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事故の詳細を書く前に、訂正しておかなければならないことがあります。それは学園の寮についてですが、あなたの作品を、寮生活を知らない者が読んだ場合、偏見を持たれる危険性があるので、そこをまず訂正したいと思います。あなたの作品に描かれている寮は、まるで漫画の世界のようなので、それを真に受ける人はいないと思いますが、寮制学校の関係者や、卒業生や在校生にまで迷惑が及ぶ可能性もあるので、私が代わりに訂正したいと思います。
ここからは第三者に向けた説明としますが、ひとくちに寮のある学校といっても、運営する母体によって教育目標が大きく異なるので、全国にあるすべての寮制学校について説明することはできません。伝統ある進学校から、農業など職業訓練に特化した高校、または不登校の子供を受け皿としている高校などもあります。ですから、それらの寮制学校についてではなく、多種多様であることを前提として、私たちの私立白鳥学園高等学校についてのみ記述したいと思います。
地域住民から黒鳥学園と揶揄されていることからも分かる通り、私たち私立の新設校にも、理想と現実というものがありました。欧米の寄宿制中等教育学校を手本とし、北海道の発展を担う若者を育てることを目標として開校したのが、今から十年前のことです。その頃は私も若く、理想に燃えていました。開校前に伝統ある寮制学校を見学し、そこで学ぶ生徒の学習意欲や、規律正しい姿に圧倒され、触発されたんですね。
しかし現実は違いました。学業意識の低い地域ということもあり、寮制学校の理念は浸透せず、結果的に公立高校の受験に失敗した生徒の受け皿になるという命運は、どうにも避けられませんでした。寮生活で自習時間を設けても、それ以前に、自習のやり方すら分からない生徒がいるというあり様で、とても進学を目指すレベルの授業を行うことはできませんでした。中には熱心な同僚もいましたが、その熱意すら生徒に伝わることはありませんでした。現在の状況がどのようになっているのかは分かりませんが、私が在職中の四年間は、そのような状態が変わることはありませんでした。
それでも私が在職した期間で、寮において問題が起こったという報告は受けていないので、小説に書かれてあることは事実ではありません。少女漫画で起こるような出来事もありませんし、学校生活は普通校となんら変わりありません。
子供に不安を与えるようなものは好ましくありませんが、創作や表現を奪うのも同様に好ましくないので、今回は偏見を持たれないように注意を喚起する程度に止めておきました。不安の声というものはいつの時代だろうと、どこにでも起こるものなので、その都度誤解を解いていくしかないんですね。
もう一つ誤解を解かねばならないことがあります。それは小説の中で問題となっていたボランティアについてですが、確かに、ボランティアと福祉を混同したのは間違いでした。しかし認識は誤りましたが、その報酬を支払うという行為自体は、今でも間違いだとは思っておりません。高齢者福祉施設での仕事だったので、私は労働に対する対価は必要だと考えました。いくら高校生のお手伝いだからといって、それを無料で奉仕させるのには抵抗があり、労働を軽視した考えだと思ったのです。
現在はボランテイアと福祉はまったく違うものだと、はっきりと認識していますが、当時はボランティアとの関係性にばかり囚われていたんですね。ただ、教室の中でも、ボランティアと福祉の明確な違いについて、もう少し議論が起こればよかったのではないかと思っています。そういうこともあり、生徒たちの間で話し合いにまで発展しなかったのが残念でなりません。
あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず。人の世はどうしてこうもうまくいかないものなのでしょう。威勢のいい若者がお金に執着すると、それを強欲と呼び、謙虚になりなさいなどと、大人しくさせようとする。そうかと思えば、質素な生活をしている若者に対し、物欲や購買意欲が足りないなどと、ため息を漏らす。いつの世も老年は、青年に矛盾ばかり押し付けるものですね。百年前の迷える仔羊は、百年後もやはり迷ったままなのです。
学園に赴任する前の私の教え子に、高校時代からボランティアに積極的な生徒がいました。その生徒は高校卒業後に福祉の専門学校に進学し、そこで専門職を学んで、希望通り福祉業界に就職していきました。ここまでなら誰もが立派な若者だと思うはずです。しかしその生徒は二十代のうちに仕事を辞めてしまいました。低賃金が理由だそうです。それは昇給の見込みがないことと賞与がないこと、それに加えて、休日がないことと、夜間も働かなければならないことを挙げていました。
この生徒から話を聞いた時、私は答えに窮してしまいました。なんて声を掛けてあげれば良いのか迷ってしまったんです。説教が得意な人ならば、我慢が足らないなどと、上手に諭すこともできますが、私は昇給の見込みがない仕事に辛抱しろなどと、自分が出来ないことは、人に助言できません。それでも私は彼よりも年をとっているので、矛盾していると分かっていても、もう一度頑張りなさいと声を掛けました。彼が充分頑張っていることは知っているんですが、それでもそう云うより他なかったんです。それ以来、連絡はありませんが、また会えたとしても、やはり頑張りなさいと云うでしょうね。それが年長者の役目だと考えているからです。
彼の話しか知りませんから、一般的には分かりませんが、福祉業界で働くというのも大変なんだと思いました。これは福祉活動が慈善事業の側面を持っているからいけないのだと思います。人の善意を盾に、労働の対価を求めないように、上手に誘導している感じでしょうか。労働者という意識を持たせないようにしているとしか思えません。
そこで私は、ボランティアという言葉がよくないのではないかと考えるんですね。こんなことを云うと、すぐに腹を立てる人がいるかもしれませんが、その高すぎる理想に押しつぶされるような弊害が起こるくらいなら、ボランティア精神などいらないと思うのです。
低賃金で働く人間が、お金に色目を使っただけで、金に汚いと罵られる。挙句の果てには、奉仕する喜び、ボランティア精神が足りないなどと、本質とは異なる言葉でお説教されてしまう。これでは生徒達がかわいそうではありませんか。ですから、かつての私のように、福祉とボランティアが混同されるくらいなら、ボランティアの高すぎる理想の方を切り捨てた方がいいと思うのです。それに代わる言葉は、無償奉仕で充分だと思います。
私が若い頃に覚えたノブレス・オブリージュ、プリンシプルなどという言葉は、結局は心に根付くことなく、高い理想のまま、現実の前に破れました。私が白鳥学園で理想と現実の前に打ちひしがれたことと一緒です。数ある外来語から、最も聞こえの良い言葉だけを抜き取り、それで勝手にコンプレックスを抱いていたようです。なにしろ私も若く、まだまだ経験不足でした。しかし私が生徒達に幻滅したからといって、それで彼らを責めることはありません。ただ、それでも彼らを前にしたら、もっと頑張りなさいと云うでしょうね。
どんな仕事も大変だと云いますが、難しくしている原因の一つに、風潮というものがあります。給料が高ければ給料泥棒と呼ばれ、公務員なら税金泥棒と罵られる。こういうのは正直、みっともないと思ってしまいます。給料が安ければ現場に悲鳴が起こり、高ければ犯罪者のような目で見られる。白い眼で見られるのは、決まっていつも窓口に立っている、現場の人たちだけなんですね。
教師が犯罪を起こすたびに、保護者が疑り深い眼で私たちを見るわけです。始めからケンカ腰の保護者もいました。医者や警察も同じだと思いますが、風評とはおそろしいものです。
やって当たり前のサービスなど一つもないわけですよ。命を救って当たり前、犯人を捕まえて当たり前、勉強を教えて当たり前、税金を払っているからサービスを受けるのは当たり前、そんなことは、成熟した大人が思うことではありません。
白米を前にしたら、それこそ感謝して当たり前ではないですか。いつからサービスや労働が当たり前になってしまったんでしょうか。慣れというのは恐ろしいもので、一度サービスに慣れてしまうと、今度はサービスが不十分だと、不満を言い出したりするんですね。こうなるとサービスという言葉も、もう価値がありません。価値のない言葉など、使うのをやめた方がいいのかもしれませんね。奉仕の方が、価値があると思います。それならば素直に感謝できるのではないでしょうか。
ボランティアという言葉の価値は高く、サービスという言葉の価値は安い。問題は、外来語の中味ではなく、都合よく使っている、私たちの使い方にあるのかもしれません。