★第7話★(完結)
そして、九日目の朝を迎えた。いくら待っても状況は一向に好転しなかった。あの男からの連絡を待ちわびていたが、電話は鳴ることはなく、不安はさらに募ってきた。そろそろ、暴力団も借金の回収に動き出す頃合だ。彼らはそんなに気の長い民族ではない。良い方に考えない方がいいだろう。しかし、ペットボトルのお茶を飲みながら、電話が鳴るのをじっと待っていても、平常心を保つことは難儀であり、時計の針が進むたびに、イライラは募るばかりだった。そこで現在自分がやっていることが、そして数日前から自分が行ってきたことが、道徳の教科書と照らし合わせて、正しいことであるということを証明するために、私は消費生活センターに電話をかけてみることにした。ここは私が詐欺に遭うたびに、非常に残念な意味で、お世話になっているところだ。
電話番号を押すと、すぐに応対の女性の声が聞こえた。とても、静かで落ち着いた声だった。『不安があるのでしたら、詳しいお話をうかがいます』と言ってくれた。これなら、気兼ねなく相談できそうだ。私は数日前に自分にかかってきた電話のことを詳しく話して聞かせた。電話の向こうでは、話が要所に差しかかるたびに、『はい、はい』と相槌を打ちながら、メモを取っているようだった。十分ほどかかったが、大金を渡してしまうまでの、すべてを語り終えた。すぐには返事は返ってこなかった。できれば、私はそれは詐欺ではないと、信じているあなたが正解なのだと、そう言って欲しいと願っていた。しかし、返ってきた答えはきわめて残酷なものだった。
「あなたにかかってきた、その電話は悪徳商法と考えてほぼ間違いないようです。振り込め詐欺の亜種なんですが、『あなたには遺産が入ってくる』『あなたは実は身分の高い人間だ』などと、不確定要因の多い話でほめあげて、反論が出来なくなるまで思い通りに丸め込み、いわゆる幻覚の作用を利用して、多額の現金を用意させる商法です。これは立派な詐欺です」
電話の向こうの女性はそう断言したが、私はその言葉を信じたくなかった。自分をあんなにも褒めてくれた相手に、少なからぬ敬意をもっていたからだ。私が長年にわたって培ってきた道徳観念によれば、あんなに丁寧で優しい人が詐欺師のわけがない。
「まさか、もうすでに相手側に大金を渡してしまったんですか?」
電話の向こうの女性は心配そうに尋ねてきた。こういう場合は、いたずらに不安や疑念を想起させるのではなくて、まずは、相談者を安心させてあげるような言動を心掛けた方が良いと思うのだが。
「いえ、この広い世の中においては、もしかしたら、そういう事例もあるのかなと思って、詐欺事件そのものに興味があって電話してみただけです。まだ、何も起こってません……」
私は沸き起こる恐怖と喪失感を懸命に抑えつつ、そのように告げて、その電話を遮断した。大丈夫、大丈夫、あの希望に満ち満ちた電話が詐欺のわけがない。この世のあちこちに転がっている、どんな健全な申し出であっても、重箱の隅をつつき、疑おうと思えば、いくらでも疑えるが、それでは社会生活が満足に営めないではないか。自分に向けてかかってくる、すべての電話を疑えというのか? 私にはそんな非道なことはできない。それに、あの電話はこれまで私を騙してきた数々の詐欺話とはどこか違う気がした。天上界へと繋がるような、どこか不思議な雰囲気がした。直感でそれがわかった。断言させてもらうが、あの男は嘘を言っていない。
私は相談する相手を失い、再び部屋の中をうろうろとしながら、自分自身をそう説得して疑念を吹き飛ばそうとした。そうだ、輝かしい未来への道は簡単に疑ってはいけない……。頻繁に訪れるものではないのだ。私を間違った方向へ説得しようとした、会社の同僚や、銀行の受付嬢の方が間違っているかもしれないではないか。労働現場にかかってくる電話のすべてが詐欺ではないかと、いちいち疑っていたら仕事になるまい。他人を信じることにより成功した人だっているはずだ……。
夕食の時間になっても、すでに食べるものは何もなかった。ただ、洋服ダンスの棚の上から災害時用の乾パンが出てきた。すでに消費期限は二年も前に切れており、お世辞にも我が身を救う食料とは言えなかった。ここは仕方がない。私はこれで急場を凌ぐことにした。ただ、まずいだけで味はほとんどしない。水分補給もろくに出来ないため、口の中はパサパサするが、進むも引くもならぬ生死のせめぎ合いの中で贅沢は言ってられない。乾パンをかじりながら電話を見つめた。消費生活センターに連絡をしてから、あの電話への疑念が一気に膨らんでしまった……。身体中が悲鳴を上げており、どの器官が悪影響を及ぼしたのか、目が霞んで来たが、こんなことでくじけてはダメだ。とにかく、あの男を信じなければ……。私は騙されていない。私は絶対に王になる……。すでに精神は疲弊しきっていて、楽観的な妄想など沸かなくなっていたが、私はとにかく『誰か助けてくれ』と何度も念じながら夜が明けるのを待った。
ついに現金を渡してから十日目の朝を迎えた。王族の側近を名乗る男たちが、本当に私を助けたいと思っているのなら、今日辺りがリミットだろう。数日前から、昼間はほとんど何も食べていないので腹が減って立ち上がることすら難しくなっていた。外界から聞こえてくる音にずいぶん敏感になっていた。車が通り過ぎる音、中学生が笑いながら行き過ぎていく声などがはっきりと聞こえた。午前中に二度ほど、大きな乗用車が、私のアパートの前に止まるような騒がしい音が聞こえた。ついに、私の側近たちがはるばる海を渡って迎えに来てくれたのかと、震える両足に力を込め、期待を胸に秘めて表に顔を出してみたが、一回目は隣家への宅急便、二度目は引越し屋だった。
そして、正午を迎えた。私はすでに机に突っ伏していた。血液の入り混じった涙が自然にとめどなく溢れてきた。少し遅すぎたようだが、今になってようやくわかったのだ。 私は騙されていたと! あれはアブダビ国の王宮からの電話などではない、都内某所からかけられてきた、ただの詐欺だと、ようやく理解できた。全身を熱く巡る、恥ずかしい思いと、情けない思いが同時に湧いてきた。私は王の血を引く者などではなく、ただ17回目の詐欺に遭ってしまった、一般庶民だった。天界への幻想はすべて消えた。もう、絶望を通り越した現実そのものを素直に認めるほかはなかった。
「鬼め、悪魔め! 純真な人間を騙しやがって!」
私はそう叫んで、拳を握りしめ、机を何度も殴りつけた。電話から受話器を外して窓ガラスに向かって投げつけた。いっそのこと、受話器もガラス窓もバラバラに割れてくれれば、少しは気分がすっきりしたのだろうが、空き巣防止用の防弾ガラスであったため、鈍い音がして跳ね返っただけで、特に何も起きなかった。私から600万円と通帳を苦も無く奪い取った、悪党の一味は今頃ほくそ笑んでいるだろう。ほとんど経費がかかっていない罠なのに、こんなに簡単に引っかかってくれるとは向こうだって思っていなかったに違いない。あの長い話の所々で、私が食いつくような素振りを見せるたびに、電話の向こうでは、してやったりと、笑っていたのだ。悔しさと恥ずかしさが極まって胸が痛くなり、落涙を耐え切れなかった。
しかし、泣いてばかりはいられない。そろそろ現実に立ち返らなくては。私は暴力団から600万円借りているのだ。返済期限はとうに過ぎている。大海の向こうの王族からの迎えなど、待っていても一生来ない。来るのは闇金の取立てだけだ。会社を豪快に辞めてしまった今、返すあてなど一切ない。いっそ、首を釣ってしまおうか? しかし、この世にはまだ未練もあった。もう一度、引っかかれるなら、引っかかりたい。では、どうしよう? 返済を少しでも待ってもらい、アルバイトでも何でもして返す他はないだろう。コツコツと返済するという選択肢を選ぶのであれば、大前提として、私が生きている必要があるが、時間は許してくれるだろうか? もうすぐ、有無を言わさぬ暴力団の取立てが来るだろうが、いかにそれが怖かったとしても、何も応じずに家に閉じこもっているわけにはいかない。絶対に返すと言っておきながら、それはあまりにも卑怯だ。勇気を振り絞り、ドアを開け、きちんと払えない理由を説明するべきだろう。少し人生をわき道に逸れてしまったが、彼らとて人間だ。返済期限の延長をなんとか考えてくれるかもしれない。
そんな時、私の家のチャイムが鳴らされた。まったく心の準備ができておらず、すぐには反応できなかった。チャイムはすぐにもう一度鳴らされた。今度は先ほどより強く押されたようだ。ドアを開けたらあ確実に殴られるとわかっているのに、それを実行するのは難しいことだ。それでも、何もせずにひきこもっていると、ドアが激しくドンドンと叩かれた。
「KTさん、開けてください」
扉の向こうで取立てと思われる男はそう叫んでいた。おそらくは、あの闇金の舎弟たちか、雇われのチンピラだろう。感情を持って生まれた人間である以上、恐ろしいのは当たり前だが、このまま出ないでいると、付近の住人の迷惑になるかもしれない。警察に通報されてしまったら、余計に敵が増えることになる。私は意を決してドアを開いた。そこに拡がる光景はほぼ予想した通りであった。恐顔のスーツ姿の男性がよりによって五人も待ち受けていた。私は外へ出るなり、地面に突っ伏して謝った。こうなったら、何か言われる前に、こちらから畳み掛けるように謝罪してやろうと思ったのだ。このような重大な債務不履行の問題において、謝罪という行為がどれほどの意味を持っていようとも、そのくらいで許してくれる相手とは到底思えないのだが、ここは仕方がない。命がかかっているのだ。
「け、結局、お金は用意できませんで! 騙されて、騙されていたんです。笑ってください! 馬鹿だと言ってください。道化だと笑ってください。それで結構です。なぜって、それは事実なんですから!」
私は取りあえずそう泣き叫んで謝り、相手の許しを帯びた反応を期待して待つつもりだったが、どうやら、それは許されないようだった。男たちはドアから飛び出してきた不良債務者の姿を確認すると、次々に踏み出してきて、私をぐるっと取り囲み、その腕を左右から強引につかみ、無理無理立たせようとした。この後でどのような行為が為されるかはすでに明白である。
「勘弁してください! もうお金は一円もないんです。全部詐欺師に渡してしまいました!」
男たちは私の話をまったく受け入れる様子はなく、上腕を両方からきつく押さえ込んで、乗ってきた黒い車にそのまま押し込もうとした。あと二時間もすれば、その身はドラム缶に詰められ、頭の上から、生温かいコンクリートをトロトロとかけられることは容易に想像が出来た。このままでは間違いなく殺される! 私はそう思った。
「時間はかかりますが、お借りした金は少しずつでも返します。ですから、生命保険で解決することだけは勘弁してください!」
私は強引に車に乗せられた後も、暴れることと泣き叫ぶことをやめなかった。もう、丸二日以上、何も食べていないというのに。人間、命が危うくなるまで追い込まれると、得体の知れないパワーが出るものだ。暴力団に雇われたと思われる、屈強な男たちも、錯乱した私を鎮めることには、さすがに苦労していた。そんなとき、助手席に乗って待機していた男が、こちらを振り返り、一言つぶやいた。
「借金というのはあなたが金融機関から借入れていたお金のことですか?」
私はその思いもかけず無機質な言葉に対して、何の反応もできなかった。頭が恐怖以外の不思議な感情に反応した。というのは、その声にはつい最近聞き覚えがあったからだ。そう、助手席に座っている男は、あの怪しい詐欺師のような、電話の主だったのである。
「迎えに来るのが遅くなってすいませんでした。王はすでに亡くなったのですが、遺産の引継ぎが、政府の悪質な妨害に遭ってしまい、なかなか進まず今日になってしまったんです。アパートの鍵はかけておきましたんで、とりあえず家具はそのままでよろしいですよね?」
私は何を言われても、頭が真っ白になって何も考えられない状態がしばらく続いた。そもそも、目の前に展開している、どれが真実なのかがわからない。私は自分の身がドラム缶の中に押し込まれ、身動きできずにいることばかり想像してしまい、『こんなとき、最後に人間は何を思うべきだろうか』という、不幸極まった人間にしか湧いてこない想像から抜け出すことが出来ずにいた。
「横浜港にこのまま向かいます。豪華客船とスタッフがあなたを待っていますよ」
私を迎えに来た黒い二台の高級外車は周囲に配慮して、静かに走り出した。スタッフは何度も優しく声をかけてくれた。だが、車が港に着くまで私の興奮や緊張状態が解けることはなかった。
--そして一ヶ月後--
私は太平洋のど真ん中を進む豪華客船の甲板近くに設置されたベッドで、まばゆい太陽の光を全身に浴びながら、お気に入りの本を読み、すっかりリラックスしていた。この客船は1500人以上の乗員を収容できる。今現在は、この優雅な船旅を楽しむ乗客が約800人に対して、それに仕えるスタッフが500人以上働いている。階下には一万冊の蔵書がある書庫があり、パターゴルフや広大なスペースを誇るカジノもある。退屈したご令嬢のために、エステやマッサージで身体をほぐす施設もある。レストランは和食もフレンチもイタリアンもすべて三ツ星で揃っている。今は私のために、ヨーロッパにある有名レストランの本店から、世界に名をはせる三ツ星シェフが出向してきている。昨日は一人分が40万円以上するフレンチのセットをぺろりと平らげた。
横浜港でこの船に乗せられた当初は、スタッフとろくに意思の疎通もできずに、ずいぶん不甲斐ないところをみせてしまった。やはり、私は長く苦しい体験により、庶民に身を堕としてしまったようだ。しかしながら、あれから一ヶ月も経った今では、誰に気兼ねすることもなく、すっかりマハラジャ気分である。今日の太平洋は波も穏やかで、海水はエメラルドグリーンに輝いていた。アブダビ国がチャーターした、この主船を取り囲むように護衛の軍艦が五隻同じ進路を進んでいる。私が読書の手を休めると、少し退屈をしていると見たのか、スタッフが本国に電話をかけ、私のお妃候補の見目麗しい女性をヘリコプターで運んできた。つぶらな黒い瞳、紅い宝石のような、その小さな唇の、愛くるしい彼女は、まだ19歳だった。緊張しているのか、この船の雰囲気に馴染めないのか、物怖じしてしまい、なかなかこちらに近づいて来ようとはしない。
「取って喰いやしないから、私の隣においで」
そう呼びかけると、少しはにかんで微笑み、床にほど近いドレスを気にするように、ゆっくりとした足取りで歩みだした。やっと近くまできたそのおでこに優しくキスをしてやると、彼女は頬を赤く染めた。アブダビ本国においては、今現在、新しい国王が住まうための黄金宮殿を建造中だそうだ。私はこの景色に飽きると、ゆっくりと立ち上がり、彼女を連れて一段下の巨大プールが見える位置まで足を運んだ。プールで遊ぶ他の客たちも私の存在に気づき、大きく手を振ってきた。
「みんな、今日は好きなだけ食べて飲んでくれ! もちろん、すべて私のおごりだ!」
大声でそう呼びかけると、プールサイドから大歓声があがった。皆はこの贅沢な生活に喜んでいるのではない。私の存在自体に歓喜しているのだ。
「アブダビ国王は健在! 新国王ばんざい!」
大歓声がなかなかやまなかった。みんなが両手を振って唱和していた。私はすでに国家元首だ。どんな人間であっても、私に逆らうことなどありえないのだ。私は隣にたたずむお妃に一度微笑みかけると、両手をちょうど真上に到達した太陽に向かって突き上げた。そして大きな声で叫んだ。
「信じる者は救われる! 信じる者は救われる!」
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