★第2話★
「もしもし、桜井さんのお宅でしょうか?」
受話器を取ると、その電話の主は唐突にそう尋ねてきた。私はもちろん完全にそれを否定することになった。
「違います。私はKTというものです」
しばらくの間、相手は沈黙してしまった。予想外であったのだろうか? 私は少しも訝しがることなく相手が返事の言葉を思いつくまで待っていた。
「そうですか……。おかしいなあ……」
電話の向こうでは、相当に当惑している様子が伝わってきた。この時点では、単なる間違い電話かもしれないという思いはあった。
「ひとつお尋ねしますが、KTさまの両親、あるいは祖父の家系に桜井という苗字の方はおりませんか?」
「さあ、もしかすると、遠い親戚にはいるかもしれませんが、少なくとも私は聞いたことはありません」
私はうだつが上がらないうちの家系のことを、少し考えてからそのように答えた。
「ちなみに、KTさまのご両親の実家はどの辺りになりますか?」
「うちは二人とも東北でした。父親は秋田、母親は福島です」
「それなら間違いありません! おめでとうございます!」
突然、相手の声がぱっと明るく、しかも鮮明になったので驚いた。いったい何がおめでたいのかさっぱりわからず、私はしばし返事もできずに当惑していた。
「大声を出してしまって申し訳ありません。もしかすると、これは大変失礼な質問に当たるかもしれませんが、ちなみに今はどのような暮らしをなされてますか?」
「どのような……、と言われましても、会社勤めをしながら、アパートで一人暮らしをしています」
他に自慢できることもないので、私はそのように答えた。
「立ち入った話になってしまうのですが、資産はいかほどでしょうか?」
「資産と呼ばれるほどのものはありませんが、貯金は先月分の給料が20万ほど残っているだけです。あとは、借金が数百万あります」
それを聞くと、電話の向こうの人間は一言叫んだあとで絶句してしまった。あまりにもそれが大げさだったので、あるいは、私を陥れるための演技ではないかと勘ぐってしまうほどだった。
「なんということでしょう……、そこまで苦しんでおられるとは……、あなたのような、大貴族ともいえるほどの、立派な血統の持ち主が……」
「立派な血統って……、それほどでもないですよ。両親とも先祖を遡れば、皆百姓でした。大昔は武田信玄の鎧を作っていた鍛冶師であったなどとうそぶいていましたが、ありゃ、多分、見栄に駆られた嘘だと思います。うちの家系をどこまで遡っても、資産家はいないと思います」
「本当にそう思われますか? 実は違うんですよ……。実はですね……、先ほど『おめでとう』と言ったところとつながるんですが、あなたはアブダビ国の王族の血を引いているのです……」
「なんですって! 私がアブダビ国の王の末裔だということですか?」
かなり唐突な話でにわかには信じがたいと思ったが、私は相手に話を合わせるために強い口調でそのように言った。電話の向こうの誰かが、私の否定的な回答によって、不快になってしまうことを恐れているのだ。何度も触れていることだが、この辺は人が良すぎるのかもしれない。
「そうなんです。まだ驚かないで下さいよ。これから、じっくりとあなたの未来の幸福についてご説明します。実は、あなたは数千億円の遺産の受け取り手となる人なんです。それを信じていただくために、まず最初にアブダビ国の現状からご説明しますね」
電話の相手は、私に大きな期待を持たせた。当然のことながら、私の理性は外を歩いている普通の人と同様に、この時点でかなり胡散臭いと感じていたのだが、このような損な性格なので、いつも通り、相手の話を簡単には否定せずに最後まで聞くことにした。
「実はアブダビ国の王が先月末に脳梗塞で倒れられまして、懸命な看護もむなしく、意識不明の重体に陥られたのです。残念ながら、治療の限りを尽くしても、回復の見込みはほとんどありません……。そこで、当然のことながら遺産の相続の話が出てきました。比較的、金にめざとい人間が少ないと言われるアブダビ国であっても、さすがに一国を買えてしまうほどの大金となると、政争の種になるものです。こういう難しい問題には、なるべく早めに手をつけておかないとダメなんです。王にもしものことがあった後では、国中が大変なパニックになりますからね。王の資産の総額は、ゆうに3兆円を超えます。しかし、王には三人のご子息がいたのです。本来ならば長男が受け取るべきところなんですが、長男は三十五歳のこの歳になるまで、外国の観光地で遊び呆けておりまして、すっかり王の信頼を失っていました。宮廷の家臣の中にも、長男だけには後を継がせない方が良いという意見が大多数でした。あんな目も当てられないような遊び人に後を継がせたら、この国の屋台骨がにわかに揺らぎかねないですからね。そんなとき、王の机の引き出しから、直筆の遺書が見つかりまして、弁護士に綿密に相談した後、それを開封してみたのです。そこには遺産は次男に譲りたいという希望が書かれていたのです。しかし、これには長男と三男が大反対しました。これは当然ですよね、数兆円を受け取るか、それとも、無一文で放り出されるかの瀬戸際ですからね。三人とも遺産を巡って争い、一歩も譲りませんでした。そして、とうとうクーデターにまで発展してしまったのです……」
電話の主は、そこで一旦話を区切った。こちらの反応を伺っている様子だった。こちらがちゃんと作り話にのってくれているかどうかを見極めたいという構えに思えた。彼らの商売にも費用対効果やエネルギー効率はある。最終的に、こちらが全否定するのであれば、これ以上の長話は避けたいと思っているだろう。
「どうですか? 今のアブダビ国の危機的な状況がお分かりいただけましたか?」
「ええ、それはよくわかりますが、数兆円もの遺産なんですから、個人がすべて保有するには多すぎます。相続税も馬鹿になりません。三人で均等に分けるということはできなかったんですか?」
「それはできないのです。アブダビ国の王の財産は代々一人の相続者がすべてを管理することに決まっているんです。これは十八世紀に制定された憲法にも書かれています。しかも、王の三人の息子は、若い頃から事あるごとに仲違いをしていて、国難にあっては協力するということを考えたこともなかったのです。三人とも王が重体というこの事態を利用して、相手を出し抜いてやろうと考えていたわけです」
「なるほど、それでクーデターですか……。それで結果はどうなったんですか?」
「はい、その悲惨な結果を申し上げますと、長男は数千の部隊で宮廷に乗り込むも、乱戦の中で流れ弾に当たって即死。三男は戦争に負けて国外逃亡。そして次男は相続人としてはただ一人、戦争には勝利したものの、クーデターの首謀者として王国軍に逮捕されてしまったのです。我が国の法律では、例え王族であっても、国家の平和を乱すような行為は固く禁じられているのです。結局、三人ともこの重要な法律の条文を守れなかったわけです……」
「それでは、遺産相続人の三名は皆その資格を失ってしまったわけですか」
「そう、その通りなんです! 王の病状はきわめて重く、いつ何時最悪の事態を迎えてもおかしくありません。そこで我々王国の官吏たちは何度もの密議の結果、王の若かりし頃からの行動をすべて洗い出し、他国に王を継承できるものがいないかどうか、極秘に調査していたのです……」
私はそこまで聞いて、すっかり相手の話にのめり込んでしまい、無意識のうちに、こちらから質問をしてしまった。単純な性質に生まれついた者として、これはごく自然な流れではないだろうか。
「もしかして、この私がその相続人の一人だというのですか?」
「そう、その通りなんです!」
今ごろ、相手がこちらを嵌めてやろうと、身を乗り出している様子が、私には容易に想像できた。営業の話を受けると、いつも、こういった具合になり、知らぬ間に底なしの沼に足を取られるように、相手に乗せられていってしまうのだ。どうやら今日も御多分に漏れず、そういう展開になりそうだった。しかし、私は自分が王族の身分であると告げられたことと、これからわが手に転がり込んでくる、数兆円という途方もない遺産額にすっかり目がくらんでしまい、この時はもう頭が熱くなっていた。正常な判断ができない状態に陥っていたのだ。
「ここで細々と流れていた、あなたと我が国王との血縁の登場となるわけです。実は先代の王が70年ほど前、極秘に日本を訪れていまして、東北のある都市を訪れていたのです。そこで料亭である芸者と出会い、その気品漂う佇まいに惚れ込んでしまい、そのまま激しい恋に落ちたのです。そういうと聞こえはいいですが、実際のところは、まあ、宴会の中で気が合って、そのまま、ホテルにしけこみ、いかがわしい行為に及んでしまったと、そういうわけだと思います……」
「その芸者が桜井という名字の人なんですか? しかし、私の両親はそういう名字でもないですし、アブダビ国の王族の血を引いている、などという告白も聞いたことがないですよ。二人とも、出生の秘密など何も明かさぬまま、急病によって、この世を去ってしまいました」
私は何度も頭をひねって考えたが、やはり、両親とそのような名字との関連には、まったく覚えがなかった。しかし、莫大な遺産を受け継ぐためにはどうしても、この記憶は必要だと感じていた。
「あなたの仰る通り、その桜井という芸者が生んだ子供が、あなたの両親のいずれかであったわけです。あなたがいかように否認されても、これは我が国の諜報機関による綿密な調査でわかったことですので、絶対に間違いはないのです」
私も相当に身分の高いであろう相手側から、このように絶対の自信を持って言われてしまうと、否定しにくくなってしまった。思えば、両親とも家で突然倒れて、進行の早い不治の病で、緊急治療室に運び込まれ、ほとんど何も語れないまま、あの世に旅立ってしまったわけだ。私の一家にも他の人様には言えない血縁上の秘密があったのかもしれない、とじわりと思うようになってきた。だいたい、この後、体よく遺産を受け継いだとして、万が一、後でそれが間違いであったことがわかったとしよう。しかし、これは向こうから申し入れてきたことだし、善意の第三者である、こちら側には一切責任はないのではないか? すなわち、どう転んで行っても、大金のただ貰いになると思われた。
「どうします? この際、例え、覚えがなくてもいいではないですか……。あなたは一度頷くだけで、数兆円の遺産を手に入れ、しかも、これからは王族の身分として、悠々自適の毎日を送ることになるわけです。毎日高級レストランに通い、ブランド物のスーツで身を覆い、アブダビ国所有の豪華客船で世界一周だってできます……。どうします? この素晴らしいチャンスを見逃すのですか?」
相手側はぐらぐらと揺れ動く、私の心理を見透かすように、なでるような声でそうささやいてきた。私はこの話をすべて虚構であると否定することによって、自分に訪れるはずの幸せを放棄してしまうことが、自分にとって大きな損になるように感じてきた。思えば、私の両親は従兄や甥などの他の親族と折り合いが悪く、ほとんど互いの実家を訪問することもなかった。考えてみれば、王族の末裔というプライドがそうさせていたのかもしれない。年末に親族が揃った際の麻雀大会において、十円を払った、払わないで口論になっていたこともあったが、あれこそが王族血統ゆえの高いプライドであったのか。私は話を無理やりこじつけてそう考えることにした。
「わ、わかりました……。私はよく考えると……、いや、本当によく考えてみたんですが、実は王族の血を引いた人間だったのかもしれません。幼い頃から、どうも、一般常識とは少しずれた、そのような特別な感情を抱いていたと言いますか。他人とは違う特別な未来が待っているような気がしていたのです……」
私は勇気を振り絞って、電話の相手に柔らかくそう伝えた。『金が欲しい』と直接的に出てしまうと、その血統を疑われる恐れがあったので、かじ取りはあくまでも相手に任せるようにもっていきたかった。相手側を怪しむ気持ちがなかったわけではないが、大いなる遺産を手にするチャンスと比較すれば、それは微々たるものであった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。朝までには完結すると思います。よろしくお願いします。