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偽善者  作者: 灰庭論
第一部 小説
11/20

背信

 翌朝、目を覚ました僕の前に、いつもと変わらぬ笑顔の悠木君がいた。いつも通りに挨拶を交わし、いつも通りに食堂に向かう。それはまるで昨夜の出来事が、僕一人が見た夢であるかのように、おそろしく現実感に乏しい朝の風景だった。

 しかし食堂に入った瞬間、昨日の出来事が夢ではないことが分かった。それは悠木君を好奇の目で見つめる視線に気がついたからである。ごく一部の寮生の視線だが、子供というのはそういった視線に敏感だ。おそらく榊と滑川が言いふらしたのだろう。

 その話を聞いた寮生は、世間話程度の認識で耳を傾け、笑いどころでは声をあげて、特に悪気もなく最後まで話を聞いたに違いない。悠木君以外、多くの者にとって、昨夜の出来事は笑い話なのだ。榊や滑川にしてもコミュニケーションの一つぐらいの認識しかなかったのではなかろうか。

 当の悠木君はというと、好奇な視線に気がついているのかどうか分からないが、まったく気にした様子はなく、いつものように小さな口で、きれいに食事をしているのだった。見ると髪がはねていたが、とても似合っていたので黙っていることにした。

 実はこの時、僕はまたしても保身について考えていたのだ。悠木君に向けられた好奇の視線だが、その悠木君と一緒にいる自分まで笑われているような、そんな居心地の悪い感覚である。また、そのように考えてしまう自分の思考回路まで不愉快で、居た堪れない思いにかられるのだった。

 そして僕は、その保身によって、人生で取り返しのつかないことをしてしまうのだった。負が負を呼び込む、まさに負のスパイラルで、負う者は負うようにしか物事を考えられなくなるのである。それは結果がそうさせるのか、原因がそうさせるのか分からないが、負うことから逃れられない点では、どちらも同じである。


 それは数日後の教室での出来事だった。

 その日、僕と悠木君は体育の授業を受けるために教室で体操着に着替えていたのだが、そこでいつものようにゆっくり着替える悠木君を、榊と滑川を含むクラスメイト八名が取り囲んだ。

 榊はお風呂場でやったように、悠木君を抑え込み、滑川が悠木君のズボンを下ろし、さらに穿いているパンツを脱がせ、性器を露出させる。

 それに対して、悠木君は力負けして、抵抗すらできない。周りの者は手を出さず、それを見ているだけだ。僕もその中に含まれる。榊の卑猥な言葉に一同が笑い、滑川のかぶせた冗談にも声を出して笑う。僕もみんなと同じように笑った。

 友だちの悠木君が笑われているその場で、僕も笑ったのである。止めるどころか、注意をするどころか、怒りをぶちまけるどころか、涙を流すどころか、僕はみんなに合わせるために笑った。この場で笑わなければ、僕自身が異質に思われる。それはそれで必死だった。僕は笑った顔を、みんなによく見てもらおうと、声を出して笑った。

 悠木君の性器の形状に対し、榊が下品な言葉で例える。他の者も色や大きさなどを指摘して笑う。下品であればあるほど盛り上がった。僕もみんなのひと言ひと言に、笑顔を崩さなかった。

 それはとても小さな戦争だった。世界の歴史上、もっとも小さな戦争である。北海道の港町にある学校の、狭い教室の中で行われた小さな戦争。しかし僕の人生ではもっとも大きな、一生忘れることができない戦争だった。

 頭の中では間違っていると分かっているのに、声をあげることができない。もしも戦争反対を唱えれば、唱えた者がどうなるかは情報としてすでに知っている。非国民として裁かれてしまうのだ。国家に裁かれ、仲間からは村八分にされる。それを知らなければ勇気を出せたかどうか分からないが、この時の僕は、勇気を出すなんて、そんなバカな真似は考えもしなかった。

 この時の教室の常識は、僕が考える常識ではないのだ。高校一年生の一学期で、もし抵抗を見せれば、それから二年半以上も耐えなければならない。三年で終戦が来ることを知っているので、時期が来るまで辛抱すればよいと、僕は悠木君のことを考えず、自分のことだけを考えた。

 抵抗することが大事だと考える人もいるが、それに成功した人はそれが正しいと思うだろう。しかし抵抗して暴行を受けて命を落とした人にも、僕は同じように話を聞いてみたいのだ。それで同じ意見ならばそれが正しいと僕も認める。しかし、死んだ人間の話は絶対に聞くことができない。死んだ後に遺書を書き変えることは不可能だからである。

 僕は怖気づいて、それで教室の戦争に参加した。狂っていると自覚できるのに、僕は銃を構え、無抵抗の人間に発砲したのだ。この時の僕は、自分が口では戦争反対を唱えても、いざ開戦したら、たやすく戦争に参加してしまう人間だということが分かった。開戦前と開戦後で、ころっと態度を変えてしまう人間だということだ。権力がどこに集中しているかを察知し、その力の強い方に、自分からすり寄ったのである。

 友のためでもなく、家族のためでもない。僕は教室の中の風潮に合わせて戦争に参加した。戦争相手が友だちだろうと、僕は構わず引き金を引く。すべては保身のためだ。中身のない自分を守るために、僕は友を殺すことができる、そんな人間だ。

 僕たちは笑い疲れ、飽きたところで、榊が悠木君を立たせ、その狭い肩に腕を回し、一緒に校庭へと向かったのだった。榊と肩を組む悠木君は、買ってもらったばかりの新しいおもちゃのようで、生きもののようには見えなかった。はたから見れば、とても仲のいい間柄に見えたのではないだろうか。


 その日の夕飯から、僕は悠木君と同じテーブルで食事をしなくなった。廊下を並んで歩くこともなく、寮部屋で話をすることもしなくなった。そんな僕の極端な変化に悠木君もすぐに察したようで、悠木君の方から話し掛けるということもなくなった。そこから息が詰まるような寮部屋生活が始まったのである。

 僕が悠木君への態度を変えた理由は簡単で、悠木君がクラスメイトからオカマと呼ばれ始めたからである。色が白く女性的な悠木君にとって、それはもっとも安直に連想されやすい言葉だった。僕は悠木君が同性愛者ではないことをそれまでの会話で知っている。

 しかしクラスメイトにとって事実か事実でないかは関係ない。からかって遊べれば蔑称なんて何でもいいのだ。それが分かっていたので僕は危惧したわけだ。その時点で僕は悠木君と特に仲良くしていたため、自分も同類にされるのも時間の問題だと考え、急に怖くなってしまったというわけである。

 僕は他人が同性愛者であっても構わないと思っている。しかし自分が同性愛者だと誤解されるのだけは我慢ができなかった。もしも自分が同性愛者ならば、もっと違う次元で悩んでいたかもしれないが、実際は同性愛者ではないので、絶対に否定しなければならないことだと強く思った。

 ただ本音としては、噂などの風評被害によって街を歩くこともできないと想像したためで、同性愛者が差別され、忌み嫌われているという事実を充分に認識しており、それで自分が差別の対象になるのが嫌だったというだけなのかもしれない。つまりここでも僕は保身について考えたのである。

 とてもじゃないが、僕は差別されるのは耐えられない。差別される側に生まれなくて、本当によかったと思っている。中でもホモだと思われるのは男として、もっとも耐えがたい誤解である。悠木君とホモ同士の友だちに見られるのは屈辱的で、それだけはどうしても避けたかった。それで僕は悠木君との付き合いを絶ったのだ。

 僕は特に躊躇することなく、簡単に人を裏切ってしまう人間だ。自分が偽善者と呼ばれないために、他人に偽善者の汚名を着せる。自分がホモと呼ばれないために、オカマと呼ばれる友だちとの付き合いをやめる。根本的に僕は自分のことしか考えられない人間なのだと思う。自分を守るためなら、涙も流さずに、友だちを生け贄に捧げてしまう。

 自分では差別なんかしたくないと思っているのにも係わらず、自分が差別される側になりそうだと感じると、途端に差別する側の人間に身をひるがえす。そうすることでしか自分を守れないのである。

 さらに守るだけでは不安だから、生け贄にされた人に非があるかのようにレッテルを張るのだ。偽善者やホモは社会悪だと主張しておけば、それなりに立派に思ってくれる人がいる。差別されないために差別するというのが、一番楽で、安全な近道なのだ。僕は、どこまでも自分を守ることしか考えられない人間なのだ。

 よく耳にする「いじめられる側にも問題がある」という言葉があるが、そんなものは僕たちのように卑怯な人間が使う常とう句で、自分を正当化させる言い訳だということは百も承知している。全部知っていて使っているのだ。他人をいじめるような卑劣な人間に、正論などあるはずがなく、防衛本能という言葉と二点セットで大事にしているのである。

 他にも「弱いからいじめられる」という言葉があるが、それも重宝している。そう言えば大抵の人を納得させることができるからだ。世の中は厳しく、甘えてはいけないと、教育評論家気取りの僕が便利に利用する、説教では欠かせない言葉の一つだ。達観することで、逆にいじめという厳しい現実から目を逸らすことができる。本当に便利な言葉なのである。

 いじめをする僕や、いじめを見て見ぬふりをする、僕みたいな人間のクズの話を、まともに聞く人はいないと思うけど、僕たちは口だけはうまいから、案外と世の中を騙せていると思っている。多くの人は他人のいじめに無関心だから、そういう人は僕みたいなクズを、逆に応援してくれたり、同調してくれたりする。

 世の中は逆さまにできているから、加害者が多ければ多いほど、僕みたいなクズの方を守ってくれるのだ。加害者に傍観者で、鬼に金棒である。ありがたいというか、おめでたい話である。

 世の中は甘くないといって被害者を非難し、僕のような人間のクズを甘やかしてくれるのだから、厳しい現実主義者には感謝したい。加害者の方が得をするって、僕は子供の頃から知っているわけで、説教好きの大人のご機嫌取りは、お手の物というわけだ。

 結局はみんな達観して、現実のいじめ問題から目を逸らしたいのが本音だろう。小説やテレビでいじめ問題を扱えば、その時だけ真剣に考えるのだ。それで偉そうに評論家を気取る。「いや、被害者にも問題が」などと、いかにも世の中は単純ではないことをアピールする。僕みたいなクズは、それを聞いてペロッと舌を出す。

 悟りほど楽なものはない。若いうちに悟りを開いて、達観した気になれば、自分でいじめ問題に取り組む為に、行動を起こさなくて済むからで、多くの大人がそうしているように、子供が真似をするのは当然である。自分が解決できない問題を、子供に解決させるのは虫がいい話というものだ。僕は自分のことを正直に話しているのだから、これ以上の説得力はないだろう。


 小学校の五、六年生の時に、同じクラスだったYさんには手を焼かされた。

 Yさんというのはとにかく嘘つきで、すぐにバレるような嘘を平気でつくような子だった。それで同性からはもちろん、あまり話すことのない男子からも嫌われていた。自意識過剰とはYさんのことを表す言葉だと思えるくらい、ぴったり当てはまる言葉だと思う。クラスメイトと喧嘩をしてはいじめられたと被害者のふりをして、大人を味方につけては、僕たちクラスメイトを悪者に仕立て上げる。すべてがすべて、そんな調子だった。

 そんなことだから僕たちはYさんに愛想を尽かし、誰も話し掛けなくなるのだが、そうすると今度は無視されたと、泣いてわめき散らすといった有様である。Yさんは僕たちにいじめられたと思い込んで、悲劇のヒロインに浸っていたが、その時いじめられたのは、僕たちクラスメイト全員の方である。

 なぜ僕がYさんのことを思い出したかというと、いじめの認識にはズレが生じてしまうということが言いたかったからだ。つまりYさんのケースと、悠木君がいじめの被害者になった今回のケースを同列では語れないということである。

 いじめられる側にも問題がある。僕はこの言葉を悠木君に対して使うことはできない。この言葉を安易に用いるということは、悠木君だけではなく、面識のない罪のない人間につばを吐きかける行為と一緒だからである。

 わずか数例の実体験で語るのも誤解を招くし、それは本質を煙に巻く行為にもなってしまうのだ。それは口先だけで問題を解決してやろうという浅知恵のようなもので、その言葉を安易に用いる人を見つけたら思った方がいい、その人は僕のようにやましいことをひた隠しにしている人間だと。

 いじめが百あったら、百通りのいじめがあると思って間違いない。百通りに効く万能薬など存在せず、すべて個別に存在していると認識すべきだ。小説やテレビで、偉そうに文芸の作家が得意気に語ったり、小手先で表現したりしても、なにも解決しない。

 対岸の火事と一緒で、安全な場所から、焼け死ぬ人間をスケッチしているにすぎないのだ。そこにいても本当の痛みや叫び声は聞こえない。火の中に飛び込まない限り、火の中は見えないのである。本物の表現とは、つまりそういうことだ。泣きながら書いたなどと感傷に浸るのではなく、大やけどをしてでも、火の中を描かなければならない。

 読者にしても、視聴者にしても、イジメを扱った小説を読んだり、テレビを観て、インターネットの掲示板やブログに涙を流したなんて感想を書き込んで、それで私はいじめ問題に向き合っていると思ったら、大きな、大きすぎる間違いである。

 安全なところにいる人間の書いた本を、安全なところにいる読者が読む。それで「大変ね、でも、これ本当のこと?」などと、次の日には、本を読んだことすら、すっかり忘れてしまうのだ。

 だから結局は、子供たちの目を見て、話をするしか解決する方法はないということだ。そう断言することができる。

 いじめられたふりをする人もいれば、僕のように自分を正当化する加害者もいる。頭の働く加害者は、僕なんかより、もっと強固な姿勢で理論武装してしまう。それに頭の足りない僕のような加害者が安易に乗っかる。

 弱者の立場で脅す人もいるから、何をどう考え、誰を信じていいのか分からなくなると思うけど、僕は目を見れば分かると思っている。だから目を見ることのできない問題については、知ったかぶりをせず、偉そうにしない。知らないうちに、無自覚に、自分が加害者になっているということが、世の中ではよくあることだからだ。

 それから僕は悠木君とは話らしい話をせず、一学期の残りを過ごした。トイレで小用を足している悠木君の尻を、榊が蹴飛ばしたという話を聞いても、僕は何もすることができなかった。滑川から髪の毛にガムをくっつけられるという、ひどく子供じみたいやがらせを受けた悠木君に対しても、僕は知らないふりをし続けた。

 不思議なことに、クラスメイトは僕が入学以来、悠木君と仲が良かったことを忘れてしまったかのように僕と接するのだった。

 それどころか、どこまで本当か分からないけれど、ホモと同室になった僕に同情までするのだ。僕やクラスメイトたちは、互いに悠木君がいじめられていることから目を逸らすようにしていた。すべては冗談で、僕たちにとっては笑いの延長線上の出来事にすぎないと思い込むようにしているというわけだ。卒業までのノリのいいコミュニケーションである。

 そんな僕たちに対し、悠木君はじっと耐え、榊に蹴られても、相変わらずニコニコしていた。その笑った顔を見て、榊はさらに嬉しそうに悠木君を叩いた。

 正直、僕じゃなくて良かったと思ったのが事実である。榊にしてみれば、いわゆるかわいがっているとでも思っているのだろうが、榊もまた喜瀬同様、相手を取り違えている。榊のノリに応えられるのは悠木君ではないのだ。

 榊自身が限度を知らず、望まない相手、または体格差のある人間に組手を強要するのは、相手にとって一方的な暴力と変わらない。スポーツマン崩れの、体育会系という中途半端な言葉を好む人間がよくやることだ。相手が悠木君ではなく、ガタイがいい後輩ならば、ひょっとしたらいじめの構図にはならなかったかもしれない。

 でもそんな人間のクズである榊を、わざわざ弁護してやる必要もない。僕みたいな人間のクズが、榊や滑川みたいな人間のクズを弁護するのは、弁護と言わず、犯罪のほう助に他ならないからだ。

 これは実社会と同じく、やはり弁護する人や裁く人というのは、資格を持った人間でなければならない。知識のないものは、利用される道具へと変わってしまうからである。

 滑川のエリート崩れに、榊のスポーツマン崩れと、どちらも中途半端な人間が、大きな声で、大きな顔をして、たくさんの人に迷惑を掛ける。それを中途半端な正義感をくすぶらせている僕が、離れたところで黙って見ているのである。

 誰かが注意してくれたら僕も注意ができるのに、などと互いをけん制し合っているのだ。僕も滑川も榊もみんな、みんな同罪だと知っているのに、それでも僕は、まだ榊よりは悪くないと考えて、土壇場に追い込まれても尚、逃げようとする。

 それはいじめが犯罪だと知っているからである。僕みたいな人間のクズでも、その事実を知っている。小学生や中学生が分からないと思ったら大間違いだ。暴行も恐喝も精神的苦痛も全部知っている。それを知りつつ、「イジメ」という言葉で曖昧にしているのだ。

 それで大人がしきりに犯罪をいじめと呼ぶ姿を見ては、僕みたいな人間のクズは、一人ほくそ笑むのだが、してやったりである。その上、いじめという名の犯罪を被害者のせいにしてくれるのだから、バンザイである。本当の犯罪者を甘やかしておいて、住みづらい世の中だと嘆くのだから、ありがとうである。

 かなり昔に「いじめはカッコ悪い」という標語があったが、それを見て僕のような人間は大笑いする。いじめは犯罪ではないと言ってくれているのだ。これほど加害者を楽にしてくれる言葉もないというわけだ。

 いじめが犯罪じゃないのだから、いじめた側は加害者と思わなくてもいいはずだ。何から何まで、いじめた側が助かる強者の仕組みが強固に構築されているのである。罪を犯した人間にとって、これほど住みやすい世の中はないということだ。

 改めて言うが、いじめはただの犯罪である。


 悠木君と寮部屋で二人きりになるのは気詰まりなので、僕はなるべく一人になれるように図書室へと逃げた。寮部屋に戻る時間になったら、会話から逃げるように、そこでも本を読んだり、自習をしたりして、悠木君から逃げた。

 悠木君は僕が逃げていること、つまり故意に避けていることを感じていたと思う。おそらく無視されていると思ったことだろう。事実、無視していたのだから、そのように感じても無理はない。

 それでも「おはよう」と「おやすみ」の挨拶だけは変わらなかった。それを僕は、目を合わさずに挨拶を返すのだが、挨拶をする悠木君の表情は、笑顔だということを知っている。

 やがて一学期の終業式を迎えたが、それまでおそろしく長いと感じていた日々が、大人になって振り返った今、そこだけ記憶が抜け落ちていることが分かる。それが映像ではなく、断片的な絵としか残っていないのだ。

 高一の夏休みに何をしていたのか思い出すことができず、こんなことなら日記をつけておけば良かったと思うが、嫌な思いしか書き残すことしかできなかったと思うので、やはり日記を書かなくて良かったと思い直す。

 嫌な思いとは、夏休みで実家に戻った悠木君が、二学期に寮へと戻ってくるかという不安である。僕のクラスでは一学期が終わる前に、すでに二名のクラスメイトが退学していた。その二人のことを考えるのは大人になってからで、当時は辞めたクラスメイトに対し、なんの気持ちも抱かなかった。

 その二人の将来など考えることもなく、学校を辞めてどうするのだろうと心配するでもなく、何も考えなかった。辞めた二人の名字くらいしか知らず、声など思い出すこともできない。学校を辞めた二人の家族についても、当然考えが及ぶことはないのである。

 今の僕なら必死で説得していただろうか。どんなことがあっても、どう思われようと、絶対に学校を卒業させようと、頭の中だけで考える。

 それを十年経って初めて思うのだった。何を考えるにしても、何をするにしても、とにかく僕はとろい。手遅れになってから初めて、手遅れだったことを理解するのだ。

 大学進学で悩み、ひたすら努力する同年代の高校生とは、まるで違う世界で生きているのが僕たちの教室だった。手が届かないくらい高い所にいる喜瀬は別にして、地べたを這う僕たちは、互いをゴミ扱いし、バカにし合っていた。

 ちょっとでも上に行こうものなら、その者のハシゴを蹴飛ばして、酒を強要して酔っ払わせてしまうのだった。そうして未成年で酩酊し、高揚感を覚えた僕たちは、みんなで前後不覚になり、酔いからさめた時に、社会や、そこで暮らす人々へ逆恨みするようになるのである。

 ときどき降って湧いたように、世間を逆恨みする凶悪犯罪が起こるが、ああいったことをする犯人は、僕のような人である。


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