬君や児玉君と行動を共にしていたということで、武田徹君が思い浮かびました。父親に送り迎えしてもらっている生徒はあまりいなかったので、武田君で間違いないと思います。

 武田君は高校卒業後、札幌の私立大学に進学しました。在学中は大人しい生徒だったと思います。教室で問題を起こしたということもありませんし、寮での生活態度も良好だったと報告を受けています。小説でクラスメイトに暴力をふるっていたという記述がありますが、そういったことは児玉君同様、一切ありません。

 次に私自身についても書いておきます。ボランティアについては先に述べた通りですが、教室に花瓶を置いたのは生活指導の君島先生のアイデアでした。開校前の殺風景な教室を見て、思いついたようですね。

 生徒に配布した日記帳についてですが、あれは地元で文具店を営まれている方から、生徒達に開校祝いとして頂いたものです。それは教室で説明したはずですので、小説の中の意図的な会話に、軽い違和感を抱きました。確かに、高校時代に日記をつけておけば良かったとは思っていますが、それを理由に、私が生徒に日記帳を配るということはありません。

 意図的な会話というのは、単に日記にまつわる話だけではありません。作者の記憶力を疑うわけではありませんが、十年前の会話をこともなげに再現してしまうというのは、にわかには信じ難く、果たして小説の中の会話が実際に行われたのか、疑問を持たざるを得ないのです。しかし一週間前の会話を再現することすら難しいことは、誰もが分かっていることなので、そこは作者の創意工夫を褒めて称えるべきなのかもしれませんね。

 自分がモデルになっている登場人物が出てくる小説を読むというのは、実に不思議な体験です。特に一人称で書かれた私小説は、作者の主観の塊みたいなもので、「ああ、自分はこのように人から誤解されていくのだな」などと、他人事のような感想を抱きました。

 そこで見えてきたのが、逆恨みのメカニズムでした。弓形君の小説には、それがはっきりと描かれています。つまり、この不幸な結果の発端となった原因は、一体どこにあるのか。それを人間は、幼少の頃にまで遡って考えるわけです。弓形君の作品は、そうしたアプローチをしています。自分の性格はどう形作られたのか、それを親兄弟、近所の幼友達、小・中学校の友達、学校の先生などの大人、それらの環境に答えを求めるわけです。そして小説の中の殺人(現実は事故ですが)は、クラス担任の軽はずみなひと言に原因があると、作者は具体的に指摘しています。極端なまでに自虐的な表現を用いつつ、表面的には自分が悪いとしながら、実際は学校の先生に責任があったと書いてしまっているんですね。そこに作者の狡猾な意図を感じました。

 弓形君が意図的に私を糾弾しているかどうか分かりませんが、無自覚だとしても、亡くなった悠木君を利用して人を裁くのはよくありません。作者である弓形君の言葉を借りるなら、弓形君はペンが武器になることを知っていますね。ということは、弓形君は自分の手にナイフやピストルが握られていることを知っているわけです。ナイフやピストルを人に向けることが、どういう意味を持っているのか、それは書かなくても分かりますよね。

 権力に対抗するための手段としてペンを持つというのは、とても聞こえはいいですが、それが弱者へと向けられた時、見えない凶器では避けることすらできないのですよ。無神経な文章を書いて、どれだけ無自覚に人を傷つけているか、文章を書いている人間には、もう一度考え直してもらいたいものです。それは携帯電話やインターネットでも変わりありません。言葉は等しく、使う人に責任の所在があるのです。


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