(八)消えた卒業生
その夜、私は誰かに見られているような気がして一睡もできなかった。布団をかぶって朝日が昇るのを待ち続けた。あの時、何もいなかったと潮見は言った。では私が見たあれは一体なんだったのだろうか。
授業が終わり、寝不足で重たくなった瞼をこすりながら道場に行くと、Tシャツにジーンズ姿の潮見が入り口の前にあるベンチで漫画を読んでいた。そこに永野の車が到着した。永野も眠れなかったらしく、目の下に大きな隈ができていた。
「さ、練習始めるぞ」
鍵を開けた潮見に続いて、恐る恐る中に入る。一番後ろにいた永野が「うわっ!」と悲鳴を上げた。
「どうしたんだ」
「呪いだ。蛾が大量に死んでる」
「何言ってんだよ永野。蛾の死骸が転がってるなんていつもの事だし」
顔面蒼白の永野と表情を崩さないクールな潮見のやり取りに私はつい笑ってしまった。本棚横の窓を開けている時に、私はあることに気がついた。
「あれ? 弓道教本がなくなってる。花火に行く前までは確かにあったはずなのに」
「元々誰かの忘れ物だったんだろ。持ち主が持って帰っただけじゃないか」
潮見の落ち着いた態度に、次第に恐怖感がやわらぎ冷静さが戻ってきた。私はふと思い立って、物置の本棚の中に詰め込まれている年度別に発行された部員名簿を、最新版から順に広げていった。昭和五十年度版まで来たところで突然『志田広明』という名前が出てきた。
「あった、『志田広明』。イニシャルH・S。あの写真の男の人だよ、きっと」
私は名簿を何冊か開いて確認した。
「この人、卒業して七年後の昭和五十年度で突然名簿から消えてる。私の持ってるOB名簿に出ていなかったはずだわ」
「うちの部、会費を滞納しても転居先不明になっても、OB名簿から除名はされないはずだから、たぶん卒業後に亡くなってんだよ」
潮見が体を前に屈めて弓に弦を張った。
「そうだとすれば、幽霊は『練習中の事故で死んだ学生』という噂とは矛盾するわね」
「うん。とりあえず、幽霊イコール志田さんという図式は消えた」と永野が言った。
「お前ら、まだ幽霊なんて言ってるのか」
弓を壁に立て掛けた潮見が呆れ顔で言った。
しかし私は釈然としなかった。『志田広明』とは何者なのか。なぜあの写真が教本の裏表紙に貼りつけられていたのか。深夜の道場で感じたあの気配は一体何だったのか。