悠木君の死
その日は、北海道では珍しく台風が上陸した日だった。日本に台風が上陸しても、北海道に接近する頃には、すでに温帯低気圧に変わることが多いのだが、その日は依然として強い勢力を保ったまま北上し、道南の胆振地方に直撃した。二学期が始まり、悠木君が登校して、その姿を見て、ひとまず安堵した数週間後の出来事だった。
吹きつける風の音で目を覚ました。
夜明け前、部屋の中には、まだ薄闇が漂っている。
ふと窓の方を見ると、悠木君が窓を開けて、森を見ていた。
実体と陰の区別がつかないほど、両者は溶け合っている。
僕はその後ろ姿を、しばらく見ていた。
寝間着姿の悠木君があまりに寒そうだった。
気がつくと僕は毛布を掴んでいた。
そして、その毛布で悠木君の身体をくるんでやった。
「シュウ君」
悠木君に名前を呼ばれたのは、いつ以来だろうか。
それを思い出すことができないくらい、久し振りのことだった。
「起こした?」
悠木君が僕の顔を見上げる。
僕は隣で首を横に振る。
「ごめんね」
僕は否定したのに、悠木君は謝った。
その瞬間、僕は胸が痛くなった。
「台風が来そうだよ」
「うん」
森がざわめいている。
「こわい」
悠木君がつぶやいた。
僕も怖かった。
胸のあたりが騒ぎ、落ち着かない気持ちだ。
なぜか不安で、押しつぶされそうになる。
こんな時だから、普段冷たくしている悠木君に寄り添ったのだ。
いつだって、自分勝手にしか振る舞えない僕だった。
「雨が降りそうだね」
「うん」
「風も強くなりそう」
「うん」
出会った頃を思い出した。
僕たちは誰にどう思われるとか、どう見られるとか、そんなことを気にせずに話すことができたのに、たった五か月の間で、それも自然に振る舞うことができなくなってしまった。
「シュウ君、寒くない?」
「大丈夫」
寒かったけど、僕はやせ我慢をした。
すると突然、悠木君は羽織った毛布を広げ、片方の裾を僕の肩に掛けた。そうして僕たちは、一枚の毛布にくるまったのだった。
こんなこと、人目があれば抵抗する僕も、この時だけはそれを許した。不思議と恥ずかしいという気持ちもなかったのである。
僕にとって同性愛者は差別の対象ではない。肉体を求められればきっぱりと拒絶するが、人としての優しさまで拒絶するようなことは、してはいけないと思っている。きれい事ばかり語る僕だから、信用してくれないかもしれないが、それは僕にとっての本心だった。
胸が悪くなるような不快感は、むしろ性差別主義者の方に感じられ、自分はそうあってはならないと強く思うのである。そこまで考えられるにも係わらず、僕は性差別主義者の側に立っていたのだから、やはり信用できない人間なのかもしれない。
「話をしてもいい?」
悠木君は会話をすることも、僕に許可を求めた。
「なに?」
それに対して僕は、あたたかくもつめたくもない、努めて無機質な声音で答えた。
「どうしても、ぼくはシュウ君にあやまりたくて」
耳を疑った。謝るとはどういうことだろうか。その言葉に僕は何も言えなかった。
「シュウ君、ごめんね。ぼくがいけないんだ。ぼくがぼくじゃなければ、こんなにシュウ君を困らせることはなかったのに」
しばらく悠木君と話さないうちに、僕は悠木君の言葉を理解できなくなっていた。まるで意味が分からない。同じ言語を共有しているはずなのに、言葉の意味が理解できないのだ。心の距離が、言葉を見えなくする。
「夏休みの間、ずっと考えていたんだ。シュウ君にあやまらないといけないって。でもなかなか口にすることができなくて、それで今日まであやまることができなかった。ごめんなさい。ああ、やっと言えた。よかった」
その顔に、いつもの笑顔はなかった。
それが悠木君との、最後の会話となった。
土曜日の授業は午前中で終わる。僕が昼食を食べ終えた頃には、すでに外は暴風雨になっていた。玄関から外に顔を出すと、息が出来ないくらいの風が吹いており、強い風に慣れていない僕は、すぐに校舎の中へと引っ込んだ。
土曜日はいつも市立図書館に行くことが習慣になっていたが、その日はやめることにした。思えば土曜日に雨が降るのは、四月から数えてその日が初めてだった。
図書館へ行くことを諦めた僕は、寮部屋に戻るのも気詰まりだったので、校舎にある図書室に行くことにした。
そして渡り廊下を歩いている時、そこで僕は、窓の外に榊と滑川と悠木君の姿を見掛けたのだった。
暴風雨の中、三人は、傘はもちろんだが、雨合羽も着ておらず、校庭の真ん中を突き進み、そのまま森の中に入っていったのだ。
榊と滑川が森の中へ入っていった理由は知っている。その日の朝食の席で、台風で増水した川を見に行こうと、大きな声で話していたからだ。
ごくごく一般の、当たり前と思える常識を持ち合わせている人ならば理解できないだろうが、僕が出会うような人の中には、河川の氾濫や、津波を見に海へ出掛けて行くという人が当然のように存在しているのだ。
榊と滑川は、手に膨らませる前の浮き輪を持っていた。それは自宅通学者に学校へ持ってくるように頼んでおいたものだ。僕はそれを、二人が教室で受け取っているのを見ていた。おそらくそれで川下りでもするのだろう。榊が考えそうなことだと、それを僕は特におかしなことだと思わずに想像した。
しかし、そこに悠木君が加わるというのは理解できなかった。悠木君はそんな危険なことをする人ではない。でも榊と滑川に腕を掴まれているわけではなく、僕には悠木君が、自分の足で歩いているように見えた。それが結果的に僕の判断ミスだったのだが、その時は心に留めても、実際に引き止めようとはしなかったのである。
夕方になるまで図書室にいたが、すでに台風は去っており、雨も風もすっかり止んでいた。寮部屋に戻ろうと渡り廊下に出たが、そこで僕は森から出てくる二人の姿を目撃している。入って行く時は三人で、出てくる時には二人になっていた。そこに悠木君の姿がなかったのだった。
寮部屋に戻っても悠木君の姿はなく、点呼の時間が近づいても部屋に戻ってくる気配が感じられなかった。点呼の時間に間に合わなかったことは、それまでに一度もない。悠木君は決められた時間を大切にする人だ。そこで僕は榊と滑川の寮部屋へと出向き、悠木君について尋ねたが、二人は口を揃えて知らないと答えた。知らないはずはないのだが、榊の語気が強く、僕は気押されて、それ以上尋ねることができずに寮部屋へと引き返した。
点呼の時間が来たので、そこで僕は寮長に悠木君が森に入り、まだ戻らないことを伝えた。それから間もなく警察の車両が到着した。先生も学校へ駆けつけ、僕は職員室で事情を説明することとなった。
しかし僕が話したのは前述したことだけだったので、夕食を済ませるために、すぐに寮へと戻された。榊と滑川の二人については、僕からは何も話さなかった。それは二人が自分から話すと思ったので、僕は黙っていたのだ。決して意図的に黙っていたということはない。
その夜、食事は摂ったが、入浴する気にはなれなかった。夜の寮部屋で一人きりになるのは初めてで、療養室に一人で過ごすのとは、また違った怖さがあった。それは最悪の事態を想像していたというよりも、自分が悪いことをしてしまったという怖さだった。
翌日、教室で悠木君が死んだことを知った。全校集会も開かれ、そこで全生徒にも説明がなされた。悠木君は、榊と滑川に殺されたのだった。