(最終話)朱鷺色(ときいろ)の夜明け
床の軋む音に思わず振り返った。
道場の入り口に潮見が立っていた。驚いていると、日に焼けた腕を私に向かって突き出した。手には私の携帯が握られている。私は慌てて鞄のポケットを探った。いつの間にか落としていたらしい。
「市営弓道場の廊下に落ちてた。なければ困ると思って」
畳まれていた携帯を開くと、花火の時に撮った三人の写真が待受画面の中に輝いた。
「ありがとう」
「お前の家知らないし途方に暮れてたら、ちょうど師範に会ってさ。ここにいるって聞いたから」
さっきのとげとげしさが消えて、瞳に少し寂しそうな色が見えた。潮見が神棚に一礼して私たちに背中を向けた。
「おい、待てよ潮見。さっきからずっとここにいたんだろ?」
スニーカーに足を片方ずつ突っ込む潮見の背中に向かって、永野が叫んだ。
「確かに弓道は的を通して己と向き合う武道だよ。お前や相沢さんみたいに、一人で引く時間も確かに必要さ。でも、それに固執すると気づかないうちに射が歪んでしまう。大体、『人に見てもらうことも大事だ』って、梅原さんに言ってたのはお前じゃないか」
潮見の背中は動かなかった。相沢さんが言った。
「今なら四人いるし、立が組めるな。みんな少し射っていけよ。的中が一番多かった者に朝飯を奢ろう」
「望むところです」
永野が立て掛けてあった弓を二本取ると、一本を潮見に差し出した。
「ほら、使えよ」
潮見が振り返った。大きな瞳の中に光が揺れているのが見えた。迷っている、と私は思った。
「潮見。弓、引いていくんだろう?」
相沢さんの言葉に潮見が首を振った。
「俺、主将にあんな態度取ってしまったし、今更無理ですよ」
「潮見くん、変な意地張ってないでみんなで一緒に正射を目指そうよ。『正射必中』、正射ができれば必ず中る。結果的に試合でも優勝できるでしょ? それに相沢さん、秋の北信越大会は引退試合じゃないですよ。団体優勝すれば、全国大会……王座決定戦に行けるんですからね」
私がそう言った後、何故か道場が静まり返った。突然潮見が腹を抱えて笑い出した。
「どうしたの?」
「いや。梅原があまりにも簡単に言うもんだから、なんだか可笑しくなっちまってさ」
私たち三人は弓道着に着替えると、相沢さんに続いて弓を手に取った。次第に夏の星空が明るくなり、蝉の声が勢いを増してくる。潮見が戻ってきてくれたことが、今は何よりもうれしかった。
朱鷺色に輝く朝日を浴びて、私の心に重く沈殿していた卑屈な感情が昇華してゆく。昨日までは一人で向かっていた的を、今は全員で見ているのが何だか信じられない。
相沢さん、永野に続いて潮見が的に中てた。次は私の番だ。私は、『団体戦は選手一人一人の心を繋ぐことが重要なんだ』という主将の言葉を思い出していた。
不調の今、少し遠く感じるけれど的までの距離は二十八メートル。潮見と永野のアドバイスを一つ一つ思い出し、確かめながらゆっくりと弓を引きしぼってゆく。とにかく今は、自分のすべき事に集中するだけだ。
ざわめいていた心が静まった瞬間、私は無心のうちに矢を放っていた。今まで悩み歩んできた道のりが、矢の描く軌跡に一瞬にして凝縮される。
爽快な音を立てて、矢が的を貫いた。
その瞬間、私の汗滲む額を涼やかな夏風が撫でていった。




