1
うららかな春の到来を告げる桜が、今年も見事に咲き誇りました。二十間道路の桜並木は今年も大いに賑わい、しばれた心をあっためてくれます。これから過ごしやすい季節になりますが、早晩の冷え込みに体調を崩さぬようご自愛ください。
教職から離れて六年、教え子から手紙を受け取るのは初めてのことなので、驚いたというのが正直な感想です。その上、同封された書き物に目を通して、さらに戸惑った次第です。困惑したと表現した方がいいかもしれませんね。たいへん頑張って書かれたと思いますが、当時を知る者としては、やはり首を傾げざるを得ませんでした。それはあなたの創作に対してではなく、書かれてある内容についてです。あまりにも事実と異なるので、それが書き物として適切なのか、理解に苦しむところです。
具体的に以上の点が気になりました。まず実名と仮名の登場人物をないまぜにしてある点ですね。実名をもじった人物もいれば、亡くなった悠木君はそのままの名前で書かれてあります。それがどういった意図でそのようにしたのか、私にはさっぱり分かりませんでした。
もう一点は、こちらがより肝心な点ですが、悠木君は台風による水難事故で亡くなりました。それはあなたもよく知っていることではありませんか。その事実をねじ曲げてまで、同級生の殺害だとするのは大いに問題があります。世の中には現実の事件を題材に書かれた小説というのは少なくありませんが、痛ましい事故を、それがあたかも真実であるかのように見せかけた事件として、本質を塗り替えて書くという話は、あまり聞いたことがありません。それは倫理的にも問題があるのではないでしょうか。
しかし読み終えて、それから一旦冷静になり、なぜあなたが私の元に原稿を寄こしたのかを考えた時に、そこで初めて別の感想を持つことができました。それはつまり、私が事故についての詳細を書くことも含めて、あなたの創作物にしたいという狙いがあるわけですね。リドル・ストーリーで有名なストックトンの『女か虎か?』の形式を踏襲するという趣向でしょうか。そういうことならば喜んであなたの創作活動に協力したいと思います。ただし、私はあなたのように器用に創作するということができません。ですから、私は事実のみを記述するため、このまま手紙という形式で書かせてもらいます。
事故についての詳細を書く前に、あなたの作品について批評します。私はインターネット上のサイトで書評を投稿しているので、ちょっぴり辛口になってしまいますが、それは構いませんね。本来ならば星一つといったところでしょうが、教え子の作品ということで、多少は判断が甘くなってしまいます。さらに故人への気持ちが込められている点を評価したいと思うので、思いきって星を三つ進呈したいと思います。通信簿でいえば「3」です。
減点材料としては、物語の不透明さが挙げられます。終盤から描写が弱くなり、結末に至っては有耶無耶になって終わっています。しかしそれは、あなたが事実を把握していないのだから、描写できないのは当然だと考えられます。致命的な欠陥のようにも受け取れますが、個人の趣味としての範囲内ということもあり、作品の意図が別のところにあることを考慮すれば、大きな疵瑕とは言えないでしょう。
それでも、もう少し私小説の書き方を勉強する必要がありますね。作品と作者の距離が近すぎるきらいがあり、あまりにも自分というものを主張しすぎているように感じました。大人になりきれていない人が、何やら喚き散らしているようで、所々に不快感を抱きました。また、視野が狭く、それが結果的に世界まで窮屈にさせてしまったように思います。詩とアニメが好きなようですが、ただ好きなものを詰め込むのではなく、物語を俯瞰する余裕が欲しいところです。私もアニメを観ますし、それ自体は悪いことではありません。しかしそれだけではなく、たまにでもいいので、古典と呼ばれている文学作品などにも、触れてみてはいかがでしょうか。本物の表現とは、すべて古典の中に存在しているのですよ。
私は夏目漱石が好きですね。特に『こころ』は、何遍も読み返したものです。一人称で書かれた作品ですが、それが決して独り善がりというわけではなく、視点が超然としており、則天去私へと到達した晩年の作品群の中でも、とりわけ重要であることは言うまでもありません。心の機微を丹念に紡いだ文章は、何年経とうと、決して色褪せることはありません。小説を書くのなら、もう少し本を読みましょう。
こうして漱石のことを書いていると、学生時代の頃を思い出します。上京して間借りしたのが馬場下町で、そこは漱石が生まれた場所の近くなんですが、ひとり夏目坂を歩いては、先生のことを考えたものです。神楽坂にある毘沙門天で手を合わせ、その向かいにある文具店で原稿用紙を買い、それを今でも大切にしまっています。懐かしいですね。
昔の授業のように脱線するといけないので話を戻しますが、あなたの作品は最初から最後まで自分しか描かれておらず、結局は登場人物が一人きりなんです。あなたの周りの人間は都合のいい時にしか出てこないので、それだけで周りの人間の存在が希薄に感じられます。観察力には目を見張るものがありますが、それが洞察力には至っておらず、すべてにおいて、あなたが都合よく脇役の性格付けを行ったようにしか感じられませんでした。亡くなった悠木君に対して、いかにも誠実であるかのように宣言していますが、それをわざわざ書くこと自体が、実にあざとい行為のように感じられます。その行為は読む者を真実に導いているかのように見せかけて、実際はあなたが望む解釈に餌をまいて、その道筋に読む者を誘導しているにすぎないのです。それでは、あなたがあとがきで書いた、自分を正当化する人たちと同じではありませんか。批判しているつもりで、自分が批判の的になっている。それもあなたの狙いだとは言わせませんよ。
多少厳しい書き方をしましたが、人の命を扱うこと、ひいては人間を描くことが、いかに大変なことであるかを、あなたに知ってほしかったのです。いくら創作の範囲内であるとはいえ、事故で亡くなった友人を、私小説の道具立てにするのは間違っています。だからといって、あなたが悠木君を小説に利用したとは思っていません。おそらく無自覚だったのでしょう。何事も人の目に触れなければ、分からないということですね。
無自覚な点をもう一つ。それはあとがき部分の記述ですが、あなたは罪を告白しても、それで楽になるつもりはないと書いていますが、実は小説を書いていること自体、自分を楽にしている行為になっているんですが、あなたはそのことにご自分で気がついているのでしょうか? 自分では苦しんでいるつもりでしょうが、極端なまでに自虐的になることで、自分を解放していることに繋がっているんです。あなたが楽になる分にはそれでいいのですが、それで他の人間に迷惑が及んでいることを理解していますか? 作中人物の「先生」とは、もちろん私のことですね。私のことは構いませんが、それで同じく作中人物の滑川豊、榊研二郎、この両名のモデルとなった人物に迷惑が掛かることを考えたのでしょうか? 自分を正当化する人間にはなりたくないとありますが、もう一度考え直す必要がありそうですね。
あなたの作品をひと言で表すと、まさに自己憐憫です。それが自分中心であり、自分本位の考え方の基になっているように感じられます。自省はするが、反省して、そこから心機一転という気概は持ち合わせていない。ありのままの自分を肯定するだけで、進歩を放棄しているかのようです。あなたには向上心というものが、ないのでしょうか。
社会が悪い。学校が悪い。先生がいけない。友達がいけない。両親がいけない。このように考える人は、どんなに立派な両親に恵まれても、今度は祖父母が悪い。さらには先祖がいけないと考えることでしょう。要するに、きりがないのです。あなたのことだから、私が云うまでもなく、自分でも気がついているとは思いますが、もう少し建設的に物事を考えてほしいものです。子供が甘えたならば可愛くも映りますが、大人が甘える姿は見るに堪えません。誰かに社会や会社を変えてもらうのを期待するのではなく、あなたが変えてしまえばいいのです。
お世辞は望まないと思い、はっきりと書きましたが、あなたの創作には賛成です。しかし過去を振り返るだけではなく、そこから学んだ上で、誰からの影響でもない、まったく新しい物語を創造されてはいかがでしょうか。俯くではなく、顔を上げて前を向く。そういう物語を、私は期待します。それが悠木君のためでもあると、先生は考えます。