“生きる意味”を教えてくれ。
“生きる意味”というものについて考えたことはあるだろうか。
僕は常に考えているような気がする。何故だかはよくわからない。だが、考えてしまう。幾ら考えたところで答えが出ないことなんて分かりきっているはずなのに、何故か考えてしまうのだ。
だって、どうせなら意味のあることをしたいじゃないか。どうせ生きるなら意味のある人生を送りたいじゃないか。
“生きる意味”を聞かれて完璧に、かつ誰もが納得出来るように説明出来るひとなんて世界中を探しても一人も居ない。
誰に聞いたって曖昧な答えが返ってくるだけだろう。
でも、僕は知りたい。生きる意味を。
どうしても知って納得したいのだ。
僕は幼少期から、よく深いことを考えていた記憶がある。勿論、幼少期の頃のものなので、断片的ではあるけれど。
悲しいことがある度に、「こんな悲しいことを乗り越えなければならない世界なんてなくなればいい、人間もろとも地球が爆発してなくなればいい、そうしたら悲しみなんて消えるのに。」と思っていた。
こんなことを考えていたなんて、両親にすら言えなかった。大きくなったらこんな暗い考えはなくなるのだろう、そう思っていたがそんなことは一切なかった。
寧ろより深く、暗く考えてしまうようになったのかもしれない。
そしてある時、僕が“生きる意味”を深く考えるキッカケとなった“事件”が起きた。
事件となんて言っていいのかはわからないけれど、僕の中では確実に事件だ。
それは、知人の自殺だった。
あえて知人との関係を書いたりはしない。知人は知人。それ以上でもそれ以下でもない。
そんな素振りを全く見せなかったなんて言ったら嘘になるが、自殺をするなんて想像もしなかった。
僕はその時、生まれて初めて人の死、というものに触れた。
というのも、今まで僕の知り合いに亡くなった方はいなかった。
勿論、知人の葬儀にも行った。周りの人は皆当たり前のように泣いていた。
でも、僕は泣かなかった。悲しくなかった訳じゃないのに、何故か泣けなかった。涙が出てこなかった。その空間に泣いていないのは僕一人だった。冷酷だと思われたかもしれない。でも、泣けなかった。
知人が死んだ、なんていう実感が湧かなかった。
今でも信じられていない自分がいる。
メールを送ったらいつも通りに返ってくるんじゃないかなんて思っている自分がいる。
知人は確実にこの世を去ったのに。
知人が死んでから、僕は“生きる意味”についてより深く考えるようになった。
今まで向き合ったことのない“死”が、こんなに身近なもので、すぐ訪れるものだと急に実感させられたからである。
周りの人は皆、自ら命を絶った知人に対して、「まだまだ人生これからなのに。」「まだ若いのに。」「もっとこうしておけば良かった。」「勿体ない。」なんてよくわからないことを言っていた。
でも、僕は自殺について調べたり、変に興味を持ってしまうだけだった。
自分が異質だと思った。
ただひたすら自分が怖かった。
そして、どんどん自分の負の考えが深まっていった。
そんな自分に嫌悪感が湧いた。
自分が他の人とは違う、“異質な存在”だという嫌悪感が。
誰かといても、いつも独りな気がした。
誰かと笑い合っていても、それは表面の自分で、本当の自分は心の奥底で負の感情を纏って独り佇んでいるような気がした。
こんな異質な自分なんて居なくていい。そう思うことが多くなった。
普通に憧れていた。なんて言葉が丁度いいくらいだった。
こんな自分が“生きる意味”を知りたかった。
もしかしたら、そうすることによって、自分の存在を肯定したかったのかもしれない。
自分でも生きてていい、そう思いたかったのかもしれない。
知人が自殺してからずっと生きる意味について深く考えてきた。
答えなど出るはずもない。
具体的に例をあげて考えてみることにした。
まずは、愛なのではないかと考えた。
でも生涯人を愛することのない人だっている。その人にも生きる意味はある。
そのため、愛ではないと思った。
それならなんだ、、考えてみても思い浮かばなかった。
もしかしたら若いうちにはまだ分からないのかもしれない。
でも、それで納得は出来ない。
だって今すぐにでも自分の存在を肯定したいじゃないか。年老いてからじゃ遅過ぎる。
それに年老いてから分かる、なんていう確証もないのに待ったり出来ない。
このことはもう考えないようにしよう、そう思う時だってあった。
でも、答えがわからないままでは、いつか自分は知人の後を追ってしまうような気がした。意味が無いなら死んでもいい、なんていうおかしな発想の転換をしかねなかった。
そんな自分に恐怖心を抱いた。
知人の後を追ってしまうような気がした。といっても自殺をしたい訳ではなかった。まだこの世にいたいと思うこともあった。
どちらかといえば、死にたくも生きたくもなかった。
産まれてこなければよかった、なんていう言いたくもない言葉が思い浮かぶくらいだった。
死にたくも、生きたくもない。だから、産まれてこなければよかったと考えた。
しかし、自分が持つ、この負の感情には大きな波があった。
辛いとまでは思わなくて、生きてても別にいいや、と思う日。
本当に辛くて、生きていない方が楽なんじゃないかと深く考え込んでしまう日。
日によって、時間帯によって、その日の行動によって、様々だった。
そして、いつもこの感情の波が激しくなっていつしか限界を超えた時、僕は自らを殺めてしまうような気がした。
そんな日が来るかもしれないということに、さらには、そんな考えが心の奥底にある自分に怯えていた。
もしかしたら知人もこの世を旅立つ直前、このような心境だったのかもしれない。もしくは、もっと深く悩みを抱えていたのかもしれない。
そう思い、自分自身の姿を知人に重ねている自分がいた。
いや、知人の姿を自分に重ねているのかもしれないが。
それはどちらだっていい。
知人の姿を自分に重ねると、とてももどかしくなる。
自分の将来が見えている気がした。
知人の死が、将来訪れるかもしれない自分自身の死のようにも思えてきた。
人はいつか必ず死ぬ。
人は産まれたらいつか死ぬ。人生においてそれだけは保証されているのだ。
そう思うとさらに生きる意味が分からなくなる。
人生に永遠はないのに、何故生きていなきゃいけないのか。
何故日本では、尊厳死や安楽死が認められていないのか。
何故自殺はしてはいけないと言われるのか。
幾ら考えても謎は深まるばかりだった。
何故安楽死や、尊厳死は認められていないのだろう。
自殺を否定するのは分からなくもないが、尊厳死や安楽死ぐらい認めたっていいじゃないか。
生きたいように生きていいなら、死にたいように死んでもいいじゃないか。
なのに、何故延命治療をして、苦しい状態で少しでも命を繋ごうとするのか。
僕には分からなかった。
僕は、知人の死によって、命に対する考えが冷酷になったと思う。
自分自身で気付くくらいには。
それがいい事でないことくらいは僕にだって分かる。
でも、僕はそれでもいいと思うんだ。
“良い人生”を生きなくたっていい、そう思うんだ。
知人の死によって僕が深く悩むようになったように、僕の死によって誰かが深く悩むかもしれない。
いや、そんな人はいないかもしれないが、この世に一人ぐらいは僕の死を悲しむ人がいてもいいのではないか。
そして、もし未来にいい事が待っているとしたら。
きっと今死んだことを悔やむだろう。
死ぬのはいつだって出来る。
寿命で死ぬことも、今死ぬことも、明日死ぬことだって出来る。
でも、一度死んでしまったらもう生き返ることは出来ない。
それなら、生きるだけ生きてみてからでもいいと思うんだ。
生きる意味なんて分からない。
もしかしたら一生分からないのかもしれない。
でも、僕は生きていく。
この世の中を生きていく。
生きる意味を見つける為に。
生きる意味を見つけること、
それが僕の生きる意味だ。




