(四)強化練習期間突入
期末試験が終わり、夏の強化練習期間に入った。午前中から夕方にかけて、丸一日の練習だ。沿道の緑が憂鬱さを含んだ色濃い影を落とす一方で、フェンスの向こう側には灼熱の太陽が輝く爽快な夏の空がどこまでも続いていた。道場の裏山から、蝉の声が絶え間なく降りそそぐ。時折、砂埃を含んだ熱風が私の袴をはためかせた。強風に流されて、放った矢の何本かが芝生の上に落ちた。
午前中の練習が終わり休憩に入った。私は、成績表を眺めてため息をついた。女子のトップは三年生の水谷先輩で、その後には男子部員達のアイドルである一年生の佐藤さんが続いた。私の順位は惨憺たるもので、下から数えたほうが早い。このままではレギュラー入りすら無理だ。永野が私の隣に立った。
「大丈夫? まるで葬式に出るみたいな顔してるけど」
「毎晩遅くまで残って練習しているのに、どうして結果が出ないのか分からない」
口を尖らせると、永野が困った顔をした。
「またそんなこと言って。まだレギュラー選抜まで時間はあるじゃない。もう少し肩の力抜いた方がいいと思うけど。潮見はどう思う」
「ああ。梅原の辛抱が足りないか、努力の方向が間違っているかどっちかだよ」
図星をさされ、思わず「私に構わないで」と声を荒げてしまった。潮見が「やれやれ」と呆れ顔で言い、休憩に行ってしまった。
道場脇の歩道を連れ立って歩いてゆく一年生達の明るい笑い声が耳についた。まるで私を嗤っているかのようだ。第一、努力の方向が合っているか間違っているかなんて、自分で分かるわけがない。必死に練習したところで、潮見の言うように間違った努力をしていたとしたらどうしよう。レギュラー選抜まで、一秒だって無駄にしている時間はないのだ。
焦りがどす黒い不安となって、私の心を覆っていった。こんなに頑張っているのに、結果が伴わないのは何故だろうか。日頃の努力以外に天性のセンスも必要なのだとしたら、私ごときが必死に頑張ったところで、みんなに追いつけるわけがないのか。
自虐的になりつつ、汗の匂いと気だるさが漂う道場から外を見ると、フェンス沿いに永野と潮見が並んで自販機の方へ歩いていくのが見えた。潮見が無愛想に何か喋ると、永野がおかしくてたまらないと言った様子で笑う。入道雲の下、夏の日差しを浴びて輝く袴姿の男子二人が、今の私にはなんだか眩しすぎた。
的の前に三年生の相沢さんが立っている。その整った容姿と育ちの良さそうな雰囲気から陰で「王子」と呼ばれている相沢さんだが、最近不調のようでレギュラー入りが危ういと言われていた。相沢さんの放った矢は、的に中たらずにことごとく土に刺さった。振り返った相沢さんの顔から血の気が失せているのを見て、私は心配になった。左手に弓を持ったまま、口に右手を当て息苦しそうにしている。過呼吸症候群だ。
「大丈夫ですか!」
私は急いで物置から紙袋を取ってきて相沢さんに差し出した。「ありがとう。すまない」と相沢さんが紙袋を口にあて、道場の隅にかがみこんだ。目を閉じ呼吸を鎮めようとしている姿は病弱な王子様そのものだ。たちまち周囲に人だかりができた。
「相沢。無理するなって言っただろうが」
主将の言葉に、相沢さんが「分かってる。少し暑かっただけだから」とうるさがった。
大学受験で神経を病んだという相沢さんは、たまに過呼吸の発作が出る。去年の合宿中に一度倒れていたこともあり、主将をはじめ部員全員が、相沢さんの体調を気にかけていた。
相沢さんが道場の隅で休んでいる間、私は主将に命じられ相沢さんの道具を片付けていた。古い革の道具袋に「相沢珠希」とマジックで名前が書かれていた。確か相沢さんの妹も弓道をやっていると聞いたことがある。妹に道具袋のお古を押しつけられて苦笑いしている相沢さんの姿が何となく頭に浮かんだ。
秋の北信越大会で優勝できなければ、相沢さん達三年生は引退だ。相沢さんが一刻も早く調子を回復してレギュラー入りし、団体戦で活躍することを祈るしかない。