勝山記
平成25年(2013)6月、富士山が世界文化遺産に登録された際に構成資産の一つとして富士御室浅間神社も包括された。富士山二合目から、ここ里宮の境内へ移置された本宮の本殿は、慶長17年(1612)に鳥居成次により建立されたが、その流麗かつ気品が漂う一間社入母屋造りは桃山時代を代表する建築物である。この本殿をはじめとする文化財を多く所蔵しており、信玄の願文をはじめとする古文書の中に「勝山記」がある。
富士御室浅間神社が所蔵する「勝山記」は、師安(私年号・敏達天皇6年西暦564)から記述が始まり、永禄2年(1559)に至るまでの甲斐国とその周辺で起きた合戦、災害、流行病、飢饉、農産物の出来具合、物価、富士参詣などの出来事を記した年代記である。特に武田、北条、今川などの戦国大名の動向を克明に記録していることから戦国時代を研究する上で第一級の史料として扱われている。日蓮宗の僧侶によって代々書き継ぎられたもので、本書は慶長年間(1596~1615)に筆写されたものとされている。江戸時代後期に作成された「甲斐国志」に収録された際に地名を冠して「勝山記」と名付けられた。また内容を同じくする異本として「妙法寺記」がある。江戸時代の文化人として知られる小山田与清が甲斐国吉田の神官田辺重斐から借り受けて筆写し、記録が文正元年から始まり永禄4年に終えているので、当初「文正永禄間記」と名付けたが、日蓮宗妙法寺(河口湖町)の住職が記録したと考えたので「妙法寺記録」とし、文政9年(1826)に「妙法寺記」と改題して刊行されている。また「続群書類従」に収載される際には、これを底本とし、暦応元年(1338)までの記録を「勝山記」から引用する形で追加され「妙法寺記」と題し広く知られることとなった。私も初めて接したのはこの「妙法寺記」であり、「勝山記」は知ってはいたが異本であろうと認識していた。ところが、平成3年に富士吉田市から刊行された「妙法寺記」を読んだことから、題名や成立時期を巡って歴史家の間で「鶏が先か、卵が先か」という元祖争いが地域をも巻き込んで展開されていたことを知った。「妙法寺記」とするか「勝山記」とするかの論争が起きるほど、歴史家から注目されてきたわけだが、現在では「勝山記」の方に軍配が上がっている。そうした研究者の論争より、記述内容を検討することが最も重要であると思うが、研究者はそこを避けて通れないのだろう。ここでは「勝山記」と統一する。
富士御室浅間神社の参道脇に勝山歴史民俗資料館があり「勝山記」のレプリカが所蔵されている。
「勝山記」は横帖と呼ばれる冊子で、手に取ってみるにはちょうどよい携帯用のスケッチブック程度の大きさだ。本文は73丁からなり、山梨県の文化財に指定された際に裏打ちされ「勝山記」と書いた題箋が附せられた。天文18年の項に目的の記事が記されている。
「此年ノ夘月十四日ノ夜中ノ比、ナイユリ申候事、言語道断、不及言説ニ候、五十二年サキノナイ程ト申伝へ候、余リノ不思議サニ書付申候、以上十ケハカリユリトヲシニユリ申候」
すなわち、天文18年4月14日の深夜に大地震が発生し、10日間ばかり余震が続いたという。わずか74文字に過ぎないが、いろいろな情報が詰まっている。まず、4月14日は新暦で5月11日に当たるため、ちょうど田植えの時期に起きたことがわかる。発生した時刻は深い眠りにつく深夜零時前後だ。「ナイユリ」とは「ナイ」は「大地」で、「ユリ」は「揺れ」を意味することから大地鳴動した地震のことを指し、その揺れのありさまは言葉を失うほどであり、10日ばかりにわたり余震が続いたとしている。また「五十二年サキノ」とは明応7年(1498)8月25日に発生した明応地震のことを指している。この時の地震では、同時に発生した大津波によって関東から紀伊半島の広い範囲にかけて甚大な被害があったことが諸記録からわかっている。天文18年の大地震の記述については「勝山記」以外に見いだされていないため、震源地は不詳とするしかないが、河口湖を初め甲州、駿河、相模、武蔵などでも地震による被害があったと思われる。
改めて、冒頭から「勝山記」に目を通してゆくとほかにも地震の記録が出てくる。
まず、金光6年(574)の項に「大地震」とのみある。その後しばらく空いて、永享5年(1433)9月15日夜大震の記事があり、次いで明応7年(1495)8月25日(新暦9月13日)、前述した明応地震の記録が見られる。
「八月二五日辰尅ニ大地振動して日本国中堂塔乃至諸家悉頽レ落 大海辺リハ皆々打浪ニ引レテ伊豆ノ浦ヘ悉ク死失 又小河悉損失ス」
午前8時頃起きた大地震と津波により日本全国に被害が及んだと書かれている。さらに8月28日(新暦9月15日)午後4時頃、大風雨によって「当方の西海長浜同大田輪大原悉ク壁ニヲサレテ人々死ル事大半ニ過ヘタリ アシワタ小海ノイハウ(岩)皆悉ク流テ白山ト成申候」とあるから、地震で地盤が緩んだところへ大雨が降って河口湖周辺でがけ崩れが発生し死者が出たことがわかる。明応8年1月5日(新暦1月20日)の項にも「大地振動スル也」とあり、翌年の明応9年の冒頭にはたびたび地震があったとも伝えている。さらに6月4日(新暦7月3日)には大地震が起こり、明応6年に発生した地震を超える大きさだとし、昼夜を問わず地震が続いたと記している。天文5年(1536)1月には「ナイ細々ユリ申候」とあって大地が小刻みに揺れた地震のことが記されている。地震のことを「ナイユリ」としたのは先の天文18年とこの箇所だけである。




