はしがき
この作品は、僕が小説家の真似事をして書いたものです。ですから、これが小説と呼べるのか、それとも個人の回想録なのか、はたまた単なる雑文なのかは、自分自身で判別することができません。無責任は充分承知していますが、それは目を通していただいた方に、すべての判断を委ねたいと思っています。
なぜこのように不甲斐ない前置きをするかというと、僕には小説家という自覚がないため、自分が書いた文字の羅列が、書店に並んでいるような小説になっているとは、どうしても思うことができないからです。それは依頼されて、仕事として書いたものではないということもありますが、それよりも自分のことを生来の小説家だと思い込むことができないところに、その最たる理由があります。
売れなくても絵画は絵画であり、聴衆がいなくても音楽は音楽なのだから、商品化されなくても小説は小説だと、そのように威勢よく胸を張ることができれば、僕もこれほど卑小に考えることもないのですが、実際のところは芸術も娯楽もまったく理解していないというだけなのです。趣味と呼べるほど本を読んでおらず、学問といえるほど研究した訳ではない。僕は一般人として、この作品を執筆しました。
そこで僕は、読者の方がこれから本作を読まれる前に、この物語の内容について、前もって簡単に説明しておこうと考えました。それが僕にできる、せめてもの親切だと思ったからです。そうすることにより、読者の方に無駄な時間を浪費させなくて済むのではないかと考えました。いくら僕が、無駄な部分に人生の醍醐味があると思っていても、それをすべての読者に強要したくはありませんので。
本来ならば、刺激的な煽り文句や読者の購買意欲をそそるようなキャッチコピーの一つでも思いつくことができれば良いのですが、それをせずに最初から手の内を全部さらけ出すことしかできないのだから、どうやら僕は生粋の職業作家にもなれないようです。また誇大広告に釣られやすい方も、読み終わった後に文句を言う前に、ここで読むのをやめてしまった方が無駄なストレスを抱えずに済みます。この作品は、一般人の手によって書かれたものにすぎないのですから。
この作品は、僕が高校時代に同級生を殺してしまった時の話です。何の罪に問われることもなく、一切の刑罰を受けることもなく、十年という歳月だけが流れました。僕はその出来事を、ここに正直、かつ正確に記したつもりです。嘘偽りがないことを証明するのはとても難しいのですが、僕はそれを死んだ悠木君に対して誓うことができます。
この作品は娯楽小説のように、物語に起伏があるわけではありません。それは僕が読者の興をさかすように書かなかったからです。それは工夫する技術がないという根本的な問題もありますが、第一は物語の性格上、作為的な創意工夫に抵抗を覚えるからです。ですから僕は、この作品を悠木君との出会いから死までを順番通りに書くことにしたのです。それが僕の悠木君に対する真っ直ぐな気持ちであり、命を描くことへの責任、並びに死者に対する尊厳だと考えたからです。
また推理小説のように、意外な犯人が登場することはありません。僕が加害者、つまりは犯人であり、被害者は悠木君で、そのように最初から最後まで決まっています。読者が推理する余地はありませんし、論理的に事件が解決されるわけでもありません。さらに推理小説のように、探偵が登場して真相を見抜くということもありません。物語の終盤に真相が二転三転することもありませんし、予想できない結末が待っているわけでもありません。
娯楽小説でもなければ、学芸書でもない。この作品はプロの小説家ではない人間、また学者ではない人間が書いた作品で、現在この本を手にしている読者と変わらない人間が書いた作品にすぎないのです。裏を返せば、本作はプロの小説家や学者には書けない作品とも言えますが、そこに優位性があるとは思っていません。発想や技術にかかわる問題とは別に、僕は悠木君に対して、正直に書いたという思いしかないからです。
読者を選ぶつもりは毛頭ありませんが、すべての読者を満足させる自信はありません。ですから僕は、このような作者にとって都合のよい言い訳を並べているわけです。高校一年生の狭い世界を描いた作品なので、これから読まれる方は、ここで判断すると人生の時間を節約することができます。
繰り返しますが、これは読者への挑戦状ではありません。ここまでしつこく書いても、ミステリーを好むような読者は、まだ叙述トリックを疑う方もいるかもしれませんが、そういった仕掛けは一切用意しておりません。ついでに書き加えておくと、この作品は密室トリックもなければ、アリバイトリックもありません。倒叙ミステリーという趣向でもありませんし、アンチミステリーという大それた企みもありません。
ここまでの説明で、本作がどのような性格の作品かご理解いただけたと思います。ここには偽善者と呼ばれた悠木君の死について書かれてあるだけなのです。それは一人の人間の死と向き合うとはどういうことか、僕なりに考えて出した結論でもあります。娯楽のためのミステリーではなく、学問のための文学でもない。たった一人のために書かれたのが、この作品です。