榊研二郎 (さかき けんじろう)
どこにでもおもしろい人間はいる。笑いを自家発電できる人で、クラスメイトを笑わせて楽しませてくれる人のことだ。そういう人は大抵クラスの人気者になり、教室を明るくしてくれるもので、ちょうど僕が小学校の五年、六年の時に同じクラスにいたN君がそうだった。
N君は授業中だろうとホームルームだろうと、笑いを取ることを忘れなかった。先生をおちょくっては怒られていたが、それくらいで懲りることはなかった。六年生に上がって担任が変わるまで、その先生の前ではおどけつづけ、僕たちを楽しませてくれた。
いま思えば、N君にとって先生に叱られるところまでがN君の笑いだったのかもしれない。先生に怒られるN君の姿まで僕たちは笑っていたので、N君はちゃんと計算していたように思われる。それは先生も同じで、怖い先生だったけど、僕たちが笑うことについては一切注意しなかった。
そんなN君も六年生に上がり、クラス担任が変わってからはあまりふざけなくなった。その先生はとても気が優しくて、温厚だったので、先生を茶化しても僕たちはあまり笑うことができなかったのである。それを一番分かっていたのがN君だったに違いない。張り合いをなくし、なんだか寂しそうだった六年生のN君の姿が、今でも忘れられないでいる。
僕が子供の頃には、すでにもう道化師が見下される存在ではなくなっていた。話には聞くが、本当に蔑まれていた時代があったのかと疑うほど、人気のある職業になっていた。それは見る人にもよるが、少なくとも僕の目には華やかな世界に住む人のように映っていた。ここでいう道化師とは、具体的にどのような人たちを指すのか、その直接的な表現は避けるが、言葉通り、サーカスのピエロではないということだけは、始めに断っておく必要がある。
シェークスピアの作品に出てくるような王様に仕える道化師は、今の世の中には存在しない。なぜなら彼ら道化師は、とうの昔に化粧を落とし、素顔をさらしてしまったからである。素顔をさらした道化師の身の振り方は様々だ。
ある者は為政者になり、ある者は経営者になり、ある者は首に勲章をぶらさげる。また、自ら王様になった者もいるほどである。それはそれで立派なことだと思う。でも他の人の印象は知らないが、少なくとも僕はもう彼らを見て笑うことはない。
僕が笑えるのは、化粧をしたまま素顔をさらさない頑固者だけだ。己の芸道に邁進する人なら、有名、無名は問うことはない。まるで化石のような人たちだが、それゆえ価値が増すというものだ。劇場の大きさや客の質ではなく、演者自身の生き方に、僕はしびれてしまう。
僕が一番笑えないのは、道化師のふりをしたエセ道化師である。肩書だけ大事そうに抱え、主君の庇護下で、まるで忠誠を誓った家臣のように安全に暮らし、常に同輩と下っ端で馴れ合っている者たちだ。
そのような、王様に皮肉の一つも言えず、弱者を笑いものにしかできない腰抜けに、一体誰が笑うというのだろう。強者のふりをした弱者も、弱者のふりをした強者も、どちらも笑えない存在だ。
道化師を志すなら、化粧の下の素顔をさらしてはいけない。素顔をさらすなら、二度と化粧をしてはいけない。その化粧はなんのために施すのか、自問する必要がある。人を笑わせるためなのか、それとも自分たちの地位を向上させるための道具にすぎないのか、両方選べないからこそ価値がある。
しかしながら、笑いについて偉そうに語ってはいるが、僕が口先だけの人間だということは、自分が一番よく分かっている。痛がっている人や、悲惨な状況に追い込まれている人を見ては笑い、高みの見物よろしく手を叩き、腹を抱えて笑う人間が僕である。つまりそのエセ道化師とは自分のことなのだ。
それについて僕は自己弁護するつもりも、開き直るつもりもない。僕にはどうしても温かい気持ちとは別に、どうしようもなく冷たい気持ちがあるからだ。それは装置のようなもので、時に人を傷つけるが、時に逆境に立つ自分をどん底から這い上がらせることをも可能にしてしまう。
生の喜びと死の恐怖が隣り合わせのように、笑いも有難いばかりではなく、時に残酷なものへと変容するものだ。裏と表でコロコロと目まぐるしく変わるという本質は、まるで僕の存在そのものようにも思える。
生命の神秘に感動する人間が、別な場所では苦悶の表情を浮かべる人間を見てバカ笑いする。信じがたいことに、それらはとても同じ人間とは思えないが、どちらも紛れもなく、僕という一人の人間なのだ。
今でも、ようちゃんにはすまないことをしたと思っている。
ようちゃんというのは、幼稚園から中学を卒業するまで一緒に遊んでいた近所の友だちのことだ。その幼なじみのようちゃんを、僕は泣かせるまで笑ったことがある。
小学校の三年生の時にショッピングモールで水風船を見つけ、攻撃的な遊びが好きな僕は、すぐさまそれに飛びついた。そして別の友だちと二人で、ようちゃんに水風船をぶつけて遊んだのだ。
逃げるようちゃんを見ては笑い、全身びしょぬれになった姿を見てさらに笑う。僕たちはようちゃんが泣き出すまで水風船爆弾を投げ続けた。
しかし、ようちゃんが泣いたところで、さっきまでの笑いが胸糞の悪い気持ちに変わった。友だちと二人でようちゃんに謝ったが、ようちゃんは返事もせずに家路へと向かった。その後ろ姿を見て、さらに吐き気や怖さを感じた。
ようちゃんとはそれからも友だちで、中学時代は毎日一緒に登校するほど仲が良かったが、僕の心にはいつまでもその時の胸糞悪い気持ちが残っていた。
思えばそれ以来、友だちを泣かせたということはなくなったが、それをようちゃんのおかげだと考えるのは、それも独善的すぎる考え方のようで気分が悪くなる。ようちゃんに対しては、やはり今でもすまないと思うのだ。
ようちゃんが今でも憶えているかどうかは分からないが、僕は一生忘れることはないと思う。ようちゃんにとっても一生忘れることができない出来事だとしたら、それもやはり僕は申し訳なく思い、気持ちが悪くなる。もし、ようちゃんのトラウマにでもなっていたらと考えてしまうからだ。
僕は友だちだろうが家族だろうが、平気で傷つけてしまう人間で、実際に人を傷つけるまで、他人の痛みを感知できない鈍い男である。情報として頭に取り入れても、すべて経験してからでないと理解できない人間だ。僕のような人間が犯罪を起こしやすいということを、自分でもよく理解している。
そんな僕だから、境界線ばかり気になっていたのだ。友だちの境界線、世間との境界線。他人との境界線、大人と子供の境界線、どんなものでも線が気になった。
線がなければ、家族が相手だろうと家の中に線を引いてしまうのだ。神経質に線を引くものだから、自分のテリトリーを自分で狭くしているのだが、そんなこともお構いなく線を引いた。そして境界線の内側を必死に守るのだ。その中に守るもなど何もないというのに。
学校の教室でも変わらなかった。そこでも僕は境界線ばかり気にしていた。そこにあるのは笑いの境界線だったり、プロと素人の境界線だったり、犯罪の境界線だったりする。
そして、その境界線を無神経に超える人間に、僕は不快感を覚えるのだ。僕のように神経質なのはどうかと思うが、反対に榊のように無神経なのもどうかと思ってしまうのである。
榊は意味もなくクラスメイトのわき腹にパンチを入れて笑う男だ。それでクラスメイトが痛がれば嬉しそうな顔をする。また、クラスメイトに浸透しないようなあだ名をつけるのも好んだ。榊にとって悪口は大事なコミュニケーションの一つなのだ。
上背があり、体格もがっしりしている。それだけで威圧感があった。一応は運動部に所属しているが、どういったスポーツをしていたのかは、練習している姿を一度も見たことがないので分からなかった。滑川も同じ部活をしていたと思うが同様である。
僕が悠木君といつも二人でいるように、榊はいつも滑川と行動を共にしていた。教室では喜瀬と一緒に固まっているが、喜瀬は授業が終わると剣道部の練習があるので、二人が暇を持て余すのだ。部活の練習もせず、寮部屋で自習をすることもなく、校舎別館の運動部の部室で仲間とたむろするのである。
僕は榊がクラスメイトのわき腹を小突こうが、肩をパンチしようが、変なあだ名をつけようが別に気にならなかった。クラスメイトを使い走りにしているのを見かけても、自分とは関係ないと思い、なるべくかかわらないようにしようと気をつけただけだ。榊の発した言葉で笑ったこともあるし、クラスメイトも笑い、事実として教室を明るくしていたと思う。本人もご機嫌だったに違いない。
しかし、あの風呂場での出来事は、まさしく境界線を越えた行為だったと思う。喜瀬が悠木君を偽善者と呼んだところから始まり、滑川が悠木君を標的にして、榊が悠木君を辱めたのだ。
寮のお風呂は大衆浴場と一緒で、夜の自習が始まる前までに入浴することが決まっている。ちょうど夕食を摂る時間と重なっていて、悠木君はいつも食事を終えるのが遅かったので、僕たちが最後に入浴することが多かった。
本来は全学年の寮生が同時に利用するので、大浴場は混み合うはずだが、開校初年度で上級生がおらず、さらに寮生が定員に満たないということで、僕と悠木君の貸し切りという状態も珍しくなかった。
その日、僕と悠木君は、いつものように大浴場が閉まる直前まで入浴していた。僕たちの他に利用者はおらず、時間を気にすることなく、のんびり湯に浸かっていたのだ。
すると突然、そこに榊と滑川が現われた。それは通常なら驚くことではないのだが、入学してから三か月経つが、それまで一度も大浴場で顔を合わせたことがなかったので、面食らってしまったのだ。
榊と滑川がニヤついた顔で、悠木君に向かって歩いてくる。
「おまえ、まだ生えてないんだって?」
榊が悠木君を見下ろして、滑川がその後ろで笑う。
「男のくせに腰にタオル巻いてるしよ」
どちらも榊の言葉通りだった。入学当初は何人か見掛けたが、今は身体の前をタオルで押さえる寮生は一人もいないので、悠木君だけが例外だった。おそらく榊が身体について指摘したことを気にして、ずっと隠しているのだと思う。
僕は入学当初から榊が指摘した部分のことを知っていたが、そのことを悠木君に直接話したことはない。本人が気にしていると、そんなことは誰にでも分かることだからだ。
悠木君は腰にあてたタオルを両手で押さえている。
「なぁ、ちゃんと生えてんの?」
榊がしつこく尋ねるのだった。
「普通の高校生なら、もう生えてるだろ?」
滑川も追随した。
その問い掛けに、悠木君は一切反応しない。
それに業を煮やした榊が、悠木君に詰め寄る。
悠木君はタオルを取られないように、前屈みになる。
対して榊は笑いながら、タオルを強引に引っ張りあげる。
悠木君は力いっぱい抵抗したが、榊の前蹴りを食らってしまった。
その瞬間、床に倒れた悠木君の、性器があらわになる。
それを見て、榊と滑川は、大笑いするのだった。
クラスメイトの性器を見て、笑っている。
二人とも、とても楽しそうだった。
滑川は榊の冗談に手を叩いて笑う。
笑わせた榊は、得意げな顔をしていた。
悠木君が脱衣所の方に歩いて行く。
榊が悠木君の尻を、意味なく蹴りあげる。
蹴られた悠木君が、床に倒れる。
滑川がそれを見て、大笑いしながら喜ぶ。
悠木君が、黙って脱衣所に入る。
榊と滑川は、さらに口汚い言葉を吐く。
僕は、何もできなかった。
何も口にできなかった。
二人を止めることができなかった。
悠木君を助けることができなかった。
黙って見ていることしかできなかった。
これが僕の真実の姿だ。
僕は床に落ちているタオルを拾って、大浴場を出た。
寮部屋に戻ると、悠木君はベッドで横になり、布団を頭からかぶっていた。それから点呼があるまで口を開かず、僕が声を掛けても反応することはなかった。
一人にさせてあげたいのと、一人にさせたくないのと、僕はそのどちらもすることもできずにいた。掛ける言葉も思いつかず、一度名前を呼んでから、その後は口を開いていない。
僕ができることは、部屋の明かりを消すことくらいしかなかった。
その夜、僕はなかなか寝付けず、同じことばかり考えた。
みんなから臭いと陰口を叩かれていたMさん。みんなからからかわれていたO君。持ち物を隠されて泣いていたT君。手首の骨折を自分の不注意だと嘘をついたA君。誰からも話し掛けられずに暗いと言われたSさん。転校して一度も口を開かずに転校していったS君。
僕はすべて知っていた。
親から叩かれているクラスメイト。新しい靴も買えない貧乏なクラスメイト。自分の身体を傷つけているクラスメイト。彼ら彼女らが学校を休み、冷たい机と椅子があり、教室が穴だらけになっているというのに、僕は何もできなかった。その人たちの人生がどうなろうと、一切考えなかったのである。それで僕はいじめの当事者ではないという一点で、自分は悪くないと正当化した。
休んだクラスメイトの家に行って、学校に来るようにと優しい言葉を掛けて、自分はノルマを果たしたと感じていた。これで何があっても、自分は最低限のことはしたんだと申し開きができる。
すべてはポーズで、人から見られた時のスマートさを考えていたのだ。自分の力不足や、自分にはどうすることもできないことがあると悟った気になるのも、すべて僕の自己弁護にすぎない。